純水
五ノ月の二十一ノ日。
気温はたまに下がることもあったけど、夜を除けば確かに暑くなっていた。
毎日気温が上がってるんじゃないかってくらい、すこしずつ暑くなるのが実感できた。
オレは夏は好きだけど、暑いのは嫌いだ。じとじとしてる日なんて最悪だ。
でも陽が強くて歩き疲れて…なんて時に冷えた水を飲んだりすると、普段の倍はおいしいから不思議だ。そういう時は木陰で涼んだりするのも悪くない。
今日もオレは、中ノ大路を通ってあの路地へと向かい、また歩いた。
こないだまではそうでもなかったのに、今はこれだけで汗びっしょりだ。
今年は酷暑になるのかもしれない。
「よぉ!こっちこっち。」
シデンが大きく手を振っているのが見えた。
そういえば、最近気付いたことがある。シデンの髪の色はちょっと変わってる。目の色もそうだ。
里に住む人たちは、オレが知る限り、みんな真っ黒な髪に目を持ってる。
でもシデンの髪と目のは、ほんの少し色が薄くて、茶色がかってる。ホントにちょっとしか違わないから最初は気付かなかったけど、だからこそ一度気付いてしまうと気になった。
オレは駆け寄った。
「今日は行きたいとこがあるんだ。」
まだ息が切れてて、なんの評言もしてやれない。
「ちょっと歩くけど、ユウリなら大丈夫だよな。」
言葉にする余力がないので、とりあえず頷いておく。ちょっと休めば大丈夫だ。
膝に手をやり、体を支えて荒い息をついている状態では信憑性に欠けるかもしれないけど。
だいたいこんなに暑くてこんなに疲れてなければ…
「じゃあ行こうぜ。」
人の話を聞かないのも問題だけど人の状態も見てほしい。
『行きたいとこ』に向かう道すがら、オレ達はいろんな話をした。
シデンには好きな娘がいるとか、将来何になろうかとか、たわいもない話だ。
でも実際のところ、あと一、二年で決めなきゃならない自分の道は、さっぱり定まっていなかった。不安がないといえば嘘になる。でも、今あるような充実感があればそれで良いとも思っていた。
シデンは、あと半年もしたら鍛冶屋の弟子になることが決まっていた。本人も了承の上だそうで、なのになぜか寂しげな顔をしていた。きっと良い職人になれるよと言っても、曖昧に返すだけだった。
そんな淀みもすぐに流れ、会話は再び弾み出す。
「でさ、せっかくの饅頭、イブキに持ってかれちゃったんだ。」
適当に相槌を打つ。
イブキが誰か、オレ、知らないのに。
そしてここで、訊きたかったことを訊く勇気が唐突に湧いてきた。とくとく湧き出す温泉のようなものではなく、ちろちろ流れる清水のような。
澄みきった純水のような。
「……シデン。」
「何?」
すぅ、と息を吸う。
歩みを止めることなく、右隣を歩くシデンに問うた。
「シデンの髪の色ってさ、里人達とちょっと違うじゃん。それって…」
「あぁ、そのさ、オレ、養子なんだ。だから生みの親の顔も知らないし?なんか里の入口にポツンと捨てられてたって。」
悪いことを訊いてしまった。ひどいことをした。
オレは立ち止まった。
「ごめん。」
謝らずにいられなかった。
「え?や、や、そんなことないって。現にオレ、今けっこう幸せだよ。養父さんと養母さんも父さんと母さんだし、大好きだ。悪いことないもん。」
父さんと母さんも父さんと母さん?
意味が分からなかった。困惑しているシデンより自分の方が困惑している。分かりづらい。この言葉の意味が分かったのは、もっと大きくなってからだった。
「そ、そっか。ならいいんだけどさ。ちょっと気になっただけだし。」
「お、そろそろ着くぜ。あ痛ッ!」
いつの間にか、オレの前を歩いていたシデンは、後ろを向いて歩く格好となっていた。そのまま林の中に入れば、突き出た枝葉に頭をペシペシ叩かれるのは当たり前だ。
せめて前を向けと言いたい。
オレはシデンを盾に、生い茂る枝葉から身を守って、足下の小石や岩やらに集中した。そのおかげで、やけに繁茂した林でも、かすり傷ひとつ無かった。
オレの分まで怪我をしていることに、シデンはちっとも気付かない。
「ほら、もう近いぜ。分かるだろ。」
こいつは後ろを向いていても分かるみたいだ。
「え?どういうことだ?」
「え~、気付けよ。」
なにやらニヤニヤしているのが気に食わなかった。
周りを見渡しても、郊外にありがちな林しか見えない。
夏の葉は、心地好い生気に満ち溢れている。太陽の光はほどよく遮られ、ひんやりとした空気は里よりずっと過ごしやすい。
ちるちると小鳥が鳴いている。小鳥の声に混じって、ちょろちょろとせせらぎの音がする。
そうか、これか!
「もしかして、川、ある?」
うんうんと頷いてくれた。
「ここがまた良いんだよ。七ノ月に入っても涼しいし。」
歩を進めながら話していると、ちょろちょろ、ぴちやぴちゃと小川が流れる音が大きくなってきて、小石やごろごろした岩も増えてきて。
清らかなくらいに澄んだ、小さな川が視界に入ってきた。
「 ユウリさ、お前の秘密の場所、教えてくれたじゃん。だからオレの秘密の場所も教える。」
妙にキリッとした面持ちで、シデンは言った。
それから、満面の笑みでこう言った。
「へへ、いいだろ!」
本当に得意げに。
なんでだろう?
「いいな、こういうの。」
「?」
「秘密を共有して、あ、もう秘密って言えないかもしれないけど、そんなん関係なくって。オレ、こうやって遊ぶの初めてだから、今すごい楽しい。」
「初めて!?」
「うん。オレん家の近くって子供少ないんだ。読み書きは教わったけど、学舎なんて行ってなかったし。」
里で生活していく分には、文字が読めれば十分だ。わざわざ学舎に行くヤツはそうそういない。親か兄姉に読み書きを教えてもらうだけだ。
けど、それは同年代の友達を作りづらいってことでもある。
「オレも学舎は行ってねぇけど、同じくらいの年の友達ならいっぱいいるぜ。近所子供だらけだもん。」
シデンは手頃な岩に腰掛けて、草履を脱ぐ。
「へぇー、いいな羨ましい。シデンとはもう友達だけど、他に知り合いはいても友達じゃないから。」
シデンが足湯の要領で川に足だけ入れた。
川の流れはそれほど速くないから、入っちゃっても平気だと思うけど、そうするつもりはないらしい。
話しながら、オレも草履を脱いで、足先で水に触れる。まるで氷水に触れたみたいに冷たい。足先にゆるやかな流れも感じた。川縁から見てるよりは全然速いけど、どっちかって言うとやっぱりゆるやかだ。
思いきって足首まで水に入れる。
大きく息を吸うと、夏の葉の匂いと生気がした。
気持ち良い
「ど、どうした?」
シデンは黙り込んでしまったオレの顔を覗き込む。
「いや、爽快だなぁ、って。」
満足げなオレを不思議そうにまじまじと見て…
突然手で川水をすくって迷わずオレにぶっかけた!
「わわ、何すんだよ!」
「何でもねぇって。」
さらにもう一すくい。
オレの上衣がびちゃびちゃになってしまった。草色の衣が濡れて深緑に染まっていく。
やり返してやる。
「うわっ!」
両手一杯に水をすくった。二回分だ。
「ユウリ、えげつねぇな。」
雫がぽたぽた垂れる茶色がかった髪を、犬のようにぶるぶる左右に振って水気を飛ばす。
えげつないとか言ってるわりに、シデンだって笑ってる。
透明感の強い純水のごとく澄んだ川水。まるで今のオレの心を映しているみたいだ。