一日目
あの悪夢のような3,11から早一年。
福島県外にいる人のなかには誤解している人が多数いるらしいが、原発問題は終わっていない。
収束なんて形だけで、家は無事なのに放射能のせいで帰れない人はとても多い。
私もそのなかの一人で、今は仮設住宅に住んでいる。
原発付近では行方不明者の捜索は困難を極め、警戒区域に入ることも制限されている。
そして未だに線量検査や甲状腺の検査を受けられていない人が沢山いて、これから受ける人も沢山いる。
私はどれも少し前に検査したのだが甲状腺の二次検査を進められてしまった。
少し大きめのしこりがあるので、念のためにらしい。
さて、話を戻そう。
私は地震が来たとき自宅にいた。
今は警戒区域に指定されて一時帰宅の時にしか入れない地域だ。
自宅に帰るのに一時帰宅、それも申請をしなければ行くことすらできないのだ。
なんともおかしな、しかし仕方がないこと。
今回書いたものは、あの震災で実際に私が記録したこと。
日記だ。
書ききれていないことも書けないようなことも沢山あるが、ところどころぼかしながら書いてみた。
被災したことで、私には得るものがあった。
失ったものはそれ以上なのかもしれないが。
しかし実際に被災すると被災しなかった人に大変だよねなどと言われるのは複雑だ。
なんにもしらないくせに同情向けられても虚しいだけだよ。
と思うこともあった。
しかし、津波などの被害にあった人から見れば私はかなり幸せな部類だろうし、私自身かなり幸せな避難生活だったと思っている。
避難所によっては、一つのおにぎりを三人で分け合わなければならない様なところもあったらしい。
それと比べれば私なんてまだまだ幸せだったのだ。
確かに腐りかけたおにぎりを出されることもあったが、ちゃんと一人一つはもらえていたし、いいときはボランティア団体からの炊き出しもあった。
そんなぬるい避難生活を綴った駄文です。
日記は家族に見つかると色々と面倒なので隠すことにした
だからその前にここに体験記として綴らせていただきます。
内容によっては省略、簡略されているところがありますがスルーしていただけると幸いです。
2011年 3月11日
14時46分頃
震度6強(?)の地震が来た。
私は中学校の卒業式が終わり、高校が休みの姉と母の三人でリビングにいた。
お昼のパンを食べ終わり、テレビを見ていた。
すると、テレビの画面の上端に突然速報が流れた。
内容は「もうすぐ大きな地震が来る」というようなものだった。
『あっ』と内容を理解した瞬間、揺れを感じた。
初めは大したことはないだろうと思い、取り合えずふざけながらテーブルの下に入り本を読んでいた
しかし、揺れは収まるどころか段々激しくなっていった。
これはヤバイと思い、私は母と姉に
「外出た方がいいよね」
と言いながら立ち上がり、玄関へ向かった。
しかしなかなか二人は来ない
仕方がないので、一度戻り、近くにあった自分のバックを持ち
「早く出て」と二人を外に出した
姉は携帯を片手に
母は手ぶらで外へ出た。
家の前の道は落ちてくるものもなく、そこに母と姉は座り、私は立っていた。
犬は怯え、やたらと吠えていた
家も車も電柱もそして自分までもがまさに『グラグラ』と揺れ、崩れてしまうのではないかと不安が過った。
暫く経った…といってもどのくらいの時間がたったのかは定かではない。
少し様子を見ながら家の中を覗いた。
そして、思わず「うわぁ」
と呟いていた。
家の中はまさにうわぁな事になっていた。
キッチンでは棚がすべて開き、殆どの皿が落ちて割れていた。
『ブォー』と音がするので脱衣所へ行くと、ドライヤーのスイッチが入っていた。
部屋の中の物が、殆ど床に散らばっていて
電話も加湿器もオーブンもポットも何もかもが散らばっていた。
書類は何が何やらもうわからなくなっていた。
すぐにまた揺れが来たので外へ出た。
何度も揺れが来る度に外へ出た。
その度に姉の荷物は増えたし
母は、取り合えず大事なものの入ったバックを持った。
予震は何度も続き、もう取りあえずは大丈夫だろうと、家の中で過ごすことにしなった。
家に入るとまず、母方の祖母に電話をした。
大丈夫そうでS家のおじさんが家まで連れてくると言った。
待つ間、少しだけ家の中の片付けをした。
少しして弟の通っている小学校から電話があり、母は二人の弟を迎えに行った。
私と姉は、自分の部屋を見に行ってみた。
私の部屋は、本が多量にあったせいか、床一面に本が散らばっていた。
片付けを…とも考えたがそれどころではないので壊れそうなものを机の下に入れたり、棚の位置を直すだけにした。
弟を迎えに行った母やおじさんの話では、道路に亀裂が走り、
割れ目にタイヤを挟まれて動けなくなったトラックがいたとか。
そんなこんなで夜を迎えた
(省略)
不安で、ほとんど眠れなかった。
ちなみに電気は止まってしまったので、仏用のローソクを明かり代わりにした。
布団は全て祖母や弟に渡っているので私たちに被るものはなく、ローソクの火の暖かさが身に染みるぐらいに寒かった。
二階から持ち出した簡易ラジオからは津波の情報などが流れている。
少しの間をおきながら大小の予震は続いた。
日付が変わるまでがやけに長く感じた。
この日記は事情により3月13日から始めた。
11日のものは二日前のことである。




