夜の学校で
ある冬の日、俺は歩いて自宅に帰る途中にあった。時刻は夜の十時。田舎町であるため住宅街でも街灯はほとんどなく、空を見上げれば煌々と輝くお月さんと無数のお星さまが見えたりする。そんなところはこの田舎町のいいところだったり、とか思ったりするが――
それはそれとして、だ。
「はぁ、さむい……」
肩を震わせながら呟く。呟きは白い息となり、霧散して消えた。
現状、ダウンジャケットを着て、フードをかぶっているだけだ。マフラーもなければ手袋もない。いろいろな隙間から冷気は侵入してくるし、顔面を風に叩かれてフードがめくれるし、防寒対策が十分だとは言い難い。
そんなこんなで、とにかく寒いわけだ。
「……ったく、おふくろのやつ」
月明かり以外に光のない道をとぼとぼとゆっくり歩を進める、と言ういろんな意味で寒い状況を作り出した元凶の名前を出す。
そう、すべておふくろのせいだ。
普段、俺は塾まではおふくろに送迎してもらって通っている。今日も塾まで送ってもらい、迎えを待っていたのだが、いくら待てどもおふくろが来なかった。しびれを切らして自宅に電話してみると、
『ごっめーん! お父さんとちょっとお酒の飲んじゃったのぉ。だからぁ、車の運転はできらいのよぉ。そういうわけで、歩いて帰ってきてねー』
とか陽気な声で言われたのだった。呂律が不自然なところも、いつもよりテンションが高い所からも、ちょっとどころか相当飲んだに違いないと酒を飲んだことない俺でもわかった。
そんなわけで、俺は塾から家までを寒空の下、徒歩で帰ることを余儀なくされたのだ。ちなみに塾までは車で三十分の道のりである。歩きとなればその倍とちょっとの時間がかかるかもしれない。
「なにが『飲んじゃったの』だ。息子の迎えぐらい来いっての」
ぼやくが全て白い息になって消えていくだけで、惨めな気持ちになる。
そんな時だ。
自分の通う中学校の前に差し掛かり、校門前に人影があるのに気付いた。
近づいて様子をうかがってみると同い年かそこらの少女がいた。髪は短めに肩で切りそろえられ、頭のサイドを黄色いリボンで結び、サイドポニーにしているのが特徴的だ。赤いダッフルコートを着て、更にマフラーをしている少女は、少々防寒対策のなっていない俺にとってうらやましい限りだ。
そのうらやましい少女は忙しなく辺りをきょろきょろと見回して、誰もいないと思ったのか、校門に手を掛けてよじ登り始めた。
「お前、いきなり何してんだ!」
思わず叫んでしまった。こんな得体のしれない少女など見て見ぬふりをしてさっさと家に帰ればよかったと俺は後悔したのだが、もう遅い。
いきなり声を掛けられ驚いたらしい少女は足を踏み外して校門から落ちた。
一応俺のせいだと、自認して少女に近づく。
「……いたい」
「だろうな」
言葉を返してやると少女が勢いよく立ちあがってこちらを睨んできた。どうやら怪我をしたところはないようだ。
「あんた、誰よ」
いきなり高圧的だったが、いちいち名乗る必要は俺にはない。
というわけで、
「エキストラA。もしくはモブキャラAだ」
「どっちも背景じゃないの!」
「そうだな。俺は背景だとでも思って続きをやるといい。ささ、どうぞ」
「じゃあお言葉に甘えて…………て、やるかぁ!」
見事なノリツッコミを少女はご披露してくれた。俺は見て見ぬふりで少女の奇行を見逃してやるつもりだったのに、お気に召さなかったらしい。
「で、結局あんたは誰なのよ」
「そういうおまえこそ誰なんだ?」
「あたし? あたしはね」
少女は胸に手をやり、なぜか自信満々と言った様子で鼻を鳴らして言った。
「あたしは風見由希。この中学の二年生よ!」
「へえー、うん、そうか……」
「名乗らせておいてなんなのよ、その態度!」
「いや、だってお前、名前を言われたからってなにを返すんだよ。『素敵なお名前ですね』とでも言えばいいのか?」
「そうじゃなくて! 名乗ったら名乗り返すのが普通でしょ!」
「ああ、はいはい。分かったからいちいち叫ぶんじゃねぇ」
さっきからやたらとテンションが高くて正直ウザく感じる。なぜすぐに撤退を決め込まなかったかが悔やまれる。
しかし名乗らせた以上は返すしかない。このままだと帰してくれなさそうだし、ちゃっちゃっと終わらせて退散するとしよう。
「櫻井健。この中学の三年だ」
「へえー、そうなんだ」
「おい、待て。お前こそ人に名乗らせてなんだ、その態度は」
「なによ。こっちはもう名乗ったんだから言うことなんてないでしょ。それとも何? 顔に似合わず素敵なお名前ですねとか、ほめてあげればいいの?」
「顔に似合わず、は余計だ。そして先輩に対するもの言いなのか、それは?」
「あんたなんか見たことないから、先輩かどうかなんて知ったことじゃないわ」
校内であって話していたら、忘れられない言動だ。しかし俺はこの風見とかいう後輩を学校で見かけたことはない。
そんなムカつく後輩を学校で見かけたか云々はさておき、俺はさっさとこの場を離れたい。言われたとおりに名乗ったから風見も満足したに違いない。
「じゃあ、用は済んだな。俺は帰るから、あとはお一人でどうぞ」
「ストーップ!」
踵を返してその場を去ろうとしたというのに、あろうことかこのムカつく後輩は人のフードを思い切り掴み、俺の離脱を許してくれなかった。
当然、俺はその行動に不満を覚えて、抗議した。
「なんだ、お前は。俺は帰りたいんだ」
「そうなんだ? でも、あたしはあんたに用があるの」
えらくご機嫌そうな声で風見が言っている。顔には獲物を狩る獣のごとき光を宿らせ、一層手に力を込めてフードを離さない。
「おい、フードがちぎれるだろ。手を離せ、このくそ後輩」
「あら、そうしたらよりかっこいい服装になると思うの、くそ先輩」
「っんなわきゃねえだろうが。むしろみすぼらしくなる」
「そうしたら先輩にお似合いになってちょうどいいじゃない」
ことごとく人の神経を逆なでするような発言をする後輩だった。
「お前さ、なんなの? 俺はお前がなにかしようとしてたのを見て見ぬふりをして見逃そうとしてんの。それをわざわざ引きとめてなんか意味あんの?」
「やっぱ見てたんじゃない」
「それがどうしたよ?」
何か嫌な予感がした。この後輩が何をするかは全くの不明ではあるが、それでも言えることは俺に不利益になるのは確実。なぜ俺はこんなやつに声を掛けてしまったのだろう。きっと、この寒さで俺の思考が凍っていたに違いない。
「見られたんなら仕方ないわ」
「いや、だから見ないふりにするって言ってる」
口をはさむが風見は聞く耳持たず。
「これはもう付き合って貰うしかないわね」
「はあ? なんだって?」
「だから付き合いなさいって言ってるの」
耳が遠くなったのかと思って聞き返したが、答えは変わらなかった。というか一度目で聞きとれているんだから二度目が変わるわけがないのは当たり前だ。なんにせよ俺は風見の言葉に返答しなければいけない。
返答の為に、俺は少し戸惑った体を装いつつ、ハッキリと風見に告げてやった。
「愛の告白はちょっと……。まだ出会って間もないんで、その……ごめんなさい」
「そう、それは残念ね…………て、違うっ!」
再び風見のノリツッコミ。
「そういう男の子、女の子の付き合ってとかじゃなくて――」
「わかってるからいちいち叫ばなくていい」
ちょっと茶化すつもりで冗談を言っただけだ。本気で愛の告白とは思ってなどいない。
しかし照れなのか怒りなのかよくわからないが、風見は顔を真っ赤にして唇をかみしめていた。その様子にちょっとだけ、かわいげを感じたりする。
「……告白したわけじゃないのに、なんでこんなみじめな気分になんないといけないわけ?」
ぼそりと風見が呟いて、少しばかり涙目で睨みつけてくる。
「……なんか悪かったな」
俺が軽く頭を下げると、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「で、何に付き合えだって?」
すねている風見を見かねて、不覚にもそんな問いを口にしてしまった。それを聞くや否や、さっきまでの感情を水にながしたのか、風見はきらきらと輝いた目で見つめてくる。そしてぐいっと一歩、俺に近づく。
「気になる?」
「全然」
咄嗟に首を振って否定。
途端に風見は唇を尖らせて、いじけ始めた。
「……いいわよ、もうっ。どーせ……」
「わかったわかった。それで何がしたいんだ、お前は?」
いじける風見を見かねて、仕方なく聞く。すると風見は再びきらきらした目をして、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
その様子にまるで子供のようだと思い、口元が緩んだ。さっきから俺の言葉に一喜一憂して表情はころころ変わるのが少し面白かった。もしかしたら、子供を見る親はこういう気分を味わっているのかもしれない。
そんな事を思う俺をよそに風見は、嬉々とした声で今から何をするかを話し始めた。
「あたし、肝試しをしようとしてたんだ」
「待て」
初っ端から変なことを言い始めた風見に、思わず制止の声を掛けてしまった。
話を止められた風見が不満げにこちらを見てくる。
「……いや、なんでもない。気にするな」
「それで学校の七不思議を調べに来たのよ。ね、面白そうでしょ?」
満面の笑顔の風見。対する俺は引きつった笑み。
「一人じゃつまんないし、あんたも肝試ししよっ」
「とりあえず一緒に肝試しは置いといて、ちょっと聞きたいんだが……」
「なに?」
「お前、いまの季節わかってるか?」
二人とも厚手の上着を着ていて、更に風見はマフラーをしている。さっきから冷たい風が顔を打ち付けているわけだが――
つまりは……
「冬でしょ?」
「そう。冬だな」
「それがどうしたの?」
「肝試しは夏にやるものだ」
「別に冬でもいいじゃん」
「納涼イベントを寒い時にやってどうするんだ?」
「のうりょー?」
舌足らずな感じでそう言って風見は小首をかしげた。どうやら風見のなかでは肝試しという行為は怖そうな体験をするという意味だけで、怖さで涼しくなるという概念はないようだ。どうせ説明したところで肝試しをやるのだろう。これ以上は意味のないやり取りになりそうだと話を先に進めることにする。
「で? なんで俺が肝試ししなきゃなんだ?」
「さっき言ったじゃん。一人じゃつまんないから」
「なら、友達でも呼べばいいだろ?」
「それは……」
さっきまで堂々と話していたのに風見は急に口ごもる。もしかしてと思い、恐る恐る聞いた。
「……友達がいないとか?」
「そうじゃなくって」
誘う友達がいなくて一人だったわけじゃないのであれば、なぜこいつは友達を誘わなかったのか。今の否定は取り繕っただけなのかもしれない。頭一つ低い風見を見下ろして、嘘かどうか確かめようとする。
そんな風に俺が懐疑的な視線を送っていると、風見は自分から話し始めた。
「……今日、学校の七不思議の話を先生がして、それで休み時間に友達が『由希は怖がりだから夏の肝試しは来なかったよねぇ』なんて言って笑うから、ちょっとカチンときて、じゃあ夜に七不思議を調べて来て報告するって息まいちゃって……。――それで一人で肝試しに来たの!」
最後はもう自棄なのか大声で顔を真っ赤にして叫んでいた。
つまり、風見の話をまとめて言えば、
「友達にからかわれて、大見栄切っちまったってことか」
「……そう」
風見は恥ずかしいのか顔を俯けて、蚊の鳴くような声で肯定した。言っていることが本当であれば季節はずれなのはよくわからないが、一人で肝試しをしに来たのも頷ける。
「お前、馬鹿だな」
「……仕方ないじゃん。笑われたら黙ってられなかったんだもん」
「そうじゃなくて」
俺は呆れて、風見に言ってやった。
「一人で肝試しに来たら、証拠がねえだろ? いくらでも言いわけできるんだし。最悪、来たことにすればいいだろ?」
「……でも、自分で言った事だから守らないと約束破ったことになっちゃう」
変なところで律義な奴だった。どうせ相手方の友達もただ少し茶化しただけで風見がそこまでするとは思っていないだろうに。律義に肝試しをしたと報告しても驚かれておしまいになりそうだ。
「まあ、なんだ、ごくろうさん」
それだけ言ってその場を立ち去ろうとしたが、やはり風見がコートの袖をガッチリ掴んで放さなかった。
「あんたもついてきてよ」
「いや、俺がついていく理由がないし」
「それは、そうだけど……」
風見は居心地悪そうに視線を落とした。そうして地面を蹴って何かを言おうとしては、口ごもる。それでも俺のコートの袖は絶対に離さない。
その様子と友達にからかわれたということから察するに、
「一人で行くの、怖いんだな、お前」
「……ん」
わずかに首を縦に振って肯定する風見。
「さっきは一人で行こうとしてただろ?」
「……悩んで、ようやく決意して行こうとしたの」
そこに俺が通りかかって声を掛けたら、驚いて校門から落ちたというわけか。
「がんばりゃもう一回いけるって」
「……出来たらここで粘ったりしないわよ」
「それもそうだな」
確かに最初からそれが出来たのなら友達にからかわれるはずがない。俯いている風見にはさっきまでの高圧的な少女の雰囲気はない。どうやら無駄にテンションが高かったのは強がりだったみたいだ。
学校の時計を横目に見る。暗くてハッキリしないが大体十時時半を指している。
俺は大げさにため息をついてから、言った。
「わかった。一緒に行ってやるよ」
風見がすぐに顔を上げて、問いかけてくる。
「ホント?」
「ここでウソついても意味ねえだろ」
すると風見はみるみる笑顔になって行き、さっきまでのしょんぼりとした雰囲気はどこに行ったのやら、上機嫌に胸を張った。本当によく表情が変わるやつだ。
だからだろう。なんとなく構ってやりたくなる。そう、小動物的な感覚だ。このまま帰っても後ろ髪を引かれるような感覚を味わっただろう。
納得させるように自分に言い訳しながら、風見に視線を送った。
「やっぱり楽しそうだからついてきたかったんでしょ。肝試しなんて楽しそうだもんね。それなら最初からそう言えばよかったのにねっ!」
俺の視線を受けて何を勘違いしたのか、いきなり風見が調子づいてそんな事を口走り始めた。前言撤回したくなるようなウザさだった。
「やっぱり帰っていいか?」
「……ごめんなさい」
風見がすぐさま謝ってきてうなだれる。
からかってみると楽しい奴だ。きっとこいつを茶化した友達とやらも、今の俺みたいに一喜一憂する風見を見て楽しんでいたに違いない。
俺は口元が緩むのをこらえて、校舎に目を向ける。暗闇の中にうっすらと輪郭だけを見せていて、どこかおどろおどろしい雰囲気が漂っている校舎は確かに肝試しにうってつけのスポットになるだろう。
しかしそれだけだ。
そこに何かが明確に見えるわけでもなく、ただそう言った雰囲気があるだけだ。そんなものよりも、親父が烈火の如く怒り、顔を真っ赤にして説教をしている方がまだ明確に恐怖を感じると言うものだ。
「さて、行くか」
それだけ言って、しり込みをするわけもなく、校門をよじ登って敷地内へと飛び降りた。風見が俺に続いて校門を乗り越えたのを確認して昇降口へと歩きだした。
そうして、後ろから追いついてきた風見は怖いのか、俺の袖を掴んだ。
さて、肝試しに付き合うことになったわけだが。
「七不思議って何があるんだ?」
自分が通っている中学ではあるが、七不思議の話など聞いたことがなかったりする。そもそも俺の中学は木造の旧校舎があるわけでもなし、怪談スポットになりえるような学校でもない。どこにでもある鉄筋コンクリートの公立中学校だ。
そんな学校に七不思議なんてものがあるかどうかさえ疑問に思うのだが、本当にあるらしい。俺の質問に風見はポケットからメモ帳を取り出し、一つ一つゆっくりと読んで言った。
「音楽室のピアノが誰もいないのに鳴る。鏡に写り込む自分以外の人影。階段で足音が自分以外にもある。女の子のすすり泣きが聞こえる。絶叫が校舎に響き渡る。廊下を歩く人影。体育館でボールの跳ねる音が聞こえる、かな」
言い並べられた七不思議はよく耳にする定番ばかりだったが、本当にその七不思議を俺の中学で経験したやつだいるのだろうか。インターネットの噂話をまとめただけとかじゃないこと願いたい。
それはさておき、
「音楽室とか場所がハッキリしているものはいいが、それ以外のやつはどこで体験できるんだ?」
「さあ、わかんない。でも、学校の中をぐるぐる回れば大丈夫でしょ」
「……何が大丈夫なんだか」
ため息とともに、ボソリと呟く。そんな様子を見た風見が笑いながら言う。
「ため息をつくと幸運が逃げるって言うよ」
ならば幸運が逃げる原因はお前だ、と思ったが口には出さなかった。こいつと出会ってから、今まさに肝試しに付き合って、不幸の真っただ中だ。
そんな考えを浮かべているうちに、学校の昇降口の前に着く。ガラス張りの扉の向こうに広がる何個も並んだ靴箱。そしてその奥には明かり一つついてない真っ暗な廊下が続いている。
ここから見えるのはそれだけだ。
教室は全て南側に配置されている。特別教室があるのは北棟だ。音楽室の七不思議を体験するには、北棟に行く必要がある。
しかし、それ以前に肝心なことが一つある。
「どうやって学校に入るんだ?」
そう、学校は戸締りがきちんとされている。無論、窓を割ったりして無理矢理入ろうものなら、すぐさま警報装置が作動して警備会社が駆けつけてくる。警報装置が作動しない条件は、教員が持っている鍵を使うか、戸締り当番が鍵を閉め忘れた窓から侵入するかだ。
俺は対策があるのだろうと肝試しの言いだしっぺを見た。
すると言いだしっぺは困ったように笑った。そして少し考えるような仕草を見せてから、はにかみながら言った。
「どうしよっか?」
「考えてなかったのかよ……」
「大丈夫、大丈夫。きっと閉め忘れで、どっか鍵が開いてるって」
風見は軽いステップで昇降口から離れ、南にあるグラウンドの方に歩いていく。グラウンド側にある教室の窓で、どこか開いていないか探すつもりなのだろう。閉め忘れを期待するのであれば、正しい選択だ。なにせ北棟の一階にある教室は普段は窓など開けない倉庫代わりの教室しかないからだ。
風見の背中に付いて行きながら俺は一人呟く。
「そう、うまくいくかなぁ」
いくら使われている教室であろうと、鍵の閉め忘れなんてそうそうあるはずがない。南棟一階の教室は、全て日常的にクラスとして使われてはいるが、そうなると当然帰りのホームルーム後に日直が戸締りをし、更にその後に戸締り当番の教師が各教室を回る。そうなるとそうそう閉め忘れはないはずだ。
そう思ったのだが――
「ここ、開いてるー」
先に言って鍵がかかっているかどうか確認した風見がそんな事を言った。そんな馬鹿な、と思いつつ俺も近づき、風見が指差した窓の鍵を確認する。場所は昇降口から入れば一番、最初にある教室の窓だ。
「……確かに開いてるな」
どうやら鍵が開かなくて中に入れず帰るということはこれでなくなったわけで、結局、最後まで肝試しをするしかないというわけだ。
「これで中に入れるね」
言って風見はさっさと窓を開けて、中に入った。それに続いて俺も窓枠を乗り越えて、中に入る。
教室内は暗く、月明かりだけが中を照らしていた。その光を頼りに教室内を見回すと、いつも勉強につかっている机や椅子はなく、長机がいくつかと、大量の本やプリント類が詰め込まれた本棚が壁際に並んでいる。
そういえば各階にある各学年一組の隣には資料室があったのだった。そしてここは一階の資料室と言うわけだ。資料室は教師が授業で使う授業資料が置かれている。しかし、廊下に続くドアには生徒が勝手に入らないように施錠されている為、教師以外はこの教室に入ることはできない。
――教師が資料室で何らかの作業しているときに窓を開け、鍵を閉め忘れて出ていき、ドアの鍵を閉めた為に戸締り当番の人間が見落とした。
窓の鍵が開いていた理由としてはあり得そうだ。
「……しっかりしろよ、教師さんよー」
誰とも知れない教師に愚痴をこぼしつつ、何度目か知れないため息をついた。
不幸にも校舎に侵入してしまった俺と風見だが、資料室を抜け出した後、まず特別教室がある北棟に向かうことになった。北棟には二階にある渡り廊下を通る必要がある。渡り廊下は南棟の真ん中に位置している為、すこしばかり廊下を歩いていかなければならない。
そうして今現在、廊下を歩いているのだが、なぜか風見がぴったりと俺にくっつき腕を抱き込んでいたりする。歩きにくい上に、中学三年男子という女子を女性と意識している俺には悩ましいことこの上ない。この一歩踏み出す度に感じる柔らかい感触は、俺の心臓をバクつかせるには七不思議を超えているに違いない。
「おい、離れろ」
俺は努めて、冷静な口調で言った――つもりだったが出てきた声は若干上擦っていた。仕方がないだろう、女子にこんな密着される機会なんて一度もなかったから緊張しているんだ。
「…………やだ」
俺の心情など一切気にしない風見はその一言でバッサリと断った。
「怖いのは分かるが、もう少し離れてくれ。このままだと歩きづらい」
そして俺の心臓に悪い。
「なによ、密着されてうれしいくせに……」
「おい、勝手な想像を口にするんじゃない」
ちょっと気分は違うが、風見の言っていることはおおむね正しいと言える。それを認める勇気はないわけだが。
「とにかく、離れろ」
俺は風見を力づくで振りほどく。すると再び腕を抱き込まれる。そしてまた振りほどく。抱き込まれる――。
幾度か繰り返したのち、俺が妥協した。
「抱き込むのは勘弁だ。せめて袖を掴むとかその程度にしてくれ」
「……わかった」
風見は渋々と言った様子で俺の腕を開放して、言ったとおりに服の袖を掴んだ。
なんとなく残念な気がしないでもないのは、たぶん気のせいだろう。とりあえずこれで俺の心臓の安寧は守られた。
「てかさ、そんな怖いならやめようぜ?」
「別に怖くない」
風見は即答するが、声が震えているために強がりだと言うことがよくわかる。そうでなくても腰が引けているせいで怖いと主張しまくっている。
そのことを指摘してもよかったが、頑なに否定し続けるだけだろう。どの道、引き返すことは絶対ないだろうから、それっぽい雰囲気でも楽しむしかない。
ついでに強がりながらも怯えている風見の顔も、だ。我ながら趣味が悪いとは思うが、付き合わされているのだ。あとでネタにさせてもらうぐらいは許されてもいいはずだ。
この肝試しの楽しみはそれでいいが、この牛歩どうにかならないのだろうか。歩幅が極端に狭くなっている風見に合わせているせいで――というより掴まれているせいで――廊下がいやに長い。
一刻も早く俺はこの肝試しを終わらせたいと言うのに、だ。
「……なんでここまで五分かかるんだよ」
風見の牛歩に合わせて結局、階段の踊り場まで五分かかった。牛歩だけならそこまで時間はかからなかっただろうが、周りが怖いのか、立ち止まって辺りをきょろきょろ見回す。そんな事を風見がしていたせいで、余計に時間がかかってしまった。この調子だと学校の七不思議を調べ終わるのにどれだけ時間がかかるかと思うと、頭が痛くなってくる。
それでも一応は階段に着いたわけで、
「まずは一つ目になるな」
学校の七不思議、階段で自分以外の足音が聞こえる。
二階に上がるのであれば、必然的に階段を通る。そうすればこの七不思議もまた必然的に体験することになるわけだ。
「特に場所が決まってるわけじゃないんだろ?」
「……うん、たぶん」
「なら、ここでいいってことだ」
「……本当に行くの?」
風見が恐る恐るといった調子で聞いてきた。うるんだ瞳で上目遣い気味の視線。顔の造形がいいだけにぐっとクるものがある。俺は唾を飲み込みんで、動揺を押し殺して、言った。
「お前、七不思議調べに来たんだろうが」
「……そうだけど、階段は……ほら後回しにして先に他の行こうよ」
「どの道、後で来るんだろうが。それならさっさと終わらせた方が無駄がない」
言い切り、俺は階段の一歩目を踏み出す。
「待ってよぉ」
袖を掴んでいた風見が俺に引っ張られて同じように一歩遅れて足を踏み出す。もうすでに泣きそうな声を出しているが、こいつの調子に合わせていたらいくら時間があっても足りない。決心がつくまで待つだけで東の空が白み始めるだろう。もしも、俺がいなかったそうなっていたかもしれない。
「暗いから、足踏み外すなよ?」
「うん」
月明かりだけが頼りであるせいで、階段の段差を踏み外す可能性が高い。付け加えるなら、密着していることもあって更に注意が必要になっていた。
慎重に一歩一歩踏みしめ、階段を上って行く。
そして肝心の七不思議である足音は――二つ。
「俺以外にも足音が!」
振り返る俺。
「きゃああああああああああああああっ!」
叫ぶ風見。
風見はものすごい動転しているのか階段を踏み外した。後ろ向きに風見が倒れていく。それに合わせて、風見に掴まれていた袖が引っ張られる。
「あぶねっ」
咄嗟に掴まれていない腕で風見の体を引き寄せた。が、今度は俺がバランスを崩して、背中から階段に倒れこんだ。背中を段差に打ちつける痛さに悶えようとすると、風見が身体の上に倒れて来て、段差の角が背中に突き刺さりさらなる痛みが生まれた。
結果、転がり落ちることさえなかったものの俺の背中が深刻なダメージを受けた。
「……マジでいてぇ」
「あああ足音って!」
「落ち着けって」
「だって、だって!」
「とりあえず、どいてくれ」
身体の上に乗っている風見をどかして、立ち上がる。背中が火傷したみたいに熱く感じるがそのうち治まるだろう。風見は俺にどかされたまま階段に座っている。どこか茫然とした様子だ。
「冗談のつもりだったんだけどな」
二人分の足音なんて俺と、風見以外にあり得ない。わざと驚いたようなふりをして、『なんだ、風見か……』みたいな落ちで終わらせようとしたのに、それより早く風見が恐慌状態に陥ってしまったわけだ。そのせいで階段から風見が落ちそうなのを、身体で受け止める羽目になった。悪乗りした報いなのかもしれない。
「ほら、立てよ」
座り込んだままピクリとも動かない風見に手を差し出す。
風見は俺の手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。そして俺を真っすぐに見つめて何か言いたげにしている。責めるというか、意味がわからないと言ったような視線だ。
「いや、イタズラでおどかそうと思ったんだが、なんだ、その、大成功だったみたいだな」
後半に行くにつれてどんどんと声が小さくなった。声が小さくなるのに比例して風見の顔がどんどんと赤くなっていく。そして鬼のような形相へと変化していく。言い知れぬ圧迫感に俺は目をそらし、冷や汗をだらだらと流す。
俺が黙ったまま、目をそむけているとようやく風見が口を開いた。
「……なんか言うことは?」
地の底から聞こえてくるような低い声。物凄くドスが利いているのが恐怖を増幅させる。年下の女子だと言うのになんという圧迫感だ。
「…………悪かった、すまん」
気圧された俺は素直に謝った。平手打ちぐらいは覚悟したが予想に反して風見は何もしてこなかった。代わりに背を向けて鼻をすすり、目をこすった。
「……次はもうやめてよね」
蚊の鳴くような声で言われたものだから、こちらも素直にうなずくしかなかった。
「……ホント、悪かった」
「もういいから、いこ」
風見が再び俺の袖を掴み、引っ張った。俺は無言でそれを受け入れ、あえて風見の顔を見なかった。
そうして二人ともしばらく無言のまま、歩いた。
互いに無言のまま四階の音楽室前まで来た。その間にある階段では当然おどかすような真似はしなかった。会話を交わさない校舎はひどく静かで、不気味だったが会話を振れるような雰囲気ではなかったため、ここまで無言だった。
「……ピアノ、鳴ってないね」
風見が音楽室のドアに張り付いて言った。背伸びをしてドア上部にある窓から中を覗き込んで、もう一言。
「誰もいないよ」
「いたら、七不思議の内容を変えなきゃな」
確か音楽室の七不思議は、誰もいない音楽室でピアノが鳴る。人がいたら、深夜の校舎で誰かがピアノを弾いているに変更だ。
「とりあえず中に入ろう」
先陣をきって風見が音楽室に入った。袖を掴まれたままのため、引っ張られる形で俺も音楽室に足を踏み入れる。怖がりのくせになぜ先に入るかは疑問だ。
「誰もいないし、ピアノも鳴ってないな」
二人でそっとピアノに近づき、確かめる。
音楽室にあるグランドピアノは月明かりを天板に反射させ、高貴さを漂わせている。もしもピアノが誰もいない状態で鳴っているならば、不気味さを感じされるだろうが、誰かが弾いているのであれば、場合によっては神秘的に見えたかもしれない。
「やっぱ、七不思議つっても噂だな」
七不思議がどこから作られるのか、どんな形になるかは分からない。しかしほとんどの怪談話がそうであるように、大体が噂なのかもしれない。
「なーんだ、やっぱりねー」
風見が異様に明るい声をあげてピアノ椅子に座った。まだ怖がっているのは分かるが、さっき俺がおどかした後に比べると幾分かマシになったと見える。七不思議のひとつに肩透かしを食らって安心したってところだろう。
その証拠に俺から離れた。
俺は音楽室の時計を見て、時間を確認しておく。時計は十時五十分を指していた。学校に入って二十分経過したというわけだ。この調子だと十一時半すぎには七不思議を全部調べ終えられるだろう。
そう思いながら、時計を睨んでいると背後にピアノが鳴った。唐突な音の発生に、素早く身を振り向く。
「驚いた?」
しかし振り返った俺が見たのは勝手になっているピアノではなく、悪戯っけに満ちた顔で笑っている風見だった。
「……お前かよ」
「ふふ、さっきのお返し」
「そーかい」
俺は肩をすくめて、近くにあった椅子を引き寄せて座った。ピアノは勝手に鳴ったわけでなく、風見が鳴らした。それだけだ。七不思議なんてものは起こってなどいない。
しかしどうやら、俺は少なからず七不思議を信じていたらしい。噂だのなんだのと思ってはいたが、どこかで信じていたからこそピアノが鳴った時に身がすくむような思いに駆られたわけだ。これでは階段で怖がっていた風見の事をとやかく言う資格はないだろうと自嘲気味に肩をすくめた。
一方ピアノを鳴らして、俺をビビらせた張本人はこっちを指差しながらけらけらと笑っている。
「ねえねえ、怖かった? 怖かった?」
「あぁ、まあ、そうだな」
気のない返事で答える。それをどう受け取ったのか風見はことさら上機嫌になった。
「あんたが目を思いっきり見開いて、『なんだっ!?』みたいな感じで振りかえって、そんとき物凄い面白い顔だったよっ」
「そーかい。そりゃあ良かったな」
「なによ? 怒ったの?」
「別に、そうじゃない」
適当に返して立ち上がる。そろそろ次の七不思議に行かなければならない。このままここで休んでいたら、時間がもったいない。そう思い立ち上がったのだが、しかし唐突に風見がピアノを弾き始めた。今度は風見が弾き始めるのを見ているため驚くことはなかった。
聞き覚えがある曲だ。名前は知らない。しかし月明かりのの中で弾かれる曲は神秘的で、そして甘美な響きを持っていた。制止してこの場を後にしても良かったが、なんとなくピアノを弾いている風見の姿に儚いものを感じて憚られた。そしていつの間にか聞き入っている俺がいた。
「……ここまで!」
「ピアノ、弾けるんだな」
「ちっちゃい頃に習ってたの。楽譜がないから覚えているところまでだけど」
ピアノ椅子から飛び降りて風見が俺のそばまで来る。そうして俺の袖を掴んだ。
「さ、次いこ」
「そうだな」
言いながらピアノを一瞥する。鍵盤の蓋が開いたままになっていた。わざわざ風見を振り払って直しに行くと言うのも面倒だ。別に直さなくても問題はないだろう。そう結論付けて、風見に引っ張られながら音楽室を後にした。
次に七不思議は、『鏡』を調べることにした。この学校に鏡は二つしかなく、一つは北棟一階、家庭科室。もう一つは南棟二階、職員室前。七不思議にある『鏡』を調べるにはその二か所を回れば終わることになる。
そのため、音楽室を調べ終えた俺と風見は家庭科室の鏡を調べたのだが、自分以外の人間が鏡に写り込むことはなかった。自分以外と言っても風見はきっちり写っていたが。
そうして家庭科室では何も起こらなかったわけで、つつがなく次の鏡がある南棟二階へ戻ってきた。
「この鏡が調べ終わったら、次は体育館で終わりだな」
「まだ全然調べてないでしょ? 廊下の人影とか、すすり泣きとか」
俺より頭一つ低い位置から風見の声が聞こえる。相変わらず袖を掴んでいるし、密着と言うほどではないが、距離が縮まっている気がする。しかしながら、階段でおどかして泣かせてしまった負い目があるせいで、離れろとも言いづらい。それに俺自身それほど嫌でもなかったりする。
「体育館を調べたって音楽室と鏡でまだ三つだよ?」
「お前はすすり泣きとか人影を見るとかを体験するまでここにいたいのか?」
「そうじゃないけど」
「学校内を歩き回って、そういうのに出くわさなかった、で充分だろ」
「……うん、わかった」
風見が残念そうな顔して頷いた。ちょっとおどかしただけで泣くほど怖がっていると言うのに、残念がる理由が分からない。俺としては無駄に学校内を歩き回る方が残念な気持ちになる。さっさとこの肝試しから解放されて、家に帰って一息つきたいと言うのが本音だ。
風見に表情から疑問の答えをうかがい知ることはできず、薄暗い廊下の先へと視線を移した。
職員室はこの廊下の突き当たりにあり、昇降口の真上という構造だ。肝心の鏡は職員室のドアの横に職員室にあり、入る際に身だしなみを整えてから入れ、なんて言う意味合いで設置されている。
「さて、鏡は目の前なわけだ」
「今度は何か映ると思う?」
「なんも映らないと思うけど」
「もしも映ったら?」
「映ってほしいのか、お前は?」
「……それはいやかも」
「俺もいやだよ」
そうして鏡の前に少し躊躇いながらも、一歩踏み出し鏡に自分たちが映る位置に一歩踏み出した。
「ま、なんも映らねえな」
鏡は月明かりだけを反射させている為、昼間見るときより黒く見えた。そんな鏡に映るのは俺と風見の二人だけ。あとは薄暗い廊下がその後ろに広がっている。他の人影なんて映っていない。
「……よかったぁ」
安堵でためていた息を風見が吐き出す。それほど緊張することでもないないだろうにとは思うが、俺も鏡に立つ直前までは身体が強張っていたのだから人の事は言えなかったりする。
「じゃあ、次で最後だな」
これ以上、なにも変化を起こさない鏡など見つめていても意味はない。俺は早々に踵を返して体育館へと歩を向けた。腕を掴んでいる風見も同様に鏡に背を向けて、並んで歩き始めた。
七不思議にある体育館は校舎に隣接される形で存在する。場所は職員室の真反対の突き当たりの階段を下りて、中二階の連絡路の先。つまり職員室前の鏡に背を向けて、廊下を真っすぐつき進めばいいというわけだ。
「やっぱりさ、七不思議って噂なだけだったってことだよな」
「そうなるのかなぁ?」
「現にこうしてなにも起こってないだろ?」
「でも、火のない所に煙はたたないって言うよ」
「そりゃあ、一番最初のやつが勘違いでも起こして、怪談的な体験をしたとか周りに話してもいいわけだろ。それが尾ひれ背びれついて、七不思議になったとか」
「そんなの夢がないー」
「現実なんてそんなもんだって」
軽い調子でそんな雑談を交わしながら廊下を歩く。風見も俺も夜の校舎に流石に慣れてきた。それでも、袖は握られていて、風見との距離も縮まったままだ。
校舎の中間点にある渡り廊下まで、くだらない話をしながら歩いた。暗がりにビクつかないし、無駄に立ち止まったりしなくなったが、それでも足取りは遅々としたもので、職員室からここまでの距離に結構な時間を掛けていた。しかしそのことに関して、悪いことだと思っていなかった。
いまさらだが、楽しくなってきたのかもしれない。
家に帰らなければ、とは思いはするものの、この肝試しをもう少し続けてもいいかもしれないと思い始めていた。
もしかしたら、風見がさっき残念がったのもこんな理由だったのかもしれない。怖いが、誰かと時間を共有していることに楽しみを見出していたのではないのかもしれない。
それでも、この肝試しはもうすぐ終わる。惜しいと思っているのは確かだ。しかし、反対に終わらせなければとも思っている。どっちつかずだが、中学生である以上、遅くまで家に帰らないという選択は非常に危うい。親、という体面を保つべき相手もいるわけであり、そして何より明日も学校があったりする。
そんな思考を巡らせながら、通り過ぎざまに渡り廊下へと目を向けた。薄暗いのは相変わらずだ。しかしその暗闇に一筋の光があった。
思わず、立ち止まってその光を凝視する。光は床を照らしていて、俺達がいる分岐点までは届いていない。光源は渡り廊下の向こう側の階段だ。
そして、その光はこちらへと近づいてきている。
「……どうしたの?」
不意に立ち止まった俺に風見が不思議そうに聞いてきた。答えず、光を見続ける。暗闇に唯一ある光を見失うことはない。光は階段を下りて俺達と同じ高さになる。床を相変わらず照らし続けているが、俺達を照らすまでそう時間はかからないはずだ。
「なに、あれ?」
風見が、光に気付いた。
次の瞬間、俺は風見の手を引いて、その場から走り出した。
「ど、どうしたの?」
俺の急な行動に戸惑いながらも、風見はしっかりついてくる。
「……隠れるぞ」
風見の問いに直接答えずに切羽詰まった声で言った俺は、すぐ近くにあった教室へと逃げ込む。あのまま走っても廊下の途中で光に見つかる可能性が捨てきれなかったためだ。
しかし教室に入っても、状況は変わりはしない。
教室内に隠れられる場所などない。あったとしても掃除用のロッカーだが、入れて一人が限界だ。
隠れられる場所を捜して見回した。しかし教室内を見回しても意味はない。そうこうしていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。
風見のでも俺のでもない、知らない誰かの、足音。
「……こっちだ」
廊下に声が聞こえないように小声で風見を誘導する。
音を立てないように慎重に、かつ迅速に窓を開ける。そして、窓枠によじ登り、窓の外に飛び降りた。ここは二階ではあるが、窓の外には転落防止用に一メートル幅くらいのベランダがついている。落ちないように気をつけながら、態勢を整えて、まだ教室内にいる風見に向き直る。
「こっち来い」
「な、なんで?」
「いいから!」
「わかったから、そんな声出さないで……」
俺の切羽詰まった声に、風見は怯えながらも俺の手を取ってベランダに飛び降りた。
「……しゃがんでろ」
窓を開けた時同様、細心の注意を払いながら閉めて、しゃがみ込む。
「ねえ、さっきの光って――」
「しっ!」
人差し指を口に立てて黙るように指示を出す。風見はそれで口をつぐんだが、泣きそうな顔していた。
しかし、今は気遣ってやる余裕などない。
俺は少しだけ顔を覗かして、教室内の様子をうかがう。すると、丁度光が教室の扉から入ってきた。慌ててしゃがみ直して、見つからないようにする。
『誰か、いるのか……?』
教室内からそんな声がした。歩き回る音もその声に伴って聞こえてくる。
俺は目を瞑って、ひたすら気付かれないことだけを祈った。
『……誰も、いない……か?』
教室内の足音が遠ざかって行く。
どうにか、乗りきった。
安堵して目を開けたのも、つかの間。俺の隣から押し殺したような泣き声が聞こえてきた。ぎょっとして風見を見ると、なぜかぼろぼろと涙をこぼしていた。
『……誰だ?』
風見の嗚咽に一度は遠ざかっていった気配が戻ってきた。今度はこちらへと寄ってきているのもわかった。
俺は慌てて風見の口を押さえる。しかし光が俺達のいる場所に向かってきている以上、このままここにいれば見つかる。窓から覗かれても見つからない場所に移動しなければならない。
音を立てないように、見つからないようにと注意を払って、ベランダ伝いに隣の教室の方に移動する。そこにある柱の陰に隠れられれば見つかることはない。風見を引きずるような形なってしまっているが、四の五の言っている場合ではなかった。
光が窓に来るより早く、どうにか移動することは出来た。しかし風見が泣きやんでいない。口をふさいでいる手に涙が伝っているのがわかる。とりあえず泣きやませたいところだが、ここで下手に声を出したりしたら、もう逃げ場はない。見つかるのは必至だ。
窓から光が漏れ出している。誰かが外にいないか窺っているようだ。冬だと言うのに身体が異常にほてり、汗が背中を伝う。光の動きを目で追いながら、祈った。
頼むから、気付かないでくれ、と。
光は教室を前後に何度か行き来して、
『気のせいか……?』
やがて、そんな呟きと共に光が窓から離れて行った。
光が去ってからも、二、三分その場を動かず様子をうかがってから、ようやく俺は肺にたまった空気を吐き出した。
「……あぶねぇ」
ほんの一分そこらの出来事だっただろうが、感覚的には十分以上経ったように思える。短いながらも極度の緊張感の開放で、疲労感もドッと押し寄せてくる。放心状態と言っても過言ではない。
しかし俺の精神的なダメージが酷かろうが、見つからなかったことが一番いい。あの光に捕捉されていたならば、今頃もっと酷いことになっているだろう。そう考えれば、今の疲労感など取るに足らないレベルだ。
「んーっ! んんー!」
「あ、すまん」
そういえば、風見の口をふさいだままだった。くぐもった声で抗議されてようやく気付き、手を離した。口をふさいで引きずるように動いたのは悪かった。
あの状況で風見に泣かれたのには肝を冷やしたが、泣くほどの状況だったとは言い難い気がする。どうして突然泣き始めたのかが理解できない。
もう泣きやんではいるが、鼻はすすっているし、目は真っ赤になっているし、端整に見えた顔立ちは涙でくしゃくしゃになって見る影もない。風見は何か口をするわけでなく、服の袖で顔を拭いているだけだ。
そんな様子を俺は何か言うわけでもなく、気まずく見ているだけだ。
「寒いな……」
そういうわけで、現実逃避をした。
ただの男子中学生でしかない俺は、女子が泣いた時に気のきいた一言が言えるモテ男とは違う。その場を取り繕って、空気を変えるスキルなどはない。
現状、気まずい空気だけが二人の間に流れている。しかしこのままとどまっているわけにもいかない。
意を決し、出来るだけ穏やかな声音で風見に話しかけた。
「……落ち着いたか?」
風見は首だけを縦に振って肯定。
「とりあえず、中に戻ろう」
出てきた窓を開けてよじ登る。そしてまだ外にいる風見に手を貸し、引き上げる。その間も風見は無言だ。俺も無言のまま窓を閉めて、鍵を掛けた。
「どうする? 帰るか?」
「……まだ、体育館が残ってる」
風見が消え入るような声だったが、ハッキリと意志表明した。こんなに弱っていると言うのに肝試しを続ける気だと告げてはいることに呆れる。それでも意思を貫くことは称賛に値するかもしれないと同時に思う。……向ける対象が少々、残念ではあるが。
意思をハッキリ告げられた以上無碍に扱うわけにもいかない。それに俺もここまできた以上、中途半端で終わるのは少々残念に思うところがある。
「じゃあ、行くか」
告げて歩き出す。
すると、風見は俺の袖ではなく、手を握った。
ひどく冷たい手だった。
さっきまで外にいたから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。もしかしたら、俺の手も似たように冷たいのかもしれない。
風見の温度に反して、手は汗ばんでいく。
緊張しているかと言えば、確かに緊張している。女子と手をつなぐ時なんて、体育祭のフォークダンスぐらいだ。そのときだって気恥ずかしいし、緊張する。出きれば早く手を話したいと願ったりする。
しかし今回は自分を落ち着かせて、手を離さないように自制する。
こうして手をつないで、風見が泣き顔から戻るのであれば気恥ずかしさなど耐えよう。
どうせなら、楽しくこの肝試しを終わらせたいと、そう思った。
「……もう、いないな」
教室から顔だけ廊下に突き出して、左右を確認する。体育館の七不思議を確認する以上は、見つからないように気にしなければならない。
「ねえ、さっきのって――」
俺が周囲の安全確認をしていると、風見がこんな言葉を口にした。
「――もしかして、幽霊?」
振り返って、風見の顔をまじまじと見る。なにかに怯えているようで、まだ赤い目が潤んでいる。つないでいる手からは小刻みに震えていることも伝わってくる。
俺はつないでいない手を額に手を当てて、盛大にため息をついた。そしてつないでいた手を離して、言った。
「おまえ、馬鹿だな。もう本ッ当に馬鹿だな」
「……え。なんで……」
馬鹿にされる理由がわからない、そんな様子で風見は目をしばたたかせた。しかしその反応が俺を更に呆れさせる。
「だって、さっきのって幽霊でしょ?」
俺が呆れてものも言えないでいると、風見は下から上目遣いに覗きこんで、もう一度、自信なさげに確認してきた。
「……幽霊でしょ?」
俺は盛大にため息をついてから、事実を言った。
「警備員だ……」
俺の言葉に風見が目を見開き驚いている。その驚きは幽霊じゃなかったことの驚きなのか、はたまた警備員がいたことによる驚きなのか……。俺の知る所ではないが、学校の深夜見回りを警備員がしているのはいたって普通の事だ。そんな警備員の存在はすっかり忘れていたが、廊下で光を見た時は肝を冷やした。もしも警備員の事を覚えていれば、ここまで無茶な肝試しはしなかっただろうし、廊下で楽しく雑談など交わしているはずもない。
それは風見も同じだったのだろう。でなければ、幽霊などと言うはずもない。
「今までよく出くわさなかったよ。マジで見つからなくてラッキーだった……」
「じゃあ、さっき必死で光から逃げたのは……?」
「見つかりたくなかったからな。言い訳しても意味ないだろうし、それ以前に不法侵入だし。補導されたらシャレならないし」
「幽霊に捕まるとかじゃなくて……?」
「だから、警備員だって言ってるだろ?」
「警備員の幽霊?」
「……なぜ幽霊にこだわる?」
どうやら、警備員のことを失念して怖がっていたわけでなく、幽霊が本当にいるかはさておき、本気で幽霊だと思っていたようだ。その事実に肩を落としながらも、ようやく勘違いに気付き、照れて真っ赤になっている風見に親しみが感じられて、なんとなく笑みがこぼれた。
風見は俺の笑いが癇に障ったのか肩を震わせて、両拳を握った。
「だって、だって、あんなに切羽詰まった感じで言われたら、よっぽど怖いものだと思うじゃないっ。それでわたし怖くて怖くて……!」
「馬鹿、大きい声を出すな……っ!」
大声を出した風見を慌てて止める。廊下にはいなかったがまだ警備員が近くにいるとしたら、今の声で戻ってくる可能性もある。
「とりあえず、移動するぞ」
まだ癇癪を起している風見は赤くなって俯いている。反応が返ってくるより早く風見の手を掴んで、その場を離れて体育館に向かった。途中、後ろの方で足音が聞こえた気もしたが、空耳だったかもしれない。
俺は体育館の扉を前にして立ち止まって、風見に顔を向けた。
「これで本当に最後な。これ以上は警備員に見つかりそうだし」
「うん、仕方ないね……」
「じゃあ、行くぞ」
体育館の扉を開け、中を覗く。全校集会をするだけあって、体育館は広い。バスケットコートが二面と、講演などをやるステージが備え付けられている。隅にはバスケットボールやバレーボールなどを詰めた鉄製のかごかが置かれている。
しかし、誰かがボールをついているわけでもないし、ボールが体育館に転がっていて跳ねた形跡があるわけでもない。
つまりは――
「何もなし。これでおしまいだな」
俺は風見の手を引いて、体育館に入って行く。部活でずっと足を踏み入れてきたところだが、人がまったくいない状況は初めてで新鮮味がある。そして同時に不気さを感じさせられた。
「……もう、終わりだね」
風見が残念げに言った。
「そうだな。だけどこれ以上は……な」
俺は壁の時計を見上げる。一一時三十分になろうかという時間だ。これ以上ここにいるのは学生としてよろしくない帰宅時間になってしまう。
時計を見上げていると、繋いでいた風見の手がするりと離れた。風見はステップを踏むような足取りで俺の前に立って、微笑を浮かべる。その仕草に少し、ドキリとしたのは内緒だ。
「ねえ、結局何もなかったね?」
「まあ、そんなもんだろ」
「そうなのかな? 七不思議って一体どうやって出来るんだろうね?」
「さあな」
自身の火照りを感じて、俺は風見から離れてバスケットボールが収まっているかごに近寄った。顔が赤くなっているのは風見に気付かれなかったと信じたい。
バスケットボールを手に取り、人差し指の上で回す。
「すごいね。そんなことできるんだ」
「バスケ部なら大体が出来るもんだけどな」
中学三年の夏に引退してから、半年。たまに顔を出したりはしていたが、ここ最近は受験で忙しかったから。久しくボールには触っていなかった。
ボールの回転を止めて、フリースローのラインに立つ。二、三回ボールを地面に着いてから、シュート。ボールは一直線にゴールに向かっていき――ガン、と音を立ててリングに当たった。
「はっずれー」
風見が楽しげにいったのが、なんとなくムカついた。
「現役だったら、はずさないけど……」
言い訳めいた事を言いながらボールを拾って、元通りかごの中に戻した。
「じゃあ、帰るか」
「そうだね」
風見は笑って、頷いた。
俺達は入った時とは違う場所から学校を出た。体育館には、非常用の通路があり、そこはちょっとした細工をすると外からも鍵がかけられるのだ。鍵がかかってなかったところから入ったとしても、また鍵を掛けずに出ていくのはいただけない。そういうわけで、そこを使って出たのだ。
そうして、いま校門に向かって二人並んで歩いている。体育館だとぐるりと校舎を回らないといけない為、校門まではそれなりに時間がかかる。
「それにしても、隠れた時なんでいきなり泣いたんだ?」
ふと、気になって風見に聞いてみた。あれがなければ、俺も緊張することもなかったし、風見に気を使って、手をつないだりすることはなかったはずだ。
「……いいでしょ、別に!」
風見は俺の素朴な疑問に顔をそむけて、すねた口調で答えた。
その仕草とさっきのやり取りで、俺は気づく。
「あー、そういや、怖かったとか言ってたもんな。あれか、怖くて泣いたのか」
「わざわざ言わなくてもいいでしょ!」
「怒んなよ。つか、お前さ。俺がいなかったら、今頃学校の中で泣いてて警備員に見つかってそうだよな」
「うっさい!」
ここぞとばかりにからかっていると、風見にひじ打ちをされた。それなりにいたかったが、顔を真っ赤にして照れている風見に免じて許してやることにする。
「ったく。いてえって」
「あんたが悪いの」
「そーかい、そりゃあ悪かったな」
二人して軽口を叩きながら、笑い合う。この短い時間に風見との随分と距離が縮まったと思う。最初は俺も乗り気ではなかったというのに。連帯感的な感情がうまれているのかもしれない。
「……にしても、寒いな」
校舎の中はそれほど寒くなかったが、やはり外は寒い。マフラーをしている風見がうらやましく思える。首をすくめて出来る限り、コートとの間に隙間を無くそうとしたが、マフラーほどの効果は得られていない。
「ふっふーん。わたしはマフラーあるもんねー」
「なんか……ムカつくな」
そうこうしているうちに、校門にたどりついた。さっさと乗り越えて、学校の敷地外へと出る。風見もそれにつづいて、肝試しはこれで完全に終わった。そう思うとはしゃいだ後によく感じる寂しさのようなものが込み上げてきた。やはり俺はこの肝試しに楽しみを見出していたのだと改めて気付かされた。
「じゃあ、帰るか。お前、家どっち?」
「向こう」
風見が指差した方向は俺の家とは逆方向だ。
「送ろうか?」
「すぐそこだから、送ってくれなくてもいいよ」
「そうか……」
二人して、黙りこむ。何を話していいものかわからない。さっさと帰ればいいものを、この場から離れるのがなんとなく残念に思えた。しかしこうしているうちにも時間は進んでいる。このままぐだぐだしていても意味はない。
俺は思いを断ち切って、片手をあげていった。
「んじゃ、またな」
口をついて出たとは言え、『またな』などと会う機会を求めている自分が少し不思議だった。
そんな事を思いながら、踵を返して家路を目指そうとしたところで、フードを掴まれた。似たようなことをこの場でやったような気がする。
俺は振り返って風見をジト目で見て言った。
「……何だよ?」
「ん、ちょっと」
風見は俯きながらもじもじしている。帰ろうとしたところを引きとめられたと言うのに、なにもないとそれはそれで気になる。
「どうした?」
「コレ、あげる」
ぶつ切りのように風見は言って、俺の首に何かをまきつけてきた。それは風見が今までしていた、マフラー。
「おい、コレ」
「無理やり付き合わせたお礼! じゃあね!」
風見は顔真っ赤にして、それだけを早口で言って走り去っていった。俺はその後ろ姿を見ながら、茫然と立ち尽くす。
「……どうするか」
マフラーのおかげで寒くはなくなったが、無理やり押し付けられたも同然の代物だ。それに俺も家に帰れば自分のマフラーがある。返したいところだが、当の持ち主はもうどっかに行ってしまった。
「……あったけぇー」
とりあえず今はこの暖かさに感謝して、家に帰ることにした。
どうせ同じ学校の後輩だ。明日、学校に行った時にでも返してやればいい。
そうして、家に着いたのは一二時を少し過ぎた頃だった。玄関に仁王立ちして、小遣いなしを宣言したおふくろが、今日一番の肝を冷やした出来事となったのは余談だ。
次の日、いつも通りにある学校にあくびを噛み殺しながら登校した俺を待ち受けていたのは、先生が話した学校の七不思議だった。
七不思議は昨日調べたものと同じだった。それを昨日の夜に警備員が七不思議を経験した、と言う。
そんな話を俺以外の生徒は話半分で面白がりながら、耳を傾けていた。しかし、俺は面白がるどころではなかった。なんせ、警備員が七不思議と勘違いするような原因を作ったのは、昨日学校に忍び込んだ風見と俺だからだ。今にして思えば、俺達は七不思議を調べると同時に、七不思議を俺達が起こしていたことになる。ピアノの音とか、すすり泣きだとか、俺達が姿を見られなかった以上、警備員からしたら、誰もいないのに起こる怪現象に思えたに違いない。
ホームルームが終わってから、俺はすぐに風見に会いに行くことにした。もしも風見が昨日の事を友達に報告しているのだとしたら、警備員が体験したと言う七不思議が俺達のせいだとバレてしまう。そうなれば、説教は確実だ。受験前の俺としては、そんなことで内申に響かせたくない。
そうならないためにも、二年一組のバスケ部の後輩にでも頼んで風見を呼び出して口止めをすればいい。ついでに昨日押し付けられたマフラーも返せば、用事もすまされる。そう考えてマフラーを学ランの下に仕込んで、俺は足早に教室を出た。
「ちょっと、いいか?」
二年一組についた俺は予定通り、後輩にを捕まえた。後輩は唐突に引退したはずの先輩に声をかけられて目を白黒させていたもののすぐに対応する。
「何スか?」
「ちょっと、人を呼んでくれ」
「いいッスよ。誰を呼べばいいッスか?」
「風見由希ってやつ」
俺は後輩がそのまま教室に戻っていくのだろうと見ていたが、後輩は戸惑ったようにその場に立ったままだ。その様子に疑問を持ちながらも、聞こえなかったかもしれないと思いもう一度、風見の名前を告げた。
「風見由希ってやつを呼んで来てくれ」
今度はハッキリ聞こえるように言ったつもりだった。それでも後輩は戸惑った表情浮かべている。
「……どうした?」
「え、いや、いないッスけど」
「いない?」
もしかして、昨日遅くまで外にいたせいで風邪をひいて学校やすんでいるのかもしれない。そうだとしたら、笑い話だ。
しかし俺の想像とは全く違う言葉を後輩は口にした。
「ウチのクラスに風見由希なんて生徒はいないッス」
「……え?」
「先輩、名前間違えてないッスか?」
「いや、待て。クラスが違うのか?」
「……二年に風見なんて人はいないッスよ」
俺はハンマーで頭を殴られたような、衝撃を味わった。確かに昨日、風見は二年一組といったし、この中学の人間だとも言っていた。
嘘だったのか。
もしも嘘だったとしても、不思議はないかもしれない。なんせ俺が風見をこの学校の後輩だと知る情報はあくまで、あいつの言葉だけだ。
「どうしたんスか?」
「あ、いや……」
いぶかしむ後輩に答えあぐねていると、一時間目の予鈴が鳴った。
「俺の思い違いだった。じゃあ、授業に遅れるから、もういいよ。手間とらせて悪かったな」
相手の返答を待たずに俺は足早にその場を離れた。
教室に戻るさなか、後輩が言った言葉について考える。後輩が言っていることが本当だとしたら、風見は昨日嘘をついていたことになる。
しかしそれはどうも違う気がした。
風見は校舎内を歩いている時、どこに何があるか知っているように見えた。鍵が開いているところ見つけるときだって。普段使われている教室の方を目指していた。それはどこの鍵を掛け忘れているかどうか、可能性が高い方を知っていたことと一緒だ。
では風見が名前を偽った可能性もある。
俺はそう結論をつけて、昼休みに校舎をぐるりと回って風見らしき人物がいないか確かめることにした。
しかし放課後になっても、状況に変化はなかった。昼休みの学校めぐりは徒労に終わったし、途中、何人かに聞き込みをしてみても意味はなかった。
「もしかして、幽霊だったりしてな……」
「幽霊? 櫻井、お前まで七不思議がどうとかいうのか?」
俺は机に突っ伏しながら自嘲気味の呟きに、まだ教室内に残っていた担任が反応に、もしかしたら教師なら分かるかもしれないと、捨て鉢ながらも聞いてみた。
「先生は、風見 由希って知ってますか?」
「ん、なんだ? アイドルとかだったら分からないぞ。疎いからな」
「いえ、そうじゃなくってこの学校の生徒の話です」
「だったら、知ってるぞ。ちょっと待ってろ」
そう言って先生は教室を出て行った。その後ろ姿を見送って、俺は笑った。
「やっぱ、いるじゃん」
しかし、数分後に担任の持ってきたものと話を聞いて、笑い話にはちょっと重い内容だと知ったのだった。
担任が持ってきたものはクラス写真だった。それだけであれば、いたって普通のものだ。……それと一緒に担任がした話がなければ、だが。
担任が言うには、そのクラス写真は三年前に受け持っていたクラスのものらしい。そのクラス写真を担任が指し示した場所には確かに風見がいた。
それを確認した俺は風見が実在したことに喜んでいると、担任は写真を見ながら言った。
「でもな、こいつ事故で死んだんだよ。この写真撮った、ちょっと後に」
「……は?」
「丁度、あのときもクラスで七不思議がどうとか騒いでたな。何年か一度あるのかもな、七不思議で騒ぐこと」
担任は昔を懐かしむような口ぶりで言っていたが、そんなことはどうでもいい。
「死んだって、本当ですか?」
「ああ。というか、なんでお前、風見の事知ってんだ?」
「いえ、あの、ちょっと聞いて、それで――」
風見を知った経緯を話すわけにはいかない。昨日会ったなどと言っても意味はないだろうから、適当にごまかして俺は教室を出た。
帰り道、ゆっくりとした足取りで俺は家を目指していた。手には昨日受けと他マフラーを握りしめている。
誰かが、風見由希の名を騙ったと言うことは、たぶんないだろう。あのクラス写真に写っていたのは紛れもなく、昨日俺が見た風見由希その人だからだ。
仮に昨日の風見が本物だったそうだとすると、だ。
俺は昨日の夜、死んだはずの人間と肝試しをして、警備員に七不思議体験をさせ、お礼にマフラーを受け取ったことになる。
つまりは、幽霊と一緒に幽霊探しをしていたというわけだ。
よくよく考えれば、おかしな話だ。なぜなら昨日の風見の怖がりようは、本物だったのだ。幽霊が幽霊を怖がって、泣いて、笑って……。
俺は幽霊なんて存在は信じていない。……しかし、もし本当に幽霊がいて、それでいて昨日の風見みたいなものだったら。それはきっと面白いことに違いない。
昨日の事を知るのは俺だけだ。このマフラーは俺が風見に由希に会った、その証拠なのだ。
「また、会えたら面白いかもな」
マフラーを握り締めて、口元をゆるめて、そっと呟いた。
初めて、書きあげた小説です。
いろいろといたない点があると思いますが、よろしくおねがいします。