ミャーズ伯爵は悩みが尽きない
私は、とある王国のミャーズ伯爵。
伯爵領での仕事をひと通り済ませ、妻と共に王都の邸宅へ戻る馬車に揺られていた。
「特産のカムシュ酒の売り上げが、もう少し伸びないかなぁ」
向かいの席に座る妻に、つい愚痴をこぼす。
「あのお酒は、匂いが独特ですから。ワタクシはもう慣れましたけど、やはり万人受けは難しいと思いますよ。ワタクシは慣れましたけど」
「匂いかぁ。香りと言ってほしいなぁ。独特の香りと」
妻はカムシュ酒独特の香りを「慣れた」と言うが、どうにも納得してくれていないようだ。
本当に慣れてしまえば、癖になる香りなのに。
「そもそも味は普通ですからね。特別においしいわけでもなく、普通。それでしたら、ワタクシは香りの良い果実酒を選びますわ」
「普通を二回言わなくてもいいだろう」
「大事なことですから」
どうやら妻にカムシュ酒の良さを理解してもらうには、まだ時間がかかりそうだ。
カムシュという穀物から造られるカムシュ酒は、果実酒と違って原料を安定して確保できる。領内でまとまった量を生産できるようになったのも大きい。
伯爵となってから、ようやく軌道に乗せることのできた事業だ。
何としても上手くいってほしい。
「それより、デール川上流の橋の件。よろしく頼みましたわよ」
「あぁ、分かっている。王都で資材の手配について確認してみる」
「それから、東の村の水路ですけれど――」
「あれは先に現地を見た方がいいな」
そんなふうに領地のあれこれを話しているうちに、馬車は王都の邸宅へ到着した。
門をくぐると、使用人たちが屋敷の入口にきれいに並び、私たちを出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、旦那様。奥様」
先頭に立っていた家令のマークスが一礼する。
「あぁ。ただいま。留守の間、変わりはなかったか?」
「まずは中へどうぞ。長旅でお疲れでしょう」
マークスに促され、屋敷へ入る。
領地と王都を行き来する生活にも慣れたつもりだが、やはり自宅へ戻るとほっとする。
「領地の方はいかがでしたか?」
「変わりなく、だな。西方へ送る援軍の準備も滞りなく進んでいる。あとはいくつか王都で話をつければ問題ないだろう」
「それは何よりでございます」
「こちらはどうだった?」
私が尋ねると、マークスは一瞬だけ言葉を止めた。
長年仕えている家令だ。
そのわずかな間だけで、ろくでもない報告があるのだと分かってしまう。
「こちらも万事つつがなく、と申し上げたいところなのですが……」
「何かあったのか?」
「はい」
マークスは少し言いにくそうに視線を伏せた。
「ヒュウ様のことでございます」
ヒュウ・ミャーズ。
我がミャーズ伯爵家の長男であり、将来は家督を譲るつもりでいる自慢の息子だ。
王都の学園では上位の成績を収め、卒業後は王都騎士団へ所属している。半年前にはダイータ伯爵家の令嬢との婚約も決まり、本人の将来については何も心配していなかった。
少なくとも、この時までは。
「ヒュウがどうした?」
「それが……先日の、フキューカ侯爵家で催された夜会なのですが」
その名を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
「まさか、何か失礼でもしたのか?」
マークスは少し迷ったあと、観念したように答えた。
「ヒュウ様は、その夜会に参加されなかったようなのです」
「……何?」
思わず聞き返した。
フキューカ侯爵家は、代々ミャーズ家が属してきた派閥の盟主である。
今回の夜会は、間もなく侯爵位を継ぐ予定のハクァン様が主催し、派閥の次代を担う家々の若者を集めたものだった。
表向きはただの交流の場。
だが、伯爵家の当主である私にとっては、決して「ただの夜会」ではない。
「騎士団から急な招集でもあったのか?」
「いえ。それが――」
マークスは言いにくそうに視線を落とした。
「夜会の当日、トジオ男爵令嬢が倒れられたとの使いがございまして、ヒュウ様はそちらへお見舞いに向かわれました」
「トジオ男爵令嬢……オウリコ嬢か?」
「はい」
トジオ男爵領は我が領と隣接しており、昔から家同士の付き合いがある。
オウリコ・トジオ嬢――たしかヒュウとは幼い頃から親しくしていたはずだ。昔から身体の弱い娘だったと記憶している。
「それで、令嬢は無事なのか?」
「はい。幸い、命に関わるようなことではなかったようでございます」
「そうか。それはよかった」
「あなた」
横から妻の声が飛んできた。
「病人が無事だったことは喜ばしいことです。ですが、今はヒュウの行動について考えるべきでしょう」
「ああ。分かっている」
「そもそも倒れた人がいるのなら、呼ぶべきは医者でしょう。なぜ騎士であるヒュウなのです?」
「……それもそうだな」
「あの子は昔から、頼られると放っておけないところがありますから。そこにつけ込まれていなければよいのですけれど」
妻はそう言ってから、マークスを見る。
「それで、ダイータ伯爵令嬢は?」
「お一人で夜会へ参加されたそうでございます」
「……一人で?」
思わず聞き返した。
ダイータ伯爵家は、まだフキューカ侯爵派へ正式に加わってはいない。
だからこそ今回、ヒュウとユフィール・ダイータ嬢が揃って参加することには意味があった。
派閥の盟主であるフキューカ侯爵家と、新たに加わろうとしているダイータ伯爵家。その間を、我がミャーズ家が取り持つ。
その顔合わせでもあったのだ。
それを――。
「……あの馬鹿息子」
「ワタクシは旅装を解いてまいります。ヒュウが戻りましたら、きちんと事情を聞いてくださいませ」
「ああ。そのつもりだ」
「お願いしますわ」
妻が私室へ向かうのを見送ってから、私はマークスに向き直った。
「明日、フキューカ侯爵家へ伺う。ダイータ伯爵家にも謝罪の意を伝えてくれ。まずはこちらで事情を確認したいとな」
「かしこまりました」
「それと、ヒュウが戻ったら私のところへ来るように」
「承知いたしました」
まったく。
カムシュ酒の売り上げを心配していた頃が、ずいぶん平和に思えてきた。
◇
「父上、お帰りなさいませ。領地の方はどうでしたか?」
夕刻になり、騎士団での勤めを終えたヒュウが帰宅した。
妻譲りの端正な顔立ちに、王都騎士団で鍛えられた体躯。学園では上位の成績を収め、半年前には同格であるダイータ伯爵家の令嬢との婚約も決まった。
順風満帆。
将来を約束された、自慢の息子だ。
――そう思っていた。
「ヒュウ。座れ」
「はい?」
「いいから座れ」
何かを察したのか、ヒュウは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「先日のフキューカ侯爵家の夜会。なぜ欠席した?」
「え? いきなりどうしたんですか、父上」
「答えろ」
「ああ、あの夜会ですか」
あの夜会。
その言い方だけで、嫌な予感が強くなった。
「あの晩はリコが体調を崩しまして。その見舞いというか、看病をしていました」
「リコ?」
「オウリコ・トジオ嬢ですよ。父上もご存じでしょう?」
「ああ。トジオ男爵令嬢だな」
知っている。
「それで、令嬢は?」
「最近は少し体調を崩しがちですが、大したことはありませんよ。命に関わるような病気ではありません」
「……そうか」
一安心した。
そして同時に、頭が痛くなってきた。
「マークスから聞いた話では、令嬢が倒れたと使いが来て、お前は夜会を欠席してまで見舞いに向かったそうだな」
「ええ」
「なぜだ?」
ヒュウは不思議そうな顔をした。
「なぜ、と言われましても。幼なじみが倒れたのですから、見舞いに行くのは当然でしょう?」
「フキューカ侯爵家の夜会を欠席してまでか?」
「侯爵家主催とはいえ、若い者同士の夜会でしょう?」
「……何?」
「リコが体調を崩しているのに、夜会を優先するのもどうかと思いまして」
なるほど。
こいつは何も分かっていない。
「ヒュウ。あの夜会を誰が主催したか分かっているのか?」
「ハクァン様でしょう?」
「分かっているではないか」
「ええ。ですが、次期侯爵とはいえ、今回は派閥の公式行事ではありません」
知識としては理解している。
学園で上位の成績だったのだ。当然、その程度のことは分かっている。
だが、その意味を理解していない。
「私はお前に、婚約者であるユフィール嬢と二人で参加するようにと言ったな?」
「はい」
「その意味を考えなかったのか?」
「心配されなくても、ユフィール嬢とはきちんと結婚するつもりですよ」
「…………」
何の話をしている。
「私は、お前が誰と結婚するつもりかを聞いているのではない」
「ですが、父上が気にされているのは、リコとのことなのでしょう?」
「違う」
思わず即答した。
いや、妻ならそこも気にしているだろうが。
「お前がトジオ男爵令嬢とどういう関係かは、今はどうでもいい。私が聞いているのは、なぜ婚約者を一人で夜会へ参加させたのかということだ」
「ユフィール嬢なら一人でも問題ありませんよ。しっかりした方ですし」
悪びれもせずに言う。
「それに、これまでにも似たようなことは何度かありましたが、ユフィール嬢は分かってくれています」
「……何度か?」
「ええ」
ヒュウは軽く頷いた。
「リコは昔から身体が弱いですから。急に具合を悪くすることもあります。その時はユフィール嬢との予定を変更することもありましたが、後で説明すれば許してくれました」
許してくれた。
その言葉が、妙に引っかかった。
「そもそもだな。体調を崩した令嬢のところへ、お前が行って何になる。お前は騎士だ。医者ではないだろう」
「確かに治療はできません」
「なら――」
「ですが、リコは私を必要としていました」
ヒュウは真面目な顔で言った。
ふざけているわけではない。
本気なのだ。
「少なくとも、私がそばにいることで安心できるのなら、それでいいではありませんか。ユフィール嬢なら、そのくらいのことは理解してくれます」
私はしばらく息子の顔を見つめた。
頭が悪いわけではない。
人の気持ちがまるで分からない男だとも思っていなかった。
むしろ優しい男だと思って育ててきた。
だが――。
何かが決定的に抜け落ちている。
自分が誰の息子で、誰の婚約者で、自分の行動が誰にどんな影響を与えるのか。
それを考える習慣がないのだ。
「……分かった」
「父上?」
「今日はもういい」
ヒュウがほっとしたような顔をした。
その顔を見て、また頭が痛くなった。
「明日も騎士団の務めはいつも通り果たせ」
「はい」
「今回の件と、お前が騎士であることは別だ。私生活で問題を起こしたからといって、職務までおろそかにしていい理由にはならん」
「……私は別に問題などー」
「フキューカ侯爵家とダイータ伯爵家には、私から話をする」
「父上がそこまでされなくても――」
「する必要があるかどうかは、私が決める」
ヒュウが口を閉じた。
「お前は明日、騎士として自分の務めを果たせ。それ以外のことは、私が戻ってから改めて話す」
「……分かりました」
不満そうではあったが、ヒュウは頭を下げて部屋を出ていった。
一人になったところで、大きく息を吐く。
昨日まで、ヒュウがミャーズ家を継ぐことを疑ったことなど一度もなかった。
今回の件も、少し厳しく叱れば済む。
そう思っていた。
だが、どうにも胸騒ぎがする。
明日、侯爵家へ行けば分かるだろう。
今回のことが、単なる若者の失敗で済む話なのか。
それとも――。
私は机の上に置いてあったカムシュ酒の瓶へ手を伸ばしかけ、やめた。
今日は、あまり旨く飲めそうになかった。
翌日、私は王都にあるフキューカ侯爵邸を訪れた。
昨日ヒュウに話した通り、息子の不始末を理由に騎士団の勤めを休ませるような真似はさせていない。今頃はいつも通り勤務しているはずだ。
こちらはこちらで、伯爵家当主としてやるべきことがある。
まず通されたのは、フキューカ侯爵閣下の執務室だった。
「西方へ送る兵と物資については、予定通り準備できそうです」
「うむ。ご苦労だった」
閣下は今年で六十をとうに越えている。
以前よりも随分と白いものが増えた頭髪を撫でながら、私が差し出した報告書へ目を通していた。
西方ではここ数年、国境を巡る小競り合いが続いている。
今すぐ国の存亡に関わるほどではないが、だからといって兵を送らずに済むほど平穏でもない。
「予定していた兵数に変更はないか?」
「ありません。補給物資についても、今月中には送り出せます」
「そうか」
侯爵閣下は満足そうに頷くと、報告書を机へ置いた。
「こうしてお前から報告を受けるのも、これが最後になるかもしれんな」
「最後、と申しますと?」
「今年中にはハクァンへ家督を譲る」
「……いよいよですか」
「もう十分働いた。次からこういう報告は、あれにしてやってくれ」
口では面倒そうに言っているが、どこか嬉しそうでもある。
「承知いたしました」
「ミャーズ」
「はい」
「若い連中というのは、親の知らぬところで勝手に育つものだ」
唐突な言葉だった。
「はあ」
「逆もあるがな」
「……何かございましたか?」
「夜会の話なら、妻に聞け」
侯爵閣下はそれ以上何も言わず、手元の別の書類へ視線を落とした。
どうやら、これで話は終わりらしい。
嫌な予感しかしない。
案内された別室には、フキューカ侯爵夫人が待っていた。
夫人は侯爵閣下より幾分若いが、それでも五十代の半ばは過ぎているはずだ。
銀の混じり始めた淡い金髪を上品にまとめ、年齢を感じさせながらも背筋はぴんと伸びている。
昔から社交界では顔の広い方で、我が家とダイータ伯爵家の婚約を取り持ったのも、この夫人だった。
そして、その隣。
「ミャーズ伯爵閣下。お久しぶりでございます」
ユフィール・ダイータ伯爵令嬢が立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「ユフィール嬢……?」
今日、このあとダイータ伯爵家にも伺うつもりだった。
まさかここで本人と顔を合わせるとは思わなかった。
「あら、ミャーズ伯爵。そんな顔をなさらないで」
侯爵夫人が楽しそうに笑う。
「こちらから呼んだのよ。その方が話が早いでしょう?」
「なるほど……」
「ところで、カムシュ酒のお土産は?」
「ございますとも。後ほど届けさせます」
「まあ。それは主人が喜ぶわ」
「夫人は?」
「ワタクシは結構よ」
「……左様ですか」
昨日からカムシュ酒に対する風当たりが強い気がする。
いや、今日はそんな話をしている場合ではない。
私は改めて二人へ向き直った。
「この度は、愚息ヒュウが大変な失礼をいたしました」
深く頭を下げる。
「ハクァン様が主催された夜会を欠席し、さらには婚約者であるユフィール嬢をお一人で参加させたと聞いております。父として、またミャーズ伯爵家当主としてお詫び申し上げます」
「お顔を上げてください、伯爵閣下」
ユフィール嬢の声は静かだった。
怒っている様子はない。
それが逆に恐ろしい。
「今回のことだけでしたら、ワタクシもここまでのお話をするつもりはございませんでした」
「……今回だけではない?」
「はい」
昨日、ヒュウが口にしていた言葉を思い出す。
これまでも何度か同じようなことがあった。
だが、ユフィール嬢は許してくれていた、と。
「ヒュウ様がトジオ男爵令嬢を優先されたのは、今回が初めてではございません」
「……やはり、そうでしたか」
「観劇の約束を取りやめられたこともございます。お茶会へいらっしゃらなかったことも。トジオ男爵令嬢がお加減を悪くされたと聞けば、ヒュウ様はそちらを優先されました」
「その度に?」
「はい」
思わず額に手を当てた。
ヒュウ。
お前は昨日、それをなぜもっと軽い話のように言えたのだ。
「もちろん、トジオ男爵令嬢がお身体を悪くされているのであれば、お見舞いに行くなとは申しません」
ユフィール嬢は淡々と続けた。
「ですが、その度にワタクシとの約束は後回しになりました」
「今回の夜会については、いつ欠席すると?」
「当日です」
「……当日?」
「支度を終える頃に、ヒュウ様からの使いが参りました。トジオ男爵令嬢がお倒れになったので、お見舞いへ向かう。夜会には出席できない、と」
私は目を閉じた。
昨日、もう少し詳しく聞いておけばよかった。
いや。
聞かなかった私が悪い。
「それでもユフィールは、一人で夜会へ来たわ」
ここで侯爵夫人が口を開いた。
「慣れない場所で、しかも本来一緒に来るはずだった婚約者は不在。本人は何も悪くないのに、周囲から事情を尋ねられる」
「……はい」
「それでも、この子は最後まできちんと振る舞いました」
夫人がユフィール嬢を見る。
その目には、少しだけ誇らしげな色があった。
「ハクァンにも挨拶をし、他家の子女とも交流し、ダイータ伯爵家が今後こちらへ加わる意思があることも、きちんと示してくれたわ」
「それは……」
我が息子が放り出した役目を、婚約者が一人で果たしたらしい。
喜んでいいものか。
いや、喜んでいる場合ではない。
「おかげで夜会では、随分と注目を集めたようですよ」
ユフィール嬢が少し困ったように笑った。
「ワタクシとしては、そのようなつもりはなかったのですが」
「当然よ」
夫人は言う。
「婚約者に一人で放り出された令嬢が、それでも健気に役目を果たしているのですもの。皆、あなたに同情するわ」
胸が痛い。
「……ヒュウについては?」
「評判が良かったと思う?」
「いえ」
聞いた私が馬鹿だった。
「『またトジオ男爵令嬢か』という声もあったわね」
「……また?」
思わず顔を上げる。
「社交界というものは、あなたが思っているより口が軽いのよ、ミャーズ伯爵」
「肝に銘じます」
どうやら、息子が思っていた以上に有名な話だったらしい。
知らなかったのは父親である私くらいなのではないか。
頭が痛くなってきた。
「ミャーズ伯爵閣下」
ユフィール嬢が真っ直ぐこちらを見た。
「ヒュウ様は、お優しい方だと思います」
意外な言葉だった。
「困っている人を放っておけない。そのこと自体を、ワタクシは悪いことだとは思っておりません」
「ーはい」
「ですが」
静かに遮られる。
「ヒュウ様は、ワタクシなら我慢してくれると思っていらっしゃいます」
昨日のヒュウの言葉が頭に蘇る。
――ユフィール嬢は分かってくれています。
違ったのだ。
分かってくれていたのではない。
この令嬢が、我慢していた。
「今後、夫婦になったとしても、それが変わるとは思えません」
ユフィール嬢は一度息を吸った。
「ですので、ヒュウ様との婚約を解消させていただきたく存じます」
覚悟はしていた。
昨夜の時点で、その可能性くらいは考えていた。
それでも実際に本人の口から聞くと、重い。
「……ユフィール嬢」
「はい」
「今回のことについて、あなたに非があるとは思っていない」
それだけは、はっきりと言っておかなければならない。
「むしろ、これまでよく我慢してくれた。息子がすまなかった」
私は頭を下げた。
「婚約解消について、ミャーズ家から異論はない。ダイータ伯爵には、改めて私から直接謝罪に伺おう」
「ありがとうございます」
ユフィール嬢も深く頭を下げた。
これで一つ、話は終わった。
そう思った。
「それと、ミャーズ伯爵」
侯爵夫人が口を開く。
まだあるのか。
「ヒュウ君を、今後もミャーズ伯爵家の後継とするおつもり?」
今度こそ、言葉に詰まった。
「……それは、我が家の問題では?」
「ええ。もちろん」
夫人は穏やかに頷く。
「最終的に決めるのは、あなたよ」
「では――」
「でも、こちらにも関係がないとは言えないわ」
その声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「あなたの家は、代々フキューカ侯爵家と共に歩んできた。次代のミャーズ伯爵になるということは、次代のハクァンを支える立場になるということでもあるでしょう?」
「……はい」
「その人物が、ハクァンの開いた夜会を『ただの若者の集まり』程度にしか考えていないのなら、少々困るの」
昨日のヒュウの言葉を、そのまま聞かされたような気分だった。
「本人から、そのような話を?」
「いいえ」
「……そうですか」
つまり、外から見てもそう見えるということか。
それは本人に言われるより堪える。
「ヒュウ君は優秀なのでしょう?」
「親の欲目を差し引いても、学園での成績は良かったと思います。騎士としても、今のところ問題を起こしたとは聞いておりません」
「ならば、なおさら考えた方がいいわね」
「なおさら?」
「知らないのなら教えればいい。でも、知っていて重要だと思っていないのであれば、話は別でしょう?」
返す言葉がなかった。
まさに昨日、私が感じたことだった。
頭が悪いわけではない。
派閥の存在を知らないわけでもない。
自分が伯爵家の後継であることも理解している。
ただ、その意味を重く考えていない。
「ワタクシから、後継を替えろなどと言うつもりはないわ」
夫人はそう前置きした。
「でも、一度考えてみなさい。ヒュウ君は、本当に今のままでミャーズ伯爵家を背負えるのか」
「……お言葉、痛み入ります」
痛い。
本当に痛い。
私はもう一度、ユフィール嬢へ向き直った。
「ユフィール嬢」
「はい」
「今回の件、本当に申し訳なかった」
「伯爵閣下が謝られることでは――」
「いや」
首を振る。
「息子のことを分かっているつもりだった。自慢の息子だからと、私自身が甘く見ていたのかもしれない」
父親として、息子の行動すべてを把握できるはずもない。
だが、次代の伯爵として育ててきた以上、これは私にも責任がある。
「ダイータ伯爵にも、改めて謝罪する。この婚約については、あなたの望む形で解消しよう」
「ありがとうございます」
ユフィール嬢は静かに頭を下げた。
私も頭を下げ返す。
侯爵邸を訪れる前までは、夜会を欠席した息子の失態を謝り、あとは本人に厳しく言い聞かせれば済むと思っていた。
どうやら私は、随分と甘く考えていたらしい。
婚約者を失った。
それだけではない。
ミャーズ伯爵家の後継として、ヒュウをどうするのか。
今度は私自身が、答えを出さなければならなくなった。
侯爵夫人との話を終え、私はユフィール嬢と共に部屋を出た。
「ユフィール嬢」
「はい」
呼び止めると、彼女は足を止めて振り返った。
「もう一度だけ聞いてもよいか」
「なんでしょう」
「ヒュウとの婚約についてだ。……本当に、気持ちは変わらないのだな?」
我ながら未練がましい問いだと思う。
だが、父親として最後に確かめておきたかった。
ユフィール嬢は、少しも迷わなかった。
「はい」
それだけだった。
恨み言もなければ、怒りもない。
だからこそ、彼女の意志が固いことがよく分かった。
「……分かった。引き留めてすまなかった」
「いいえ」
「これまで、ヒュウに付き合ってくれてありがとう」
彼女は一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、静かに頭を下げた。
「こちらこそ、お世話になりました」
その言葉を最後に、私たちは別れた。
もう、この娘をミャーズ家の嫁として迎えることはないのだろう。
残念ではある。
だが、それを決めたのはヒュウだ。
本人にその自覚があるかどうかは、甚だ怪しいが。
◇
その足で、私はダイータ伯爵邸へ向かった。
もともと今日はこちらにも伺うつもりだったので、先触れは出してある。
ダイータ伯爵は、応接室で私を待っていた。
「ミャーズ伯爵。娘とは会われましたかな」
「はい。フキューカ侯爵邸で」
「そうですか」
それだけで、お互いに何の話をするのかは分かっていた。
私は席に着く前に頭を下げる。
「この度は、息子がユフィール嬢に大変な失礼をいたしました」
「お顔を上げてください」
「いや。まず謝らせていただきたい」
今回の夜会について。
そして先ほどユフィール嬢本人から聞いた、それ以前の話について。
私の知る限りを包み隠さず伝えた。
ダイータ伯爵は途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。
「……なるほど」
やがて、深く息を吐く。
「娘から聞いていた話と、ほぼ同じですな」
「ユフィール嬢からは、婚約を解消したいとの申し出を受けました」
「そうでしょう」
「私は受け入れるつもりです」
ダイータ伯爵は私を見た。
「よろしいのですかな?」
「よろしいも何もありません。今回の婚約解消については、ヒュウに責があります」
そこだけは曖昧にしたくなかった。
「ユフィール嬢に非はありません。我が家としても、その前提で婚約解消の手続きを進めます」
「……承知しました」
「必要な手続きや両家の間で清算すべきものについても、こちらで責任を持ちます」
ダイータ伯爵が静かに頷いた。
「正直に申し上げれば、私も娘の意向を尊重するつもりでした。これ以上、あの子に我慢をさせる気はありません」
「当然です」
逆の立場なら、私も同じことを言うだろう。
「では、両家合意の上で婚約を解消する、ということで」
「異存ありません」
「こちらから正式な書面を整えさせます」
「お願いいたします」
半年前には、侯爵夫人まで動いて結ばれた婚約だった。
それが終わる時は、随分とあっさりしたものだった。
「それと、ダイータ伯爵」
「はい?」
「ヒュウ本人にも、今回の責任は取らせます」
伯爵が少し眉を上げた。
「どのように?」
「まだ正式には本人に伝えておりませんが、西方へ送るつもりです」
「西方戦線へ?」
「はい。ちょうど我が領から援軍を出すところです。ヒュウも騎士ですから、その一員として赴かせます」
「……そこまでなさる必要がありますかな」
「婚約を壊したことだけが理由ではありません」
私は首を振った。
「今回、あれは自分が何に守られているのか、何も理解していないことが分かりました」
ミャーズ伯爵家の名。
フキューカ侯爵派の後ろ盾。
王都騎士団で恵まれた立場にいられること。
それらを当たり前のものとして受け取っている。
「一度、それらから離れて働かせます」
「……厳しい父親ですな」
「甘く育てた結果がこれですので」
「それを言われると、私も耳が痛い」
ダイータ伯爵が苦笑する。
少しだけ、室内の重苦しい空気が和らいだ。
「娘の今後については、どうかお気になさらず」
「と言いますと?」
「昨夜の夜会で、随分と多くの方に気にかけていただいたようです」
「それは……同情でしょうか」
「それだけでもないようですよ」
伯爵は、それ以上は言わなかった。
なぜか少し機嫌が良さそうに見えたが、今の私が踏み込む話でもない。
「それならば、何よりです」
本心だった。
ユフィール嬢がヒュウとの婚約を解消したことで、その後の人生まで不幸になる必要などない。
「ミャーズ伯爵」
帰り際、ダイータ伯爵が私を呼び止めた。
「娘は、ヒュウ殿を憎んではおりません」
「……そうですか」
「ただ、疲れたのでしょう」
その一言が、一番堪えた。
「申し訳ありません」
「あなたが謝ることではない、と言いたいところですが」
ダイータ伯爵は苦笑した。
「親というものは、子のことで頭を下げるものですな」
「まったくです」
それについては、今日一日で嫌というほど実感した。
私たちは握手を交わした。
これで、婚約は正式に終わった。
◇
その夜。
夕食を終えたあと、私はヒュウを執務室へ呼んだ。
妻にも同席してもらっている。
「父上。お話とは?」
「座れ」
昨日と同じ場所にヒュウが腰を下ろす。
だが、昨日とは話の重さが違う。
「今日、フキューカ侯爵家とダイータ伯爵家へ行ってきた」
「はい」
「ユフィール嬢との婚約は解消することになった」
「……え?」
ヒュウの顔から、初めて余裕が消えた。
「婚約、解消?」
「そうだ」
「ちょっと待ってください。なぜです?」
本気で分からないらしい。
「なぜ、と聞くのか」
「確かに夜会を欠席したことは謝ります。ですが、それだけで婚約を解消するような話では――」
「それだけではなかった」
ヒュウが黙る。
「ユフィール嬢との約束を反故にして、トジオ男爵令嬢を優先したことが何度もあったそうだな」
「それは……昨日も申し上げた通りです。ですが、ユフィール嬢はその都度――」
「許してくれた?」
「はい」
「違う」
言葉を遮った。
「我慢していたんだ」
ヒュウの表情が固まった。
「お前は、ユフィール嬢なら分かってくれると思っていた。ユフィール嬢は、お前がいつか分かってくれると思っていた」
「……」
「先に限界を迎えたのは、ユフィール嬢だった。それだけの話だ」
ヒュウは何も言わなかった。
「婚約解消については、ダイータ伯爵も了承した。両家の合意も済んでいる」
「……ユフィール嬢本人も、そう望んでいるのですか?」
「そうだ」
少し間を置いて答える。
「本人から直接聞いた」
「そう……ですか」
ようやく、自分が何を失ったのか実感し始めたのかもしれない。
だが、話はまだ終わっていない。
「それから、もう一つある」
ヒュウが顔を上げる。
「お前には、西方へ行ってもらう」
「西方?」
「先日、領から援軍を送る準備を整えてきた。その部隊に加われ」
「私が、ですか?」
「そうだ」
ヒュウはしばらく黙った。
「……これは、今回の件への罰ですか?」
「罰でもある」
そこを誤魔化すつもりはない。
「お前の行動で、ユフィール嬢を傷つけた。ダイータ伯爵家との婚約を壊した。フキューカ侯爵家にも迷惑をかけ、ミャーズ家の信用も損ねた」
「……はい」
「ならば、何の責任も取らず今まで通り、というわけにはいかん」
ヒュウが俯く。
「だが、それだけが理由ではない」
「では?」
今日、侯爵夫人から問われた。
本当にヒュウを、このままミャーズ家の後継としてよいのか。
私も考えた。
後継から外すべきなのか。
幸い、我が家にはヒュウの下に、まだ成人前ではあるが次男のキョウがいる。
いざとなれば、キョウを後継として育てる道もある。
だから、ヒュウに家を継がせるしかないわけではない。
それでも――。
「お前を、ミャーズ家の後継から外すつもりはない」
「……父上?」
ヒュウだけでなく、隣に座る妻も私を見た。
「少なくとも、今はな」
続ける。
「お前は失敗した。大きな失敗だ」
ヒュウは黙って聞いている。
「だが、一度の失敗で、お前がこれまで積み重ねてきたものまで全て無かったことにするつもりはない」
「……」
「学園で学んだことも、騎士として働いてきたことも、お前自身のものだ。それまで否定する必要はない」
そして、それ以上に。
私はこの息子を、ミャーズ家を継ぐ者として育ててきた。
自分の教育が足りなかった部分まで、すべて息子一人の責任にして切り捨てるのは簡単だ。
だが、それでは私自身が逃げているような気がした。
「ただし、今のお前に家督を譲る気もない」
「それで、西方へ?」
「ああ」
私は頷いた。
「お前は騎士だ」
「はい」
「ならば一度、騎士として働いてこい。ミャーズ伯爵家の跡取りでも、私の息子でもなく、一人の騎士としてな」
王都にいれば、どうしても伯爵家の名がついて回る。
本人が望もうが望むまいが、周囲も伯爵家の嫡男として扱う。
それがどれほど自分を守っているのか。
一度、その外へ出なければ分からないのだろう。
「西方で何を見て、何を学ぶかはお前次第だ」
「……厳しいところだと聞いています」
「戦場だからな」
そこだけは軽く言えなかった。
父親としては、行かせたくない。
だが騎士である以上、戦地へ赴くこと自体はおかしなことではない。
「怖いか?」
ヒュウは少し考えた。
「……怖くないと言えば、嘘になります」
「そうか」
それでいい。
「出立は一月後だ。それまでは今まで通り王都騎士団の務めを果たせ。今回のことで仕事まで疎かにすることは許さん」
「はい」
「そして、帰ってきた時に改めて考える」
「何をです?」
「お前に、ミャーズ伯爵家を任せられるかどうかだ」
ヒュウが息を呑んだ。
後継から外してはいない。
だが、約束された未来でもなくなった。
そのくらいは理解しただろう。
「……分かりました」
ヒュウは立ち上がった。
「父上」
「なんだ」
「ユフィール嬢には……私から謝罪に行っても?」
「今はやめておけ」
「ですが」
「謝りたいのは、お前の都合だ」
ヒュウが黙る。
「ユフィール嬢が今、お前に会いたいと思っているか。それを先に考えろ」
「……はい」
「下がっていい」
「失礼します」
ヒュウが部屋を出ていく。
扉が閉まるまで、私はその背中を見ていた。
「後継からは外さないのですね」
しばらくして妻が口を開いた。
「ああ」
「侯爵夫人からは、何か言われたのでしょう?」
「このままヒュウを後継にするのか、と」
「まあ」
「私も考えたさ。キョウを跡継ぎとして育てることもできる」
「まだあの子は成人もしておりませんよ」
「だから今すぐ決める必要もない」
妻が頷く。
「ヒュウにもう一度機会を与える、と」
「ああ」
私は椅子の背にもたれた。
「まあ、ヒュウも駄目で、キョウも駄目だった時は――」
「時は?」
「私たちでもう一人という手も――」
妻の目が細くなった。
「あなた」
「……冗談だ」
「次にその冗談をおっしゃったら、ヒュウではなくあなたを西方へ送りますわよ」
「伯爵本人をか?」
「前線ではなくても、補給部隊なら役に立つでしょう」
「……やめておこう」
妻は満足そうに頷いた。
まったく。
息子の将来を考えていたはずなのに、なぜ私が西方送りになりかけているのだ。
「それより」
妻の声が少しだけ柔らかくなる。
「無事に帰ってきてもらわなければ、後継も何もありませんわ」
「ああ」
分かっている。
分かっているからこそ、今日一日ずっと悩んだ。
それでも行かせる。
今回ヒュウが失ったものが、婚約者だけで済むのか。
それとも、その先で何かを得て帰ってくるのか。
今の私には分からない。
「あなた」
「なんだ」
「今夜はカムシュ酒を飲まれるのでしょう?」
「……飲む」
「ほどほどになさってくださいね」
「ああ」
今日は少しくらい多くても許してほしい。
ミャーズ伯爵の悩みは、まだまだ尽きそうになかった。
それから、半年ほどが過ぎた。
フキューカ侯爵閣下は予定通り家督を譲り、ハクァン様が新たなフキューカ侯爵となった。
今夜は、その襲爵を祝う夜会である。
もっとも、家督を継いでからすでに数か月が経っているので、祝いだけが目的というわけではない。
新たな侯爵を中心に、今後の派閥の方針を確認する意味合いも強い。
私も妻と共に参加していた。
「ミャーズ伯爵」
「これは侯爵閣下」
挨拶に回っていたハクァン侯爵が、私の姿を見つけて声をかけてきた。
若い頃から何度も顔を合わせてきた相手ではあるが、こうして侯爵となった姿を見ると、やはり以前とは違って見える。
「西方の件ですが」
「ああ」
祝いの席だというのに、早速仕事の話である。
まあ、貴族の夜会などそんなものだ。
「まだ長引きそうですか?」
「そうだな。大きく崩れてはいないが、向こうも引く気配がない。少なくとも、今年中に片がつくとは考えない方がいいだろう」
「そうですか……」
つい、ため息が漏れそうになる。
戦が長引けば、それだけ兵も物資も必要になる。
当然、領地への負担も増える。
そして何より――。
「ヒュウ君のことなら、報告は受けている」
顔に出ていたらしい。
「……お恥ずかしい」
「親なら気になるのが普通だろう」
ヒュウは今も西方にいる。
先日、所属する部隊が敵の奇襲を受けた。
幸い壊滅するような被害ではなかったが、ヒュウもその戦闘で負傷したと報告を受けている。
「傷の具合は?」
「命に別状はありません。本人からも手紙が来ました。しばらく前線近くの療養所で過ごすそうです」
「王都へ戻すこともできるぞ」
「……いえ」
少し迷った末に首を振った。
「本人が残ると言っておりますので」
手紙には、傷が癒え次第、部隊へ復帰したいと書かれていた。
半年前の私なら、それを頼もしいと思ったかもしれない。
今は少し違う。
無理をしているのではないか。
また何も考えず、自分だけで決めているのではないか。
そんなことまで考えてしまう。
「相変わらず、悩みが多そうだな」
ハクァン侯爵が笑う。
「侯爵閣下は楽しそうですね」
「他人の悩みだからな」
「立派な侯爵になられました」
「父にも似たようなことを言われたよ」
どうやら、この家の当主は代替わりしても大して変わらないらしい。
そこへ、ダイータ伯爵が近づいてきた。
「お二人とも、こちらでしたか」
「ダイータ伯爵」
半年前の婚約解消以来、顔を合わせる機会は何度かあった。
気まずさが全くないと言えば嘘になるが、幸い両家の関係そのものが悪化することはなかった。
「そういえば、ミャーズ伯爵にはまだ直接お伝えしておりませんでしたな」
「何でしょう?」
ダイータ伯爵の表情が緩む。
「娘の婚約が決まりました」
「ユフィール嬢の?」
「ええ」
それはめでたい。
婚約解消から半年。
本人が望むのなら、そろそろ新しい縁談があっても不思議ではない。
「お相手は?」
「カゴーシュ公爵家のご次男、キリュウ様です」
「公爵家ですか!」
思わず声が出た。
我がミャーズ家どころではない。
国内でも指折りの名門である。
「それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ダイータ伯爵は満面の笑みだ。
ハクァン侯爵も満足そうに頷く。
「こちらとしてもありがたい話だ。ダイータ家を通して、カゴーシュ公爵家とも縁ができる」
「娘が少しでも派閥のお役に立てるのであれば、何よりです」
「いやいや、まずは娘御の幸福を喜ぶべきだろう」
「これは失礼を」
三人で笑う。
ユフィール嬢は、あの夜会で一人きりになりながらも立派に役目を果たした。
そこで多くの者の目に留まったと聞いている。
その結果が、公爵家との縁談か。
ヒュウとの婚約解消が、彼女にとって悪いことばかりではなかったのだと思えば、少しだけ救われる。
「キリュウ様は、なかなか華やかな方ですよ」
ハクァン侯爵が言う。
「容姿も良い。社交界でも目立つ」
「娘も気に入っているようです」
「それなら何よりですね」
私は心から祝福した。
少なくとも、この時は。
◇
しばらく男同士の話をした後、私は妻を探して広間を見渡した。
女性たちの輪の中にいるのを見つけ、近づいていく。
ちょうど話題の中心にいたのは、先ほどまで男たちの間でも名前が出ていたユフィール嬢だった。
「ユフィール様、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「カゴーシュ公爵家のキリュウ様でしょう?」
「ええ」
「まあ、なんて羨ましい」
令嬢や夫人たちから次々に祝福され、ユフィール嬢は少し照れながら応じている。
以前より明るく見えた。
私が声をかける必要もないだろう。
少し離れたところで、妻のそばへ行く。
「楽しそうだな」
「あら、あなた」
妻は私を見るなり、小さく笑った。
「ユフィール嬢のご婚約のお話ですわ」
「聞いた。ダイータ伯爵から直接な」
「そうでしたか」
「公爵家の次男とは大したものだ」
「ええ。とてもお顔のよろしい方だそうですわ」
妙な言い方だった。
「……なぜ顔だけ褒める?」
「別に、顔だけとは申し上げておりませんけれど」
「今の言い方は、そう聞こえたぞ」
妻は答えず、扇で口元を隠した。
その横にいた年配の伯爵夫人が、くすりと笑う。
「キリュウ様は、本当にお美しい方ですものね」
「ほら。また顔だ」
「あなた」
「はい」
妻に睨まれた。
黙ることにした。
「ただ……」
年配の夫人が少しだけ声を落とした。
「ずいぶん長く独身でいらっしゃったでしょう?」
「そうなのですか?」
「ええ。公爵家のご次男で、あのお姿ですもの。縁談がなかったはずはないのですけれどね」
別の夫人が続ける。
「少々、派手にお金をお使いになるとか」
「あら、そのお話は――」
「噂ですよ、噂」
皆、一斉に笑った。
女性の「噂ですよ」という言葉ほど信用していいのか悪いのか分からないものもない。
妻が私を見る。
「何です?」
「いや」
「ワタクシは何も申し上げておりませんわよ」
「まだ何も聞いていない」
「でしたら結構です」
どうやら、妻も以前から何か耳にしていたらしい。
だが、今さら私が口を出す話でもない。
そもそも、浪費家だという話自体がただの噂かもしれない。
公爵家の令息ともなれば、庶民どころか我々伯爵家とも金銭感覚が違って当然だ。
何より、ユフィール嬢本人が望んだ縁談なのだろう。
幸せになってくれれば、それでいい。
広間の向こうでは、当のユフィール嬢が楽しそうに笑っている。
その姿を見ながら、私はふと思った。
半年前。
婚約を解消したユフィール嬢は、公爵家との新たな縁を得た。
一方のヒュウは西方の戦場で傷を負い、療養所にいる。
これだけを比べれば、あの日の婚約解消が二人の運命をはっきり分けたようにも見える。
だが。
人生というものは、半年程度で結論を出せるほど単純ではないのだろう。
そのことを、この時の私はまだ知らなかった。
それから、一年ほどが過ぎた。
「今年のカムシュは豊作だそうだ」
王都の邸宅で朝食を取りながら、領地から届いた報告書に目を通す。
「まあ。それはよかったですわね」
向かいに座る妻が紅茶のカップを持ち上げた。
「ああ。去年より二割ほど収穫量が増えたらしい。これならカムシュ酒も随分と仕込める」
「……売れる量も二割増しになるとよろしいですわね」
「そこなんだよなぁ」
喜ばしい報告のはずなのに、なぜかため息が出た。
カムシュ酒の生産は安定している。
品質も悪くない。
少なくとも私はそう思っている。
だというのに、売り上げは相変わらずだった。
「少し値を下げてみるか」
「味は普通なのですから、安くなれば多少は売れるかもしれませんわね。味は普通なのですから」
「また普通って言ったな」
「事実ですもの」
一年経っても、妻の評価は変わらないらしい。
私は報告書を畳み、脇へ置いた。
「そういえば、昨夜の夜会はどうだった?」
「どう、と言われましても。いつものようなものですわ」
「何か面白い話は?」
「あなた、最近ワタクシを社交界の情報屋か何かだと思っていません?」
「思ってない」
「間がありましたわね」
「気のせいだ」
妻がじっとこちらを見る。
こういう時は余計なことを言わないに限る。
「まあ、いくつか耳には入りましたけれど」
「ほら」
「何か?」
「いや、何も」
妻は紅茶を一口飲んだ。
「ユフィール嬢――いえ、今はユフィール子爵夫人でしたわね。ご結婚なさいましたよ」
「そうか」
ユフィール・ダイータ嬢。
かつてヒュウの婚約者だった令嬢だ。
1年前にはカゴーシュ公爵家の次男、キリュウ様との婚約が決まったと聞いていた。
「結婚に伴って、キリュウ様は公爵家が保持していた子爵位と所領を譲られたそうです」
「では、正式に独立したのか」
「ええ。キリュウ・カゴーシュ子爵、とお呼びすることになるのでしょうね」
「それはめでたい」
公爵家の次男として父や兄の庇護を受け続けるより、一つの家を構える方がよいだろう。
「ダイータ伯爵も喜んでいるだろうな」
「それはもう」
妻はそう言ったあと、なぜか紅茶へ視線を落とした。
「なんだ?」
「何がです?」
「今、何か言いたそうだったぞ」
「別に」
「聞かせてくれ」
「……キリュウ子爵様は、相変わらず華やかな生活がお好きなようですわ」
「華やか?」
「先日は馬を四頭、新しく揃えたとか」
「四頭?!」
「馬車も新調されたそうです」
「結婚したばかりだからな。それくらいは――」
「その前の月には、お屋敷の内装をほぼ全て替えたとか」
「……」
「あと、夜会用の礼服を三着」
「……必要なのか?」
「さあ」
妻は涼しい顔で紅茶を飲んだ。
「だが、公爵家の出なら、そのくらい普通なのでは?」
「子爵家になった今も同じように使えるのなら、よろしいですわね」
なるほど。
「苦労しているのか?」
「そこまでは存じません」
「本当に?」
「本当です」
少し怪しい。
「ただ、最近のユフィール子爵夫人は、家計について随分と詳しくなられたそうですわ」
「……そうか」
それ以上は聞かないことにした。
夫婦のことは夫婦にしか分からない。
キリュウ子爵が浪費家であろうと、二人が上手くやっているのなら外野が口を出すことでもない。
「そういえば、ダイータ伯爵家は最近、侯爵派の中でも随分と存在感を増したな」
「公爵家との縁ができましたからね」
「ああ」
以前なら、フキューカ侯爵家とダイータ伯爵家の間を取り持つのは我がミャーズ家の役目だった。
だが今では、ダイータ伯爵自身がハクァン侯爵と直接やり取りすることも増えた。
公爵家との縁まで加わったのだから当然だろう。
別に面白くないわけではない。
……いや。
少しくらいは面白くないかもしれない。
「あなた」
「なんだ」
「顔に出ていますわよ」
「何がだ」
「別に」
夫婦というものは嫌なところまで分かるらしい。
「ダイータ伯爵が上手くやっているなら、それでいいさ」
「そういうことにしておきますわ」
「本当にそう思っている」
「はいはい」
信用されていない。
「そうだ。トジオ男爵令嬢はどうしている?」
ふと思い出して尋ねる
「オウリコ嬢ですか?」
「ああ」
あの騒動のもう一人の当事者。
ヒュウが夜会を欠席する原因となった幼なじみだ。
後になって聞いた話では、やはりあの日の『倒れた』という話は、随分と大げさなものだったらしい。
元々身体が弱いのは事実だったが、ヒュウを呼びつけるほどではなかったという。
本人なりに何か思うところがあったのだろう。
だが結果として、伯爵家同士の婚約を壊す一因となってしまった。
「結婚しましたわよ」
「そうなのか?」
「ええ」
「どこの家だ?」
「家、というより……平民ですわね」
「平民?」
少し驚いた。
「王都の商家の次男だった方だそうです。トジオ男爵家としては、早く騒ぎを収めたかったのでしょう」
「……厄介払いか」
「言い方は悪いですけれど、おそらく」
貴族令嬢が平民へ嫁ぐ。
普通なら、決して良縁とは呼ばれない。
「それで、本人は?」
「元気だそうですよ」
「元気?」
「ご主人と二人で、小さな店をやっているそうです」
予想外だった。
「店?」
「食料品や日用品を扱う店だとか。ご本人も店先に立って働いているそうですわ」
「男爵令嬢が?」
「今はもう平民ですもの」
「それはそうだが……」
幼い頃から身体が弱かった娘が、王都の店先に立っている姿を想像する。
どうにも結びつかない。
「案外、楽しそうにしているそうですわよ」
「そうなのか」
「ええ。貴族の娘でいるより気楽なのかもしれませんわね」
妻が少し笑った。
「人の幸不幸というものは、分からないものです」
「……本当にな」
当時だけを見れば、オウリコ嬢は最も厳しい結果を受けたように思えた。
身分を失い、貴族社会から離れた。
だが一年後、本人は夫と店を切り盛りしながら元気に暮らしているという。
一方、公爵家との華やかな婚姻を結んだユフィール嬢は、家計簿と格闘しているらしい。
どちらが幸せなのか。
外から見ている私には、到底決められそうになかった。
「ヒュウからは?」
妻が尋ねた。
「ああ。先週、手紙が届いた」
西方の戦は、まだ続いている。
一年前、すぐに終わる話ではないとハクァン侯爵から聞かされていたが、その通りになった。
ヒュウも一度負傷したものの、傷が癒えた後は再び部隊へ戻った。
「元気なのですか?」
「元気らしい」
「らしい?」
「手紙を見る限りはな」
私は傍らに置いてあった書類の束から、一通の手紙を取り出した。
「最近は戦うより、負傷兵の世話をしている時間の方が長いらしい」
「……あの子は騎士でしたわよね?」
「私もそう記憶している」
妻が手紙を受け取り、目を通す。
「『療養中に世話になった方々へ恩を返したい』……ですか」
「ああ」
「『負傷者を後方へ送るまでの処置を改善できないか、軍医の方々と相談しています』」
「そう書いてある」
「……何をしているのでしょう、あの子は」
「分からん」
だが。
不思議と止める気にはならなかった。
一年前なら、
余計なことに首を突っ込まず、騎士としての任務を果たせ。
そう言ったかもしれない。
今のヒュウが何を考え、何を見ているのか。
手紙だけでは分からない。
ただ、少なくとも王都にいた頃と同じではないことだけは感じていた。
「それと……」
「まだあるのですか?」
「カムシュ酒を送れと書いてある」
妻が手紙から顔を上げた。
「カムシュ酒を?」
「十樽ほど」
「ずいぶん飲むようになりましたわね」
「私もそう思った」
「戦場ですもの。お酒くらい必要なのでしょうか」
「だが、ヒュウは元々それほど酒を飲まないぞ」
二人で手紙を見つめる。
「何に使うのでしょう?」
「さあな」
まあいい。
今年は豊作だ。
カムシュ酒なら、売れずに倉で出番を待っているものがいくらでもある。
「十樽くらいなら送ってやろう」
「そうですわね」
「むしろ二十樽でもいい」
「売れないからでしょう?」
「余っていると言ってくれ」
「同じです」
まったく。
息子は相変わらず西方。
元婚約者は子爵夫人となり、家計に頭を悩ませているらしい。
幼なじみは平民となって店を切り盛りしている。
派閥の中での我が家の立場も、以前と同じというわけではない。
そして。
カムシュ酒は、今日も売れない。
人生というものは、本当に思い通りにはならないらしい。
だが、不思議なものだ。
一年前には悪い方へ転んだとしか思えなかったことが、今では本当にそうだったのか分からなくなっている。
もしかすると――。
今、頭を抱えているこのカムシュ酒でさえ。
いつか何かの役に立つ日が来るのかもしれない。
「あなた」
「なんだ?」
「何をにやにやしているのです?」
「いや。カムシュ酒の時代が、いよいよ来るかもしれんと思ってな」
「十樽送るだけでしょう?」
「……そうだな」
まだ、少し早かったようだ。
西方で続いていた戦が終わった。
その知らせが王都へ届いたのは、ヒュウを送り出してから二年近くが経った頃だった。
大勝利、と呼べるようなものではない。
こちらも少なくない犠牲を払い、向こうもこれ以上戦を続ける余力を失い、ようやく双方が矛を収めた。
それでも、戦が終わったことに変わりはない。
そして、その戦の中で意外な形で名を上げた者の一人が、我が息子だった。
◇
「父上、母上。ただいま戻りました」
久しぶりに見るヒュウは、王都を出た頃より少し痩せていた。
顔立ちは変わらない。
だが、立ち方が違う。
以前より落ち着いたというのか。
……いや、親の欲目かもしれない。
「よく戻った」
そう言うだけで、思っていたより声が詰まった。
妻など、もっとひどい。
「本当に……無事で……」
途中まで言ったところで、ヒュウの隣に立つ女性へ目を向けた。
「それで、そちらの方が?」
「はい」
ヒュウが少し緊張した顔になる。
「西方で軍医として働いていた、セイラ・ヒナン男爵令嬢です」
ヒナン。
どこか聞き覚えのある名だと思ったが、南方に小さな領地を持つ男爵家だったはずだ。
セイラ嬢は、社交界で目立つような華やかな令嬢ではなかった。
どちらかと言えば地味な方だろう。
茶色い髪を簡素にまとめ、飾り気もほとんどない。
戦地から戻ったばかりだからなのか、日に焼けてもいる。
だが、その立ち姿には不思議なほど迷いがなかった。
「お初にお目にかかります。ミャーズ伯爵閣下、伯爵夫人」
深々と頭を下げる。
「セイラ・ヒナンと申します」
「彼女が、私が負傷した時に治療してくださった方です」
ヒュウが続けた。
「その後も共に負傷兵の治療にあたり、医療部隊を作る際にも力を貸してくださいました」
「力を貸した、ではありません」
セイラ嬢がすぐ訂正した。
「最初に無茶を言い出したのはヒュウ様です。ワタクシは、現実的な形に直しただけです」
「……そうだったか?」
「そうです」
妻が小さく笑った。
どうやら、第一印象は悪くないらしい。
「それでですね、父上」
ヒュウが妙に改まった。
「セイラ嬢との結婚を認めていただきたいのです」
「ふむ」
ヒナン家は男爵家。
ミャーズ家とは家格に差がある。
以前の私なら、政治的な釣り合いをまず考えただろう。
だが、私が答えるより先に妻が口を開いた。
「もちろん問題ないですわ」
「母上?」
「あなたの命を救ってくださったのでしょう?」
「はい」
「そのうえ戦場で共に働き、あなたが無茶をすれば止めてくださる」
「……はい」
「でしたら、ワタクシから申し上げることはございません」
妻はセイラ嬢へ向き直った。
「むしろ、こちらからお願いいたします。今後とも、この子が馬鹿なことをしそうになったら止めてくださいませ」
「母上?!」
「承知いたしました」
「セイラまで?!」
どうやら、嫁姑問題については心配しなくてよさそうだ。
少なくとも今のところは。
伯爵としての威厳を除けば…
◇
ヒュウの帰還と戦功を祝うため、後日フキューカ侯爵家で夜会が開かれた。
当然、セイラ嬢もヒュウの婚約者として参加している。
そして当然のように、噂にもなった。
「ヒュウ様のお相手、男爵家のご令嬢ですって」
「まあ……」
「以前はダイータ伯爵家のユフィール様でしたのに」
「ずいぶんと……その……」
言葉を濁しているが、何を言いたいのかは分かる。
家格が落ちた。
見栄えも以前の婚約者ほど華やかではない。
そういうことなのだろう。
貴族の夜会というものは、本人に聞こえないと思えば皆よく喋る。
もっとも、本人にはだいたい聞こえているのだが。
「気にするな」
私はヒュウに小声で言った。
「気にしていませんよ」
「そうか」
「ええ」
ヒュウは本当に気にしていないようだった。
以前なら、それを「何も分かっていない」と思っただろう。
「父上」
「なんだ?」
「昔は、フキューカ侯爵派に属していることがどれほど重要なのか、よく分かっていませんでした」
「……そうだったな」
「今は分かります」
少し意外だった。
「そうか」
「ええ。誰か一人で何かを成し遂げることなど、ほとんどできません」
ヒュウは広間を見渡す。
「戦場でもそうでした。兵士だけでは戦えない。補給する者がいて、治療する者がいて、それをまとめる者がいる。誰と繋がっているかは、とても大切です」
私は黙って聞いた。
随分とまともなことを言うようになった。
「なら、侯爵派との関係も大事にしろ」
「もちろんです」
よし。
ようやく分かったか。
「ただ」
嫌な予感がした。
「ただ?」
「別に、この派閥だけにこだわる必要もないと思っています」
「……何?」
「西方で知り合った軍の方々からは、今後も力を貸してほしいと言われていますし、軍医の方々とも今後の医療体制について話をしています」
「待て待て」
「はい?」
「お前、いつの間にそんなことになった?」
「戦場にいる間にですが」
さらっと言うな。
「軍の中にもお前を支持する者がいるのか?」
「支持というほどではありません。ただ、一緒に仕事をした方は多いですね」
「医者の方は?」
「セイラを通じて、各地の医師や薬師とも繋がりができました」
私は額を押さえた。
私が何十年もかけて必死に守ってきたフキューカ侯爵派との繋がり。
それを、この息子は二年ほど戦場へ行っている間に、軍にも医療関係にも人脈を作って帰ってきたらしい。
「ヒュウ」
「はい」
「お前は……大きくなったな」
自分でも、思わず口から出た言葉だった。
ヒュウが少し照れたように笑う。
「ありがとうございます」
「昔のお前なら、派閥なんて必要ない、とでも言いそうだった」
「そこまでは言いませんよ」
「似たようなことは言った」
「……そうでしたか」
「言った」
だが。
人と繋がることの意味を知ったうえで、自分の居場所を一つに限定する必要はないと言っている。
それなら、昔とは違う。
フキューカ侯爵派に属するだけだった私より、もしかすると――。
「父上?」
「いや」
私は首を振った。
「何でもない」
この男になら。
いずれミャーズ伯爵家を任せてもいいのかもしれない。
そう思った。
◇
「ところで父上」
夜会から戻った後、ヒュウが私の執務室へやってきた。
「まだ何かあるのか?」
「カムシュの件です」
「おお」
思わず身を乗り出す。
ようやく来た。
戦場へ送ったカムシュ酒は、医療部隊で思いのほか役立ったらしい。
酒として飲むのではない。
傷口や器具を清めたり、薬草から成分を取り出したりするために使われたと聞いている。
その用途が軍にも正式に認められた。
つまり。
「軍から正式な発注が来るのだろう?」
「はい」
「どのくらいだ?」
「かなりの量になります」
「かなり?」
「今年収穫されたカムシュですが」
「ああ」
「酒にする分は必要ありません」
「…………何?」
聞き間違いか。
「今年の収穫分は、可能な限り医療用へ回してほしいのです」
「待て」
「はい?」
「カムシュ酒は?」
「ですから、酒にする前の段階で医療用加工へ――」
「私が聞いているのは、飲む方だ」
「飲む方?」
ヒュウが本気で分からないという顔をした。
さっきまで感じていた感動が、急速にしぼんでいく。
「全部か?」
「できれば」
「一本も?」
「父上」
ヒュウが困ったような顔をした。
「人の命が助かるのですよ?」
「…………」
正論だ。
これ以上ないくらい正論だ。
だから腹が立つ。
「あなた」
いつの間にか妻が扉のところに立っていた。
「聞いていたのか」
「ええ」
「何とか言ってやってくれ」
妻は私とヒュウを交互に見る。
「ヒュウ」
「はい、母上」
「あなた、本当に成長しましたわね」
「ありがとうございます」
満足そうに頷く。
そして私を見る。
「あなたもお喜びになったら?」
「喜んでいる」
「そうは見えませんけれど」
「喜んではいる!」
売れる。
領地の新しい産業になる。
何より、人の命を救うために使われる。
こんなに喜ばしい話はない。
だが。
「私の分くらい残せないのか?」
ヒュウと妻が顔を見合わせた。
「……父上」
「なんだ」
「果実酒では駄目なのですか?」
私は目を閉じた。
駄目だ。
こいつはまだ分かっていない。
「ヒュウ」
「はい?」
「お前は随分成長した」
「ありがとうございます」
「だが、人の心を理解するには、まだ修行が足りんな」
「……何の話です?」
「そこだ!」
妻がとうとう吹き出した。
まったく。
息子は立派になった。
婚約も決まった。
戦で功績を挙げ、家を継がせることにも、もう迷いはない。
領地の特産品には、これまでとは比べものにならない需要が生まれた。
何もかも、二年前には想像もしなかった形に落ち着いた。
それでも。
どうやら、ミャーズ伯爵の悩みが尽きる日は、まだまだ先らしい。




