第8話:浮世絵ドタバタ修正作業〜大江戸・見当合わせの乱〜
【第1部】クロエの大チョンボと、極上の牢獄
「……なんだ、この異常な湿度は。紙が波打つぞ。空調をフル稼働させろ」
時空跳躍の余韻が残る大宇宙印刷の工場内で、高木裕太(34)は不機嫌極まりない声を上げた。
開け放たれた工場のシャッターの向こうに広がっていたのは、ロンドンの霧でもルネサンスの乾いた風でもなかった。
ジメジメとした重たい湿気。むせ返るような土と木の匂い。遠くから聞こえる「ええじゃないか」ではないが、活気あふれる町人たちの喧騒、そして木版を叩く「トントン、シャカシャカ」というリズミカルな摺りの音。
「到着よ! 座標軸固定、18世紀後半の日本、江戸! まさに錦絵(多色刷り浮世絵)の黄金期、化政文化の夜明け前よ!」
クロエが、季節外れのトレンチコートをパタパタと仰ぎながらホログラムを展開した。
「江戸時代……。しかもこの息苦しい湿度、間違いなく梅雨時ですね」
若槻さん(39)が、グレーの事務服の襟元をわずかに緩め、銀縁メガネの曇りをハンカチで拭き取った。
「クロエさん、確認ですが。当時の江戸は厳しい士農工商の身分制度と出版統制(検閲)があります。私たちのような身元不明の集団が、無許可で印刷機を回せば、最悪の場合『市中引き回しの上、打ち首獄門』ですよ。労災はおろか、生命保険の免責事項にも該当しかねません」
「だ、大丈夫よ若槻さん! 私の計算では、今回はお城の近くの目立たない長屋の裏に偽装停泊しているから……あっ!」
クロエがホログラム端末をいじっていたその時である。
彼女の指が、未来のタキオン粒子制御パネルの「強制出力」ボタンに滑ってしまった。
ピガァァァァン!!
大宇宙印刷の屋根から、目にも止まらぬ極彩色のタキオン・レーザーが発射され、あろうことか江戸城のど真ん中、大奥の屋根瓦をド派手に吹き飛ばしてしまったのだ。
「……」
裕太がルーペを持ったまま固まった。
「……クロエ。お前、今何をした」
「ち、違うのダーリン! 今のはシステムのエラーというか、私の指のバグで……!」
「言い訳は奉行所で聞いていただきましょう。ほら、来ましたよ」
若槻さんが冷ややかな目で指差した先には、ものすごい剣幕で殺到してくる数百人の幕府の役人と、抜刀した侍たちの姿があった。
「であえ、であえーっ! 城に向けて妖術を放った南蛮の妖術使いたちじゃ! 一人残らず捕縛し、打ち首にせい!!」
「ひぃぃぃっ! 第一種戦闘配置ィィ!……って、え? 刀!? 無理無理無理! 降参しますぅぅ!」
工場長(60)が真っ先に白旗(ヤレ紙)を振って土下座した。
かくして、大宇宙印刷の面々は(無言の鈴木さんを含め)、江戸の薄暗い地下牢へと放り込まれることとなった。
――数時間後、伝馬町の牢獄。
じめじめとした藁の上に座らされ、打ち首の時を待つ絶望的な状況。
「……最悪です。有給を消化する前に斬首されるなんて、私の完璧なキャリアプランが台無しです。クロエさん、損害賠償請求の準備をしておいてくださいね。遺族年金の計算も面倒なんですから」
若槻さんが、牢獄の中でも一切ブレずにバインダーを叩いている。
「ごめんなさい若槻さん! ごめんなさいダーリン! 私、絶対になんとかするから……!」
クロエが涙目で裕太の袖を引っ張るが、裕太は全く別のことで頭を抱えていた。
「……最悪だ」
「で、でしょ!? ダーリンも死にたくないわよね!」
「違う。この牢屋の異常な湿度だ。こんな環境に紙を丸一日放置したら、完全に伸びきっちまう。今頃、工場の菊全判の紙が使い物にならなくなってるはずだ。……許せねえ。俺の紙を湿気らせた徳川幕府、絶対に許さねえ」
裕太の目は、打ち首への恐怖ではなく、職人としての静かなる怒りに燃えていた。
(お茶が入りました)
突如、牢獄の鉄格子の内側に、信じられない光景が広がった。
鈴木さんが、最高級の玉露と、どこから取り出したのか(おそらく四次元の前掛けから)、氷でキンキンに冷やされた最高級の『大間の本マグロの大トロ刺身』の舟盛りと、江戸時代には存在しないはずの純米大吟醸、そして江戸切子の美しいお猪口を並べていたのだ。
「す、鈴木さん!? 打ち首前夜にどうやってそんな極上のケータリングを!? しかも大トロって、江戸時代じゃ『下魚(猫またぎ)』扱いで誰も食べないはずじゃ……!」
クロエが驚愕する中、鈴木さんは無言で親指を立て、裕太と若槻さんの前にお猪口を置いた。
「……いただきます。経費で落ちないのが本当に悔やまれますが、最後の晩餐としては完璧な手配ですね、鈴木さん」
若槻さんが冷酒をクイッと飲み干し、大トロを口に運ぶ。
「美味い。……それにしても、工場長がいませんね。あの人、捕縛されるドサクサに紛れてどこへ逃げたんでしょうか」
* * *
【第2部】コンプライアンス御台所と絵具方・細田栄之
翌朝。裕太たちは江戸城内の「白州」へと引き出された。
玉砂利の上に座らされる一行。その正面の縁側には、威風堂々たる武士たちがズラリと並んでいた。
中央に座るのは、時の第10代将軍・徳川家治。そしてその傍らには、まだあどけなさの残る若き日の第11代将軍(予定)・徳川家斉の姿があった。
「面を上げい。貴様ら、城の屋根を吹き飛ばした妖術使いだな。問答無用。即刻、首を刎ねよ」
家治が冷酷に言い放つ。侍たちが一斉に刀を抜いた。
「ちょっと待ちなさい」
その時、若槻さんが立ち上がった。刀を向けられても、彼女の表情は氷のように冷たく、一切の揺らぎがない。
「無礼者! 将軍家の御前であるぞ!」
「無礼なのはそちらです。十分な事実確認も、弁明の機会も与えずに極刑を下すなど、近代法治国家における適正手続の完全なる欠如。のみならず、私たちは現在『業務中の事故』による拘束状態にあります。ここで私たちを処刑すれば、重大な労働安全衛生法違反となり、幕府のガバナンスそのものが問われますよ」
「な、なんだと……? ろうどうあんぜん……がばなんす……?」
聞いたこともない横文字と、若槻さんの放つ圧倒的な「知的な大人の女」の威圧感に、侍たちがたじろいだ。
その時、若き家斉の目がハートマークになった。
(なんという女だ……! 江戸の町娘にはない、この冷徹な眼差し! 理路整然とした口答え! ああ、余をそのバインダーで叩いてほしい!)
「父上、お待ちくだされ!」
家斉が身を乗り出した。
「この女、ただ者ではありませぬ! 妖術使いの首魁に違いありませんが、余の妃(側室)として大奥に迎え入れたく存じます!」
「……は? 妃? 私が、未成年のあなたの?」
若槻さんはメガネを中指で押し上げ、底冷えする声で言い放った。
「お断りします。私は公私混同を最も嫌いますし、何より、私の残業代(投資)に見合うだけのROI(投資利益率)があなたにあるとは思えません。大奥のドロドロした人間関係など、コンプライアンスの観点から見てもブラック企業そのものです。転職先としては論外ですね」
「し、痺れる……! 余の誘いを断る女など初めてだ! ますます気に入った!」
家斉が身悶えする。
「ええい、家斉、黙らぬか! この者たちは死罪じゃ!」
家治が苛立ちを露わにしたその時だった。
「上様! 恐れながら申し上げます!!」
一人の若い武士が、筆と絵の具で顔を汚したまま白州に駆け込んできた。
彼こそが、家治の寵愛を受け、将軍の身の回りの世話をしながら絵の具を用意する「絵具方」に任命された旗本・細田栄之――のちの天才浮世絵師、鳥文斎栄之である。
「栄之か。どうした、そのように慌てて」
「はっ! 本日、幕府の威信をかけて発刊予定であった、上様お気に入りの『江戸名所百景・大錦絵(多色刷り)』の最終工程において、取り返しのつかない大問題が発生いたしました!」
「なんだと!?」
栄之は、一枚の巨大な浮世絵の試し刷りを広げた。
それを見た瞬間、裕太の目の色が変わった。
「……ひでえ見当ズレだ。素人の仕事か?」
裕太が思わず呟いた言葉に、栄之がカッと頭に血を上らせた。
「素人だと!? 私は幕府お抱えの絵具方ぞ! 最高の彫師と摺師を集め、最高級の和紙と水性の絵の具を使ったのだ! だが……この長雨(梅雨)の異常な湿気のせいで、紙が伸び縮みし、何度摺っても色版がズレてしまうのだ! しかも、何度も刷り直したせいで、山桜の版木の『見当』が摩耗し、ぼかしの風合いも死んでしまった……!」
栄之の言葉は、まさに江戸時代の浮世絵職人たちを悩ませた最大のトラブルの歴史的真実であった。
木版画の多色刷りは、版木の手前にあるL字型の「見当」と呼ばれる目印に紙の角を合わせて、何枚もの色版を重ねていく。
しかし、水性絵の具を吸った和紙は湿気で膨張し、乾燥で収縮する。さらに版木自体も呼吸して動く。コンマ数ミリのズレが、美しい錦絵を台無しにしてしまうのだ。
「……ダーリン! あれよ!」
クロエが小声で叫ぶ。
「デリート(白紙化教団)の奴らが歴史に仕掛けたバグ! あの異常な湿気と版木の劣化は、奴らが時空の気象データを書き換えたせいよ! あの浮世絵が完成しなければ、この後の化政文化の『浮世絵ブーム』そのものが歴史から消滅してしまう!」
「……なるほどな。だから俺たちの工場まで湿気ってたってわけか」
裕太はゆっくりと立ち上がり、将軍たちの前へと歩み出た。
「貴様、何をする気だ!」
侍たちが槍を構えるが、裕太は意に介さず、栄之の広げた浮世絵に50倍のルーペをピタリと当てた。
「……青の版が0.5ミリ、赤の版が0.8ミリ右にズレてる。それに、この『見当』の仕組み。……へえ、紙を合わせる目印だから『見当』か。現代の印刷機のトンボと同じ理屈じゃねえか」
裕太はルーペから目を離し、栄之を、そして将軍・家治を真っ直ぐに見据えた。
「将軍さん。俺の首を刎ねるのは勝手だが、その前に、この見当ズレを完璧に直して、江戸中がひっくり返るような極彩色の錦絵を完成させてやる。もし俺が完璧な『見当合わせ』をやってのけたら、俺たちの首は繋げておいてもらうぜ」
「な、なんだと……! この南蛮の妖術使いが、江戸の最高峰の摺師でも直せぬ見当ズレを直すと言うのか!?」栄之が驚愕する。
家治は面白そうに顎を撫でた。
「よかろう。ただし、刻限は日没までじゃ。もし失敗すれば、全員まとめて釜茹での刑にしてくれる」
「上等だ。……若槻さん、鈴木さん! 準備しろ! 江戸の職人に、大宇宙印刷の『見当合わせ』を見せつけてやる!!」
* * *
【第3部】究極の見当合わせ〜時空を超えた版画対決〜
白州の真ん中に、大宇宙印刷から運び出された四色機のユニットの一部と、江戸の伝統的な版木が並べられた。
時空を超えた、印刷職人同士の意地を賭けた「多色刷り対決・修正作業」の幕開けである。
「いいか栄之。お前たちの彫りと絵の具の質は最高だ。だが、紙と水の扱いが決定的に間違っている」
裕太は大宇宙印刷のツナギの袖を捲り上げ、和紙の束を手に取った。
「馬鹿な! 和紙に絵の具を乗せるには、十分に湿らせておくのが常識だ!」
「だからズレるんだよ」
裕太は鈴木さんに合図を送った。(無言で親指を立てる鈴木さん)。
「鈴木さん、紙に『風』を入れろ」
バサァァァァッ!!
鈴木さんが巨大な和紙の束を持ち上げ、芸術的な手捌きで紙と紙の間に空気を送り込み、静電気と余分な湿気を一瞬にして飛ばしていく。江戸の職人たちが、その神がかった「紙揃え」の技術に息を呑んだ。
「俺のいた時代の印刷機は、水と油の反発を利用してインクを乗せる。だから『湿し水』のpH値と量のコントロールが命だ。和紙も同じだ。湿らせるんじゃねえ、『湿度と調和』させるんだ」
裕太は現代のインクコンディショナーをわずかに水性絵の具に混ぜ、粘度を最適化した。
「それに、この摩耗した『見当』。こんな削れた木で紙を合わせようとするから狂う」
裕太はポケットから、現代のオフセット印刷で使うアルミ製の極小のチップを取り出し、版木の手前(見当の部分)に寸分の狂いもなく打ち込んだ。
「木の伸縮に影響されない、絶対不変の基準点だ。これでミリ単位の狂いも生じない」
「な、なんという緻密な計算……! 絵の具の粘度と、絶対不変の見当(目印)だと……!?」
栄之は震えていた。彼が今まで信じてきた職人の勘と経験を、遥かに凌駕する圧倒的な「理論と技術」がそこにあった。
「行くぞ。初摺だ」
裕太が馬連ではなく、自作の均圧ローラー(現代の印刷機のローラーを改造したもの)を握る。
「クロエ! 湿度のバグを相殺する座標データを送れ!」
「了解よダーリン! 江戸城上空の局地的な湿度データを最適化!」
スウゥゥゥ……ッ。
裕太の手が、版木の上を滑る。
一度、二度、三度。
赤、青、黄。それぞれの色版が、裕太の打ち込んだ新しい「見当」にピタリと導かれ、和紙の上に重なっていく。
「……見ろ。これが『見当合わせ』だ」
完成した浮世絵が、白州に広げられた。
それは、バグによる色ズレも、版木の摩耗によるくすみも一切ない、信じられないほど鮮やかで、立体的で、魂が宿ったかのような完璧な『大錦絵』だった。
特に、初摺りならではの繊細な毛糸の線や、見事な「ぼかし」のグラデーションが、これまでの江戸の印刷技術の限界を突破していた。
「おおおおおっ……!!」
将軍・家治が立ち上がり、感嘆の声を上げた。
「なんという美しさじゃ……! 栄之よ、これこそが真の浮世絵の姿であるぞ!」
栄之は、完成した絵の前にへたり込み、涙を流していた。
「負けました……。私の絵具の調合も、職人の腕も、あなたの足元にも及ばない。あなたこそ、真の印刷の神だ……!」
「神じゃねえ。しがない四色機のオペレーターだ」
裕太はローラーを置き、額の汗をウエスで拭った。
「それに、絵を描き、色を考えたのはお前だ、栄之。俺はただ、お前の描きたかった『本当の色』を、紙の上に見当を合わせて定着させただけだ」
裕太は、大宇宙印刷の初代創業社長である岡崎諒太の言葉を思い出し、静かに口を開いた。
「俺の師匠……岡崎諒太社長はこう言っていた。
『機械や道具は、いつか必ず摩耗して嘘をつく。だが、紙は生きている。職人の意地ってのは、そのズレ(嘘)を魂で見極め、完璧な見当を合わせることだ』とな」
「オカザキ・リョウタ……! なんという深遠な哲学! 私が後に浮世絵師として独立した暁には、必ずやその教えを江戸の職人たちに語り継ぎましょう!!」
栄之が深く頭を下げる。
こうして、バグは完全に修正され、日本の歴史に「見当合わせ」の極意と、謎の人物『オカザキ・リョウタ』の名言が刻まれることとなった。
「見事じゃ! 貴様らの罪を免じ、褒美を取らせよう!」
家治が高らかに宣言する。
「上様! では、褒美としてあの眼鏡の女を余の側室に……!」
家斉がよだれを垂らしながら身を乗り出すが。
「お断りします。私はこれより、大宇宙印刷の月次決算を締めなければなりませんので」
若槻さんは氷のような冷たさで一蹴し、クルリと背を向けた。
「……あああ! その冷たい背中! たまらん!!」
後に「化政文化」を築き、生涯で40人以上の側室を持ったと言われる好色な将軍・家斉の初恋は、見事に粉砕されたのである。
「おーい! みんな無事かー!!」
その時、白州の端から、大量の千両箱を台車に乗せて押してくる工場長の姿があった。
「いやー、蔦屋重三郎って本屋のオヤジに、足立区のキャバクラのポスター見せたら『こいつは新しい錦絵だ!』ってバカ売れしてよ! これで今月の会社の資金繰りもバッチリだぜ!」
「工場長……! あなた、私たちが打ち首寸前の時に、ちゃっかり江戸の出版プロデューサーに営業かけてたんですか! コンプライアンスの欠片もない人ですね!」
若槻さんの怒りの雷が落ちる中、クロエは「ダーリンすごーい!」と裕太に抱きつこうとして、見事に躱されて玉砂利に顔から突っ込んだ。
「鈴木さん! 撤収だ! 紙がこれ以上湿気る前に、足立区に帰るぞ!」
(無言で親指を立てる鈴木さん)
バチィィィィン!!
極彩色のタキオン粒子に包まれ、大宇宙印刷は再び時空の彼方へと消えていった。
残された江戸の空には、カラリとした初夏の青空が広がり、天才浮世絵師・鳥文斎栄之の心の中には、永遠に色褪せることのない『見当合わせ』の極意が深く刻み込まれていたのであった。




