17
空気が軋む。
世界線が、無理やり引き寄せられる感覚。
その瞬間、研究所から来た優也が、はっとして胸元を押さえた。
指先に、冷たい感触。
――鍵だ。
「……しまった」
黒い男の視線が、すぐにそこへ向く。
「やはり持ってきていたか」
研究所の優也は、唇を噛んだ。
「これがないと、あいつは完全には――」
言葉の続きを、低い笑い声が遮った。
「その鍵だよ、優也」
影が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
中谷圭司は、楽しげに目を細めていた。
「それがないと、扉は最後まで開かない。
だから君を追ってきた」
千鳥は、はっきりと理解した。
中谷が追っているのは、
世界線でも、能力でもない。
――この人が持っている、たったひとつの鍵。
そして同時に、悟る。
私がここにいる限り、
この場は、閉じない。
「……千鳥」
係官の優也が、低く言った。
止めたい。でも、止められない声だった。
千鳥は一歩、前に出た。
「呼ぶだけ。
――鍵は、渡さない」
中谷は、千鳥だけを見ていた。
他の誰も、視界に入っていないかのように。
「……不思議だよな」
低い声だった。
怒鳴りもしない。笑いもしない。
ただ、溜め込んだものを吐き出すみたいに。
「お前は、何もしてない顔をしている。
研究もしていない。覚悟もしていない。
それなのに――」
中谷の視線が、千鳥を貫く。
「お前だけが、生き残った」
千鳥は、言葉を失ったまま立っていた。
「隕石が落ちた世界線でな」
中谷は続ける。
「俺は、救いたかった人間がいた。
時間が足りなかった。能力が、あと一歩足りなかった」
唇が歪む。
「だから与えようとした。
――能力を。
選ぶはずだった相手に」
一瞬、指先が震えた。
「だが、手が狂った。
ほんの一瞬だ。
装置は反応して、世界線は分岐して……」
中谷は、ゆっくりと千鳥を指差した。
「選ばれたのは、お前だった」
千鳥の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「奪われたんだよ」
中谷は、はっきりと言った。
「俺の未来も、救うはずだった人間も。
全部」
「……私は」
千鳥が、かすれた声を出す。
「選んでなんか、いない」
その言葉に、中谷は笑った。
壊れたものを見せるような、薄い笑いだった。
「知ってるさ。
だから余計に許せない」
声が、低く落ちる。
「偶然で手に入れた力で、
お前は生きている。
俺は、その“偶然”を毎回見せつけられる」
一歩、近づく。
「だから消す。
お前がいなくなれば、世界は――」
「違う」
千鳥は、震える足で一歩、前に出た。
「私が消えても、
あなたが救えなかった事実は、消えない」
その瞬間。
中谷の表情から、感情が抜け落ちた。
「……そうか」
低く、呟く。
「だから、お前を殺す前に、
一度だけ、恨み言を言いたかった」
影が、ゆっくりと動き出す。




