12
煙の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
千鳥は、硬いシートに深く座り込んでいた。
ドアが閉まる音はしなかった。
ただ、外の音が――すっと消えた。
「……ここは?」
問いかけた声が、少し遅れて返ってくる。
「車内です」
隣に、黒い男が座っていた。
いつの間にか、という感覚すらない。
「正確には、移動型観測室。
君の言う“黒塗りの車”だ」
フロントガラスの向こうには、何も映っていなかった。
道路も、夜景も、トンネルもない。
ただ、薄く光る幾何学模様のようなものが、ゆっくりと流れている。
「……走って、ない?」
「走っていません。
ここは座標を固定しています」
黒い男は、淡々と続ける。
「君は今、時空の異なる世界線を移動した直後だ。
身体は無事だが、精神は不安定な状態にある」
千鳥は膝の上で、指を握りしめた。
「……さっきまで、姉がいて……
次は、妹がいて……」
声が、震える。
「どっちも、潮って名前で……」
黒い男は、初めて視線を向けた。
「把握しています」
その一言が、逆に怖かった。
「説明します」
彼は、指先で宙をなぞった。
空間に、半透明のスクリーンが浮かび上がる。
無数の線。
枝分かれし、絡まり、遠ざかっていく光。
「これが、君が観測している多世界構造だ」
「……姉も、妹も……?」
「存在します。
ただし、それぞれが別の世界線に属している」
千鳥は、目を伏せた。
「じゃあ……
どっちかが、本物ってわけじゃ……」
「ありません」
黒い男は、はっきり言った。
「どの世界も、本物です。
違うのは、選択と結果だけだ」
千鳥は、息を吸う。
「……私は、どうして移動するんですか」
沈黙が、一拍置かれた。
「君は、分岐点に立った瞬間、
世界線から弾き出される特性を持っている」
「……危険なときだけ?」
「正確には――
君自身が致命的な危険にさらされたときだ」
千鳥は、思い出す。
火の中に飛び込んだ感覚。
線路に落ちていく感覚。
「じゃあ……
私が誰かを助けようとして……」
「結果として、自身の生存確率がゼロに近づいた場合、
強制的に転移が発動します」
黒い男は、感情を挟まない。
「それが、君のルールです」
千鳥は、小さく笑った。
「……ひどいルール」
「そうですね」
否定も、肯定もしない声。
「この車は、本部と常時接続されています」
スクリーンの奥で、さらに大きな構造が脈動していた。
「君が次に向かう世界線も、
すでに複数、候補が出ています」
「……選べるんですか」
黒い男は、首を横に振る。
「選べません。
ただし――」
一瞬だけ、彼の声に影が落ちる。
「君が何を選ぼうとしたかは、
必ず次の世界に影響します」
千鳥は、目を閉じた。
姉の潮。
妹の潮。
守れなかった世界と、守って失った世界。
「……行きます」
黒い男は、静かにうなずいた。
「では。次の世界線へ」
車内の光が、反転する。
千鳥の身体が、また――
世界から、切り離される。




