10
優也は少し間を置いてから言った。
「……無理しなくていいですよ」
千鳥はうつむいたまま、首を振る。
「大丈夫」
それが嘘だと、優也はたぶん気づいていた。
それでも、追及はしなかった。
「じゃあさ」
軽い調子で言う。
「せめて、ここまで一緒に行きません?」
“せめて”という言葉が、胸に刺さる。
それは助けたいと言えない人の言葉だった。
二人で歩いたのは、川沿いの道だった。
特別な景色じゃない。
コンクリートの護岸と、少し濁った水。
遠くで子どもの声がして、風が生ぬるい。
「……この辺、よく来るんですか?」
優也が聞いた。
「ううん。初めて」
「そうなんだ」
それだけ言って、また歩く。
会話は続かない。でも、途切れてもいない。
千鳥は、歩幅を意識した。
少し遅いと、優也は気づいて、さりげなく速度を落とす。
何も言わない。
それが、余計に胸にくる。
自販機の前で立ち止まった。
「何か飲みます?」
「……冷たいの」
優也はうなずいて、ボタンを押す。
落ちてきた缶を、千鳥に手渡すとき、指が一瞬触れた。
熱い。
――生きてる。
そんな当たり前のことを、千鳥は思ってしまう。
「ありがとう」
「いえ」
優也は少し照れたように視線を逸らして、
自分の分の缶を開けた。
炭酸の音が、やけに大きく響いた。
二人でベンチに座る。
飲み物を口に運ぶだけで、時間が過ぎていく。
「……あの」
優也が言いかけて、やめた。
「なに?」
「いや。なんでもないです」
なんでもない、はずがない。
でも、千鳥は聞かなかった。
聞いたら、この時間が壊れる気がした。
川面がきらっと光る。
夕方に近づいている。
(……これでいい)
千鳥は思う。
この世界の優也と、
名前を呼ばず、約束もせず、
ただ並んで座った。
それだけの思い出。
それだけで、十分だと思ってしまった。
電車は、思ったより空いていた。
座席に並んで座るのは、少し気恥ずかしくて、
二人とも立ったまま、窓の外を眺めていた。
「海、好きなんですか?」
優也が聞いた。
「……嫌いじゃない」
本当は、好きかどうかもよくわからない。
ただ、今は“遠くへ行きたかった”。
車窓の景色が、少しずつ変わっていく。
建物が低くなり、空が広がる。
「思ったより、近いですね」
「そうだね」
それだけの会話。
でも、それでよかった。
海は、青というより灰色に近かった。
風が強くて、波が荒い。
「寒くないですか?」
「平気」
嘘だった。
でも、優也は自分の上着を差し出さなかった。
ただ、立ち位置を少しだけ風上に変えた。
その距離が、優しかった。
砂浜を歩いて、
何も話さず、
貝殻も拾わず、
写真も撮らず。
帰りの時間になって、駅へ戻る。
ホームには、夕方の匂いがしていた。
鉄と油と、潮の混じった匂い。
ベンチに座って、電車を待つ。
「……今日は、ありがとうございました」
優也が言った。
「ううん」
千鳥は、言葉を探したけれど、見つからなかった。
(ここまで)
なぜか、はっきりわかった。
この世界は、ここまでだ。
電車の接近を知らせる音が鳴る。
優也が立ち上がる。
「じゃあ――」
その言葉の続きを、千鳥は聞かなかった。
――どんっ。
背中に、強い衝撃。
視界が傾く。
足が、宙に浮く。
(……え?)
ホームの縁が、目の前に迫る。
誰かの影。
顔は見えない。
突き落とされた。
「千鳥――!」
優也の声が、歪んで聞こえる。
落ちる。
線路へ。
ああ、まただ。
この感覚を、知っている。
恐怖より先に、胸の奥が冷たくなる。
(危険にさらされないと……転移しない……)
条件が、満たされる。
世界が、音を失う。
光が、裏返る。
最後に見えたのは、
ホームに駆け寄ろうとする優也の姿。
その顔が、
“何も知らない顔”であることが、
なぜか、いちばんつらかった。




