第3章 レディの遮断、または愛の無火薬化
その知らせは、朝食の席で届いた。
銀の封蝋を割った瞬間、文面の最後の一行で手が止まる。
――戴冠共鳴儀への参加を命ず。
「……わたくしが?」
ミナが隣で口元を押さえている。
「まさか、本当に……?」
信じられなかった。
あの儀式は、王家と選ばれた“共鳴官”だけが立てる、国の防衛結界を維持する大事な行事。
けれど今回は、前任の共鳴官が病に伏し、代役を立てねばならなくなっていた。
そして皮肉なことに、私の魔力量と共鳴値は、王城の計測器で最も高い値を示していた。
――羞恥による爆発すら、国家規模で共鳴を起こすほどに。
笑いの種だったものが、今や国の最後の頼みの綱。
「笑い者どころか、今度は災厄の象徴ですわね……」
そう呟いた声が、自分でも震えていた。
★ ★ ★ ★
「遮断液を使うべきです」
礼法官ストリンジェン女史の声は、いつもより静かだった。
机の上に淡く光る瓶が置かれている。
「感情を遮断すれば、出力は完全に抑えられます。成功すれば国は安定。失敗すれば――」
「……わたくしの感情が戻らない、ということですのね」
「誇りなさい。貴族の義務です」
義務。便利な言葉。
ミナの小さな息づかいが後ろで震えた。
笑わない私に、意味はあるのかしら。
「グレン様には、すでに報告してあります」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
★ ★ ★ ★
夜、執務室。蝋燭の光が机の端で揺れている。
「聞きました。遮断を受けると」
グレン様は腕を組み、短く言った。
「ええ。もう爆ぜなくて済みますわ」
「それで、本当にいいんですか」
「国のためですもの」
自分でも驚くほど、声が平坦だった。
彼はしばらく黙り、やがて低く言う。
「感情がなくても、私はあなたを守ります」
「……理屈っぽいですね」
「実務官ですので」
いつもの言葉が、妙に遠く感じた。
蝋燭の炎が私たちの間で揺れ、光が沈黙を区切った。
★ ★ ★ ★
遮断の儀式まで、あと一日。
窓辺の燭台の灯が、紙の上で小さく揺れている。
私は白紙に向かい、筆を取った。
“グレン様へ”
書き出した瞬間、胸の奥がざわめいた。
何を書くべきなのか、自分でもわからない。
国のため。家のため。恥を消すため。
どれも正しい言葉に思えて、どれも自分の声ではない。
“わたくしが静かになっても、どうか笑ってくださいませ”
一文だけ書いて、筆を止めた。
文字が涙のようににじむ。
泣いてはいけない。
感情はもう、手放すものなのだから。
けれど、ペン先から落ちた小さな光が、紙の端を照らした。
ぱちっ。
静電の火花――まだ、残っている。
手の震えを押さえて、紙を折りたたむ。
封をしないまま、机の上に置いた。
もし感情が戻ることがあるなら、そのときに続きを書けるかしら。
★ ★ ★ ★
翌朝、儀式の準備。衣装係が出入りする部屋で、彼と二人になった。
「少しだけ、手を」
「危険ですわ。反応が出ます」
「確認です」
その言葉に、思わず笑いそうになる。
指先が触れた。ほんの一瞬。
ぱちっ。
光が弾けた。
彼が驚いた顔をする。
「……やはり、まだ強いですね」
「ええ。感情を遮断すれば、これもなくなります」
「それは、本当にあなたの望むことですか」
答えられなかった。
言葉を出せば、涙が出そうで。
彼の指先に残った熱が、心臓にまで届いていた。
私は静かに手を引いた。
★ ★ ★ ★
冷たい床。白い光。
儀式用の円陣の中央に座ると、女史が瓶の封を切った。
「これを飲めば、すべて静かになります」
「……わかりました」
グレン様の姿は、扉の外。誰もいない。
瓶を手に取る。中の液体は淡い金色。
これで静かになれる。
笑われることも、恥ずかしくなることも、もうない。
口をつけると、少しだけ甘かった。
世界の音がゆっくりと遠ざかる。礼法官の声が霞んでいく。
ぱちっ。
最後の小さな火花が、指先で消えた。
音が消えた。
心臓の音さえ、遠い。
感情が凪いでいる。痛みも恥も、何もない。
鏡の中の自分が微笑んでいる。完璧な笑顔だ。
それを見て、何も感じなかった。
扉の外で誰かの声がした。
でも、言葉が届かない。
風が頬を撫でても、冷たくない。
これが成功なのね。静かで、美しい世界。
けれど、その静けさの中で――小さな違和感だけが残っていた。
胸の奥、かすかな温もり。
消えていない火のような何か。
その正体を確かめることは、もうできなかった。




