第2章 舞踏会にて、赤面は臨界を超える
舞踏会の一週間前。王都の練習室は朝から熱気に包まれていた。
鏡張りの壁に自分の姿が映るたび、思わず背筋を伸ばす。
今度こそ完璧に。もう失敗なんていたしません。
「お嬢様、補佐にグレン様がいらしています」
「……え?」
振り向くと、軍服姿の彼が立っていた。肩章の銀が光り、姿勢は教本の挿絵のように整っている。
「指導官が手薄とのことで、私が補助に入りました」
「補助、ですか。……ええ、よろしくお願いします」
心拍が少し上がる。手を取られるだけで、火花が走りそうだった。
「一、二、三、歩幅を合わせて」
「はい……」
彼の声が近くなる。息が混じる距離。
ぱちっ。
裾の端が小さく光る。
「感情波、上昇中ですね」
「そういう理屈っぽい言い方は、やめてくださいませ!」
「事実を述べただけです」
そんな事実、知りたくありません!
顔が熱く、頬の下で鼓動が弾む。
ぱちっ。ぱちっ。
「……今日の練習、波乱の予感ですね」
「それを落ち着いて言わないでくださいませ!」
★ ★ ★ ★
翌朝。新しい手袋を用意して、再挑戦した。
「昨日より動きが安定しています。“感情波”が――」
「ですから、“感情波がどうこう”みたいに言わないでくださいませ!」
「……承知しました。では、“落ち着いて見える”とだけ」
「それなら、少し嬉しいですわ」
思わず笑ってしまった。
グレン様が一瞬だけ、大きく目を見開いたように見えた。
「次の動き、右手をこちらに」
「こ、こうですか?」
「もう少し近く」
「近いです!」
「確認です」
「近すぎます!」
「これ以上近づくと反応が出るようですね。安全距離はこのくらいですか」
「だから、その“距離”の測り方が、問題なのです!」
ぱちっ。
天井の光が小さく揺れた。
グレン様が、軽く息を吐く。
「ルシア様、心拍が上がっています」
「そんな冷静に言わないでくださいませ!」
胸の奥が燃えるように熱い。笑いそうなのに、泣きたくなる。
ぱちっ。
「……いまの爆発なら、練習で扱える範囲です」
「扱える範囲って何ですか! 人が焦げる前提ですの!?」
彼は肩をすくめ、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方、初めて見ましたわ。
★ ★ ★ ★
練習を終えた夜、控室でミナが私のドレスを畳んでいた。
「お嬢様、今日も光っておられましたね……」
「そんな言い方をしないでくださいませ。まるで灯台みたいですわ」
「灯台は航路を照らすお役目です。お嬢様も、似たようなものでございます」
「慰めの方向がずれております」
ミナは笑って肩をすくめた。
「でも、グレン様、少し楽しそうでした」
「え?」
「お嬢様が“近すぎます!”って叫ぶたびに、口元が動いておられました」
「……あの方が、笑って?」
信じられなかった。
けれど、思い出してみれば確かに、ほんの一瞬、彼の目元が緩んだ気がする。
思い出しただけで、また顔が熱くなった。
「ミナ、わたくし、明日こそ完璧に舞ってみせます」
「はい、でも光の加減は、少し控えめにお願いいたしますね」
「……控えられたら苦労しませんのよ」
私たちは小さく笑い合った。
笑いながら、私は胸の奥で思う。
笑われるのは怖い。でも、笑い合えるのは少しだけ嬉しい。
★ ★ ★ ★
「本日、礼法官の視察がございます」
ミナの声が震える。彼女にとっても恐怖の存在らしい。
私は胸の前で手を組み、深呼吸を三回。
「一、二、三――」
ぱちっ。
「……四は?」
「爆ぜました」
ミナが青ざめる。
そこへ礼法官が現れた。
「まあ、なんと華やかな……。少々光が強いようですが?」
足元で、まだ燐光がちらちらしている。
「これは照明の反射でございます」
「反射なら、天井までは昇らぬはずでは?」
その声の冷たさに、背筋が凍る。
後ろでグレンが小声で報告する。
「出力、軽度」
「グレン様!」
「観測のための記録です」
「その言い方が問題ですわ!」
礼法官が咳払いをした。
「次は本番。王都の笑い者にならぬよう、心しなさい」
「……はい」
心して、爆ぜないように。爆ぜないように。
……無理そうです。
★ ★ ★ ★
大広間の扉が開く。楽団の音が響く。
無数の灯りが反射して、壁が金色に揺れる。
足が震える。
「落ち着いてください」
「大丈夫です。わたくし、今日は完璧です」
そう言い切った瞬間、グレン様の手が私の腰に添えられた。
近い。呼吸が速くなる。
「リズムに合わせて。吸って、吐いて」
息が彼の肩に触れた気がした。
ぱちっ。
ドレスの裾が光る。
「……あ」
彼が反射的に私を抱き寄せた。
小さな閃光が私たちの間に散る。
歓声や笑い声が、嫌でも耳に飛び込んでくる。
「いまのは……花火の演出でございます!」
私の声が響き渡った。
礼法官が口を開きかけたが、周囲の拍手に飲まれた。
グレン様がささやく。
「うまく切り抜けましたね」
「切り抜けではなく、芸術的演出です!」
抱かれたまま、胸の鼓動が落ち着かなかった。
★ ★ ★ ★
舞踏会の翌朝、王都の廊下はざわついていた。
「“光る令嬢”ですって。王太子の舞踏会で発光したらしいわ」
侍女たちのささやきが壁を伝う。
私は扉の陰に隠れ、ミナに小声で言った。
「笑い者になってしまいました……」
「でも、グレン様は“国が明るくなっていい”と」
「そんな理屈ってあります!?」
それでも、笑ってしまう。
恥ずかしくて、苦しくて、それでも少しだけ嬉しい。
きっと、これが共鳴というものなんでしょうね。
★ ★ ★ ★
夜、庭園の噴水のそばでひとり座っていた。
水面が星を映し、月の光が揺れる。
「ここにいましたか」
背後から声がして、振り向く。
「もう、笑い者ですわ」
「でも、誰も傷ついていません」
彼の声は静かで、少し柔らかかった。
「失敗を笑われても、あなたが笑い返せば、それで均衡です」
「……理屈っぽいですね」
「実務官ですので」
少しだけ笑った。
彼の袖口に触れたとき、風が冷たくなった。
ぱちっ。
噴水の水が一粒、光る。
「また爆ぜましたわね」
「平常値です」
彼が軽く笑う。
私はその声を聞きながら、胸の奥で小さく呟いた。
この人となら、少しくらい爆ぜてもいいかもしれません。




