3.何のために学ぶのか
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「これは、イルスランさま」
ところ変わって、騎士学校の校舎でのことでした。騎士シンドレー・アリアンロッドは思いもよらぬ客人に目を見開きます。
イルスラン・ツァラ──その名前は王の騎士団の団長として、あるいは女性初の騎士団長として、オルトラントじゅうに武勇が知られていました。もちろん首都メナージェン市ほか、王国の各地の都市では人気者と言っていいほどの人望の厚さで、並の騎士ならおもわずひざまずくほどでした。
かつてアスリンの住むヘンゼヘーゲル地方のムクロ鬼退治からはすでに九年が経っていました。イルスランは齢も四十を超え、腕自慢の盛りを過ぎたかのように思えます。ところがこの人物の力と技は健在でした。むしろ精神には深みを増し、物をよく知るようになって、より一層高みに登るかと思う輝きを放っていたのでした。
「今日〈盾の試練〉があったと思うけど」
イルスランの声は、いつも静かでした。
「はい。〈午前課〉の鐘が鳴る頃には、みなこの校庭から外に出ております」
「つまり遅かったというわけだね」
イルスランは笑いました。
「今年のお題はどうなってるの」
「《探し物》です」
「三年前が《知恵比べ》、おととしが《演武》、そして去年が《騎馬試合》だったわね」
「はい」
「今年こそは、受かるといいけど……」
シンドレーはその言葉の外にあるものを瞬時に察しました。
「アスリンですね?」
イルスランは答えませんでした。
「あなた自らが推薦状をしたためるほどの子供だというから、どれほどの……と思ったものでした。しかしあまりにも平凡な、浮かれた子でしたよ。あなたほどの方が、なぜ彼女に可能性を見出したのか……」
「シンドレー、あなたは〈盾の試練〉を何回目で受かりましたか?」
「は……二回目でしたが」
シンドレーは首をかしげました。
「では、なぜあなたはこの学校の教師をすることになったのでしょうか?」
「それは……」
青年は悔しそうに外套を開き、自身の右足だった木の棒を見つめました。義足です。シンドレーは五年前、タナウラ平原の風の民と争い、手当てもむなしく右足を切り捨てなければならなかったのでした。
イルスランは言葉を続けました。
「学校の試験で落ちるということは、だれにだってあることです。その望みに対して届かなかったという、ただそれだけのことで、いのちを落とすまでのことにはなりません。ところが、実戦はそうではない。一度の失敗が取り返しの使いことになりうる──騎士学校での失敗は、その後の糧になります。落第をしたということそれ自体は、あまり重く考える必要はありませんよ」
シンドレーはふかぶかと頭を下げました。
「仰せの通りです。しかしお言葉ですが、かれらの多くはまだ実戦を知らない……成績がすべてだと、思うのではないかと思います。たしかに成績がすべてでないでしょう。だとするなら、子供たちはなにを目指して鍛錬にはげめばよいのかわからないのではありますまいか。だから騎士学校という制度を考えたとき、ひどく不器用であることを承知で成績を付け、卒業のための〈試練〉を設けているわけです。みなそこを仮とはいえ、真剣に目標として取り組んできている。
そのなかに割り込みをさせてしまうような、あなたの人選は、だから、ひどく不公平に感じてならないのです」
イルスランは黙っていました。怒っているでもなく、悲しむでもなく、ただそこにいる人の声を聞き、ゆっくりと味わい、それから言葉を選んでいる時間がありました。
「──女は騎士になれない」
「は?」
「わたしが騎士になる頃、本気で信じられていた言葉です。当時は規則でした。貴婦人たちに礼儀を尽くすという騎士道精神も、それに拍車を掛けたのでしょう。しかし、わたしにはその言葉はひどく煩わしかった」
振り返って、イルスランは言いました。
「わたしは生まれついて特別な力を持っていました。こういうと、なにかとうぬぼれているかのように聞こえるかもしれません。しかし、この人並外れた力を、わたし自身の生まれ故郷では意味のないものとして扱われてしまいました。むしろなかったことにして、抑えに抑えて、人前ではふつうであることを強いられてきました。それを、騎士という役目は解放してくれました」
彼女はシンドレーを憐れむように、はっきりと眼差し、相好を崩します。
「ときどき、そういうことがあるのです。自らが生まれた場所に馴染むことができず、かと言って、何もできないわけでもない。なにかができると思っていても、それが発揮できる機会が与えられないまま日々を過ごすしかないような、そういう人物に、新しい可能性を見つける──それが、わたしが騎士学校という場に託した想いです。
少なくとも、わたしは騎士になることで自分を救うことができました。王の騎士団の役目を担い、思わぬ力の使い方を知りました。わたしだってそれほど順風満帆な道のりをたどっていまを生きていませんよ」
シンドレーは眉をひそめます。
「……つまり、アスリンもそのような子供であろう、と」
「ええ。あのとき、あの子もそういう気質なのだろうと思いました。それはきっと、いまの騎士学校が持っている物差しでは測りにくいものなのかもしれませんね」
イルスランの放った言葉は、少し皮肉めいた趣きがありました。シンドレー自身はその指摘を面白くは思いません。しかしまちがってはいないと感じ、だからと言ってどうにもならないだろうとも思うことでした。
オルトラントには無数の種族が生き、大きな国もあれば小さな国もあります。かれらの住む騎士の王国ウルヴエンは、またの名前を〈盟主国〉と言うほどの大国でした。
大河ラトホルのほとりに穀倉地帯を抱いて育った首都メナージェン市は、オルトラントでは随一の都市としても知られています。それはひと言で「豊か」であると、言って差し支えのないほどの栄え方でした。
その産物はおおむねシロムギとノムギ、雑穀、野菜類などの農作物が中心です。たくさんのパンとスープをつくっても余るほどの生産量をほこり、都市部では麦を使った酒やお菓子をつくって楽しまれていました。
一方で、余った農作物は他国で産出した塩や海産物、鉄や金銀、毛皮といった特産物と取引されておりました。あるところでは役人同士が国交を通じて、またあるところでは商人たちが市場で売ることによって、こうした交換が進みます。東の果てで摘まれた香草が、西の果てのとある食卓を引き立てる薬味になることもあるのです。
騎士という任務は、このオルトラントのひとびとの暮らしを安全に守り、盟主国の名において平和を維持することにその勤めがありました。したがって、単なる兵士であること以上の知識と経験と、人としての器の大きさが試されます。それは最初からそうだったわけではなく、ウルヴエンの宮廷が官民さまざまな争いごとを調停するうちに、おのずと必要とした内容だったのです。
騎士学校は、そのために、無数の競技と科目で優れた人物を育てる施設として設立されました。いまからおおよそ百年ほど前のことでしょうか。イルスランもまた、古くは騎士学校の生徒でした。そして、彼女が王の騎士団長の責務を担い、ますます女性騎士が羽ばたいていく場がつくられました。
イルスランのその活躍ぶりを、手放しで喜ぶだけの人は多くありません。なかには「古き良き騎士のあり方」を良しとして、イルスランの進める施策に反対する人もいます。それでも彼女の取り組みのほうが世に広まっているのは、いまオルトラントで起こっている異変に対して、人手が足りないからでした。
「九年前からこの方、ムクロ鬼ばかりではなくオルトラント各地で異変が続いてます。森に瘴気が湧き、けものたちが凶暴化したり、作物の出来が悪くなったりする……この時代の変化に対応するには、もはや英雄ひとりの力では足りません。われわれとしては、速やかに必要最低限の知識を持った人材を育て、世に迎えなければならない」
シンドレーの反論は、やや強い姿勢で放たれました。イルスランに対する反感だけではなく、彼女があくまで推すことをやめない少女ひとりの素質について、まだ疑問が残っているからでした。
本当に、あの子の持っている何かが、このオルトラントの異変に対して有益なのだろうか? その疑問がちがう言葉で、まるまるイルスランにぶつけられたのです。
イルスランはその真意をすっかり見抜いているかのように、静かに笑みを浮かべます。
「いずれ、わかるよ。あの子はいい騎士になれる。これは、べつにわたしが余計な世話を焼かずとも、おのずと見つけてくれることだからね」
シンドレーが口を開きかけたそのとき、早馬が校庭を駆け抜けました。その足音の必死さを察して、会話は中断されます。シンドレーが速やかに早馬の使者のもとに駆け寄ると、「どうした?」と声を掛けます。息を切らしながら、同じく騎士学校の教官であるロラン・ハルベリドは非常時を告げました。
「西の〈棘の森〉に入った子供たちが、いきなり発生した瘴気の霧に呑まれた。数名逃げ腰になって出てきたからわかったことだ。いま救助隊が向かってる」
「なんだと?」
「霧の中には何人いるの」
ロランは、イルスランの存在につかのま呆気に取られましたが、すぐに答えました。
「二十人ほどです」
「わかりました。倒れてないことを祈るしかないわね。ほかの生徒たちは? みんな〈棘の森〉?」
「……いえ。今回の卒業課題は二手に分かれた探索行なのです」
「では、もうひとつは?」
「東のアラナン侯爵領との国境にある、〈竜の顎門〉です」
イルスランの目が細くなりました。しかし彼女は迷わずに次の判断を下します。
「ただちに〈盾の試練〉を中止なさい。そして、首都に使令。第七軍団を召集し、早急に〈棘の森〉と〈竜の顎門〉に派遣すること」
王の騎士団団長の命令は、ただちに騎士学校じゅうに響き渡りました。