1.伝説のはじまり
タルゴ村の少女アスリンが、初めて騎士に出会ったのは、六つの齢の冬のことでした。
その年オルトラントでは悪天候が続き、飢饉が起こりました。シロムギが枯れ、代わりの作物も痩せたまま、みながひもじい思いで過ごしておりました。
おまけに当時は〈世界の涯〉の山々から、ムクロ鬼の軍団が降りて来ているという話でもちきりでした。タルゴ村もいつかはおそわれる、と村人たちは不安で身を寄せ合ってばかりいたのです。
不安がまさに現実のものとなろうとしたそのとき、ついに首都メナージェン市が王の騎士団を派遣し、大規模なムクロ鬼退治を行いました。命令があと一日遅ければ、この物語の主人公は生きていなかったかもしれません。しかしムクロ鬼がタルゴ村を攻め落とそうと計画したところを、王の騎士団は不意打ちし、見事にその頭領を討ち取ったのです。
騎士団が首都へ帰還する道すがら、アスリンは自分たちを助けてくれた騎士を一目見ようと街道へ見物に出かけました。そして出会ったのです。自分の運命を変えた偉大なる騎士イルスラン・ツァラと──
白銀の鎧かたびらをまとい、かしこき大鴉の濡れ羽のような黒髪を、片目が重なるほど前後にたたえて、イルスラン・ツァラは先頭を歩いていました。
見た目の凛とした感じにそぐわず、女だてらにムクロ鬼と力比べをしても見劣りしないほどの力持ちだと言われています。そしてその愛馬は白いたてがみを炎のように立たせていて、そのために〈銀ほむら〉と呼ばれていました。
そのイルスランが自分を見つめる短髪の少女に気づいたとき、まるで物思いから覚めたようにハッと目を見開きました。そして、隊列を止め〈銀ほむら〉の背を降りました。
アスリンは、まさかイルスランが自分を目当てにやってくるとは思っていません。だからついにイルスランが目の前にたどりつくと、目を丸くして見上げるばかりでした。
「あなたは、名前は?」
アスリンは口をパクパクさせていましたが、なんとか自分の名前を言いました。イルスランはそれをじっくり味わうかのようにうなずき、しばらく黙っていました。
やがて口を開くと、「あなたは良い騎士になれる。大きくなったら首都に来なさい。騎士学校が迎える。王の騎士団長イルスランの名で約束するわ」と言ってのけました。
当然、村では大騒ぎでした。なぜならアスリンはタルゴ村の鍛冶屋の娘で、その後継ぎになるとみんなが思っていたからです。
しかし全く思いがけず与えられたこの選択肢に、アスリンは目を輝かせて飛びつきました。何度親や周囲の反対にあったか、数えきれないほどでした。しかしアスリンは十の齢には首都に向かい、王の騎士団になるべく騎士学校に入ることとなったのです。
それから四年が経ちました。
ところが、アスリンは残念なことに〝良い騎士〟になってはおりませんでした。
「なんで!」
大きな声が、首都メナージェン市の郊外にある騎士学校の庭に響きます。砦を囲む石垣に声が当たってこだまするほどの大声でしたが、だれも驚きませんでした。
「そう言ってもね」と口を開いたのは騎士学校の教官でもあるシンドレー・アリアンロッドでした。「アスリン──きみはもう、これが最後のチャンスなんだ。今度〈盾の試練〉に落第したら、きみは騎士をあきらめてもらうからね」
シンドレーの言葉は厳しいものでしたが、嘘はありませんでした。
騎士学校に集められた見習いたちは、まず王の騎士団になるためにさまざまな訓練を課されます。剣術をはじめとする武器の使い方の訓練だけではありません。重い鎧を着て走ることや、崖のぼりをすること。馬と心を通わせ遠駆けすることや、身の回りの道具の手入れをすること。ほかにもこの世界オルトラントにおける危険についての知識と、宮廷での立ち振る舞いなど、数えきれないほどの科目が待ち受けているのです。
その集大成が〈盾の試練〉でした。
この試験に合格しなければ、騎士になることが許されません。たとえどんなに日課が良くても、日々の成績を認められたとしても、十五の齢までに〈盾の試練〉を合格しないと退学、というわけでした。
アスリンは、もうじき十五歳になります。ですが、それは同時にアスリンにとって、騎士となる夢の終わりを意味していました。
入学してすぐ〈盾の試練〉を受かる子もいました。アスリンも最初はそうなると自惚れていたわけです。
しかし現実は厳しいものでした。
あるときは知恵比べの問答で、
あるときは技術不足で、
またあるときは対戦相手が強すぎて……
さまざまな理由で彼女は落第し、この齢までのうのうと過ごしてしまいました。
それをわかっているからこそ、信じられないという思いがいっそう強まります。
ぶっちょう面のアスリンの、その背後からくすくすと笑う声がありました。
「見てよ、年長組のアスリンだわ」
「教官からまたお説教かァ?」
「なんであんなやつが、ねぇ」
「……イルスラン様も、今度の予言ばかりは見当はずれだったわけか」
最後のひと言は、アスリンにとって聞き捨てなりませんでした。振り向いた先の、亜麻色髪の少年に向かって彼女は言います。
「オガム、いまの発言取り消せ」
オガムは年少組ですが、今年入学した騎士見習いの中ではきっての実力者です。アスリンの態度に鼻白みましたが、引き下がるわけにはいかなかったのでした。
「嫌だったらな、自分が〈試練〉を突破すればいい話だろ?」
「……ッ!」
アスリンは拳をにぎりました。しかし、拳はそのまま動きません。「今に見てろ」とぼそっとつぶやきました。それっきりです。
そのうち、ぞろぞろと人が集まりました。見回して数えることができたなら、きっと百人近くいたことでしょう。騎士学校のほぼすべての生徒の数に匹敵しました。
「みんな集まったか。では説明始めるぞ」
シンドレーが見回すと、コホンとせき払いをひとつしました。
「今度の〈盾の試練〉のお題は《探し物》だ。いまから謎かけの詩を読む。みなよく暗唱し、三日後の夜、郊外の教会が鳴らす晩課の鐘が鳴るまでに、この謎の示すものを持って帰るんだ──
近くにあるのに遠いもの。
手の届く場所にあるのに、
手を伸ばさないと届かない。
ここにはあるが、
ここを離れて初めて気づくもの。
森や洞窟や暗闇に進んで得られるもの。
その証をここに示せ。
──いいな! 三日後に戻らなかったら無条件で失格とするからな!」
騎士学校の生徒たちは、みな一斉に敬礼をとりました。
すでに何かが見えた生徒数名は、迷うことなく城門から外に出ます。その動きを見て従うように出ていく生徒も大勢いました。
ところが、アスリンは動こうとしません。彼女と同じように動かなかったものが、他に十名ほど──そのなかにオガムもいました。
「……驚いたな」とオガムは言いました。「まさか、この謎かけの意味に気づいたのか?」
アスリンは無言で振り返りました。
「いまの謎かけで、最初に動いた人間はきっと合格する。でも、その後ろからついて行ったやつはダメだ。この謎が何を問いかけているのかをまったく理解してない。だれかが出した答えをなぞるだけじゃダメなんだ。この試練はそういうふうに出来ている」
アスリンは目を丸くしました。
「あ、そういうことだったの」
「……え?」
「いや、あたし謎解きにがてでさァ。ぜんッぜんわかんないから、どこ行けばいいかわかんなかったんだよ〜」
オガムは肩透かしを喰らいました。それを背後からカラカラと笑う声がします。
振り向けば、金髪のくせ毛の少女が、腹を抱えておりました。
「あッきれた! でもそういうのきらいじゃないよ。わたしはミレディ。ねぇ、アスリン。あなたわたしと組まない?」
「うん。いいよ」
「そこのボーヤもどお?」
オガムは口を尖らせました。
「なんだよ、ボーヤって。あんたおれの二つ上なだけだろ!」
「あら。年上は敬うものよ」
「だったらそこのアスリンは最年長だ」
「ま。これは失礼しました……」
「いいよ。ここの年長組は落ちこぼれみたいなものだから」
屈託なく笑うアスリンの表情に、ミレディもふしぎと打ち解けられる気がしました。オガムも少しためらっていましたが、しぶしぶと握手の手を差し出します。
アスリンはしばらく見ているだけでした。しかし、やがてオガムの手のひらをぴしゃり、と叩くと、ニヤッと笑います。
「自分で〈試練〉を突破するんじゃなかったの?」
「ケッ。嫌なやつ」
ミレディがあいまいに笑います。
「お互いさまね──さあ、行きましょう」
「あ、まって」
アスリンは居残り組を見て回って、それからあとひとり連れてきました。長身で無口そうな少年がそれでした。
「あたしの同級生のレジー。弓の使い方がうまくて、目がいい。せっかくだから受からせてあげたいんだよね」
あっけらかんと言うアスリンに、ミレディが眉をひそめます。
「ちょっと。それで合格ってできるの?」
「大丈夫。だって、必要なのは《勇気》だから」
またひとり、やって来ました。その人は、黒髪で、灰色の目をしていました。
「ぼくはゼルード。仲間にしてくれない?」
「いいよ」
「おいッ」とオガム。
「答えを知ってるなら、仲間は多いほうがいい。そうでしょ?」
だれも言い返しませんでした。これがのちの王の騎士アスリンと、その仲間たちの伝説の始まりだったのです。