プロローグ
「桃太郎殺人事件」は冤罪請負人・恵美常勝と多摩翔コンビが主人公の短編小説。
桃太郎が殺された! という一発屋的なアイデアを思いついてから、かなり無理をしながらプロットをつくった。
坂東太郎の異名を持つ利根川が運んで来る豊かな水流は、関東平野を北から東へと潤し、太平洋へ注いで行く。利根川水系には八百十五の支流が存在するが、二次支流、分流であっても大規模な河川となっているものがある。
茨城県神栖市須田新町を流れる利根川水系のひとつに「春川」と呼ばれる河川がある。昔は「波流川」と書いて「はる川」と呼んでいたようだ。満潮時になると太平洋の海水が河川へ逆流し、水位が上昇することより、波(海)が流れ込む川という意味で「波流川」と名付けられた。
月曜の早朝、山口恵市は愛犬の柴犬、マリを連れて春川の河川敷にやって来た。
朝の散歩だ。最近は日の出が遅くなり、愛犬を連れて家を出る頃、辺りは真っ暗だった。気温がぐっと下がって、朝晩は冷え込むようになっていた。
今朝は厚着をして来た。河川敷の散歩道に着いた頃、ようよう夜が白み初め、背中に陽の暖かさを感じることができた。
散歩道を歩いていると、視界に異様な物体が飛び込んできた。
人の背丈ほどもありそうな大きさだ。河川敷の中央に丸く薄いピンク色の物体が置かれていた。朝陽にきらきらと輝いていた。なだらかな丸みを帯び、頂点が尖ったピンク色の物体は、巨大な桃に見えた。
山口は当たり前のように「桃太郎」のおとぎ話を思い浮かべた。
(春川の上流から巨大な桃が流れて来たのだろうか?)
マリは河川敷に忽然と現れた巨大桃に興味津々の様子で、リードをぐいぐいと引っ張って近寄ろうとする。マリに引きずられる形で、山口は桃に近づいた。
――作り物?
桃は山口の胸の高さまである大きさだった。遠目には桃そっくりに見えたが、近づいてみると張子の桃であることが分かった。しかもご丁寧に、真ん中で二つに割れるようになっている。この大きさなら体を丸めれば、大人一人、楽に隠れることが出来るだろう。学芸会か何かで、桃太郎の芝居をやる為に紙と木で作られた張子の桃のようだ。
(なんだ、張子の桃か。こんなところに捨てるなんて困ったものだ。中に何か入っているのかな?)興味が湧いた。
桃の頂点部分に鍵爪型の小さな金具があった。金具を外すと、桃がぱかっと二つに割れる仕組みだ。舞台上で、お婆さんが桃を切る時に使うのだ。
傍らで、桃が割れるのを待っているかのように、マリがお座りをしていた。
山口は桃の頂点部分の金具を外した。
勢いよく桃が二つに割れる姿を想像していたが、何も起きなかった。桃の中に何か重たい物が詰め込まれているようだ。重みで桃が二つに割れないのだ。仕方がない。山口は桃の頂点部分に力を込めて、無理やりこじ開けて中を見た。
「うわああああ――!」
山口は悲鳴を上げて飛び退いた。そして、体勢を崩して尻餅をついた。マリが山口の大声に驚いて、「わんわん!」と桃に向かって吠えた。
山口はマリのリードを掴むと、四つん這いになりながら桃から逃げた。
桃の中に、男が背を丸めて座っていた。痩せた小男で、まだ若い。首をやや上に傾け、上から覗いた山口を見上げるように座っていた。肌が土気色で、目には精気が感じられず、だらしなく開いた口元から、舌先がべろりと力なく垂れ下がっていた。
一目で男が死んでいることが分かった。
「た、大変だ、大変だ~!」喚きながら、山口は駆けた。
愛犬と散歩をするだけだったので、携帯電話を持って来なかった。近くに公衆電話は見当たらない。携帯電話が普及したお陰で、最近は公衆電話を探すのも一苦労だ。公衆電話の設置台数は最盛期の二割にまで落ち込んでいるという。
散歩道に駆け上がると、折よく、愛犬の散歩に来ていた男性と出会った。マリが勢いよく男性の連れた犬に駆け寄る。男性は携帯電話を持っていた。山口は事情を話して、男性に警察に通報してもらった。
直ぐにパトカーと救急車が駆け付けて来た。
警察官に救急隊員、消防隊員に野次馬まで加わって、早朝から河川敷に人だかりが出来た。河川敷にぽつんと置かれた桃の周りに、ブルーシートが張られた。河川敷に置かれた張り子の桃の中で死んでいたのだ。自殺や事故とは考え難い。
救急隊員が、桃の中の男性が既に死亡していることを確認した。男性は三十歳前後、財布や携帯電話など、身元を証明できる物は所持していなかった。
シャツにジーンズと言うラフな格好だった。上着が無いと寒い時期だ。財布や携帯電話は上着のポケットに入っていたのかもしれない。
死因は窒息死と思われた。
首の周りに絞められた形跡が残っていた。頭部にうっ血が見られ、頚部を圧迫されたことにより死亡したようだった。