龍駆ける
傘を忘れてしまった。
お天気の御子はきちんと夕方には崩れると教えてくれていた。だからこれは私が図書室で夢中になりすぎた結果だ。自業自得だとわかっている。
憂鬱な気分なのも自分のせい。でも、だからこそせめて期待したい。
こんな激しい豪雨なのだから。
我が国の都は山の中腹を切り開いて作られている。争いを避けて逃げた結果である。その山頂には小さな学園都市があって、私はそこに通っている。
将来の夢は外交官だ。そのために勉強することはいっぱいある。時間はいくらあっても足りないし、彼らのことを本当に知りたいならもっと知識が必要だ。
勉強は好きではないけれど、これも夢のためだと思うならば頑張れる。それに学ぶことが彼らのことならば、意欲も倍増するというものだ。
ただ、いま一番考えるべきはこの激しい雨風の中、どうやって家に帰るかということだが。傘を持たない私は玄関の前でザアザアと耳障りな音を立てる雨を眺めるしかない。
雨はどちらかといえば嫌いだ。濡れると服に貼り付いて気持ちが悪いし、出かけるのも億劫になる。友達と遊びに出かける時など最悪だ。それでも好きな時だってある。
黒く厚い雲が運んでくる雨の匂い。
暗い空が切り取られた一筋の晴れ間。
雨上がりの虹の切れ端。
鼻の奥に広がる空気、つい顔を上げた先に浮かぶ――七色の光。
嫌いだと言いながらこんなにも愛しく思うのはきっと幼いころ見た景色に起因するのだろう。間近で見た光の奔流は今でも鮮明だ。
「悠火さん?」
ぼんやり過去に現実逃避していると、背後から呼びかけられた。私以外に誰か残っていたのだろうかと思ったが、残念ながら生徒ではない。
「石咏先生」
「もしかして傘持ってないんですか? 今日の御子さまの予報聞いてなかったんですか?」
気弱そうな男性教諭、石咏だ。
「聞いてました。でも朝方持って出るのを忘れて、そのうえさっきまで図書室に籠ってたんです」
渋々答えると、石咏はなんともいえない表情になった。言いたいことはわかる。自業自得を重ねた自分の行動にフォローも何も出来やしない。
「先生こそ、まだ帰宅してなかったんですか」
「僕は仕事です。それに傘は持ってますから」
傘のことまで言わなくてもいいと思う。唇を尖らせた私に少々面倒くさそうな顔を作っている。
「まあ、忘れたものは仕方ない。それで雨が弱まるのを待っているんですか」
「そうですー」
頬杖をついてじと目で睨みつけると苦笑が返ってくる。
「膨れないでください」
そう言いながら彼は私の横によいせ、と腰を下ろした。手に持っていた書類も置いたことから、どうやら暫く此処に居座るつもりのようだ。
「悠火さんは勉強家ですねえ。教師としては嬉しい限りです」
図書室に入り浸っていることを言っているようだ。
「将来はテンニーンの方と仕事をしたいのでしょう?」
「外交官になりたいんですよ。そのためには全然時間も足りないですけど」
口すぼみになる言葉に石咏はですよねー、と相槌を打ってくる。
「いまやエリートですもんね。テンニーンに関わる仕事は狭き門。いくらこの学園がその部門に特化しているといってもなかなか……何よりあちらの方々に気に入られないと交代を要求されますしねえ」
「ええ! 気に入らなかったら交代されるんですか!」
勢い込んで顔をぐりんと石咏の方に向けた。外交官になんとか引っかかればずっとその仕事をできるものだと思っていた。それなのに相手に気に入られないといけないとは恐ろしすぎる。
「交代まではいくのは余程相性が悪かったときですよ。通常は態度をあらためてもらいたい、と忠告がきます」
それでも忠告はされるのか、と知らなかったことを聞いて呆然とする。
「ほら、まあ、繊細な方々ですからね。見た目で嫌がる人とか、逆に熱意を向けられて困るとか、そういうことがあるそうですよ。悠火さんは……穴があくまで見つめていそうですね」
否定できない。
この世界シエルとは逆さ世界のテンニーン。そこに住まうのは私たちとは違う姿形をしている者たちだ。今は相互理解が進んでいるが、昔は大変だったらしい。討伐の対象になったり、畏れられ崇め奉られたり。
「やっぱり昔どこかで見たんですか」
風がゴウゴウと吹き荒れる。
「ええ、昔」
あの日も空は荒れ模様。
幼い私は激しい物音に怯えながらもわくわくしていた。そして両親が目を離したすきに、扉を少しだけ開けた。その瞬間家の中には激しい風が流れ込み、叩きつける雨が外を覗いた私の顔半分を濡らした。
扉の中へ入っていった風は同時に外にも出ようと暴れ、私は外へと放り出された。それくらい風の力は強く、慌てる両親の元へ戻らなければと子ども心に慌てた。けれど、けれど、嵐の中に立つことは難しかった。
「助けてもらったんです」
どうしよう、戻らないと、立ちたいのに、と無様に地面にへばりつく私に救いの手をくれたのは大きくて荘厳な方だった。風の力を和らげ、そっと私に息を吹きかけた。温かい空気が私の周りに出来て、家の方へ押し出された。
家に辿り着くと両親は慌てて私を抱きしめ、扉の向こうに頭を下げていた。扉が閉まりきる前に振り返った私はその姿を網膜に焼き付けた。ゴウゴウと鳴る風の中、その方の周りだけが七色に煌めいていた。
「そっか。貴重な体験をしたね」
「先生もこの学園を選んだのは何かあるんですか」
この学園にいる人は大体が何かしらテンニーンに対して思うことがある人ばかりだ。
「うーん、昔あっちに落ちた「落ちたんですか?」
シエルからテンニーンへ何がしかの門をくぐってしまった人や彼らを“落ちる”と言う。つい身を乗り出してしまった。落ちた人に出会ったことはない。特にここ十数年で発見された門は報告後速やかに閉じられているか、管理の対象となっている。
石咏は頬を掻きながら眉を下げた。
「僕じゃなくて、知り合いがね」
「……ああ」
乗り出した身をスススッと引いて元の位置に戻る。
「だから話はちょっとだけ聞いてね。まあ、仲良くなれるといいかなって思っているんだ」
「そうだったんですね」
身近に感じられることがあった人は多くない。きっと私はまだ稀で、よい方だ。この身にそのぬくもりを感じられたのだから。
私と石咏の間に微妙な沈黙が落ちる。
石咏の方がそう気にした風もなく外を見ているので、私も窓の外に目をやった。
荒れていた雨風は少しだけ穏やかになったようだ。まだ雲は濃いが、風音は落ち着いている。空の暗さも次第に薄れているように見える。
ふいに石咏が立ち上がる。まだ雨は降っている。
扉に向かって歩き出したので、注意しようとしたが彼の視線に気づく。固定された目線の先には空の一点が。
風がやみ、雨が上がり、雲間から光が降りそそぐ。
浮かぶ虹の更に先――感嘆が漏れる。
空へ昇る龍の姿。
時間にして数分、いや数秒だったのだろう。
だけど息を殺して見つめていた。
光に向かう優美な巨躯を――。
「……綺麗」
呆然と呟けば、やはり呆けた声が返ってくる。
「ああ……」
荒れ狂う空では時折、テンニーンの住人達である龍や竜が遊んでいると云われる。遊びに飽きたら虹を置き土産に元の世界へ帰っていくのだ。
もし虹の向こうに彼らが見えたなら、龍縁を得る、とも云われている。
空はすでに雲一つない青空が広がっていた。