第三話
要するに、これは目の錯覚を利用した一種の子供だましだったのだ。
錯視の一つに、特定の方向から見たときに限り現れる絵というものが存在する。それを特定の時間、そして特定の位置からの光源があてられた状態で時計台の扉の前に立ったとき、鏡越しに見えるように設置しただけなのだ。
事の顛末はこうだ。
まず、午前一時から二時の間に、鐘のある所に死体に見せかけたマネキンを設置する。そうすると、午前二時を告げようと揺れた鐘にマネキンがぶつかり、時計台の近くに落ちる。今回は中だったが、時には外に落ちることもあるのだろう。
そして、噂を確かめに訪れた旅行客が「死体」に触れる直前に、警官を登場させ、その場から立ち去るよう仕向ける。乏しい明かり、実際に「死体」を見たことによる動揺、そして即座に駆け付ける警官。その三つは、マネキンを「死体」と誤認させる条件としては十分すぎるほどだ。
一度旅行客を追い払った後、素早くマネキンを片付け、鏡を設置する。そして、旅行客が死体が消える事を確認しに来るであろうことを見越して、錯視により登場する第二の「死体」が現れる時間まで時計台を封鎖しておくのだ。そうしてようやく再び拝むことのできた死体は、三時の鐘と同時に消えてしまう。
死体が現れるのが満月の夜だったのも、光源の位置を調節するためだったのだ。
「考えてみれば、連続殺人事件の可能性もあるのに警察が動いていない、その上オカルト雑誌なんてものに掲載していること自体がそもそもおかしかったんだよな」
それに、定期的に死体が現れる事を村の人々が旅行客に話すこともちゃんちゃらおかしかったのだ。
全て村の人が仕組んだ事でない限りは。
「流石ですね先輩!まさか一回見ただけで分かってしまうなんて!」
「……これは推測でしかないが、村の人々からしたら暴かれることすらも視野に入れてるんじゃねぇかな」
言ってしまえば、これはミステリーツアーと同じだ。ミステリーツアーというものは、謎が解かれるところも、ツアーなのだ。
「じゃあ景品とかあるかもしれないですね?」
「そう、だな」
数時間前の恐怖に塗れた顔とは打って変わって、今の彼は重荷が取れてすっきりしたといった表情を浮かべていた。るんるんで先を進む彼の背中を見つめながら、俺は不意に立ち止まった。
「どうしたんですか?」
後輩が不思議そうにこちらへと振り向いた。
俺は口を開きかけて、また閉じる。言おうか言うまいか、少し悩んだ。過ぎた好奇心は身を滅ぼす。今から告げようとしていることは、その一線を超えているように感じた。
それでも。閉じた口をもう一度開く。
俺は答え合わせがしたかった。
「ねぇってば。本当にどうしたんですか、先輩」
「……今回の事件は、さっきの説明で補えない部分がある」
ぽかんと間抜けな表情を浮かべた彼は、何も言わずにこちらを見ていた。
「一つが、俺の手についた血。もう一つが、謎を解いてもなお現れない警官役の村人だ」
彼は相変わらず黙ったままだ。
「これが仕組まれたものであるなら、本物の血は使わないはずだ。それに、ミステリーツアーである以上、誰かが俺たちを監視しておく必要がある」
「……」
「極めつけは、俺の左手に付いた血を見たときのお前の反応だ」
「……何か言いましたっけ」
気がつけば、彼の顔から笑みが消えていた。
「『どうして血が付いているんですか』……これは、俺があの時死体に触っていない事を知っていないと言えないはずだ」
でも、知るわけがないのだ。何故なら、彼は死体を見つけた後にすぐ警官を呼びに行ったから。
「なら何故分かったのか。それは、お前がこの噂は全て仕組まれたものだと知っていたから……じゃないのか?」
そう。彼はあの時、俺の手に『本物の』血が付いていたことに驚いたのだ。そこに存在するはずのないものに。
「この血は、俺が外壁をなぞったときに付いたものじゃない。中を見ようと抵抗するお前に触れたときに付いたものだ」
そう言って、間髪入れずに彼の腕を掴んだ。丁度隠れていた内側部分には、べったりと血が付いていた。
「この血がどこで付いたのかは俺には分からない。でも少なくとも、お前の目的があの警官たちを殺すことだったのは分かった」
沈黙が流れる。今度は俺が黙る番だった。睨み合いのような時間が続いた後、彼は大きなため息をついた。
「この血は見せしめのために一人殺した時のものでしょうね。先輩に会う前に拭いきったと思ったんですけど、まさかここまで付いていたとは」
てっきり汗かと思ってました。彼はそう言って、力なく笑う。
「ここは僕の生まれた場所なんです。今でこそ『消える死体』だなんて馬鹿げた噂と仕掛けになってますけど、昔は本当に人を殺してたんです。生贄として」
彼はぽつぽつと話し始める。
荒れ狂う神を諫めるために、なんていうのは口実で、実際は口減らしのために、この村は満月の夜に一人殺していたという。生贄になる人は役員でない者の中から選ばれており、ある日、彼の家族から妹が選ばれたらしい。
「どうにかして身代わりになれないかと思ってこの時計台まで走ったら、既に妹は死んでいました。泣きじゃくる僕に、彼らは言ったんですよ。『これで役立たずが一人減った』って」
その後親を説得し、無理やり村から引っ越したのだという。彼としても、復讐心はあれどそれを実行するまでの力が無かった。
「もういいかななんて思い始めていたころに、あの記事を見つけたんです。初めて目にしたときはもう腸が煮えくり返る思いをしましたよ」
妹を殺した上に役立たずなんて罵った村が、その伝統を美化させて観光客を集めようとしている。確かに、そうなっても仕方がない。
「だが殺人は違うだろう」
彼の目を真っ直ぐと見つめる。視線が帰ってくることはなかった。
「お前は、当時妹を殺した奴らと同等になり下がったんだぞ」
「いいですよそれでも」
ふっと顔をあげる。ようやくかち合った視線は、なんとも一方的な恋のようだった。
「小さいころの夢が叶ったんです。だからもう、僕はこれ以上生きるつもりはありません」
不意に、腕を掴んでいた手を乱暴に離される。もう一度掴もうと伸ばした手は、器用にかわされた。
「さようなら、先輩。先輩との旅、楽しかったですよ」
彼は自分の喉に血まみれのナイフを突き立てた。