第二話
頭の中が真っ白になるのが手に取るようにわかった。必死に記憶を遡るが、時計台の中に入った後、何処にも触った覚えはなかった。血の付く要素など、どこにもなかったはずなのだ。
「どうして血が付いているんですか……?」
左手を凝視する彼の声は震えていた。暫く呆然と眺めていたが、不意に一週間前の後輩の言葉が脳裏をよぎった。
——毎回、決まって満月の夜午前二時に現れて、三時になると消えるんです。
——しかも消えるのは死体がそこに存在したという証拠全てですよ。
「マズイ……!」
後ろで戸惑いの声をあげる後輩を置いて、俺は全速力で先程の時計台へと戻った。後輩の連れてきた警官に流されてそのまま忘れていたが、この謎の不可解な点は「決まった時間に死体が現れ、決まった時間に死体が消える」ことだ。解きたければ、消えるところも目撃しないと意味がない。
時計台が近づいてきたところで、大きな文字盤を月明かりを頼りに読む。時刻は二時五十五分。ギリギリだ。
最後の急な上り坂を息を切らしながら登り切る。息を整えるのもそこそこに、時計台の扉を勢いよく開けた。
「まだ、ある」
死体は確かにそこに存在した。綺麗に横に寝かされたそれは、まるでただ眠っているだけのようにも見えた。一つ疑問に思うことがあるとするならば、ここにいるはずの警官が全員居なくなっている事だろうか。
「消える死体」に比べれば些細な事だ。どうせ一度帰るか何かしたのだろう。そう言い聞かせて、俺は時計台の中へ足を踏み入れた。途端に、カチリ、と音が鳴る。
——ゴーン。
鐘の音が鳴り響く。想像以上に大きいその音に気を取られて思わず上を向く。慌てて視線を元に戻すと、先程まであったはずの死体が消えていた。
「これが、『消える死体』……」
ほう、とついた息は果たしてどの感情から出たものだったのか、俺には分からなかった。
扉から手を離し、足元を確かめるように一歩踏み出す。実は消えたと錯覚しているだけで、本当はまだそこにあるのかもしれない。そんな思惑とは裏腹に、時計台の中には本当に何もなかった。
「ありえない」
梯子に登り、最初に見つけた血痕らしきものすらも消えていることを確認した俺は、思わず口をついて出た。
冷静に考えて、こんなことがあり得るはずがないのだ。確かに、鐘が鳴るその直前まで、死体も血痕もそこにあった。目を離した一瞬でその全てを消すことなど到底不可能なはずだ。
梯子の踏桟に座り込む。身体が疲れていることに今更ながら気づき、暫くそこから動けそうになかった。
「先輩?」
扉が開き、後輩が中へと入ってきた。てっきり居るはずの俺が居ないことに戸惑ったのか、辺りをきょろきょろと見渡しているのが黒い影で見て取れた。
「ここだ」
「どんな所に居るんですか。降りてきてくださいよ」
降りられるのならそうしたいが、生憎足が動きそうにないのだ。彼の言葉を無視して、俺は先程見た奇妙な光景をかいつまんで話した。
話し終えた後、彼は暫く黙りこくっていたが、やがて消え入るような声で言葉を紡いだ。
「帰りませんか、先輩」
話を持ちかけたときの意気込みは何処へやら。だがまあ無理もない。彼だってきっと冗談半分だったのだろう。
微かな遊び心と、俺に冗談だと一蹴されたことによる反骨精神。恐らく彼をここまで連れてきたのはそのちょっとした出来心だ。いざ、本当にこの摩訶不思議な状況を目の当たりにし、さらにここに長くいればいるほど、噂が本当だったと認めざるを得なくなる。
それがどれほど恐ろしいことか、容易に想像が出来た。人間は皆往々にして、説明の付かないことを体験してしまうと恐怖を感じるものだ。
「俺は帰らない」
けれども、その状況に身を置いたとき、燃えてしまう人間が一定数存在するのもまた事実。俺は、後者だった。
「折角面白い謎が目の前に現れたんだ。今更身を引くつもりは毛頭ない」
こちらを見る後輩の顔は、どこか泣きそうに見えた。
「わ、かりました。じゃあ僕も残ります」
残るので、ひとまず降りてきてくださいと言葉を続ける。「怖いのか?」なんて冗談を言ってみると、彼は素直に頷いた。どうやら余程応えたらしい。
流石に可哀そうに感じたので、降りてやることにした。最後の一段から足を離すとき、不意に左手が手すりを滑った。
「おっと」
幸い滑ったとて怪我にもならない程の高さではあったのだが、近くにいた後輩が慌てて身体を支えてきた。
「大丈夫ですか!?」
「これくらい何てことない……が、今ので一つ思い出した」
首をかしげる彼を横目に、徐に左手を懐中電灯でかざす。そこには、鉄錆に混じって乾いた血が残っていた。
思わず笑みを浮かべてしまった。傍から見ればただの変な人だろう。現に、隣にいた後輩からは奇妙な目でこちらを見つめられていた。
「怖いですよ、先輩」
「悪い悪い、思わずな」
だが許してほしい、その言葉は流石に口にはしなかった。
三時になると、死体と死体があったという証拠が消える。だが、今俺の手にある血痕は、確かに死体があったという証拠に他ならない。意図せずとはいえ、噂に抗うことが出来た、その事実が何よりも嬉しかったのだ。
問題は、この血がどこで付いたかだ。
時計台を張り込み始めたあたりからもう一度、記憶を遡ってみる。
俺が手のひらの血に気づく前にこの辺りで触れたのは…………ただ一つ。
「そうか、時計台の外壁!」
あの時感じたぬめりが血だったとするならば、もしかすると血痕が残っているのかもしれない。だがそんな期待とは裏腹に、外壁に付いていたであろう血は何一つとして見当たらなかった。
意気消沈して再び時計台の中に帰ってきた俺を見て、後輩は眉を八の字にした。大方、求めていたものが見つからなかったことを察したのだろう。彼からの視線には憐れみを感じた。
「あるはずなんだよな、何かが」
もう一度ぐるりと中を確かめる。いつの間にかかなりの時間が経っていたのだろう。上から差し込んでいた月の光がもうすっかり無くなっていた。
すっかり暗くなってしまったそこをぼんやりと懐中電灯で照らしながら、しばし考える。
「……ん?」
手持ち無沙汰に懐中電灯を振り回していると、ある地点で何か違和感を覚えた。微かにだが、光が反射しているのだ。近寄って確かめてみると、入口の反対側、丁度死体のあった付近の壁が、鏡になっていた。
「何か見つかりました?」
「あ、あぁ、ここに鏡が」
そういって指差すと、後輩は鼻先がくっつくんじゃないかと思うほどの距離でそれを確かめた。訝しげに眺めていたが、光がないせいで鏡かどうかの判別が出来ないからだと気づき、慌てて彼の方へ懐中電灯を向けた。
「本当だ。不思議ですね」
大して不思議そうでもない声色で話す。きっと、これが「消える死体」と何の関係があるのかが分からないのだろう。
「お前はさ、錯視って知ってるか」
「知っていますよ。目の錯覚で起こるやつですよね」
それが何か、と尋ねてくる彼を無視して、俺は鏡と反対側の壁を照らした。
「謎は、解けた」
そこには、塗料で塗られた色とりどりの壁があった。
次回は3/28の0時に投稿します。