続・恥
こんばんは。 …
……
町上春希です。
えー、だいぶん前のことなのですが、ある友達ととあるバーで飲んでいるときに、僕は彼にこんなふうなことを言われました。
「おい町上、俺さ、この前おまえのラジオの番組で、『こんばんは』、のあとすぐに隣のキッチンの冷蔵庫にアイスクリームを取りに飛んで行って、急いで戻ってきたら、『町上春希です』に間に合ったぞ」
とまあそんなふうなことを、彼は僕に言ったわけです。僕はそれを聞いて、「いや、間に合うわけないだろ」と、当然彼に言いました。だってそうですよね。「こんばんは」と「町上春希です」の間に、隣の部屋までアイスクリームを取りに行って帰ってくるだけの、そんな時間の余裕があると考えるのは、たとえるなら家で飼ってる水槽の中のカエルがクロールで泳いでいるのを目撃するようなものです。今のたとえはあるいは伝わりにくかったかもしれませんが、つまり僕が言いたいのは「そんなことは常識的に考えてありえない」ということです。しかしそれでも、彼はあくまで間に合ったと、僕に対して主張をしつづけました。それで僕もそこまで言うなら一度ためしてみるよと約束して、その日は別れました。
それから三日か四日ほど経って放送日になり、僕はキッチンの隣の部屋のテーブルの上にラジオを置いて放送が始まるのを待ちました。そしていよいよ午後7時になって、放送が始まり、こんばんは、という僕の声が、ラジオから流れてきました。僕はそれと同時に立ち上がり、急いで、隣のキッチンにゆき、そして冷蔵庫の冷凍室を開けて、ハーゲンダッツをさっと手にし、また急いで元いた部屋に戻ってラジオの前に立ちました。結論から言うと、間に合いました。僕がラジオの前に立つとほぼ同時に、そこから「町上春希です」という僕の声が、たしかに聞こえてきました。僕は、軽くショックを受けました。いや、ショックとまでいうと、いささかオーバーかもしれない。だけど、かなりびっくりしたというのはたしかところです。まあこの年になると、普段の生活の中でびっくりするようなことは若い頃に比べて少なくなってくるものなのですが、というのも僕ぐらいの年齢になると、人生に起こりえるだいたいの出来事というものは、もう以前になんらかの形で(それは一見その後のものとは関係のないものに見えることもあるでしょうが)経験してしまっているからというのがおそらく一番の理由だろうと思います、まあそういうようなわけではっとするようなびっくりする出来事というのは、僕においてもずいぶんと少なくなったなということは日頃実感としてありました。しかしそのとき、久方ぶりに、かなり僕はびっくりしました。しかしこのびっくりするという感覚は、小説を書く人間にとってはじつは大事なものなんです。何かに驚く、はっとする、そういった経験によって心に刻まれた記憶が、小説を書いているときに適切なタイミングでぱっと出てきて、そして小説の中のあちこちに描き込まれたそういったものたちが、作品世界全体を活き活きとした豊かなものにするわけです。ですから驚くということ自体は基本的にはネガティブなものではありません。むしろ、僕にとって歓迎すべきものといってもいいかもしれない。しかしこの場合、僕の気分はいささか複雑でした。なにしろ、「こんにちは」と「町上春希です」の、その間の時間に、隣の部屋の冷蔵庫に、アイスを取りに行って戻ってこれ、そしてこの「こんにちは」も「町上春希です」も、それを言っているのはあろうことか、もちろん言うまでもないことなわけですが、この僕なわけです。ですから、驚きの気持ち以外に、他にも様々な感情が、僕の胸に沸き起こりました。あえてここではその感情について具体的に申し上げることはしませんが、ただそのとき僕の顔はずいぶん紅くなっていたのではないでしょうか。そして汗、額のあたりから流れてきた汗が、ずいぶんくすぐったかったことを憶えています。さて、それから僕は手のひらで口を覆いました。そしてその場に立ちつくしたままテーブルの上のラジオを見下ろしました。その間にも番組は進行してゆき、そしてジョニ・ミッチェルのリバーが流れてきました。僕は口を覆ったままため息をつきました。そして「まいったなあ···」とつぶやきました。僕はこの町上radioがいったいこれまで何回放送されたか考えてみました。二十回、以上。······ 額から、また汗が流れてきて、頬の上を流れてゆきました。そして、「こんばんは」と「町上春希です」の間にアイスをとりにゆく友人の姿が頭に浮かびました。僕はぐっと左の拳を握りました。僕は基本的に、腹を立てることの少ない人間です。性格は、こういったことは本来自分で言うことではないのでしょうが、まあずいぶん穏やかな方ではないかと思っています。しかしそのとき僕は手のひらに爪の跡がしばらく残るほど、強く拳を握りしめていました。そしてもし小さな子供がそのときの僕を見たら、びっくりして泣き出してしまうんじゃないかというような、そんな顔をしていたのではないでしょうか。つまり、僕はそのとき、その友人に対して、かなり、腹を立てていました。なぜ、彼はわざわざそんなことをしなくてはならなかったのか。たしかに取りに行く時間はあったかもしれない。だからといって、そんなことしなくてもよかったのではないか。彼は黙って、そこを動かず、「こんばんは」の後の「町上春希です」を、ただじっと、待つこともできたはずです。ではなぜ「わざわざ」彼はそれをしたのか。わざわざ。
握った左の拳も、口元を覆う右手も、ぶるぶると小刻みに、震えました。そしてそんなことに思いを巡らしているとき、ふと、何千何万という数のこの番組のリスナーが、神宮球場を埋め尽くす大観衆として、僕の頭に浮かんできました。そして彼らの中のおよそ1割の人が、例の「間」に、「何か」を、していました。さっとラインのチェックをするもの。指先でまつ毛を整えるもの。明日の予定をさっと頭に思い浮かべる者。ルーティンと化したようなその行為は、ずいぶんと板についています。そして最初1割だったその数は、徐々に2割3割···6割7割と増えてゆき、そしてとうとうほぼ全員、9割9分の人が、その「間」になんらかのルーティンをやるに至りました。僕は口元を覆っていた右手で、両頬を強く挟み込みました。汗が、額全体にじんわりと滲んでいるのがわかりました。そして顔の紅潮、火照りはいよいよ激しく、指先に挟み込んだ頬から伝わる熱は、まるでトースターでこんがり焼いたまるぱんでも挟んでいるみたいでした。僕は口元を覆っていた右手を離し、目を強く閉じて、上の歯と下の歯を合わせて口をぐっと引き伸ばし、そして息を止め頭を前に垂れて体が少し丸まるようにしました。そのようにして、僕は彼らの心の中にあるであろう、鼻からふっと軽く短く息を吐き出させ、口の端をわずかに歪ませる、彼らをそんなふうにさせる気持ちに、彼らの心の中にあるであろうそんな思いに、耐えました。
それから二月ほどが経って、僕の気持ちはだいぶん落ち着いてきました。「こんばんは」と「町上春希です」の間に「何か」をしている人がいるという事実は、たしかに僕にかなりのショックを与えました。というのもその友人の告白(いえ、それは告白というような性質のものとはちがうのかもしれません。というのも彼がそれをしたときの様子はというとあの告白者特有の神妙さ、ためらい、緊張、といったような、そういった厳粛な雰囲気などまるでなく、いやまるでないとまでは言えないかもしれない、しかし告白者というものは本来そういった雰囲気が顕著にあって、告白者の「成り立ち」というものはそれによって決定づけられているといっても過言ではないかもしれないというぐらいのものと僕は考えているのですが、それにしてはそういった要素は、彼がそれをした(言った)ときの様子には弱すぎるように思いました、むしろ僕はそれをした(言った)ときの彼の様子の中で最も目立っていた、つまりその言動の性格を決定づけていたものは、全体の、その彼の佇まいみたいなものの、浮ついた感じ、弛緩した感じ、そして、口の端の、ちょっとした、歪み、であり、これらはどうにも、いわゆる告白者というものにはふさわしくないもののように思われました)を聞くまで僕はそのような人がいるなどという考えは思いつきもしなかったからです。「何か」をしている人がいる。それはまさに青天の霹靂でした。それで僕はつい、最悪な方向に想像力を働かせてしまったのです。まだそれをしていると確定している人はその友人一人だけであるにもかかわらず、まるでラジオのリスナーすべてが、それをしている、しかも口の端を、変なふうに··· 変な、ふうに··· 歪めながら··· それをしているというふうに、僕は想像してしまったわけです。しかし時間の経過とともに落ち着きを取り戻すにつれて、
待て待て、町上、冷静になろうじゃないか、たしかに、俺が考えていた以上に、というよりも「考えもしなかったことに」、「あの間」には、それを知って思わず言葉を失ってしまったほどの分量の時間が埋め込まれていた。これは事実だ。なんといっても、「こんばんは」のときにはとなりの部屋の冷蔵庫の冷凍室の中のものであったところのアイスクリームが、「町上春希です」が言われる前、あるいは言われたとほぼ同じ時には、元の部屋のラジオの置かれたテーブルの上にあるものになるという、まさにその「状態の変化」はいかに言葉を弄したところで、「そんなものは些細な変化である」というふうに言ってしまうには、いくらなんでもかなり無理があった。つまり、あのアイスクリームは、「こんばんは」と「町上春希です」の間に、「些細」というには大きすぎる距離の移動とその置かれた環境の変化を経験したのだ。そんな事実に直前して、たしかにそのとき俺はかなりぞっとした。そして同時に、それと知らずにそれが二十何回も繰り返されたらしいという事実も、否応なく目の前に突きつけられた。そしてさらに時を同じくして、俺だけがそれを知らず、何千何万のリスナーたちは、みんな知っていて、「その間」のあいだに、口の端を変なふうに歪め、鼻からふっと息を漏らし、そしてなんらかのルーティン、明日の予定をふと思い浮かべる、さっと両手のネイルのチェックをするなど、そんなルーティンをやる姿が、思い浮かんだ。顔が熱くなる。ほほを挟んだ右手が震える。しかし冷静に考えてみろ町上。「あの間に何かをやっていた人間がいたとして、しかもそのとき口の端がいささか変なふうに歪んでいたとして、いったいそれがなんだっていうんだ?ええ?たしかに思った以上に空いていた。といっても放送自体はそれまでも俺自身何度も聞いていたのだ。そして初めて自分のあの「間」を収録後に聞いたとき、たしかにぞっとしたことは素直に告白しようと思う。しかし二度三度とそれを聞いてみたところ、だんだんと、それほどのものではないような気がしてきたのだ。つまり慣れだ。慣れによって俺はあれが「ちょっと長いぐらい」というふうに思うようになっていたのだ。慣れ。人間はなんでも慣れる。異常なものも慣れによって当たり前になり、その異常さが見えにくくなるのだ。俺も慣れていたのだ。だから人間の感覚というものはあてにならない。感覚というものは慣れによって鈍る。そこへw(例の友人をwとしましょう)があのはなしを俺にした。そして俺もそれをしてみた。予想外の結果が出た。つまり、感覚を当てにせず、実際に実験的なことをしてみないと事実はわからないということだ。そして事実は、「こんばんは」と「町上春希です」の間は、少し長すぎるということを明確に告げていた。これは事実だ。俺はこれを受け入れねばならん。
しかしだ。しかし、そういうのも含めて、俺なんじゃないか? そして、俺のリスナーたちも、それをわかってくれているんじゃないのか? それに彼らだってもう慣れているはずだ。もちろん中にはなかなか慣れず、いまだにその異常性を感じている人もいるかもしれない。慣れた人だって、ときおり、やっぱり長いなあと、あらためて思う人もやはりいるだろう。しかしそういうのも含めて、彼らはわかっていてくれているんじゃないのか?
そうだ。それが俺なんだ。うん。それで、「けっ、町上春希」と思ったやつがいるかもしれない?思わせればいいじゃないか。だってそれが俺なんだから。いいか、これだけは言っておく。俺はやめない。たしかに思ったよりも長かった。それは実験で明白になった。しかしそんなことはやめる理由にはならない。べつに依怙地になっているわけではない。自分らしくやっているだけだ。それに対して「はあ··· 町上···」みたいに思う人がいるのなら思えばいい。俺はやめない。中には「町上さん!\(^o^)/(人*´∀`)」みたいな感じになる人もいるはずだ。おそらくいるだろう。いろんな人がいればいいんだ。俺はやめない。だいたい、急に「あの間」が短くなったとしたら、リスナーはどう思う。訝しむだろう。そして「なぜ」短くなったのか考えるだろう。そしてこんなふうな結論に至る人もいるにちがいない。
あー町上のやつ、気づいたんだな··· ふふ··· しかしさぞ、お気づきになったときには、お顔の方が梅干しみたいに真っ赤になったんでしょうなあ···笑 いやもしかすると、ただ誰かに指摘されただけなのかもしれん。奥さんとかに、それとなく。もちろん気分を害さないように、いかにもなんでもないことなんだけどという口調で、気分転換に短くしてみたら、みたいな感じに、指摘されたのかもしれん。つまりいまだご本人の中では、あの長さが、とくに問題なく、機能しているのだ。だから「気分転換」が終わればまたあの長さに戻る可能性がある。そういうことかもしれない。
そうだ。あなたの言うとおりあの長さは僕の中で問題なく機能している。そんなふうに思ってもらった方がいい。途中で長さに気づき汗がだらだら顔は真っ赤という、そんなふうになって、あわてて短くしたなどと、そんなふうにとろうというのか。ふざけちゃいけない。あれが俺の長さだ。だいたい俺のファンは、俺の小説を読んでいる人たちは、あの長さに問題など感じていない。もし「長www へっwww 町上春希(笑)」などと思うようなやつがいたとしたらそいつは俺の本などろくに読んでいないし読んだとしても彼の小説には構造しかないとか言った評論家みたいに物語の表面しか読み取れなかったやつだ。ちゃんと読んでいる人はあの長さに最初はおや?とあるいは思った人もいたかもしれないが(いや思っただろう)しかし彼らと僕は信頼によって結びついている、だからそういう多少の「ん?」というような感じが初めあったとしてもすぐにそれは問題なく受け入れられる、なぜならそこには信頼関係があるからだ(あと慣れもある)、そして彼らはそれにも「これが町上だ、これが町上なんだ」というふうに「僕」を見出し、嬉しくなるだろう。町上春希のそういった一面、それを知れて彼らは喜ぶだろう。そして僕の小説とその「間」との融合を自然な意識の流れとして試みようとするだろう、そのようにして彼らは、僕の小説、そして僕自身への理解がさらに深まったと感じてくれるだろう。いわゆる「にわか」たち、なんか町上春希の新作長編が出たとかいってちょっと盛り上がってるからなんか昔この人の本ちょろっと読んでみたことあるけどもういっぺん読んでみるか、みたいな、そんなノリのにわかたち、彼らはあの「間」に接して、「えっ!? なっっっが···(笑) マジ?···(笑)」みたいな感じになるかもしれない。いやおそらくなるんだろう。そこにあるのは無理解。彼らはあれをただの「長い間」だと解釈する。そしてへらへらしながら聞いてそれっきりである。なぜそうなるのか。それは信頼関係がないからだ。信頼関係がないからあれが彼らには単なる「長い間」にしか映らず、「はっ?笑」となるのだ。そして彼らは照らし合わせの材料も持たぬ。よって深い理解に至るもへちまもない。いや、なにも僕は彼らを非難したいわけではない。ただ、縁がなかっというか、信頼関係がないので、まあそれっきりになるだろう。まあしかだかない。そしてしばらくしてふとなんとなく僕のラジオをふたたび聞くこともあるかもしれない。そのときに「あの間」が短くなっていたらどうだ?なんとなく短くしたと思われたならよいが「気づいて」「顔を真っ赤にし」「あわてて短くした」などと思われたら?冗談ではない。あれが俺の間だ。あわてて短くした?ばかな!そんな必要はまったくない!しかし信頼関係のないにわかたちはそんなふうにとる可能性があるわけだ。だから俺は絶対に短くなどしない。いや、だからというかそもそも俺はそんな理由などなくても短くしたりなどしない。だってあれが俺の間だからだ。さて、俺と信頼関係で結ばれた理解者たちも、やはりルーティンを行う人たちはいるかもしれない。といっても数は少ないだろう。今のところ、確実なのはあいつ(w)だけなんだし。それにルーティン自体はまあいいんじゃないか。正直そこは何もせず、「その間」も含めてのコミュニケーションであってむしろそこで口元も心もほころび、さあ始まったというふうな、そういう番組の入口における僕が向けた眼差し、ようこそと僕が差し出した右手ぐらいにそれを感じてほしいとは思うし実際わかっている人たちのほとんどはあそこで口元をほころばせ心の中で握手をするというようなことをしているのだろうがしかしまあ中には気短な人もある程度はいるだろうしそれはしかたがない。しかし口の端を変なふうに歪める人は、「わかっている」人たちの中にはいないはずだ。これはたしかだ。絶対いない。あいつ(w)のアレは、親しい仲ゆえのちょっとしたおふざけみたいなものでまあ友達なわけだから要するに例外だ。うん。
そんなふうに考えるようになりました。つまりたしかにあれは思ったよりも長くはあったがそれは要するに僕の個性というかあれも含めて僕だというふうに考えられるようになり、そしてちゃんとしたリスナーたちはたとえその一部が(ごく一部だと思いますが)なんらかのルーティンをしていたとしてもしっかりあれを受け入れ喜んでさえいてくれるという信頼みたいなものが僕の中にあることに気づいたからです。そうすると僕はむしろ嬉しくなってきたというかあれを言祝ぎたいくらいの気持ちにさえなってきたのでした。
さて、それからさらに数日が経ち、僕はその友達とまたバーで飲む約束をしました。我々はカウンターの席に座り、ビールを飲みながらたわいのないはなしをしました。僕はふと例のことを思い出し彼の方を向いて言いました。
「ところで、おまえが言ってた例の、アイスクリームを取りに行ったはなしだけどさ。俺もやってみたけど、間に合ったよ」
「間に合ったよ」が、少し早口になり、若干声が上ずり、噛みそうになりました。言ってしまうと、やはり多少の照れというかバツの悪さみたいなものを感じ、うんっと咳をして前を向き、ビールを口に含みました。一口飲むとグラスを口から離し、またうんっと咳をしました。彼は、どうやら僕の横顔をじっと見ているようです。もう、10秒ぐらいじっと見ています。僕は顔をちょっと上に向け、そして下げ、それから右手の人差し指を鼻の頭の上でささっと数往復させました。そしてまた顔を彼のいる方とは反対の方に上げて、喉の奥でちいさくあーという音を出しそれからうんっと咳をしました。その数秒後、彼が僕の肩にぽんと手を置きました。僕はちょっとだけびくっとなり、彼の方に向けてゆく目にひっぱられるように顔の方もかくっかくっと向いてゆきました。そして僕は彼を横目で睨むような形になりました。するとそこでは、wが、口をちょっと開けて、僕を見ていました。口の端が若干、歪んでいるように見えます。そして微妙な、あるかなきかの笑みが浮かんでいるように見えます。wは僕の左肩に右手を乗せたまま、僕をじっと、見ています。そしてwは声をひそめて、言いました。
俺さ… 今度さ…… トイレに挑戦してみようと思ってるんだ ぐふっ!……
wは言い終わるとぐっと口をすぼめ、ややうつむき気味になるといくぶん顔を紅潮させながら僕を上目遣いに見ました。腹を中心に、wの体がぐらぐら揺れます。何かを必死にこらえるような顔をしてwは体を速いリズムで揺らしながら上目遣いに僕の様子をうかがっています。僕はそんなwを真顔でじっと見つめました。するとwの体の揺れがピタッと止まり、おや?というふうな顔になりました。そして僕は彼に向かって「えっ!?」と言いました。つづけて「いや無理だと思うけど!?」と、なにかとんでもない無謀なことに挑戦しようとしている人に対して強い驚きと幾分の侮蔑が混じったような物言いをするときみたいにそれを言いました。僕は目を見開いて「いったいおまえは何を言っているんだ?」という、唖然としたような、相手の正気を疑っているような眼差しを、じっと彼に注ぎました。そしてたっぷり5秒ほども注いでから、もう一度、「いや、無理だと思うよ!?」と、彼の目をまっすぐ見つめたまま、言いました。すると彼の顔はまるで、なんらかの殺人事件において予想外の事実を聞かされ、それまでの捜査によって得られた情報をもとに推理し、築いていった事件の成り立ちに関するおおまかな見立てが、一瞬にして水泡に帰してしまった刑事みたいな、そんな、何が何だからわからず放心状態にある、というような顔になりましたが、じき、どうやら事態を飲み込んだらしく、事態の飲み込みとともにつばもごくんと飲み込みそれからあーと言いながらこくんとうなずき、そしてみぞおちのあたりに両手を持ってきて両手のひらの間隔を十センチほどあけそれからその両手の手のひらをぐっとほとんど接触するほどに寄せました。それが何を意味しているのかそのときはわかりませんでしたがその後少ししてからどうやらそれが「短い」ということが言いたかったということに気づきました。僕のあの「間」のことです。僕のあの「間」が短いということが言いたかったみたいです。そんなことをするする時間はないと、もちろんないと、言いたかったみたいです。そして彼は前に向き直り、両手を体の横にだらんと垂らしたまま、頭だけをゆっくりとカウンターの上のビールの入ったグラスに向かって垂れてゆきました。そしてグラスの縁に口が辿り着くとそこに入ったビールを吸い込んだのでしょう、ビールの水位が少し下がりました。それからまたちょっとして、ふたたび下がりました。もうそれ以上は下がりませんでしたが、彼はまだしばらくそこに口をつけたままでした。彼のその姿はまるで、しおれて花弁を低く垂れたなにかの植物みたいでした。しばらくして彼はゆっくりと上体を起こしてゆき、元の姿勢に戻ると手の甲で口についた泡をそろそろと拭いました。彼は前を向いたままこちらを見ません。なんだか口をすぼめるようにして顎がにょんと伸び目つきはというとぼんやりしているのですが、ぜんたいにこう、素っ頓狂とでもいえばいいのでしょうか、そんなふうに言いたいような雰囲気の顔をしていて、僕はなんだかいらっとしてきました。それで僕はその横顔に向かって「無理だよねっ!!?」というさらなる一撃をぶつけてやりたい衝動に駆られましたがなんとか踏みとどまりました。ところで、その日は我々二人の他にももう一人、その飲みの席に加わっている者がいました。彼は週刊文冬の記者で我々二人の共通の知人でした。しかし僕は最近は彼と距離を置くようにしていました。というのも彼は文冬の記者ですし、僕はいわゆる有名人です。つまりなんかこう、ちょっと、嫌な感じというか彼の僕に向ける何気ない視線に肌が泡立つ感じがしてしまうというか、とにかくなんかこう背を向けてしまいたい、もし町中でその気配を感じたらそのままぱっと物陰に隠れてしまいたい、というような、まあ僕は彼に対してここのところそんなふうな状態になっていたのでした。もちろんべつに何かやましいことがあるというわけではないのですが彼は文冬で僕は有名人なわけです。ですから彼(sとしましょう)といると、sのべつに他意のないはずの眼差しを受けると、つい余計な想像によって、何か俺はやったんじゃないか、俺はなんもないと思っているがなんかどこかに盲点があるんじゃないか、だいたい有名人としてやっていいこととやってはいけないことについて俺は本当にちゃんと理解しているのか。はめははずしたことはそりゃ何回かある。俺だって人間だ。しかし度は越してないはずだ。いや、そうか? なぜそう言える。人間の記憶なんて曖昧なものだし、記憶の書き換えなんて人間しょっちゅうやってるじゃないか。俺だって、度を越したことはないと思いこんでいるが、じつはそういうことがあって、ただ忘れているだけということも考えられる。あるいはどっかの時点で、自分の良心にとって都合の悪い記憶を書き換えたかもしれない。ないといえるか?絶対にそんなことはないといえるか町上?なんでそんなに自分の記憶に自信を持つんだ?なんなんだおまえのその自信は?はっきり言っておくがおまえのその欠陥だらけの記憶なんてものは信用するに値しない。つまり、俺はもしかするとやったかもしれないんだ。それ以前にだいたいおまえは何はやっていいかやってはいけないかちゃんとわかっているのか?何気なくやっていたがじつはそれが文冬に書かれるとまずい、社会的立場がなくなる、あるいはそこまでいかなくてもすごく恥ずかしい、書かれるまで気づかなかったけど書かれてみてそれを読んでみるとあらためてどうやら恥ずかしい、SNSなどでエゴサしてみて色々読んでいくと「ああそうなのか、これは··· 恥ずかしい···」みたいな、そんなふうな目に合うかもしれない。などと、疑心暗鬼と言えばよいのでしょうか、そんなような状態になってしまうのでした。ですから僕は彼をなんとなく避けていましたが今日来てみると彼がいたわけです。友人が連れてきたのでしょう。まさか帰れと言うわけにもいかずしょうがないので三人で飲んでいる、とまあこうしたいきさつなわけです。ところで我々は今カウンターに座っているのですが僕が真ん中、wが僕の左、そして例の記者君が僕の右隣りに座っていました。wの方をちらっとうかがってみると、彼は左ひじをカウンターにつき、その指先を側頭部のあたりの髪にからませ頭を軽く前後に揺らしながら、どんよりと曇った、しかしどこか張りつめたふうでもある目をして、何事かをぶつぶつつぶやいています。それは、口先でぽそぽそささやかれており、ほとんど声にはなっていないものだったので、「くそっ」だとか「からかっ」とか、そんなふうな言葉の断片のようなものがかすかに聞こえるだけでした。それで僕は彼の方は見ないように注意しながら、それとなく神経を、まるで戸の数ミリの間隙からひゅっひゅっと入り込んでくる隙間風のようなそのささやきに集中させました。するとどうやらそのひゅっひゅっという音はこんなふうな言葉を形作っていました。「なんだよ。くそっ。ちょっとからかっただけじゃねえか。おれはなんもしてねえよ。くそっ。なんなんだよ、くそっ。トイレに行って帰ってくるって時間が」そこで、彼のささやきは尻切れトンボよろしくふいにやみました。おや、と思い、横目にそちらをうかがうと、左手を側頭部の髪にからませた彼の頭のふりの方も、ぴたりとやんでおり、そして顔の方はというと、口をわずかに開けてそしてあごの方も左にわずかに曲げられたかっこうで、目は閉じられ、そんなふうにして、顔の動きも、静止しているのでした。しかし、表面上穏やかに見える彼のその顔の表情も含めた全体の佇まいでしたが、そこになんらかの「戦い」のようなものが繰り広げられていなかったでしょうか。「抗い」と言ってもいいかもしれない。すると彼の頭が、少し、沈み、それに伴い、左手の指先は、後頭部の方に、移動しました。しかし顔の表情は先程と一見ほとんど変化はありません。しかし、よく見ると、顔全体によほど力が入っているのか、顔の筋肉のあちこちが、ときおりぴくぴくと、痙攣しているのが目に入りました。そして彼は突然、激しく小刻みに頭を左右に数回、何かを振るい落とそうとするように振りました。つづけて彼は左手の指先を頭頂部にやると、今度は先ほどより激しく頭を前後に振り始めました。「やってねえよやってねえよやってねえよ、俺はからかっただけじゃねえか、からかっただけだ、ふざけるな!」そしてまた突然彼は手を下ろし、座ったまま直立の姿勢になりました。目を閉じ、唇も閉じられていますが、その唇の奥で上下の歯がぐっと噛みしめらているのが、ほほとあごの皮膚の張りつめ具合からうかがわれました。そして頭がぶるぶるぶるっと左右に痙攣するように震えました。そしてふたたびさきほどと同じ姿勢になり左手の指先を髪に巻き付け頭を前後に振ります。「やってないやってないやってないやってない!」しかしまた突然に、彼のその頭の前後の動きも左手のかきむしりも、そして顔の筋肉の動きも口を軽く開けたままぴたりと止まり、そして少しするとその顔はくしゃっと歪むと、さっと顔を上げ、目を閉じたまましばらく静止し、そして、そのままことんと、さきほどの側頭部に左手を当てた姿勢に収まりました。しかし、ピクリとも動きません。その姿から、彼が、彼の内側にあったものをすべて追い出して、それから己の周囲に壁を作り、彼に迫ってくるものすべてを決してその壁の内側に入れないようにしているのが感じられました。
さて、なぜwがそんな悲惨な状態になっているのか、僕はその時点で、うすうす勘づいていたのでしょう。そしてどうにも身の置き所のない感じがしました。実際僕は、身を縮めるように、肩をすこし内側にすぼめました。沈黙が、場を支配しています。僕は何かを話さなければならない必要性を感じました。僕はそれまでずっとwのほうばかり見てwにばかり話していましたが、wは今あんな状態なわけです。ですから、僕が話せる相手は、右隣りに座る、例の記者君しかいないわけです。僕はその記者君の方をちらっと見やりました(ちらっとです)。そして言いました。「きみは、なんかやってる?その、あの… 「間」になんだけど……」。僕は言ってしまってから、カウンターの面を、そして自分の右頬を、頭の中で殴りつけました。(なんで蒸し返す? バカめ! 町上! おまえはバカだ!)しかしもうすでに言ってしまいました。僕は心の中でため息を吐き左手で頭を抱えました。そして彼の、その質問に対する返事の声が右側から聞こえてきました。「はい。僕は先生の『こんばんは』のところでさっと顔を右に向けるんです。そしてタイミングを見計らってさっと元の位置に顔を戻しそれが『町上春希です』がおっしゃられるのとちょうどぴったり重なりましたら来月はいいネタにありつけるというふうに験を担がせていただいております」と、じつに屈託なくそんなことを言いました。それはまるで僕が「君は僕の本についてなんか書いたことある?」とでも訊いて「はい。学生時代から愛読させていただいている先生のご著書***の書評、というと私のような若輩者が申しますのははなはだおこがましいのですがそのようなものを一度書かせていただいたことがあります」とでも答えたような、じつにそんな、口調だけを聞くと奥ゆかしさとそして僕に対する深い敬意にあふれた誠実でさわやかな好青年というような調子のものでした。そしてもしその彼の姿を、何か言っているのはわかるが具体的に何を言っているのかまではよく聞き取れないというぐらいのそんな距離の場所から見ている人がいたら、その人は「おい見ろよ、あの青年。じつに気持ちのよい話しっぷりじゃないか。控えめでありながら胸襟を開いたまっすぐなすがすがしい笑顔にいかにも誠実そうなそしてはきはきとした話しぶり、まっすぐ相手の目を見ながら、いやこいつ、じつに憎らしいぐらいさわやかに話すもんだなまったく。おい、どうだ? 部下に持つんならああいう若者に限ると思わんか? いや、俺はぜひああいうやつを息子に欲しかったもんだよまったく、はっはっは」みたいな感じになったかもしれないというぐらい彼の言葉の調子はさわやかなものなのでした。さて、僕はsのそのさわやかな言葉を受けて一瞬軽く目が回りそうになりました。そしてさっと前に向き直りました。それから「お、おう……」と言いました。胸の中で、心臓がどきどきと鼓動を打つのがわかりました。正直彼のその物言いは、僕をいささか動揺させました。たしかに僕はすでに、以前のあの初めてそれを知った時の、あの「間」が想像していたような長さではなかった、例のアイスクリームを取りに行って帰ってこれたという事実によってどうやらそれは想像していた長さをかなり上回っているということを知った時のショックからはすでにとっくに回復して、あれを自分の個性、あれが俺、何も問題はない、俺の理解者はそれをちゃんとわかっているしたとえルーティーンをしている人がある程度の数いたとしてもその人たちもじつはちゃんとわかっている。いささかせっかちな性格であるがゆえにそういうふうに落ち着きがなくなるのだろうがそれはしょうがない、というふうに考えるようになり、そして今日も落ち着いた気持ちでwに例の報告をしたわけですが、しかし今、sが自分のルーティーンを、あのようになにか、毎朝の起きて体操をして顔を洗っておしっこをして朝食をとるというような、そんな「当たり前の」日常のルーティーンでも語るような雰囲気であの「間」におけるルーティーンを語ったのを受け、僕は正直図らずも動揺してしまいました。いやルーティーン自体はよいのです。しかし彼のその語りようから僕は、「当たり前」のことを言っていると彼が思っている、というふうな、印象を受けたのです。つまり、僕はルーティーン自体はあっても「実際にそれを行っている人の数は少ない」と予想していたのです。しかし彼のその言いようは僕のその甘い判断に動揺を与え疑いを抱かせ、じつはそれが相当な数に上っているのではないかというふうに僕に思わせるに十分すぎるものでした。
おいおい… 世の中の人というものは、みんなそんなにせっかちで、落ち着きがないものなのか? それとも……
僕は横目でちらっとsを見ました。sはなんてことのない顔をしてビールを飲んでいます。どきどきと、自分の心臓の脈打つ音が聞こえてきそうでした。僕は彼の口元に注目しました。口の端が妙なふうに、歪んで、いないか、横目でちらっと、確認をしたのです。…… 僕はしばらく横目に、彼の口元を観察しつづけました。そこに、あの、wが浮かべていたものと同じ歪みが、今にも現れるのを、顎の前で組んだ両手が震え出しそうになるのを堪えながら、待ちつづけました。しだいに目が霞んできました。年だな… 僕は顔を元に戻し、頭を軽く振りました。僕は、カウンターの上のウイスキーの水割りの入ったグラスを手にして一口喉の奥に流し込みました。そしてそれをカウンターの上に置かれた、最初ウーロン茶を頼んだときにそのグラスの下に敷かれていた、そしてウーロン茶のグラスが下げられたあともそのままそこに残された丸いコースターの上に、載せました。それは思った通りウイスキーの入ったグラスの底の円と、じつにぴったり同じ大きさでした。気持ちがいいほどに。そして僕が置いたグラスの底の円とコースターの円との間には、一ミリのずれもなかったと思います。というのも最初置いたときにごくわずかに向こうの方にずれていたそれを、右手の中指で手前に戻し、また手前に若干来すぎたそれを、今度は中指の爪の部分を押し当て向こう側に押し戻したからです。もちろん、グラスの上の方に当てると倒れてしまうので、底に近いところに当てて、まるで精密機械の部品の製造を行う町工場の職人が部品の金属を削るときのような慎重さと集中力とで、じりじりと、ほとんどそれを行う右手が細かに震えだすほどに、全精力をそこに込めて、僕はそれを行いました。そして、かくしてグラスはコースターの円の中に、ほとんど人間の目ではそのずれは視認不可能であろう程の精度で、ぴったりすっぽりと収まりました。僕は心の中に力強い満足の気持ちが広がるのを感じました。体の内側に力を感じました。僕は舌先で唇を湿らせながら、ぎらぎらした満足に満ちた目で、その完成した「作品」をいろんな角度から気づかれないようにさりげなく眺めやりました。思わず、顔の表面ににやつきが浮かんできて、僕はそれをまた真顔に戻します。また浮かんできて、戻します。そして、僕はふうと、腹の底から絞り出すような、しかしあまり目立たないように音は極力控えた、息を吐きました。やれやれ、まったく…… しかしまあ…… よし…… ちょっと、落ち着いた…… 僕はふと、またwのことが気になりました。それでそちらにちらっと目をやると、wが、左手の拳をこめかみに当て、体をそちらの方へ傾ぎながら、少しうつむき気味になって、柿ピーを食べていました。あごを少し前に突き出すようにして、あの三日月形のあられを、舌を使って前歯の内側に押し当てながら、その上下の前歯を微妙に細かに動かして、嚙み潰しています。虚ろな目は、あらぬ方向に据えられたまま、ほとんど動きません。wは今ではもう完全にふてくされていました。この短い時間の間に、どうやら彼の中では、そのような状況を作り出した自分の行いの具体的な姿はほぼ頭からどこかに消えてしまっており、にもかかわらず、自分は何かをしたがそれは極めて取るに足らぬものであるという極めて自分本位な幼児的な他罰的な思いが彼の心を支配しており、自分は不当な攻撃を受けている、そして不当に、不必要に、やましい気持ちにさせられているという、そんな恨み、それが彼のその目つき、だらしなく傾げた上半身に現れています。そしてみちみちと、怠惰に無意味に、汚らしく執拗に繰り返されている、前歯によるむぐむぐした柿ピーの噛み潰しには、彼のふてくされた気持ち、そして己に対するその不当な仕打ちへの抗議の意志が宿っているように見えました。ところで、さきほど僕が彼にアイスクリームを取りに行くのに間に合ったことを話した時、彼は「今度おしっこに挑戦してみようと思う」というようなことを言った、ということを話したと思います。そのとき、僕はなぜ、言葉自体はそれほどではなかったにせよその言い方や表情にはある種侮蔑とも呼びたいほどの調子を籠めてあんなふうに彼に迫り、そしてそんなふうにして彼のその言葉をまるで唾でも吐きかけるようにして退けたのか。まあ表面的には「それは無理だよね」と言っただけなのですがしかしもしあの場面を第三者が見ていれば僕のその言葉はあきらかに彼を強く非難しているというふうに映ったことでしょう。そしてたしかに僕はあのとき、正直に告白しますと、彼に対して強い怒りの気持ちを持ったことは、否定できません。なぜか? なにも僕は、ちょっとからかわれたくらいであんなふうにむきになるほど偏狭なたちでもありませんし子供っぽくもありません。では僕はなぜあのときあんなにむきになったのか? それは、一言で言ってしまうと、あのとき彼がそれを言ったとき彼の気持ちの中にあったのは、単に親しい友に対する親愛の気持ちの裏返し的な、そういうちょっとおバカなところをからかうというのは親愛の情の表出といったような、そんな気持ち「だけでなく」、そこには、おそらく酒が入っていたからでしょう、心の奥に隠れて彼本人さえ気づかなかった、あの「間」に対するもうひとつ別な気持ちが、そしてそれはそう、僕にとって決して受け入れることはできない、もちろんあの「にわか」ども、あの連中の中には「その気持ち」を有する者はいくらでもいるであろう、そんな気持ち、それをあろうことか、僕は僕の理解者の一人と認識していた友人の目の中に、そして口の端の歪みの中に、見てしまったのです。そしてそれを発見した僕は、あのように不覚にも、自制を失ってしまいました。彼はずいぶん驚いたことでしょう。あっけにとられて、少しばかり放心した様子がうかがわれました。そうです。彼は気づいていなかったのです。彼自身のその、変な風に歪んだ口の端の中に、鈍い光がさっと閃いたどんよりとした目の中に、籠った、己自身の「ある感情」に。僕が決して、見過ごすことができない、「ある感情」に。その後の彼の様子の異様さは、さきほど語った通りです。あのとき、彼はおそらく取っ組み合っていたのでしょう。自分の中にある「あの感情」に、僕からあの激しい反応を突き付けられることにより、気づきかけてしまった、いや、本当はすでに気づいた、だが彼にとって僕は親友といってもよく、そのような感情を持つことは、ましてそのような感情をぶつけてしまった、知られてしまったということは、耐え難いことです。何が何でも、否定しなければなりません。ようするに、強い罪悪感みたいなものを彼は抱いたのではないでしょうか。しかしそれにしても、「その感情」は彼にそこまでそれを否定することを自らに断固として強要するほどのものなのでしょうか。そして今、彼は、あんなふうにふてくされています。不当にやましい気持ちにさせられているという意識からです。そしておそらく彼の中にはもう何がこの事態を招いたのか、何によって己がこの事態に陥っているのかという考えすら頭から消え去っているのではないでしょうか。つまり最初のうちは僕を「からかったがゆえに」、この事態を招来したとの思いを持っていたことでしょう。そしてその後すぐに気づいた。己の「あの感情」に。しかし今や、「からかったから」という考えすら頭から消えて、ただ「俺は不当に迫害されている」という被害者意識だけが残り、それにがんじがらめにされているのではないでしょうか。なぜか? さきほど言ったように、おそらく彼は気づいたのです。否定せねばならぬ感情に。彼は僕の剣幕が、彼をじっと見つめるその目が、「俺はトイレに挑戦してみるって言っただけじゃねえか。ちょっとからかっただけじゃねえか」というふうな、繰り返される自己正当化の間にも、何度もフラッシュバックし、その彼の前にそんなふうに浮かび上がる僕の冷たく強張った顔は、いかにそのように繰り返される自己正当化によっても、どうしても押しとどめることができぬ、彼の心の底でぼやけて見えなくなっていた「あの気持ち」の明確化を、彼にもたらし、必然、彼は「それ」に気づいていかざるを得なくなっていったのではないでしょうか。それで彼がとった戦略、それは「その感情」に完全に気づいてしまう前に、もう全部、何もかも、頭から追い出してしまうことだったのではないでしょうか。そして今心に残る不当に迫害されたという意識、残っている、俺はべつにそれほどのことはしていないという意識(具体的に何をしたかというのはもう思い浮かべない。ただたいして何もしていないという感じだけ)そして彼に向ける断片的な、そして実際とはズレた僕の迫害者的な目つき顔つき、この意識だけにしがみつき、「俺はなんもしてねえ、なんもしてねえ。なんだあの目つきは?(ところでこのとき思い浮かべた僕の目つきは彼に彼自身の「あの感情」に気づかせないように、実際なされた目つきとは距離のある架空の目つきのようなものであろう。しかもそれを思い浮かべるのは瞬間だけで、一度にじっと何秒も思い浮かべるようなことはしなかったであろう。なぜならあまり長く思い浮かべているとそれは実際とは離れた架空性のようなものが薄れ、そこにさきほど実際なされた僕のあの目つきが蘇ってくるであろうから。そうすると必然、彼の意識は腹のあたりで今にも明確になってゆく「あの気持ち」には気づいてゆかざるをえなくなっただろう)おれはなんもしてねえ。ふざけんな! ちょっとからかっただけじゃねえか! ふざけんな! 俺はなんもしてねえ! くそっ! 俺があやまる? なにをだ!? くそっ! あいつがあやまってきたら『おお、あんまむきになるなよ。いちいちそんぐらいのことで。頼むよ!』といってそれで終わりだ。そんだけのことだ」といふうなことを心につぶやきながら、自分の殻に閉じこもり、意固地になり、そして前歯でみちみちと執拗に汚らしく柿ピーを噛み潰しているわけなのでしょう。さて、これで僕は怖くなってしまったわけです。彼は少なくとも、ある程度小説も含めて僕の理解者のはずだったのです。なのにその彼の中に僕は、口の端の奇妙な歪みとなって現れるものを、目の中の、どんよりとした光となって現れるものを、見てしまったのです。そしてこのことはこういったことを示唆してはいまいか。
僕の理解者の中にそれと知らず僕を裏切っている者が他にもいる
ということを。
なぜならこれが彼だけに起こっていることという考えはあまりにむしがよすぎるように思えるからです。
他にもそれ相当の数だけいると考えるのが妥当でしょう。
そして僕のこの考えをより根拠のあるものにしたのが、例の記者君の、ルーティーン、まるでそれが日常の一部、歯を磨く、花に水をやる、寝る前にストレッチをする、そんなものと同列なもののようにあれを話したことでした。そして僕は思いました。
今日、この場で、俺は二つの予想外の出来事に遭遇した。ひとつはwの裏切り。本人さえも気づいていなかった裏切り。この男は、少なくともある程度の俺の理解者だったはずだ。その男が、唇の端に、あのようなものを含んだ歪みを見せた。俺のあの「間」に対して。そしてもう一つ、それはこの記者君の語り。彼が彼のルーティーンを語ったときの、そのあまりの日常的なニュアンス。この二つ。そしてこの二つはあることを意味してはいないか。つまり、まず、俺の理解者の中にもwのようにルティーンをしている人たちがどうやらたくさんいるということ(そもそもルティーンをするほど聴いている人たちは俺の理解者であろうが)。そして、そのルティーンをしている人たちも、wと同じように、あの「間」に対して、あの「歪み」を生み出す「ある感情」を、抱え込んでいる、ということ。 …… もしかすると、彼らのうちのいくらかは、その感情によって、もう聴くのをやめてしまったかもしれない。そしてまだやめていない者たちも、もしかすると、そのうち、やめてしまうかもしれない。そして、またいくらかの人たちは、あのwのように、その感情に気づかないように、その感情の閃きからさっと目を逸らし瞬時に心の底に押し込んでいる。しかし、その感情を押し込み「長いな、しかしこれでこそ町上春希!」などと親し気であたたかな笑みを作りながらも、心の中には、違和感が、溜まってゆく。そしてそのうちそれは突然に彼らを内側からふんわり包み込んで、そうすると彼らは、ふっとなんだかそれまでの熱みたいなものが急に抜け出して、力のない目になり、そしてもう僕のラジオからも、僕の小説からも、疎遠になっていってしまうのかもしれない。いや、それは考えすぎだろう。僕の理解者たちはそんな感情なんかで僕の小説を読むのをやめたりしない。僕と彼らとの間には、強弱はあれど信頼関係みたいなものがある。彼らの姿は見えないけれど、僕は彼らとの間の互いの信頼に対する力強い確信みたいなものがある。それは一朝一夕で出来上がるものではないのだ。長い年月をかけて、多くの作品のやり取りによって、築きあがってきたものである。だからこそ僕はその信頼関係の強さに対して確信を持っているのだ。だから問題はそこにあるのではなく、ようは、つまり、「恥ずかしい」ということなのだ。
………………
なにぶん、数がすごい。べつににわかどもがそんな感情を持つのはいい。反町上どもがそんな感情を持つのもいい。しかし、僕の理解者たちまでそんな感情を持つ、実際あのwまでも、その感情を持ったではないか。あれが、あの「間」が、俺だと言ったところで、俺は、神宮球場の客席を、今までほぼ俺の理解者で埋め尽くさせていたのだ。だってアンチどもを入れたってしょうがないからだ。結局俺はそんなぬくぬくした環境の中で、「あれが俺だ」「あの間が俺だ」などと強がっていたのだ。しかしその大観衆を見ろ、全員ルーティーンをしながらwのように口の端を…… するとどうだ? あれが俺だ? あの間が俺だ? えらく自信満々に強がっていたが、いざ目の前が、周囲を取り囲むものが、そんなふうになってしまうとどうだ? ええっ? 感じるだろう? 腹の底から、湧き上がってくるのを感じるだろう? ええっ!? 身を縮め、顔を歪め真っ赤にし、体中に冷や汗を滲ませ、頭を小刻みに揺らしながら「ちがうちがうちがう」ときいきい言いながら、頭から穴の中に飛び込みたくなる
恥ずかしさを
さて、しかしそれにしてもwのあの反応は度が過ぎているように思えます。それはwがああ見えて、じつはまじめで律儀な性格であるということも一因としてあるのでしょう。それと彼は以前医者にHSPと診断されたこともあるぐらい繊細な感受性の持ち主でした。だから友に対してあのような気持ちを持ってしまったことへの、そしてあの気持ちを自覚せぬまま無造作にぶつけてしまったことへの、自責の念、申し訳なさ、悔悟、恥ずかしさ、そんなものを過剰に感じてしまい、結果、そんな罪は受け止めきれず、苦しさのあまり、その苦しさから逃れるために、問題をすべて僕のせいにしてしまった、とこういうわけなのでしょう。しかしまあ僕としてはそれに対してそこまでべつに傷ついたとかそういうわけではじつはないのです。ただ、恥ずかしかった。無暗に恥ずかしかった。恥ずかしかった…… 恥ずかしかったのです。いずれにしろそんなふうなwであるにしてもあそこまでの反応を起こすということは、あの感情はかなりの感情だったということは間違いないわけです。そうすると僕の他の大勢の理解者諸君。彼らの中の相当な数の人々も、それ相応のかなりの感情を、あの「間」に接するたびに、あるいはもうあれによって日常から僕のことをふと思うたびに、腹のあたりに、わずかながらも口の端を歪ませるようにしながら、感じているのではないでしょうか。そんなことを思うと、僕は、どうにも、冷や汗が出ます。顔が紅潮します。「あーうるさいうるさい」と首を細かに振りながら思わずつぶやきそして顔をぐっとしかめてしまいます。なんたって、僕の頭の中では、僕は神宮球場の真ん中にいて、そしてグラウンドをぐるっと取り囲む観客席を埋め尽くす、僕の理解者たち、彼らは「こんばんは」のところでほとんどがなんらかのルーティーンを始め、そして「町上春希です」のところまで「あの感情」を抱きながら時に唇の端を軽く歪ませながら、それをつづけるわけです。僕はそれに通り囲まれているわけです。僕には逃げ場はないわけです。僕はどこにいても、カフェでコーヒーを飲んでいても、ジョギングをしていても、家で本を読んでいても、ふと彼らの相当数が「あの感情」を抱いているということに思い当たると、もう頭の中は神宮球場です。そして僕は本を放り出し、左手を額にやりしばらく顔をしかめて冷や汗を流すことになるでしょう。この先ずっと。これはずっとつづくわけです。
さて、バーに話を戻しましょう。
我々の間にはその後二十分ほどが、会話もなく手持無沙汰に過ぎ去りました。
僕はその間考えつづけていました。
あの「間」を、縮めるべきか? もちろん、いきなりガツンと縮めたりしたら、「あっ…笑 町上さん… あー … 笑」、みたいになるのは目に見えているからもちろん緩急をつけて縮める。最初はちょっと縮める。次はまた元に戻す。その次も同じ。そして次は最初やったのと同じようなちょっと縮めたバージョン。そしてその次も同じようにちょっと縮めたバージョン。そしてその次、ここでふたたび元の長さに戻す。それから次にはまた縮めたバージョン戻る。そして、この次に思い切ってさらに短くしてみる。ここでちょっと次回の収録までまわりの反応を見てみる。そしてそこでとくにいつもと変わらない様子なら、その次はちょっと短いだけの例のバージョンの方に戻してから、次の回でまた前々回の思い切った短いやつを持ってくる。さて、ここまで来るともう元の長いやつにふたたび戻るのは得策ではない。なぜなら。ではまず、このかなり短くしたやつからいきなり長いやつに戻した場合を考えてみよう。さてどうだろう。そんなことをすると、聴いてる人に強い違和感を与えることにならないだろうか。そして、「あっそうだ。長かったんだ」というふうにわざわざ思い出させることになるのだ。これは危険だ。とにかく、違和感を与えないこと。カエルを水に入れてちょっとずつ温度を上げていく、そうするとカエルは熱くなってきたことに気づかずに茹で上がってしまうという話がある。あの要領だ。カエルは最終的にひどい目にあっているわけだがこれはもののたとえでもちろん僕は視聴者を悪いようにするつもりはない。当たり前だ。あの「間」が縮んだからといって聞いている人にはなんの害もない。いや、まったくないとは言い切れないかもしれない。本当は、少なくとも僕の理解者たちの中にはあれを求めてじつは楽しみにしているという人もいるんじゃないだろうか。たとえルーティーンをしていて多少口の端の歪みを見せてはいても、心のどこかでは求めていて、なくなってしまえば、心の中に、まあほんのちょっとしたものではあろうが、小さな空洞ができるというような人、たぶんいるような気がする。しかしまあ、それぐらいはしょうがない。そこは、我慢してもらう。まあそんなふうに、とにかくいきなりの変化はだめなのだ。ではもう一つのやり方。まず少しだけ短いやつの方に戻し、それをしばらくつづけてから、また長いやつに戻す。いやこれも得策ではない。だってそんなことをしていたらいったいいつ普通の短さになるのだ? たぶん三年ぐらいかかる。俺はその間ずっと、例の神宮球場の真ん中に立たされるイメージにつきまとわれ、そして時と場所を選ばずそいつは俺に襲いかかってきて、たとえば頭からシャワーをかぶっているときなんかでも、今この瞬間にも何千何万の人々が、彼らをして「あの感情」を抱かせる俺のあの「間」の長さを認識しているという思いで、体の動きも顔の筋肉の動きも呼吸も止まり、みぞおちあたりや四肢から力が抜け、頭からお湯が流れ落ちるまま、髪に纏わりついている洗剤を洗い落とすために忙しく頭の上を前後上下に動いていた手の動きも、たとえば右手は頭頂部、左手は側頭部に置かれたままぴたりと止まり、とにかくそんなふうにして、嵐が通りすぎるのを待つ、という、そんなようするに絶えず例の神宮の光景が頭の片隅のどこかにはありつづけ、そして「こんばんは。町上春希です」の言葉が頭に浮かぶと共にその大観衆に取り巻かれた神宮の光景は僕の頭と心全体を一挙に乗っ取り、何をしていようともしばらくは、誰かと仕事の打ち合わせなどをしているときなんかはなんとか数秒、とくにすばやく持ち直す必要があまりない場合なんかのときは数十秒ぐらい、僕は役立たずの状態になるわけです。つまり、三年も我慢などできないというのが本音なわけです。だからもう、元の長いバージョンには戻すのは賢くない。もうここからは元には戻さず短いバージョンの中で、ちょっと短いもの、かなり短いもの、というふうに入れ替えながらやってゆき、そんなふうにしながら最低でも一年半のうちに、普通の、他のラジオの人たちがやっているぐらいの「間」に持ってゆく。どうだろう? 成功するだろうか? …… ばれたら? もしばれて、「町上がなにやら小細工をしている」などと、思われ、ましてやそれが界隈で噂になるようなことになれば、もう僕は、外国にしばらく逃げるしかなくなるわけだ。かつてのように。しかしあれはまだ僕が若かったからできたわけで、正直もう僕は日本がいい。ご飯もおいしいし、日本語も通じる。英語は話せるけどやはり日本語がいい。もう外国で何年も住むなんて常識的じゃない。だいたい家を買ったのももうこの日本を離れないこの場所に骨をうずめる決意をしたからだ。動き回るのはここまでと決めたからだ。なんで今更外国になんか行かなきゃならないんだ。奥さんだってさすがにもううんとは言わないだろう。つまり、小細工したのがばれるわけにはいかないのだ。いやいや…(笑) そこまでおおげさな話ではないか…(笑) でもそれはもう…… 神宮の観客からは、その歪みは口の端をはみ出してゆくだろう…… さてさて、ではこのままやってゆくのか? このままの長さでやってゆくのか?
僕は頭を抱えました。正直、ここではなかなか落ち着いて考えられないので早く家に帰りたいと思いました。それで僕はs君にちょっと用事があるからここで失礼するとでも言って抜け出そうかと考えました。というわけでs君の方にちらっと目をやりました。すると彼はメモ帳のようなものに何かを書いていました。僕は何を書いているのかなと、気になったので、それを横目に盗み見して、そこに書かれているものを読んでみました。そこにはこんな文が書かれてありました。
町上春希氏、どうやらあの「間」の長さを気にされ始めたのやも。僕のルーティーンをお聞きになり「お、おう…」としかお答えにならず。精彩なし。妙な行動。傷心? もしや近いうちに短くなるやも。短くなったあかつきにはそのひとつの要因の可能性として、本日の出来事を記事にすべし。以下本日の出来事。
それにつづいてwの例のトイレがどうのの発言や、それに対する僕の反応、その後のwの異様な様子、そしてsの発言を受けた後、僕がウイスキーのグラスを職人的厳しさでコースターの中に収めようとする様子、さらにその後の僕の煩悶(どうやら彼はそれに気づいていたようです)などが書かれてありました。
僕は立ち上がってそのメモの書かれた紙をメモ用紙からごっそりひきちぎると叫んだそうです。
さて、今ここで僕は叫んだ〈そうです〉と言いました。まるでそれが、人から聞いた話ででもあるみたいに。そう、そうなのです。じつはそれはまさしくそのとおりなのです。そう、僕はじつはそれをwから聞いたのです。というのも、僕はそのとき立ち上がってからの記憶というものを、まるごと、ごっそり、失っていたのです。
さて、では、wが話してくれたその後の僕の様子について、述べてゆくことにしましょう。
そう、僕はこのようなことを、叫んだそうです。
この口かっ! この口がゆーとんのんかっ! 奥歯ガタガタゆわせたろかっっっ!!!!
僕はそのように叫びsの口の中にくちゃくちゃに丸めたその紙切れを突っ込んだらしいのです。
wはびっくりして僕を羽交い絞めにしsから引きはがしたらしいのですが、僕はもがいてそれを振りほどこうとしながらなおもこう叫んだそうです。
ペンで来なやっっっ!!! 男やったらペンで来なやっっっ!!!
そして僕は僕の体に巻き付いたwの両腕から自分の両腕を引き抜くとその両腕をバレーボールのトスを上げるような形、両腕の内側を上にしてそれをぴったりとくっつけるような形にして、それをsに向けて何度もぐいっぐいっと突き出すようにしながら叫んだそうです。
これでこいやっっっ!!! 男やったらこれでこいやっっっ!!! やったんどっっっ!!! 勝負せいっっっ!!!
おどれっっっ!!! おどれっっっ!!!(関西弁で「おまえ」のこと)
両腕を突き出し続けます。
書けやっっっ!!! 書いてみいやっっっ!!! 書けるもんやったら書いてみいっっっ!!! 狂犬じゃっっっ!!! わしはっっっ!!! わしはあっっっ!!! こらっっっ!!! おどれこらっっっ!!! おうっっっ!!!? 狂犬じゃっっっ!!! 狂犬じゃっっっ芦屋のぅ……!!!ぼけぇっっっ!!! 狂犬じゃ芦屋のぅぼけぇっっっ!!! 書いてみいっっっ!!! どないなるおまえ!? どないなるおまえ!? 書いてみいっっっ!!! どないなるかためしてみいっっっ!!!
僕は両腕をなおも激しく突き出しながら叫んでいたそうです。
おそらく、みなさんこの事態の急変をにわかには呑み込みがたく感じて、あっけにとられておられるのではないでしょうか。えっ?なに?どゆこと???みたいな感じに。
しかしこれはどうやら、ほんとうのことのようなのです。
とにかくはなしを聞いてください。
それからまた僕は叫んだそうです。
わしはなあっ! ガキんころは芦屋の狂犬ちゅうて呼ばれとったんじゃっ! ちょっといちびった恰好しとるやつみたら見境のうしばきまわしとったからなあっ! ほんで中学なったら芦屋のへなちょこなんか相手できるかいっ! 尼の方やら神戸の丸山やらに遠征に行ってそこらのイキったガキどもどつきまわして退屈まぎらわしとったんじゃっ! ほんで高校んなったらもうガキどもの相手は卒業じゃっ! 新開地の方にいってなあっ! そこらうろうろしとる山*組系の本職ども相手にしたろう思てガーーーーっと商店街歩いとったら向こうから派手なシャツ来たパンチパーマのおっさん五人組がガーーーえらっそうに歩いてきて!ほんでわしはそいつらに、「おいこらぁっっっ!!! ゴミどもこらぁっっっ!!! ゴミはゴミらしゅう家のゴミ箱ん中ででおとなしゅうしとったらんかいダボがあっっっ!!!」ゆうたらほんだらあいつらなんやとこらぁっ!ちゅうてガーーーっ! … ガーーーっ! ドス抜きさらしてっ! そやからわし「おいこらぁっっっ!!! おどれこのボンクラどもわしを怒らせる気ぃかおう…… そないなもん抜きさらしてどないするつもりや兄さんら? おう? そないなったら…… わるいけどわしも手加減でけへんど? わしはそないゆうてガーーーっ! 足を開いた。それからセブンスターをズボンのポケットから無造作に取り出して口にくわえライターで火をつけた。そいでそのタバコを親指と人差し指でつまんで思いっきり煙を吸い込んでから口から離し、ほいでアーケードの天井を見上げて口をとがらせ肺に溜まった煙をふーっと吐き出した。ほいでその天井向いた顔を前に戻してみてわしはちょっと驚いた。ほいでゆうた。「なんや!? おどれらまだおったんかいな!?」そうや、わしはそいつらがおることコロッと忘れとったんや。
あちゃーーーー……
わしは顔をしかめて頭をかいた。わるいわるい。そうゆうたらわし、おどれらの相手しとったんやったな。連中はドス持ってじぃっーとわしを睨めつけとる。中には両手でぎゅっと柄の部分を固く握りしめて目ぇだけは精一杯イキがって「殺すぞこんがきゃあ」みたいにしとるんやけど肩が縮こまってかたかた震えとる奴もおった。わしはそれ見て思わずわろてしもた。ほいで「兄さん!ドスはそないに強う握りしめるもんちゃいまっせ!ドスっちゅうもんはなあ、こう、おなごの手ぇ握るみたいにやさしゅう握らんと… ハッハッハ。そやけど兄さん、おたくあれちゃいまっか?おなごの手ぇ握るときも、なあ? そないしてはりまんのんか? ええ? まあ!(笑) ふっふ! 握るゆうてもおたくはんに好き好んで手ぇ握らせるけったいなおなごがおるとは思えんけどもやなあ… ハッハッハ! どないや兄さん? ええ? わしが今度おなごの取り扱い方うんぬん、レク、えー、レク、チョアー?、ちゃうか、えー、あっ! レクチュアー! (笑) そのレクチュアーをやなあ兄さん! これもなんかの縁や。よっしゃ!特別料金で! やったげまっせ? どないだ?」 わしはその「特別料金」のところでタバコを挟んだ右手の人差し指と親指で作った丸を強調し、顔の前で三回揺らした。「まあドスもおなごも似たようなもんや、こう…親指に力入れたらあきまへん、ソフトに、こう、小指で…」「こんがきゃあ!! いてもうたる!!」そいつは叫んでわしに向かって来ようとした。わしはタバコを挟んだ右手を胸の横あたりにかかげたまま、ギロリと、射貫くような目ぇををそいつに向けた。ほんだらそいつは雷にでもがーーーんと打たれたみたいになって、びくっと身震いするとその場に金縛りにおうたみたいに釘付けになった。わしはそんガキの目ぇをまっすぐ睨みつづける。やつはもうこれ以上どないも開かんぐらいに目ぇを見開いて、ドスを握りしめた手ぇを前にやったまま、がたがたがたがた、また震え始めた。ほんで口からは、「はふはふひふひひ」っちゅう、おなごがライオンにでも出くわした時みたいな、どないもこないも食われるのを待つしかない状況で完全に蛇に睨まれた蛙、腰は引けて頭ん中は真っ白、呆然自失、まさにそんなときに口から出るあの「はふはふひふひひ」、それがやつの口から飛び出し、ほんで最後にはとうとう、やっこさん、しょんべん漏らしてまいよった。
あちゃーーー……
わしはどないもこないも、首を二三回振ると軽くため息を漏らし、指で挟んだタバコを道に叩きつけるように投げ捨て、腹に巻いたさらしに左手を突っ込んで、残った四人のぼんくらどものツラを一人一人見まわしてからゆうた。「ところで~ 兄さんら…… まだ~ …… やる気ぃでんのんか?」わしは目を閉じうつむき首を振る。ほんでため息を吐く。「わしの前でそないなもん振り回すゆうことはやな、兄さんら。腕の一本や二本、目ん玉の一個や二個、利かんようになる覚悟はあるゆうことと受け取って、かまいまへんねんやろなあ?」そうゆうてわしはまたタバコを口にくわえ火をつけて煙を吸い込んだ。顔を上げて連中を見た。そして、煙を吐き出した。それからつづけた。「あるいは」わしはまた一同を見渡した。「わるいけどなあ……」そこで、わしの目ぇは、これから起こる惨劇を予感して、ぐっと細まった。「命の保証は…… でけんかもしれん……」そのでけんかもしれんのところでわしは悲痛とも呼びたいような顔になり、物憂げに首を振る。すると、やつらの顔にあきらかな恐怖の色がぱーっと広がっていった。しかしそん中の兄貴分らしきもんは口ん中でぶつぶつ「こんがきゃあ、こんがきゃあ」と言いながら震えをぐっと堪えてわしを親の仇でも見るような目ぇで眼光で殺したるゆうような目ぇで睨んできとったけど、他の三人はもうどないもこないも、兄貴分の手前なんとか恰好だけはわしに向かっていこうゆうポーズにはしとるけれど、もうあかん、心の方は完全に折れとる。わしはまたうつむいてため息を吐き、ほいでゆうた。「なあ、兄さんら… 兄さんらも、親兄弟、嫁はん、子供、守らなぁあかんもんがあるんとちゃいまんのか? ん?」わしはタバコを口に持ってゆき、煙を吸い込み、吐いた。「ほれで、ここはどないだ? こいつは一旦、手打ちにしようやおまへんか? わしもなんや、ちょっと礼儀がなっとらんかったかなと反省しとります… 許してつかあさい…」わしは、その兄貴分の方に向かって頭を下げた。すると、今にも、(勝てるわけないと知りながら)、わしに捨て身の特攻を仕掛けてこようとしていた、ぎりぎりに張りつめて火の玉みたいになって、今にもそれが爆発してわしの方に突っ込んでくるかと思われたその兄貴分の男は、あいかわらず同じ姿勢でドスを握りしめ、鋭くわしを睨めつけるその姿はそのままに、しばらく放心したようになった。息が、不規則なリズムを刻んどった。それからまたしばらくすると、男は、少し前かがみになっていた姿勢を元に戻し、すうっと息をひとつ吸い込むと、ゆっくり音をさせず、息を吐いて行った。吐くに従い男のいかっていた肩が下がってゆく。そこで男はようやく我に返ったのか、わずかにはっとした様子を見せると、目だけでわずかに子分どもの方をちらとうかがい、居住まいをさっと正し、ぐっと背を伸ばし少しふんぞり返るようになるとわしをまっすぐ睨みつけた。「おどれぇこらぁ、いきがった口ききさらしよってぇ、今度わしの前にそのしょんべん臭いツラぁ見せてみぃ、そんときぁおどれ、たま取るぞ、おう?」そないゆうてわしをじっと睨みつけた。わしはなんも言わんとただ相手の目ぇをじっと見たまま黙った。わしらはしばらく睨みおうた。するとやつは横を向いて唾をぺっと吐き、弟分どもに「いくぞこらぁっ! しゃきっとせんかい!」とどなるとわしの方にまっすぐ歩いてきてわしにがつんと肩をぶつけてそのまま向こうの方に去っていった。わしは去ってゆく連中の背中をほんの少しちらっと見送っただけでなんも言わんかった。
「ところでおまえ、わしがなんでそないに強いんか疑問に思とるな? ボケがあっっっ!!! あたりまえじゃあっっっ!!! わしはガキんころから腕力っ!」僕はそう言うとまた二本の腕を前に突き出したそうです。「腕力でわがままを押し通してきたんじゃあっっっ!!! おどれわしが文弱やあ思っとったんか? このボケがあ… わしはなあ… ゆうとくけど小説家は副業じゃ。わしの本来の生業は……」ここでまた僕は両腕を突き出し、そしてそれを引くとまたぐっと突き出したそうです。そして言ったそうです。
腕力家じゃっっっ!!!
お前は知らんやろけどなあ、わしは、腕力なんや… 全部腕力なんや… わしは中学卒業してすぐに、中国に渡った。日本が狭かったからや。退屈でうんざりしとったんや。ほんでわしはそこで北斗神拳 … ? 北斗…… ?? 北斗神拳 …… ??? …… ちゃう! いやちゃう! うっうんっ! あれや!
全部や! 全部こう全部や! あらゆる拳法、全部! ガーーーきてっ! 全っ部吸収して! (!) ジークンドー! ジークンドーやっ! ガーーー習おて! 全っ部吸収して! 半月でっ! 十分じゃっ! わしにはっ! ほんで蟷螂拳、詠春拳、少林寺、全部ガーーーっっっ!!! 一瞬でっ…… ガーーー! 習おて! しょーりんじの三十六房全っ部! ガーーーーーーーーーっっっ!!! 一瞬でっ! ほんで最後のボス! 白い長いひげのボスがガー来て! そいつじじいやけどえっらい強い! 少林寺でいっちゃん強い! ガーーーっ! さっすっがにっ! てこずった! 勝ったけど! ほいでとうとう! 中国最強の男! 誰もが認める中国武術界の金字塔! 武とはまさにその男のためにある言葉であり、その男はまさに武そのものであると謳われる、まさに、現世に現れた武の化身! 中国四千年! 四千年の歴史を刻む中国武術! その神髄を体現するこの世でただ一人の男! その名は郭*皇! わしはその男と戦うことになった。ところが! おうてみたらどないや!? よっぼよぼのくそじじいやないか! ちょっ!(笑) これはあかんやろいくらなんでも!(笑) 歩けてへんやんとりあえず!(笑) とりあえず車いすから降りようよ!(笑) みたいに思て! がーーー! あかんあかん! わし帰るで!ゆうて! ほんだら見てみ! わしががーーー行くやん!? ほんだらなにっ!? 全っ然 攻撃が がーゆうて! なんや全然手ごたえなし! わしそれでむきになってがーーーいってたら今度はそのじいさんわしをちょんと押した。わしその先意識なし。完敗。はーーーーーーーーーーーーーーーー ………… ほいで、弟子入りや。ほいで、半年。わしは半年で消力を身につけた。ほいだら師匠、おまえみたいなんは初めてや!半年で消力身に着けくさった!このくされ小日本人めが!ゆうてそんな粗野で乱暴な中にも愛のある言葉にわしは見送られ日本に帰って来たわけや! ほいでその足で新開地や! ほやけどそんころにはわしはもうケンカに飽き飽きしとった。もう弱い奴とは戦いとうない。かといってわしより強いおっさんがどこにおんねん? わしは強うなりすぎたんや。ドス振り回すやくざ? あないな連中の太刀筋なんぞわしはもう数秒で見切ってしまえるんや。ほいでもしゃーないからしばらくそんな連中と(まあ中にはたま~に座頭市とまではいかんでもなかなかの使い手もおった)遊んでたわけやな。
まあそんなふうに僕は景気よく話しつづけたらしいです。ところでさきほど僕が北斗神拳と口にしたところでその後言葉に詰まったのにお気づきになられたでしょうか? まあ僕もそれについてはさきほど言いましたとおりwから聞かされたことであり、僕としてはちゃんと憶えていたわけではありませんので、そのときの僕の心情みたいなものもちろん憶えていないわけです。しかしその事実(wがうそをついていなければですが。そしておそらく彼の人間性からして判断して少なくともそのような嘘は言わないと思います)から推測することはできます。それで僕の推測によると、おそらくそのとき僕は、「北斗神拳はありえない」という判断を下したのではないでしょうか。そのとき僕は酔っていました。そして恥ずかしながら、いささか、錯乱状態にありました。ですが僕は小説家です。小説家というものは、虚構と現実の区別みたいなものはしっかり峻別できるよう日頃から訓練されているものなのです。たとえどんなに荒唐無稽なはなしを書いていても、心の中では、これは現実ではないという、そこらへんの判断力といいますか、しっかりそこらへんを見分ける目、一歩下がって俯瞰的な視点から冷静に眺める目、みたいなものは、しっかり身に着けているものなのです。ですからこのとき僕は、あのような状態にあったにもかかわらず、「北斗神拳はない」というふうに、それを退けることができたのでしょう。しかしここでこのように思う方もいらっしゃるかもしれません。おい町上、消力はどうなんだ? おまえは消力はありえると思い込んでいたのではないか? だって消力のところは、どうやらまったく淀みなく話していたようではないかと。そうです。まったくその通りなのです。ですから僕もこの話をwから聞いて、三日ほど経って、考えました。いったいこれはどういうことなんだろう。それでこんなふうな結論に至りました。かんたんな話です。つまり、そのときの僕に残っていたのは、「北斗神拳はないが、消力はある」というふうに判断する程度の判断力、正気、だったのではないかと。つまり僕のその「正気」みたいなものは、北斗神拳の存在は退けることができたわけですが消力のあのなんかちょっともしかするとワンチャンありえそうな感じ、に対して、しっかりNОを突き付けるほどには残されていなかったということができるのではないか。しかしこれは悲観すべきことなのかどうかというと、少し考える余地があるかもしれません。まず、この時の僕は恥ずかしながら、狂憤状態でした。酒もかなりはいっていましたし、これまでこれほどまでに正気を失ったことはありませんでしたしおそらくこれからもないのではないかと思っています。つまりこのとき以上に正気を失うことは今後もないであろうと僕は確信しているのです。あれがマックスです。ということは、最悪の場合でも、僕は北斗神拳がないと判断するぐらいのことはできる。しかしまた、もしかすると消力使いがほんとうに存在するということを、おかしいことと思わないぐらいの狂乱状態に陥る可能性なら、今後ありえなくもない、ということもいえるわけです。現に僕はこのときそうなりました。しかし僕は今後は物事を明るい方向で解釈するように心がけようと思い始めています。最悪でも、北斗神拳や南斗水鳥拳がないということがわからなくなるぐらいイカれてしまうことはない。それで十分じゃないか。それだけの正気を保っていられれば、酒場だろうがどこだろうがどこで何をしていても、少なくとも人としての道を踏み外すような行為に及んでしまう恐れはまずないだろう。だいたい、そんな状態になることだって、おそらくまず今後もないだろう。そして消力使いはいる、というふうな小3みたいな状態になることだって、よほどのことがない限り、今後もないはずだ。そうだ、けっこうじゃないか。人生には色々ある。しかし俺はどんなにイカれても北斗剛掌波や暗琉天破が出せるかもしれないなどとは決して思わないだろう。しかしもし、仮に、それが出せるかもしれないと思ってしまうような事態が一度でも起きたなら、そのときは山にでも引きこもって人にはもう極力関わらないようにしようと思っている。さて、はなしが少し逸れましたが、僕はその後もsに向かって叫びつづけたそうです。
ほんでやなぁ! まあそんなふうにわしはヤー公どもなんか屁とも思わず好き勝手やっとったわけやけれどもまあ連中にも面子ゆうもんがあるわな、15や16のガキに好き勝手やられとるわけやから。ほいで人気のない夜道や就寝中なんかにわしは連中からしょっちゅう命を狙われどおしの高校時代を過ごしたわけやけれども結局全員返り討ちや。かすり傷ひとつ負わんかった。というのもたとえば夜道歩いとるときにふと靴の紐が解けとることに気づいてしゃがんだところに相手が背後からわしの肝臓にドス突き立てようとつっこんできてそのまましゃがんだわしにけっつまずいてゴロンとでんぐり返ってバタンや。わしはそれ見て、なんや、なにやっとんねんおまえ? ゆうたら相手は大口開けてあわあわ言いながら尻もちついたまま後ずさりしよる。そいで急いで立ち上がるとヒーゆうて女みたいな悲鳴上げながら一目散に逃げ去るんや。わしはそれ見て頭ぽりぽりかきながら、なんじゃいあれ?ゆうてぽかーんとするわけや。また夜寝とるときにこっそり窓から忍び込んできた暴漢、震える手ぇで握りしめたドスをわしの心臓に突き立てようとする!そのとき、わしはぶわっくしょい!とくしゃみが出てその拍子にぐるっと寝返りを打ち、添い寝させといたちいかわのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめちゅっとキスをする。わしはふと人の気配に気づく。わしは布団をまくり上げ、誰じゃっ!?と叫ぶ!敷布団の上にドスが刺さっとる!わしは窓の外を見る!しかしそのときにはもう暴漢は窓から地面に飛び降りたところや。わしは塀を登って逃げようとしとるその男の背中に向かっておどれどこの組のもんじゃっ!と叫ぶ。そのときベッドの上に財布が落ちてんのに気づいた。やつは高い塀がなかなか登り切れず何度もずり落ちながら悪戦苦闘しとる。わしはそのじたばたしたやつの様子を鼻で笑いながら、財布を調べてみる。千円札が一枚とあとはじゃり銭がなんぼか。「しけとんの~」とわしは呟きカード類の方も見てみると、そこに「かずく~ん♡今日もかずくんやっぱりすごかった~♡((⋈◍>◡<◍))✧いえい!(*^^)v ねえねえカズカズはさ?次はいつセナに会いに来てくれるのかな~? 早く来てくれないとセナさみしくて死んじゃうかも(/ω\)え~ん でも今日はほんとごめんなさい(>_<)もっと時間があったらたっぷりふたりでいろんなことできたのに(m´・ω・`)m ゴメンネ…あんなこととか~♡こんなこととか~♡((/ω\)) キャッ えっち!バカ( *´艸`)♡ 今度来てくれたときはもっといっぱいいっぱいご奉仕するね キャッ(*ノωノ) 早めに予約入れといてくれたらカズくんのためにゼッタイ出席します(^^ゞ いつもチップもいっぱいさんきゅーです♡ ちゅっ(^ε^)-☆ ダ・イ・ス・キ( *´艸`)(言っちゃった!)」と書かれたトルコ嬢の名刺が入っとった。 あちゃーーーーーー… わしはその名刺の真ん中にやつの残していったドスを差し込むと、それを十何メートルか離れたやつがその前でじたばたしとる塀に向かって投げつけた。ドスはやつの顔の横一センチぐらいのところに突き刺さった。やつはそれが目に入るとヒィーーーーーーーーっっっ!!!と女みたいな悲鳴を上げた。わしはやつの背中に向かって「忘れもんじゃあほたれ! しょーもないっ!」と叫び、つづけて財布も投げつけるとそれはやつの後頭部に直撃しするとやつはびっくりしてまたぎゃあっと悲鳴を上げた。わしは苦笑をもらし「おどれすかんぴんやないかい! おなごに入れあげんのんもたいがいにしときさらせ! この親不孝もんがっ!」とやつの背中に向かってしかりつけた。やつはひ、ひぃーと情けない声を出しながらようやっと塀を乗り越え這う這うの体で逃げ帰っていったわけや。まあほんでそうこうするうちに三年があっという間に過ぎていった。高校の卒業が目の前に迫って来た。そんなある日のこと、わしんところに山*組の三代目が両脇に物騒な面構えのいかついおっさんふたり従えてやってきた。三代目はわしに向かってびしっと人差し指を突き付けると「わしはおまえに惚れた。わしの兄弟分になってくれ。いやとは言わさん」こないきた! あちゃーーーーーーー…… わしは顔をいがめ頭をぽりぽりかきながらゆうた。「親分さん、とりあえずそのゴリラみたいなおっさんらどっかやしてくれまへんか? あないな目ぇで睨まれたらわしこわーてしょんべんちびりそうでどないもこないも… 往生しまっせ……笑 おーこわ」「このガキャ…」わしの軽口で頭に血が上ったスキンヘッドの方のおっさんが前に出ようとしたところを三代目はわしにじっと目を据えたまま片手でそいつを制し、それから顎で外に出とけと合図した。まあその後どないやこないやあったけど結局わしはそれを断った。わしは東京の大学にいく予定やったしヤクザと義理を結ぶっちゅうんもなんやけったくそわるい。まあそれで丁寧に断らせてもろたんやけど、そやけどまあ三代目のわしへの入れ込みようは相当なもんでそれに連中の中には他にもわしに勝手に惚れ込んでもうとるもんがぎょうさんおった。そやからなあっ!おいこらっ!わしは今でも山*組の本部の戸をじゃまするでゆうて潜るやろがっっっ!!! ほんだら若いもんがガーーーーーっと来てっっっ!!! わしの前にずらーーーーっとならんでっっっ!!! ほいでガーーーーっっっ!!!と九十度っっっ!!! 頭をガッとぐわーーっっっとグワっっっ!!!グっっっ!!! グっっっっっ!!!!! 九十度っっっ!!! 下げてっっっ!!! ほいでわしが見えんようになるまでずっっっとっっっそないしとるっっっ・・・・・・!!!!!!
僕はそこで言葉を切ると息を弾ませながら相手を睨みつけていたそうです。そして叫んだそうです。
やれやっっっ!!! 書けやっっっ!!! 書いてみんかいっっっ!!! どないなる?ほしたらおどれどないなる?
そう叫びながら彼の方に指した人差し指が興奮で小刻みに震えていたそうです。
やったらおまえどないなる? やったらええやん? やったらええやん?
僕は気が付くと自宅のベッドに寝ていました。時計を見ると朝の九時でした。そして飲みに行ったことは憶えているのですが、どうやって自宅に戻ってきたのか憶えていないことに思い当たりました。僕は起きた直後から、いや、寝ている間にも、なにかやってはいけないことをやってしまったかもしれないという、具体的にそれが何なのかはわからないがとにかく何かをやってしまったかもしれないという、強い焦迫みたいなものを感じ続けていました。寝ている間にも、なにか強い不安、焦りに、責め立てられており、とくに別段内容といったほどのものはないような夢の中で、その夢の内容とはほとんど無関係に、熱く刺々しい不安と焦燥が、僕の胸に重くあり続け、そして目覚めてみると、僕の体は固く強張っており、節々が痛み、頭痛もして、心臓は重苦しく、鼓動を打っておりました。
僕は目覚めてもなおしばらくベッドの中で横になりながら、寝起きの、ズキズキ痛む頭で考えました。
俺は、何かをやったぞ?
いったい何をやったんだ?
いやまず、俺はwのやつに、間に合ったことを話した。
そしてなんやかんやとあって、そうだ、あいつはトイレに行ってみるとかぬかしやがった。
ムカついた俺はやつにかみつき、やつはかなり変な感じになった。
そうだ。
俺が思っていた以上にあの「間」はヤバいかもしれないと俺は気づいて、理解者たちにおいても彼らの口の端を歪めさせるような気持ちにさせているかもしれないということに俺はwに気づかされて、それで、俺は短くすべきかどうか考えていたんだ。
……
待て、それじゃない。
それ以外に、俺は何かを
やったぞ?
心臓が早鐘のように打ち出しました。
冷や汗、震え。
なんだ?
何をやった?
いったい俺は
何をやったんだ?
体の中に、その「何か」は、はっきりと残っていました。
それが何なのかはわかりませんでしたが、しかしそれだけに、具体性のはぎ取られたそのやらかしたことの本質だけが、重く、腹の中にしっかりとあるのを感じました。強い不安は心臓の拍動に相変わらず余裕を与えずそれは工事現場のドリルのようなリズムを刻んでいます。呼吸は乱れ、息苦しさを感じて僕はすぅっと大きく息を吸い込みました。そのとき、ラインの着信音が鳴りました。僕ははっとしてスマホに目をやりました。スマホはベッドの上、手を伸ばせば届く距離にあります。僕はそのスマホをしばらく見つめてから、それに手を伸ばしました。手が、ぷるぷる震えています。それで僕はその震える手がスマホに触れる直前でさっと手を引っ込め体を後ろに逸らし顎をちょっと上げて軽く開けた口から息をはあっと吸い込み、そして息を吸い込んだ時のその口を軽く開けた状態のまま、そしてその他のすべてもそのときの状態のまま、思考も、感覚も、呼吸も、まるで時を止めようとするように、このまま時間よ凍り付けと言わんばかりに、すべての活動を、数秒、やめました。もちろん呼吸もやめています。そしてその数秒の完璧な現実逃避の後、今度は何も考えず、すばやくスマホに手を伸ばすとひったくるように取り上げました。手はまだ震えています。僕はちっと舌打ちをしチクショウと口先で吐き捨てると、ラインのアプリを開き、wからきたメッセージを見ました。そこには、[おはよう。今どんな感じ? ずいぶん飲んでたみたいだけど]との言葉がありました。僕はその三つの文からwの心理及び昨日僕がやらかしたであろうことの、その「事の大きさの程度」を推し量ろうと、少しの間、分析を試みました。「最初におはようが来た。まあ普通はそうだ。いや、たとえとんでもないことがあったとしても、たいがい朝の一発目のメッセージはそんな感じで来るだろう。やつの家族を俺が殺しただのそんなとんでもないことでもない限り、ふっ、まあやつは最初の一発目はおはようでくる。だからこれは昨日のことに関してなんの情報も俺には与えてくれない。だからこれは無視だ。しかしまあやつの妻だか娘だかを殺害しただのそういう致命的な禍根を残すような所業に及んだということは少なくともないわけだ(笑)けっこうじゃないか(笑)ふっ!」僕は皮肉な、そして自嘲的な、苦笑をもらし、次に移りました。「今どんな感じ? は?」僕はおはようにつづくこの文を改めて読んでみて、思わずベッドのヘッドボードを左手で殴りつけました。「今どんな感じ、だと? なんだそりゃクソがっ!? はっきり言えやクソがっ! メスかおまえは!? 女々しい駆け引きじみたことしやがって! こいつ俺が、最悪だ、などとでも返したらどうするつもりなんだ!? またなにやらうにゃうにゃうにゃうにゃクソ女みたいな煮え切らない態度で俺の出方をうかがうつもりなのか!? そういう気持ちの悪い気の使い方をせずに男だったらもっと単刀直入なやり方で正面からぶち当たってきたらどうなんだ!? それで結果的に俺が血反吐を吐くようなことになってしまったとしてもだ、逃げも隠れもせず、ガツンとその事態を、己の血も涙もない非常さを、真っ正面から受け止めて、なお毅然としてればいいんだ!な~にがっ、今どんな感じ?、だっ!! 気色のわるいっ! 『どうもこうも最悪だから、おまえを殺してやろうと思っている。今から』とでも送ってやろうか? なにがあったかは知らないがそうなったらやつもそのクソ気色の悪い態度を改め速やかに本題に入るだろう。で? ずいぶん飲んでたみたいだけど? ボケがっっっ!!! 飲みに行ったんじゃボケぇっっっ!!! 飲んどるのん当たり前やろがっっっ!!! もの言う前に立ち止まって己の言動二秒でええから考えて口に出せダボがっっっ!!!」僕は怒りに震えながら[えっ!?]とだけ文字を打ち込みました。毒々しい笑いが僕の顔に刻まれ、僕は送信ボタンを押しました。さて、それから一時間経ちましたが返事は返ってきません。僕のイライラ、不安、焦燥はどんどん募ってゆき、その間何度も僕は頭の中で彼を前にして、彼の人生の無意味さ、給料の安さ、女にいかにモテないか、女々しい根性をしているかなどを、そしてそれに比べて自分がいかにおまえなどとは色々格がちがうかなどを口汚く言いつのり、そうして少し気が済むと今度はまた巨大な、例の不安が、重く腹の中に姿を現しだし、息苦しくなり、早く、とにかく早く楽になりたい、電話しようか?いやだめだ、そんなことしたら俺が切羽詰まっていることを丸出しにするようなものだ、まだそんな姿は見せなくていい、だいたい俺はやつと今なまの会話などしたくない、というふうなことを、思うのでした。そうしたことを一時間のあいだ繰り返して、とうとう僕は我慢の限界に達し、wに電話をするためにスマホをひったくりました。するとほぼ同時にwからラインの返信がありました。僕はクソがっ!と罵りながらその返信の文に目を通しました。そこにはこうありました。[いや、寝てたの? ごめん。ずいぶん飲んでたみたいだからゆっくりして]僕の怒りはそこで爆発しました。そしてまた震える指で文字を打ち込んでゆきました。[寝てたて(笑)寝てたんやったらラインの着信音なんかで目ぇ覚まして秒でおまえに返事返せるわけあらへんやん(笑)起きてたてわかってるやろ?(笑)もうええからはよ言うて(笑)言いたいこと次の返信で全部ゆうて。全部。全部ひとつ残らずゆうて]それを送ると僕は追加でさらに[全部ゆうて]と送りました。さて、そんなふうになってみてもうあとはまな板の上の鯉です。ぼくは妙にすっきりした気持ちになりました。合格発表を待つ受験生みたいに、とにかくあとは待つだけなのです。腹も据わってきました。あとはこの後襲い掛かってくる事態を受け止め、そしてそのあとどうするかというのはそれからのことです。今どうのこうの言ったところでどうにもなりません。ただとにかく今はwからの返信を待つだけなのです。そういうような次第で、僕はwが送ってくるであろう「真相」をドキドキしながらしかしさっきのように不安やイライラに翻弄されてひっちゃかめっちゃか、自分を見失った状態からは抜け出して落ち着いているといっていい状態にありました。さて、数分後に返信がきました。そこには[憶えてないんだよね? 全部は、なかなか言うのは時間がかかるよ。俺も思い出さないといけないし]とありました。僕はじゃあおまえ今からこっち来いよ、と送りました。すると[今って今から?]と返ってきました。僕は今来れるなら来てほしいと送りました。
さて、wは三時間後にやってきました。
僕は彼に昨日あったことを一切の手加減を加えずに話すように言いました。
彼は語り始めました。
僕は、途中意識が遠のきそうになりました。
僕は普段ほとんど関西弁は口にしないのですが、酒が入ったときやちょっと興奮したときなどに、たまに出ることがあります。
それにしてもいったいこれはなんなのでしょうか。
僕は最初、こいつ盛ってるんじゃないかと勘繰りました。
しかし、たとえいくらか盛っていたにしても、それはおそらく大筋ではそのとおりなのだろうということは、認めないわけにはいきませんでした。
というのも、僕は彼のはなしを聞きながら、僕の体の中に昨日からずっとあった「やらかしの感覚」、何をしたかはわからないが、とにかくかなりヤバい何かをやらかしたという感覚、それが徐々に具体性を帯びてゆくのを感じていたからです。それは言われてみればそんなことをやったような気がするという程度のものではありましたが、しかしなにか非常に僕に納得感みたいなものを感じさせ、そのひとつひとつのエピソードや語られる語調には、異様な説得力が染み込んでいるのでした。その語りは、僕の体の中の漠然としたやらかしの感覚に、はっきりとした形を与えてゆきました。そして僕は思うのでした。(そうだ、俺はこれを、やった!)。僕は、じつは思い出してもいないのにすっかり思い出したようなぐらいにその真実性を確信するのでした。そこには、謎が解かれてゆくときに感じる、隠されていたものが明るみになってゆくときに感じる、ほとんど心地よさみたいなものさえも、ほんのわずかではありますが(というのもこのあと語るように実際にはそんなものをはっきりと感じて味わうような余裕はそのときなかったからです)、あったかもしれません。
さて、ではwが話し始めてから、彼のはなしが心に僕の心に刻まれてゆくに従い、僕がどのようになっていったかについて話そうと思います。
話し出されてから数分後、僕は左手で口元を覆いました。顔は、どんどん赤くなってゆき、そしてしまいには、猛烈な深酒でもしたような、赤黒い色にまでそれはなっていたのではないでしょうか。冷たい汗は次から次へと全身から滲みだし、手足の震えを止める努力は、もう最初の一分ほどでやめていました。そんなふうにして、口元を覆ったすこしうつむけた顔で、wの方に焦点の合わない目を向けながら(どうして焦点を合わすことなどできたでしょう。意識が朦朧として、物理的にそれをするのが困難だったというのもありますが、たとえそうでなかったとしても、やはり僕の目は、そうすることに激しい抵抗を感じたことでしょう)僕は目に涙が滲んでいるのを感じました。しかしこのときはまだ少しばかり滲んでいるだけで、それをちょっとしたショックからくる生理的な反応としてしまうこともできたのです。実際僕はそれをそのときはそういうものとしてかたづけました。そして呼吸なのですが、それはもちろん浅く、不規則なものになっていました。ふふぅっふふ…ふふっふふっふぅっふふっふっふっ… こんなふうに、呼吸を含めた身体的活動すべてが、自然な調和した、その自律性に任せてもすべてはうまくいくという信頼みたいなもの、それを抱かせるような在り方とはまったく離れてしまった、ひっちゃかめっちゃか、バグった有様で、それらは統御されるためには中枢であるところの僕の必死の努力を必要としていました。しかしその統御のための努力は、ごく最初の方で僕は放棄していました。というのも、僕はある一つの感情に耐えるのに、すべての力を使い果たしていたからです。いや、耐えるというよりも、僕自身が、その感情そのものになっていたというのがほんとうに近いかもしれません。ではその感情というのは何なのか。それは、ここでもやはり、そうです。あれです。しかし今回のそれはあのときとは比べ物にならないほどの巨大なモンスターとして現れました。僕はその時、その感情ものになっていました。しかしじつは、そうなっていたのは初めのうちの十数分だけだったのではないでしょうか。wの語りは三十分は軽く超えていたと思います。そして語りの後半において僕は、無感覚な、朦朧とした意識状態に移行していたのです。前半において僕は、口元を手で押さえ、赤黒い顔をして、かたかたかたかた、心理的には、捨てられた仔犬か、真夜中の山林や人さらいの横行する異国の路端なんかで迷子になったちいさな子供みたいになって、震えていました。しかしじきに、僕はある種の無感覚状態に陥っていたのでした。wの声は、聞こえてはいるのですが、なんだか、うつらうつらと微睡んでいるときに聞こえてくるテレビの音みたいに、意識の上辺の方を滑ってゆくような、そんな感じのものになっており、そして意識も周囲の景色もぼんやりとして、なんだか、自分の体も自分でないみたいな、ふひふひとした呼吸も震えも、なんだか自分でないみたいな、ほんの少し、そう、その震える僕自身から、二三十センチ離れたところにいてそれを見ているような、そんな感覚になっており、ただときおり、定期的にこみあげてくる吐き気だけが、僕にまだ体があることを報せてくるのでした。そして、涙が、とうとう右頬の上を伝いました。あっ、流れた、と、僕は人ごとのように思いました。僕のすぐ左前方、ほんの二三十センチ、目と鼻の先で、僕の右頬から涙が流れているのでした。その事実によって僕の胸は鈍い痛みを感じました。ああ、俺は、涙が出るほど恥ずかしいのだ。人は、恥ずかしくて涙が流れるということがあるもんなんだなあ…… いや、そんなはなしは聞いたことがない。ということは、俺の感じているこの恥ずかしさというものが、やはり常軌を逸しているということなのか。僕は無感覚な状態に陥りながらも、やはり「恥ずかしさ」は僕を決して見逃したりなどせず、それはどうやら僕の肉体に、そして僕の存在の中核部分に、ダイレクトに流れ込んでいて、それが証拠に僕の肉体はそれの働きによる反応を現しつづけ、そしてとうとう、涙が右頬を伝っていったのです。僕はそのように、己を襲っている「恥ずかしさ」が尋常ではないということをその右頬を流れるひとすじのか細い水の流れによって突き付けられて、まるで人ごとのように慄きを感じるのでした。そして僕は、人々がその手前で、無難に、安全に暮らしている一線を、踏み越えてしまったような、そんな、なにか取り返しのつかない罪でも背負ってしまったような、なんらかの烙印、呪いでも受けてしまったような、そんな、暗黒の海に放り出され見渡す限りどこにも仲間など見出すことのできない、漂流者のような、そんな気持ちになり、ふたたび慄きが全身を貫き、それから呆然となるのでした。俺はもしかすると、このまま死ぬのかもしれない。僕はそのときそんなふうなことを思いました。人間が恥ずかしさのあまりそのまま死ぬということが果たしてありえるのかどうなのか知りませんが、たとえそのような前例がなかったとしても、このまま死んでしまうということに対して、僕はそれほどのおかしさは感じませんでした。前例がなかったとしたら、俺が恥ずかしさでそのままぽっくり死ぬ第一番目の人間になるのだろう、そんな考えが、違和感なく、とても自然に、受け入れられました。だいたい俺はあの一線を越えたのだ。あの、「俺」のほほを流れる涙を目にしたとき、俺はようするに、全人類から離れて、はるか遠くの、誰もいない果てしない荒野の中に、押し出されたのだ。俺はその果てしない荒野の一本道を、ただとぼとぼと、ひたすら歩いてゆくしかないのだ。前例? 一人ぼっちで無人の荒野をゆく俺に前例など必要なわけがない。俺は死ぬんだろう。ほら、俺の意識はさっきから朦朧としていて、この先が死だったとしてなんのおかしなことがある。いや、でもまだわからん。俺は意外と死なないのかもしれん。しぶとく生き残るのかもしれん。しかし生きのこったとして、その先の俺の生活とはいったいどのようなものなのだろうか。ああ、やはり死ぬのか。なんだかすべてが懐かしくなってきた。さっきの、あの「間」。ずいぶん懐かしい。俺は、あれが恥ずかしかったんだなあ…… 若かったんだ…… 本当の「恥ずかしさ」を知らなかった…… しかしそれにしても、俺はなんであんなことをしちまったんだろう…… 芦屋の狂犬…… わしが山*組に…… ほんだら若いもんが頭を九十度の角度に下げて…… ガーーーー ゆうて…… 信じられない…… まさかこの俺に、そんな一面が…… ほんとうにあれは俺なのか?……
僕はここで改めてwの話しぶりに注意を向け、盛ってるのかどうなのか、ぼんやりとした意識の中で、判断しようとしました。
いや、盛ろうが盛るまいが、こいつは大筋では本当のことを言っている。それは認めねばならない。それを俺は、俺の体は、ちゃんと知っている。俺はアレをやったのだ。そう、まちがいなく、やったのだ。
さて、そんな僕の様子に、手加減をするなと凄まれたwでしたがやはりいたたまれなくなったのでしょう、最後に彼は僕を励ますようにこう言いました。
町上! 心配するな! sのやつは絶対にこのことを記事にはしないと言っている。おまえも知っているだろうがやつは文冬ではあるがうそはつかない男だ。だからそれについては心配ない!あとあの現場にいたのは俺とおまえとsと、そしてあのバーテンだけだ! あのバーテンは口が堅くて有名なやつだから外に漏れることは心配しなくていい! それは俺が保証する! 町上! 元気出せ! 俺はおまえがああでもおまえの友達をやめるつもりはないぞ!
僕は口を押えかたかた震えながらこくりこくりとうなずいています。僕はいつの間にか僕の肉体に戻っており、そうすると容赦のない「恥ずかしさ」が全身を駆け巡り、その突然の猛烈な「恥」の流れの侵入、そしてそれのあっという間の全身への浸潤によるショックで、僕は全身がガタガタ震え、胃の内容物がこみ上げてきて、そして白目を剥いてそのまま倒れそうになりました。
町上!
wの声が聞こえ僕ははっとしてすんでのところで踏ん張り持ちこたえました。そして、彼が今しがた言った言葉を思い出し、僕の心にいくらかの安心感が広がってゆきました。僕は激しい恥の意識の中でかたかた震えながらも、やはりほっとするのでした。すると同時に、僕はくしゃっとした、なんだか妙に情けない顔になりました。そしてなんだか、複雑な、突き放したような笑いが、ふっと鼻から吐き出されました。
まったく、やれやれだ······
ふふ······
やれやれだ······ ふふ······
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