シグル
遊園地での「事件」があってから、学校の中はしばらく騒がしかった。
ニュースで流れた「危機を救った驚異のエスパースクール児童」が逸美であることは、すぐに学校中に知れ渡った。——というより、他に誰がいるというのか。
しばらくして地元の警察署長が、逸美に感謝状を渡しにやって来た。
校長室で、真面目な顔でカチカチになってそれを受け取る逸美を見て、うつむいて笑いをこらえる先生が何人もいたというから、それだけでも逸美が普段スクール内で人とどんなふうに接しているかがうかがえそうだ。
マスコミの取材もしばらくは加熱していたが、それに対しては先生方が頑として防波堤になり、子どもたちを守り抜いた。
そんな騒ぎの中で、逸美の気がかりはシグルのことだった。
『おまえなんか・・・嫌いだ!』
逸美の胸の中で、この言葉だけが、何度も何度も浮かび上がってきてはリフレインした。
シグルとの距離が、遠くなってしまった・・・。
実際にシグルは、あの事件の後、逸美の姿を見かけると避けるように遠ざかってしまうことがよくあった。
晴れやかな賞賛や、鬱陶しいすり寄りを、独特の距離感覚でふわりふわりとかわしながら、逸美はどこか哀しげな面持ちでシグルとの距離を縮めようと努力していた。
そのチャンスは意外に早くやってきた。
シグルには今のところ、これといったESP能力が現れていない。
エスパースクールに来るくらいだから、ポテンシャルはそれなりにあるのだが、他の子と違ってテレキネシスもテレパシーもテレポートも、何一つ「らしい」兆候を見せなかった。
シグルがなんとなく他の子たちから距離を取るのも、そういうことに対する劣等感のようなものもあるのかもしれない。
あるいは逸美に対する態度も、見られたくない、だけではなく、逸美の超越したようなテレキネシスの前で、為すすべもなく救われただけの自分が惨めに思えてのことだったのかもしれなかった。
その代わり、と言うべきなのかどうか。シグルには突出した才能があった。
絵が上手いのだ。それもハンパなものじゃない。美術の時間に「紙」の上に描くものなどは、先生が唸るほどだった。
彼はとにかく描くことが好きらしく、休み時間に端末のタブレットの上に指だけで実に見事にゲームのキャラなどを描いていることがよくあった。
それを3次元データにして、タブレットの上に立ち上げて独り悦に入って眺めていたりする。
「すげーな、おまえ。」
などと誰かが近寄ってくると、パッと消してタブレットを隠してしまう。
そんな彼の態度が、クラスメートたちがシグルに声をかけづらい一つの要因になってもいた。が、これは、クラスメートに対するシグルの嫌悪や悪意によるものではない。シグルは、極端に恥ずかしがり屋なだけなのだ。
と同時に、これはある種の芸術家たちにありがちなことなのだが、「眼」が肥え過ぎていて、自分の「作品」が他人に見せるレベルに達しているように見えないのだ。
まだだ。うん。自分ではけっこう気に入ってるけど・・・。でも、まだまだ、だ。見せられるようなモノじゃない——。もっと、もっと・・・。
描くことに夢中になっていたのだろう。
人の少ない放課後のライブラリのテーブルの片隅で「作品」に没頭していたシグルは、不覚にもすぐ後ろに逸美が立ったことに全く気づかなかった。
逸美は逸美で、探したいコンテンツがあってライブラリにやってきたのだが、そこで独りテーブルに向かって背中を丸めているシグルを見つけた。
「シグル?」
と小さく名前を呼んで近づくが、気がつかないのか返事もしない。
別に覗くつもりはなかったのだが、もう一度近くで名前を呼ぼうとした時に、タブレットの絵が見えてしまった。
「それ、わたし !? 」
思わず、名前を呼ぶ前にその言葉が出てしまった。そこはテンネンである。
シグルは、びくっとしてふり返り、みるみる顔が真っ赤になった。「作品」を消す暇もなかった。心なしか目が潤みはじめている。
「ご! ごめん。ごめんなさい! 見るつもりじゃなかった! ちゃんと名前、呼んだんだよ! ごめん。でも・・・それ、すごい!・・・・」
逸美も真っ赤になりながらも、正直な感嘆を一生懸命言葉にする。その声には嘘がない。この真正面さが、本人は自覚していないが逸美の「武器」でもあった。
シグルは「作品」を隠すタイミングを失って、タブレットと逸美の顔を交互に見やりながら、言葉を紡げないでいる。
「それ、3次元にできる?」
逸美は踏み込んだ。
「あ・・・、ツ・・・ツールを、使えば・・・」
懐に飛び込まれて、シグルは逸美の空間に巻き込まれた。
シグルの描いた逸美の肖像が、立体になってタブレットの上に、ふあっと浮き上がった。
「ステキ——!」
逸美の顔が、肌の匂いが届きそうなほどにシグルの顔の近くにある。陶然とシグルの「作品」を見つめる黄金色の瞳。
シグルはそれをやや横目で見ながら、息を忘れたようにして固まってしまった。シグルの両手がタブレットを操ったときの形のまま、彫像のようにテーブルの上に置き去りにされている。
「ね。これ、わたし、もらっていい?」
そう言って逸美がシグルの方を見て初めて、2人ともその距離のあまりの近さに驚き、おっと後ろに少しのけ反った。
それから逸美が人懐っこい笑顔で、くすっ、と笑った。シグルの瞳の中に、嫌悪が微塵も感じられなかったから。シグルの頬はまだ紅い。
「よかった! 嫌われてたわけじゃなかったんだ。」
「あ・・・あれは! その・・・・」
シグルの頬の赤みが、また顔全体に拡がった。
「よかった・・・。ずっと避けられてるみたいだったから・・・」
逸美が笑顔のままで涙ぐんだのを見て、シグルは慌てた。
「そ・・・それは・・・! あ・・・頭ン中、覗けばいいだろ? できるんだろうから・・・。」
シグルは、ふてくされたような言い方で言った。言ってから、後悔した。もっと別に言うことがあるだろうに・・・。これだから、ボクはダメなんだ——。
「しないよ、そんなこと! むやみに他人の頭覗くようなこと。」
逸美は少し怒ったような顔で言う。しかし、その目には軽蔑も嫌悪もない。ただ単純に、当たり前でしょ? ——と言っている。
逸美の母親は独特の子育て哲学を持っていたようで、子どもを信頼する、という点では突き抜けていた。
例えば、逸美が「これ、秘密!」と言ったファイルは、たとえそれが端末に開かれたままで、忘れて遊びに行っていたとしても決して見ない。
もちろん、いない間に端末の中身を見て我が子の状態を把握しよう、などということもしない。
黙っていれば子どもにはわからない——と思うかもしれないが、大人よりも幼児の方が、そういうことは敏感に感じ取るものだ。
人間の基本は、まず信じることから——。
それが、どうやら母親の人間哲学であるらしかった。それを全身で実践して見せた。
そんな純粋培養で、嘘や悪意ばかりの世の中を生きて行けるのか? と心配する向きもあるかもしれないが、意外にそうでもない。
話は横道にそれるが、宝石の鑑定士の訓練というものは、本物と偽物を見比べて当てる訓練をするのではない。
初めは超一級の本物ばかりを、来る日も来る日も眺め続けるのである。やがて目がそれに慣れてきた頃、そこに偽物や傷モノを混ぜると、すぐにわかるようになる。
人間も、本物の「信頼」を体で知っていれば、ニセモノや嘘は敏感に嗅ぎ分けられるようになるのかもしれなかった。
逸美はESPではなく、独特の嗅覚で人の嘘や欺瞞を見抜くようだった。それだけなら下手をすれば怖がられそうだが、逸美の場合、それを持ち前のテンネンで韜晦してしまっている。
「ねえ、それ、わたしの端末にコピーさせてくれない? 絶対、誰にも見せないって約束するから。」
「あ・・・、うん。いいよ。」
シグルは逸美が気を悪くしていないことにホッとして、つい「作品」を手渡すことを了承した。
シグルにとっては初めてのことだ。他人に自分の「作品」をあげるなんて——。
しかもそれは、密かに憧れていた女の子にその子本人の肖像を渡す、という、シグルの自分史上でも最大の大事件であった。
「ありがとぉ!」
逸美は顔中を笑顔にすると、端末を抱えて踊るような足取りでライブラリを出ていった。探しにきたコンテンツを忘れたまま・・・。
逸美の姿が見えなくなった後、シグルは椅子に座ったまま、両の拳を固く握って小さく上下に振った。
やった! やった! あのイツミちゃんと共通の秘密を持てた!
シグルよ。勘違いしてはいけない。
逸美はただ、他のみんなと同じような距離に、シグルにもいてほしいだけなんだから——。