3 危険なお仕事
「いやーっ! いーやーだーッ!!」
夕飯も終えてすっかりと陽も暮れた頃、ノエルの声が子供部屋に響き渡っていた。
「仕方がないでしょう、ノエル」
小さな赤ん坊のようにいやいやと地団駄を踏んでいるノエルに、マリーが溜め息混じりに諭す。
「ユーベルさんのお仕事に、あなたの力が必要だっていうのだから」
「そんなの絶対嘘だもん!」
ノエルは妙な確信を持って断言した。
あの男がノエルの力を必要とするわけがない。そんなものなくたって、平然と切り抜けられる筈だ。あれはそういう男なのだ。
本来ならユーベル本人に当たり散らしたいところだが、生憎今はいない。こうなることがわかっていて避難しているのかも知れない。それ故に感情の持って行き場がなくなり、とにかく発散させる為に「むきーッ!」と叫び声を上げ、怒り任せに枕を投げ飛ばして寝台にしがみついた。
普段から怒りっぽいが、真面目で聞き分けのいいノエルがこんなにも駄々を捏ねるなんて、と他の子供達は驚きと呆れが半々の顔で、部屋の外から様子をそっと窺っている。
埒が明かない、とマリーは溜め息を零し、自分の寝台に腰かけて様子を見ていたラビサを手招く。
「この鞄に、ノエルの荷物を詰めておいてくれる?」
ノエルはすかさず「やめてよ!」と鋭く叫んだ。頼まれていたラビサは驚いて身を竦めるが、マリーの言うことの方が優先なので、申し訳なさそうに鞄を受け取る。
「何日分かの着替えを詰めておいてあげて」
肌着とシャツがあればいいだろう、と指示を出し、マリーは八つ当たりのようにシーツに爪を立てている小さな肩を叩く。
「立って、ノエル。下でお話ししましょう」
「話したって気持ちは変わらないです。行かないもの」
「いいから来なさいな。エレナは具合が悪くて寝ているのに、近くでこんなに騒いでいたら可哀想でしょう」
そう言われ、ハッとする。朝から微熱のあったエレナは、陽が沈む頃から熱が上がり、辛うじてスープを飲んだあとに寝込んでしまったのだ。
コンコンと苦しげな咳をするエレナの真っ赤な寝顔を見て、悪いことをしてしまった、と悲しげに肩を落としてから、ノエルは立ち上がった。
連れ立って食堂に降りて行くと、ランプの淡い光の下でユーベルが本を読んでいた。暇潰しだっただけなのか、食堂の片隅に置かれている本棚にあった絵本だ。
「随分と大騒ぎだったな」
ぶすくれ顔のノエルに意地悪く言いながら絵本を閉じて座り直し、ランプの灯りを少し明るく調節する。
マリーが椅子を引いてくれたのでそこに腰を下ろすが、ノエルは僅かな拒絶を滲ませて、膝の上に握り拳を作った。
「さて――」
椅子を引いて来て、ユーベルとマリーはノエルと向かい合わせに腰を下ろした。
「お前が俺を嫌っていて、一緒に出かけたくないっていう気持ちはわかっているつもりだ」
「わかってるなら一人で行って来てよ。あんたなら一人でも問題ないでしょ」
言葉尻に被せるように文句を言い、ふんと鼻を鳴らす。
「俺もそうしてやりたいんだがなぁ……そういうわけにはいかないんだ」
溜め息混じりの苦笑を零し、もう一度読め、とテーブルの上に置いてあった手紙を渡す。
本当は、そんなもの読みたくもない。けれど、マリーからも無言の強制を感じて、この指示に従うしかないようなので、仕方なく受け取った。
宛名はユーベル・シュタイン神父。差出人の記名はないが、緑がかった黒の封蝋に刻印されているのは祓魔師協会の紋章なのだという。
渋々と便箋を取り出し、文面に目を通す。昼にも読んだものだが、もう一度慎重に。
手紙の内容は、祓魔師の主要職務である怪異の調査及び事象の解決を要請するものだ。
調査指定地域は、フランデル王国北東部の国境沿いにあるハーヴィーの森周辺。このフローリン村からは街道馬車を乗り継げば一日、街に出て汽車を使えば半日ほどの距離の場所だ。そんなに遠い場所ではない。
そのハーヴィーの森周辺で、惨殺事件が続いているということだ。
最初の被害者は仕事で森に入った樵で、一晩帰らず、翌朝遺体となって見つかったのだという。
次の被害者は一人目の被害者の捜索に加わっていた若い青年で、数日後にやはり同じように遺体となって見つかったらしい。
同様に行方不明から後日亡くなっているのが見つかる事件が、この一年の間だけで二十件以上も起こっていて、周辺の住人達がすっかり怯えてしまっているのだという。
亡くなった人達の死因は、どうやら大きな獣に襲われたようだ、という報告が上がっている。遺体のどれもが獣に食い千切られたかのような残忍な傷痕が刻まれていたからだ。
「野犬か、狼じゃないの?」
森の中で襲われたのならば、森に棲む害獣に襲われたのだと考えるのが妥当だろう。それならば猟師や警吏の仕事で、祓魔師の出番は必要ない。
いいや、と首を振り、ユーベルは二枚目を読むように言った。
指示された二枚目には、報告の一部が抜粋されて記載されていたようだ。読み進めてみるが、まだ十二歳のノエルには少々――いや、かなり刺激の強い内容だったので、途中で気分が悪くなって読むことをやめてしまう。
そのことに気づいたユーベルは、さすがに子供に読ませるような内容ではなかったか、と少し反省した。咳払いをして手紙を取り上げる。
「まあ、要約すると、とても通常の獣に襲われたとは思えない大型の噛み痕で、野犬や狼ではないと思われることと、場所が問題だということで、近隣に滞在している俺に行って来いという命令だな」
それもまた妙な話なのだが、とユーベルは心中でひっそりと思う。
神学校で司祭資格を取得したあとに祓魔師の養成機関へ進んだので、他の同期と少しずれた時期に任官されることになってしまった為、日程調整の為にひと月程の待機期間が出来たのだが、つまりはまだ新人どころか見習いのような身分なのだ。いくら近場にいたからといっても、そんな立場の者にこんな指令を出すなんておかしな話だ。
誰か裏で糸を引いている人物がいるな、と思う。
ユーベルにはその人物に心当たりがあるし、こういう状況にされることにも納得はいくのだが、こんな『特別扱い』をされて目立つのは不本意だ。向こうも悪目立ちするようなことは望んでいないと思っていたのだが、違ったのだろうか。
ノエルは僅かに青褪めた表情でユーベルの顔を見上げる。
「そんな恐い獣がいるところに行くなんて、危ないじゃない……」
まだ子供のノエルには自分の身すら守る術はない。連れて行かれても足手纏いになるか、件の獣に襲われて命を落とすことになるだけではなかろうか。
自分自身が危ない目に遭うのも嫌だが、誰か他の人に迷惑をかけるようなことになるのも嫌だ。それが例え腹立たしいユーベル相手であっても、その気持ちは変わらない。
そうですよ、とマリーも応じた。
「どうしてもノエルの力が必要なのだとしても、それでノエルが危険な目に遭うのなら、私は同行を容認出来ませんよ」
僅かに顔を顰めながらユーベルに訴えかけると、彼は首を振った。
「ノエルを危険な目に遭わせるようなことは、俺も本意ではありません。来てくれるなら全力で守りますよ」
当然のことだ、とはっきりと言うので、マリーは少しだけ表情を緩めた。
「たぶん、マリーもよくわかってないと思うので補足すると、そもそも場所がよくない」
事件が起こっている場所はアーデブルク帝国との国境付近の森――というより、森の一部を隣国と共有してしまっているという地域だ。ここは長年境界線争いが続いていて、幾度も合議が続けられているのだが、未だに解決していない。それ故に、両国共に領域侵犯に過敏になっている。
そんな面倒な場所であるだけに、重篤な害獣狩りと言えどもおいそれと深入りすることが出来ないばかりか、もしもその害獣が隣国へ渡ってそちらでも被害を広げるようなことになれば、フランデル王国の陰謀だとして戦争に発展するかも知れない。人が迷い込んでも、件の獣が侵入しても問題になるのだ。
その点、エテルノ聖教会には国境や国籍などは関係なく、どちらに行き来していても咎められることはない。完全に中立な立場だ。
しかも今回は正体不明の大型害獣が絡んでいるようなので、ただの害獣被害というわけではなく、どちらかというと怪異寄りの事件だと思われる。それを解決させるのに一番面倒を起こさなくて済む存在が、聖教会に所属する祓魔師というわけなのだ。聖都にある本部に要請が来ていることからも、そういう事情が大きく影響しているのがわかる。
それでも、国境付近という地理が厄介なことには変わりない。短期間でさっさと解決してしまいたい事件なのだ。
そのことを説明し、ユーベルは改めてノエルに向き直る。ノエルは緊張を含んで強張った表情で睨んできていた。
「もう一度言う、ノエル。お前の『目』が必要だ。一緒に来い」
声音は静かだが、有無を言わせぬ強さがある。
何故、不思議な力を持ってはいるが、祓魔師でもないただの子供のノエルが協力しなければならないのかとか、ユーベルならノエルの補助がなくても余裕で切り抜けられるだろうとか、いろいろ疑問が浮かぶのだが、結局、今回のことに関しては、最初からノエルに拒否権はないのだろう。
あの手紙の所為だろうか、とユーベルの手の中にある指令書を横目に見る。
気分が悪くなって途中で読むのをやめてしまったが、なにか他にも書いてあることがあって、ノエルが同行しなければならないとでも命令されているのではなかろうか。
何故そんな命令が出されるのだろう――答えは決まっている。
恐らくユーベルもそのことに気づいていて、敢えて口にしないでいる。マリーが悲しむからだ。
腹に抱える古傷が僅かに痛むような気がした。その疼痛を感じたからこそ、嫌でも思い知らされる。
ノエルは深い深い溜め息をひとつ、眉間にぎゅぎゅっと皺を寄せてから、顔を上げた。
「わかった。行く」
嫌で堪らなくても、そうして頷くことが、ノエルとユーベルが出会った五年前から決められていたことなのだ。
それにこの事件は、そんなに遠くない場所で起こっているものだ。いつしかその獣が移動して、このフローリン村にまで来ないとも限らない。自分達の為にも早期解決は重要だ。
翌朝、ノエルとユーベルは連れ立って孤児院を出発した。
陽が昇る前に街道に出て、丁度よく通りがかった乗り合い馬車を掴まえる。
「シャレーニュまで出て、そこから列車を使います。陽があるうちにハーヴィーに着きたいですからね」
フローリン村から一番近い鉄道の駅がある街だ。
わかった、と頷きながら、ノエルは薄気味悪いものを見るようにユーベルを見た。
「……どうかしましたか?」
視線に気づいたユーベルが首を傾げる。うへぇ、とノエルは顔を顰めた。
「なにその喋り方。気持ち悪い」
「喋り方? なにかおかしいところでもありますか?」
はて、と心底不思議そうに瞬きながら、指先で眼鏡の位置を直す。
それだ、それ、とノエルは更に顔を顰めて、仰け反るようにして身を退いた。
「いつもそんな喋り方しないじゃない。気持ち悪いからやめてよ」
あまりの気味の悪さに怖気を感じて全身粟立っている。ブツブツと鳥肌が立っている腕を見せつけ、うへぇ、ともう一度顔を顰めた。
失礼な、とユーベルも顔を顰める。
「我等が天主様の敬虔な信徒として、恥じぬ言動を心がけているだけです。そんな言い方は酷いんじゃないですか?」
胸に下がる数珠を握り締めながらそんなことを言うので、黙って嘔吐する真似をして見せた。普段の言動を知っているだけに気持ちが悪くて堪らない。
そんな態度を向けていると、ユーベルは一瞬真顔になると周囲を見回し、姿勢を崩した。
「余計な詮索をされないようにしてんだよ。年端もいかない女の子連れの神父なんて、それだけでも目立つだろ」
言われてみればそうだろうな、とノエルは納得した。
銀髪銀眼で人より頭ひとつ分程大柄なユーベルは、ただでさえ人目を惹く。そんな男が僧衣を纏い、血縁者でもなさそうな少女と二人旅などしていれば、いったいどういう組み合わせなのだ、と妙な勘繰りをする人もいることだろう。ノエルだってそんな二人組が目の前にいれば気になると思う。
その神父の言葉使いが荒かったりしたら、実は偽神父なのでは、と疑う者もいるかも知れない。そうなると、一緒にいる子供は誘拐して来たのでは、などと飛躍した憶測に至る者もいるのではなかろうか。そこまではノエルにも容易に想像がついた。
ならば仕方がない。気味が悪い口調に慣れるように努めることにする。
「じゃあ、ユー……ううん、神父様」
少し考えてみてから、ノエルも呼び方を改めてみる。
なんでしょう、とユーベルも外面全開の作り笑顔を向けてきた。
「なんで私の『目』が必要なの? 神父様なら、そんなもの必要ないんじゃないの?」
確かにノエルはかなり『目』がいい。視力云々の話ではなく、幽霊などの怪異現象を見抜くという意味でのよさだ。
けれど、その程度だったらユーベルも持っている筈だ。だからこそ、そんな理由でノエルを同行させる理由がよくわからない。
ユーベルは小さく溜め息をついた。
「それがですね……俺の目、こっちではあまり機能しないようなんですよね」
「機能しない?」
それはどういう意味なのだろうか。よくわからなくて小首を傾げると、言ったとおりの意味だ、という答えが返る。
「実体があるものならもちろん視認出来ますが、霊体のようなものになると、ノエルさんほどはっきり見えないんですよ」
もちろん見えやすくする呪いなどを施せば問題はないのだが、それもまた完全ではない。呪術対象との相性の問題なのか、見えにくい場合がある。手間をかけてそんなことをするくらいだったら、見えているノエルに指示を出してもらう方が正確だ。
「単純に祓うことだけならまったく問題ないんですよ。ただ、実体がない存在なら正確な位置が把握出来ないので、時間がかかると面倒だな、ということで」
今回の事件は、被害者が生存していないので目撃者がいない。遺体に残された傷痕から、鋭い歯を持つ大きな獣に襲われたようだということはわかるのだが、それが実体のある獣に因るものなのか、人体に干渉してくる霊体に因るものなのかがわからないので、保険としてノエルに同行を頼んだというわけだ。
すみませんねぇ、と珍しく本心から申し訳なく思っている様子で苦く笑われたので、はあ、とノエルは溜め息をついた。怪異現象に対してはなんでも出来ると思っていた男に、そんな問題があるとは思いもしなかった。
けれど、一応はこれで納得がいった。
初めからこういう事情をきちんと話していてくれれば、嫌々でもついて来ることを承諾していたし、あんなに駄々を捏ねて暴れて嫌がったりしなかったのだ。
いつもいつも、なにかちょっと言葉が足りないのだと思う。
ノエルだって馬鹿ではない。まだ子供だけれど分別はあるし、なにが善くて悪いかも判断が出来る。きちんと説明していてくれていれば、自分の意思で同行することに承諾出来た筈だ。
やっぱりユーベルが悪い、と思って、頬を膨らませる。
そんな様子を横目で見ていたユーベルは微かに笑い、荷物棚に上げていた鞄を下ろし、中から布包みを取り出した。
「お腹が空いてきたのではありませんか? 出がけにさっと作ったものですけど、どうぞ」
そう言って、夕食の残りのパンに萵苣菜と乾酪の挟まれたものを差し出してきた。ノエルは驚いてユーベルの顔を見上げる。
「ユー……じゃなくて、神父様が作ったの?」
「もちろんですよ。材料は調理場から拝借しましたが」
マリーに断りを入れ忘れたから、食材が減っていることに気づいて怒っているだろうか。孤児院の運営資金というものは結構ギリギリの線を渡り歩いているようなもので、在籍している子供の人数や年齢によっては、食費が運営をかなり困窮させることは知っている。
これくらいなら大丈夫だよ、と答えながら、ひとつ受け取って眺めてみる。
「料理出来るの?」
意外に思って尋ねてみると、ユーベルは可笑しそうに笑う。
「これは具を千切って挟んだだけだから、料理とは言わないでしょう。でも、やろうと思えば出来ますよ」
そう言って浮かべた微笑みが物凄く胡散臭く見えたので、ノエルは心の中でそっと『味の保証はありませんが』と付け加えてみる。妙にしっくりときたのが嫌だった。
これは味つけに塩と胡椒が少し振ってあるだけのようなので、ほとんど素材そのままの味という感じだろう。安心して齧りつくと、普通に美味しかった。
「シャレーニュで列車の待ち時間があるでしょうから、ちゃんとした食事はそのときに摂りましょうね」
そう言いながらユーベルも自分の分を食べ始める。
わかった、と頷きながら、ノエルはぺろりと食べ終えてしまった。いつもより少し早起きしていたので、思ったよりもお腹が空いていたようだ。
それから恐らく二時間ほど、馬車の揺れにうとうとしながら過ごしていると、御者の男が「もうすぐシャレーニュですよ」と乗客達に向かって教えてくれた。ノエルはぼんやりと目を擦る。
車内はいつの間にか他の乗客を乗せていて、二十人分ほどあった座席はほとんど埋まっていた。
自分はどれくらい寝ていたのだろうか。一人分より広く場所を使ってしまっていたことを申し訳なく思いながら起き上がると、そこがユーベルの膝の上だったことに気がつく。
「起きましたか?」
枕替わりに寄りかからせてくれていたユーベルは、ノエルが身動いだことに気づいて微笑みを向けてくる。その笑顔に思わずまた顔を顰めそうになってしまうが、寸前で押し留め、小さく頷き返した。
いくらも経たないうちに馬車は速度を落とし、決められた場所に停車する。
この辺りでは一番栄えているシャレーニュには用がある人が多いようで、乗客の半分くらいが大きな鞄を抱えて足早に降車して行く。乗り込む人も多いようなので、急いで降りなければ、とノエルも慌てて鞄を担いで乗降口へ向かった。
乗車したときは陽が昇り始めた頃だったが、今はもうすっかり明るくなっている。陽射しの下に出たことでちょっと眩しくて、目の上に手を翳した。
百年以上前の戦乱時に活躍した堅牢な城壁は、戦争のない平穏な時代になった今でも健在だ。人口十万人が暮らす南部地方三番目の大都市は、変わらずのその高い城壁に市街地をぐるりと囲まれている。
何度も来たことがあるので驚いたりすることはないが、初めて目にしたときは驚いたものだ。ノエルの暮らす教会の鐘楼よりも、村で一番大きな領主様のお屋敷よりも背が高いのだから。
「行きますよ」
久しぶりに来たのでなんとなくその城壁を見上げていると、少し行ったところからユーベルが手招いていた。ノエルは慌ててそのあとを追った。
「昼より前の列車があるといいんですけどねぇ」
食事より先に列車の切符を確保するということで、まずは駅へと向かう。
懐中時計を取り出して時間を確認しながら呟くユーベルの顔を見上げ、そうだね、と頷いた。
目的地であるハーヴィーの森がある場所までは、汽車を使えば二時間か三時間もあれば辿り着ける筈だが、現地に向かうには街道馬車に乗り継ぐことが必要だろう。そのすべての所要時間を考えると、昼前には出発出来ていなければ到着前に陽が暮れてしまう。
「――…あっ、え? 神父様?」
丁度いい時間の切符が取れればいいな、などと考えながら歩いていると、隣からユーベルの気配が消えた。驚いて辺りを見回すと、違う方向へと進んでいる。
周囲の人より大柄な男でよかった。人混みの中でもすぐに見つけられた銀髪頭を追い駆け、ノエルは僧衣の袖を掴んだ。
「何処に行くの? 切符売り場はあっちでしょ」
少し遠い位置に下がっている看板を指し示し、方向が逆だ、と注意する。
けれど、ユーベルは首を振った。
「今日は巡礼列車は使わないので、こっちでいいんですよ」
そう言って、少し行ったところにある窓口を指し示す。男性が二人ほど並んでいた。
村からほとんど出ることのないノエルは、巡礼列車以外の鉄道があることは知らなかった。ちょっと驚いて目を瞠る。
「なんで巡礼列車じゃないの? 祓魔師は無料なんでしょ?」
教会発行の巡礼手形を持っていれば一般人でも格安で利用出来るが、運営母体が聖教会の中枢である教皇庁の管轄なので、聖教会の関係者は運賃はいらないらしいということは聞いたことがある。
今回の旅費はすべて経費扱いで、あとで申請すれば全額戻って来るらしいのだが、抑えられるところは抑えればいいのに、と思わず普段の貧乏性が出てしまっての文句だ。
費用が勿体ないではないか、と若干責めるような気持ちになるが、ただ単に、目的地が巡礼列車の運行路に含まれていないことが理由らしい。傍まで行けないのならば、いくら料金が安くても使う意味がない。
そうだったのか、と理由に頷いていると、順番が回ってきた。
「フォーレまで、大人と子供一枚ずつ。出来れば午前中に出発する二等客車で」
慣れた様子でユーベルが切符の注文を口にする。
窓口に座っていた立派な口髭の駅員は、ちょっと愛想のない声で十一時発の二等車に空きがあることを告げ、金額を伝えてくる。その額にノエルはぎょっとした。
あまりの驚きに声を詰まらせ、ユーベルが受け取った二枚の切符をまじまじと凝視してしまう。
この小さな紙切れたった二枚で、十人の子供が在籍する孤児院のひと月分の運営費用の半分くらいに相当するのだ。いくらなんでも高額過ぎやしないだろうか。
ぼったくりではないのか、と呆れながら見ていると、そのうちの一枚を差し出される。
「ノエルさんの分です。自分で持ちますか?」
本当は、そんな高額のものを持っているのは恐い。落としたら大事だし、持っているだけでも恐れ多いというか。
けれど、ユーベルに持たせておくのもなんだか嫌だったので、服の中に隠していた財布を取り出し、その中に慎重に仕舞い込んだ。
ドキドキする胸を財布越しに摩っていると、手を差し出される。
「ちょっと時間は中途半端ですけど、食事に行きましょう」
逸れないように手を繋ごうということらしい。
とんでもなく高額な紙切れを抱いている緊張のあるノエルは、素直にその手を掴んだ。逸れて迷子になったりして、その間になにかあっては困ると思ったからだ。
「……よくあんな大金持ってたね」
食堂を探して歩きながら、ノエルはげんなりと呟いた。ユーベルが支払いにじゃらじゃらと金貨を差し出していたのも驚きだ。
「祓魔師って能力がある人間は少ないから、割合的に需要が高くなって、その為に報酬が高額らしいんですよね」
基本的なものの他に、特殊能力手当、危険手当、出張手当などに成功手当等の各種手当が加算されるので、自然と高額報酬になるという。だから祓魔師になりたがる人間は多いのだが、祓魔能力がなければ最悪命を落とすことになるので、常に人材不足なのだ。
その人材不足を補う為に、優秀な祓魔師を育てようと養成機関なるものが出来たのだが、これまた無事に卒業出来る者が少ないという。それ故に結局人手不足は変わらないままなのだ、とユーベルは笑った。
それが笑いごとかよ、とノエルはうんざりする。怪異現象と闘う祓魔師が危険な仕事だとはわかっているが、殉職者がそんなにも多いとは思わなかった。
「嫌々同行しているんでしょうけれど、今回のことは、祓魔師を目指しているノエルさんにはいい勉強になると思うんですよね」
うむむ、と小さく唸り声を上げていると、そんなことを言われる。
仕事現場に連れて行ってもらえて、その仕事内容を直接肌で感じられるのだから、確かに勉強にはなるだろう。それはノエルもありがたいと思う。
だが、せめてもう少し安全な仕事のときにして欲しかった。何人も殺されている謎の大型害獣退治だなんて、危険極まりないではないか。
「そんなわけで、食事の前にここに寄って行きましょうか」
ノエルが難しい顔をして考え込んでいると、そんなことを言って細い路地を示す。
こんな人気のない通りになんの用があるのだろう、と不思議に思いながら連れられ、一軒の店の扉を開いた。
「……らっしゃい」
低く軋む扉を潜ると、奥の方から愛想のないしゃがれ声が迎え入れてくれる。
店内は薄暗い上にとても狭く、入ってすぐに待機用らしい椅子が二脚ほど置かれていて、あとは手前と奥を区切るように大きな店番台があるだけで、商品の陳列棚もなにもない。いったいなんの店なのだろうか。
愛想のない声で応じていた店主は、やはり愛想のない厳つい男で、店番台の向こう側で新聞を広げたまま、顔すらこちらに向けていない。
「軽量の銃が欲しいんです。威力はなくても構わないんで」
商売する気がないのだろうか、と店主の顔を訝しみながら見上げていると、ユーベルがそんな言葉を切り出す。それでこの店が武器商なのだとわかった。
店主はちらりと視線を向けてくる。
「坊さんが拳銃なんて、いったいどうするんだ?」
お前にはそんなものは必要なかろう、と言外に告げてくる横柄な態度にもユーベルは気を悪くしたりはせず、腰に下がっていた鎖のひとつを黙って見せる。
「……祓魔師か」
その身分証には見覚えがあったのか、店主はすぐに頷いて新聞を畳んだ。
「小口径の拳銃で、重くないのが希望なのか?」
「軽ければ軽いほどいい。この子に持たせるから」
そう言って、隣にいたノエルの頭をぽんぽんと叩く。
「えっ、私が持つの!?」
予想もしてなかった言葉だったので、ノエルは驚いてユーベルを振り返った。
「そうですよ。退魔に使用するのは短剣や錫杖やら、人によっていろいろ使いやすいものはありますが、今のあなたは取り敢えず『照準を合わせる』ということを覚えるのが一番かと」
説明されるが、どういうことなのかいまいちよくわからない。
首を傾げている間に店主は立ち上がり、隠し扉のようになっている場所から店の奥へと消えて行った。
「方向を定めるということならば、錫杖でも棒切れでも向いているとは思いますけど、もっと『飛ばす』という感覚の方が向いているのではないかと思いましてね」
「そういうもの?」
「あなたの性格を考慮してのことです」
性格ってどういうことだ、とノエルはムッとする。
なんとなく腹が立ったので、また蹴り飛ばしてやろうかとも思ったが、こんなところでそういうことはよくない、と気持ちを押し留めた。
「因みに、神父様はなにを使うの?」
「俺は太刀――長剣です。霊体だろうと実体だろうと、叩き斬るのが性に合ってたもので」
答えながら、手刀を振り下ろす動きをする。
「……持って来てないね?」
ユーベルの持ち物は旅行鞄がひとつだけだ。剣のようなものは見当たらない。
「あとで、他の人が持って来てくれることになっているみたいです。昨日の指令書に書いてありました」
その人がそのまま害獣退治に協力してくれる助っ人になるらしい。しかし、誰が来るのかはわかっていないようだ。
ふうん、と頷く。
「性に合ってるってことなら、私は蹴る方がいい」
小さい頃に人攫いや変質者対策としてユーベルから仕込まれたので、咄嗟の場合はすぐに足が出る。スカートが捲れるので行儀が悪い、とマリーにはよく叱られていたが、癖になってしまっているのだから仕方がないと思う。
細い脚をぶんぶんと振って見せると、ユーベルは苦笑した。
「そりゃあそうでしょうけど。足技で闘うとなると、もっと修練が必要ですからね。今回は他の方法を使いましょう」
安全の為にも遠方から攻撃出来る手段として、今回は銃を用いるつもりなのだ、と言う。珍しく丁寧に事情を説明してくれるので、ノエルも素直に頷けた。
しかし、自分が銃なんてものを持つことになるとは思わなかった。少し緊張する。
少しして、店主が三つほど箱を抱えて戻って来た。それを店番台の上に広げる。
「まずこれが、護身用として女性人気の高いものだ」
そう説明しながら、掌に収まるくらいに小さな拳銃を取り出した。
「弾丸は一応六発装填出来るが、威力はかなり低い。至近距離で撃たなけりゃ掠り傷みたいなもんだ。――持ってみな」
差し出されたノエルは慌てて受け取る。確かにとても軽くて小さくて、非力な女性でも簡単に扱えそうだ。子供故にまだ小さな手のノエルにも持ちやすい。
「お次はこいつだ。女冒険家とかに人気らしい。うちの店にはそんな客は来ないから知らんがね」
そう言って、初めの銃よりも大振りな、如何にも拳銃という見た目のものを差し出す。
威力はまあまあで、長旅にも適した軽量化がされていて、女性でもちょっと力があれば楽に扱える代物らしい。
今度はユーベルが先に受け取り、持ったときの重さやなにやらを確認してから、ノエルの手に持たせた。
ひょいっと気軽に受け取ってしまったが、思っていたよりも重たい。当たり前のことだが、先程の銃よりもずっと重たく、鉄の塊という感じだ。慣れればノエルにも扱えそうではあるが。
「重いですか?」
「うん。さっきのに比べるとね」
「そりゃそうだ。だが、こいつは接近戦になったときに、鈍器としても優秀だぞ」
強盗に襲われる危険のある街道馬車の御者をする男達は、操作が容易く鈍器代わりにもなるこの銃と、射程の長い猟銃で武装しているのが普通だという。
そう口を挟みながら、店主が初めて笑みらしきものを見せる。意外と人が好さそうな笑顔だ。
「最後のこいつは、拳銃というよりは猟銃に近いな。小型改良されたレバーアクション型小銃だ」
そう説明しながら取り出したのは、確かに前の二丁に比べれば大型だ。ノエルの肘から掌くらいまでの大きさがある。
「利点は、小型化されたから持ち運びが容易であることと、見た目の割に挙動が軽い」
見せた方が早いと思ったのか、店主は銃弾の装填と排出の為の動作をして見せる。片手で軽々と銃身を回して戻すその動作は、見た目が格好いいので、年頃の少年達にはかなり好評らしい。
持って来た中では射程距離も一番長く、男なら片手で扱えるように他の猟銃と比べれば反動もかなり少なめなので、両手で構えれば非力な少女でも問題なく扱えるだろう、と言いながらユーベルに渡した。
なるほど、と頷きながらその動作を試し、ユーベルも感心したように「確かに軽い」と呟いた。持たせてもらったノエルも、重量的には先程の拳銃より少し重い程度だったので、そのことに驚きながら弄ってみる。
「弾詰まりもしにくいと評判だ。手入れも簡単だから、お嬢ちゃんでも扱いやすいと思うが」
店主的には、この銃が一番のオススメらしい。一番初めの銃よりは値段もかなり安い、と推してくる。
「でもこれは、持ち運びをどうするか、ですね」
「あー……そうだな」
ユーベルの呟きに、店主が気不味そうに同意する。扱いやすさを考慮して、そこまでは考えていなかった。
猟銃なら肩に掛けたり背負ったりするのが一般的ではあるが、まだ十二歳の女の子がそんなものを背負っていたら、とても人目を引くだろう。
掌に納まる小ささの一番初めの銃なら、それこそ衣嚢に入れることも出来る。二番目の銃も大振りではあるが、なんとかスカートに隠れる大きさなので、太腿に銃帯を巻きつけて固定すればいい。少々大人っぽい隠し場所ではあるが。
そうなると今回は、一番初めの銃を入手するのが妥当な気がする。
けれど、ノエルの目は三番目の銃に釘づけになっていた。
「私、これがいい。きっと使いやすい」
持って安定感があるのもいいし、なにより射程距離が長いというのが気に入ったのだ。
ノエルが暮らすのは、普段は平和で長閑なフローリン村だが、狼や強盗達に襲われることがまったくないわけではない。そういうときは唯一の大人であるマリーが猟銃を構えて避難することもしばしばだ。猟銃の扱いを覚えれば、その助けになれる筈だ。
これがいい、ともう一度はっきりと言うので、店主は苦く笑って「背負い型の銃帯をおまけしてやろう」と言った。