2 怒りっぽい少女
ユーベルを森に置き去りにして来たことは、当然のようにマリーに怒られた。
なにもわからないよちよち歩きの小さな子供でもないのだから、別にいいじゃないか、とノエルは唇を尖らせる。こんな近所で帰り道がわからないわけでもあるまい。
迎えに行きなさい、嫌だ、という不毛なやり取りをしていると、原因であるユーベルが戻って来た。
「忘れ物」
そう言って箒を差し出されたので、ノエルは奪うように乱暴に受け取って背を向ける。
「ノエル! ちゃんとお礼を言いなさいな!」
そのまま走り去ろうとする無礼者に、マリーは眉を吊り上げた。普段はおっとりとした態度のマリーだが、行儀にはなかなかに厳しい。世間的に見ても当たり前のことだが、礼節を欠く行為が度を超すと決して許してはくれない。
ノエルは仕方なく立ち止まり、遥か上にあるユーベルの顔を睨み上げた。
「……わざわざどぉも」
心底嫌そうな表情と口調でそれだけ言うと、再びくるりと背を向け、今度は呼び止められることがないように、と言わんばかりに全速力で駆け去った。
マリーが「これ!」と声をかけるが、そのときにはもう建物の陰に隠れて見えなくなってしまっていた。
「ごめんなさいね、ユーベルさん。普段はいい子なんだけれど、あなたの前だとどうしても駄目ねぇ」
溜め息混じりに零されたマリーの言葉に、ユーベルは僅かに口許を引き攣らせるように歪める。
「それはやっぱり、相当に嫌われているってことじゃないですかね、マリー?」
「さあ? どうかしらね。うふふ」
また笑ってはぐらかす。
嫌われているのでなければなんだというのだ。好かれていてあの態度だというのなら、さすがに感情表現の仕方を疑ってしまう。
やれやれ、と溜め息を零すと、マリーはもう一度笑った。
「以前とは随分と変わられましたね」
その言葉にユーベルは軽く首を傾げる。どういう意味だろうか。
「なんというか、うーん……人がよくなった? 角が取れた?」
疑問形で投げかけられるので、ユーベルは笑う。
「それは褒め言葉とは思えないな」
「あら、ごめんなさいね」
うふふ、とまた笑って流し、じっと見つめてくる。その視線にユーベルはむず痒いようなものを感じて苦笑した。
「なんですか、マリー?」
「いいえ。ただ、あなたとこうして話をしていることが、とても不思議な感じがして」
穏やかな緑の瞳がやわらかく細められ、高い位置にあるユーベルの銀灰色の瞳を覗き込む。それを見つめ返したユーベルは口許を歪め、億劫そうに前髪を掻き上げた。
「もしかして――口説いてます?」
悪戯っぽくそう囁くと、マリーはけらけらと声を立てて笑った。
「あらあら! こんなおばさんがそんなことをするとでも?」
そんな恥知らずじゃありませんわ、と笑うマリーだが、おばさんと言ってもまだ四十になったばかりだった筈だ。言うほど年を食っているわけでもない。
軽く肩を竦めたところで腰のあたりを叩かれる感触があった。振り向くと、フィルとトーマが立っている。
「なあ、お話もう終わった?」
「ユーベル、雨漏り直すんだろ? 道具持って来てやったぞ」
そう言って、鋸や鉄鎚といった大工道具の入った手提げ箱を持ち上げる。
「雨漏り?」
勝手口の扉を直すことは言っていたが、雨漏りのことは知らない。
思わず首を傾げると、マリーが「そうそう」と笑いながら手を打った。
「教会の屋根がね、雨漏りしているのよ。ついでにお願いしてもいいかしら?」
控えめな言い方でおっとりにっこり微笑んでいるが、ユーベルに拒否権はなさそうだ。優しげな笑顔からなにか圧を感じる。
苦笑して溜め息ひとつ、フィルから道具箱を受け取って「わかりました」と答えた。
「ぼくらも手伝うぜ!」
「まっかせとけぃ!」
修理に行こうとしたユーベルの前に立ちはだかり、二人の少年達は袖捲くりをして拳を突き上げる。
細い手首の先の小さな拳だ。ユーベルは小さく眉を寄せ、二人の頭を撫でた。
「屋根の上は危ないから、気持ちだけもらっとくよ。ジャンかロジャーに梯子を持って来てくれって伝えて来てくれ」
申し出を断られた二人は僅かに不服そうな表情になったが、すぐに笑顔を浮かべて頷く。
「しょうがねぇなー」
「ちょっと待っとけよ」
格好つけてくいっと親指で教会の方向を指し示し、二人は指名された年長の少年を捜しに駆け出して行く。なにをするにも常に二人一緒で仲がいいことだ。
マリーに雨漏りの場所を確認し、現場で軽く辺りを見回す。
教会は石を組み上げた壁に漆喰を塗っている頑丈な造りだが、屋根は板を張った上に素焼きのタイルを並べた構造だった筈だ。その板が腐っている個所があるのかも知れない。
登っても大丈夫だろうか、と強度を心配していると、ロジャーが梯子を抱えてやって来た。まわりをうろちょろとフィルとトーマがついて来ている。
重量級のロジャーが支えてくれるなら梯子の昇り降りは安心だ。脱いだ僧衣をトーマに預け、身軽に屋根の上へと登った。
言われていた辺りに行ってみると、何枚かタイルが割れたりヒビが入ったりしていて、やはり下の板を腐らせているようだ。
「フィル、トーマ。これくらいの長さで、お前らの指くらいの厚さの板を捜して来てくれ」
「りょうかーい!」
再び二人は揃って駆け出す。
その後ろ姿を眺め、喧嘩とかしたことないのだろうか、などと呑気に考えながら、他にも傷んでいる場所はないかと捜してみる。
三ヵ所ほど追加で修繕の目星をつけ、折り曲げていた背筋をぐっと伸ばす。三日前に聖都を発ったときから狭い乗り合い馬車に乗っていた所為で、どうにも身体が重い。
腰に手を当てながら、ふっと景色を見回した。
平穏で長閑な村だ。ほんの数年離れていてもたいして変わらない。
もちろん時間は確かに流れている。言葉がまだたどたどしかったフィルとトーマははきはきと喋る八歳になっているし、一番年長のステアはもう十四で、春から街に奉公に出ることが決まっているらしい。百までは生きるだろうと思っていたイザベラは亡くなったし、以前はいたリズという女の子の姿が見かけないので、彼女は里親が決まったのだろうか。
変わっていないのは、この穏やかな空気と子供達の元気な声、そして、ノエルとユーベルの関係だけだろう。
秋の深まりを感じるようになってきた金色の木々を眺め、久々のフローリン村の様子を堪能していると、眼下に見慣れた姿が見えた。
ノエルだ。最近来たらしいユーベルの知らない子供――どうやら双子の姉弟らしい二人と遊んでいる。
ちゃんとお姉さんらしくしているんだなぁ、などと思いながら見下ろしていると、視線に気づいたのか、振り返ったノエルが視線で人でも殺せそうな目つきで睨み上げてきた。ユーベルは思わず肩を竦める。
そこへ木材を捜しに行っていた二人組が帰って来た。
「なかったー」
「こないだ床板直したときに使っちゃったんだ、ってステアが言ってた」
「ああ、そうなのか。それじゃあ仕方ないな」
修繕をする前に木材の調達をする必要が出てしまった。
頷き、下りようとして梯子を見下ろし、支えるように頼んでいたロジャーの姿が消えていることに気づく。なにもせずに待たせてしまっていたので、飽きて何処かに行ってしまったのだろう。
気づいたフィルとトーマが梯子に駆け寄る。きらきらと輝く笑顔で「押さえててやるよ」見上げてきたが、ありがたく遠慮しておく。
「ちょっとそこ退いてろ」
不満そうな二人を遠ざけてから、とんと屋根を蹴って飛び降りる。
飛び降りた場所は、一般的な住居建築の二階分以上の高さに相当するだろう。それなのに大きな音も立てずにふわりと着地し、そのまま平然と立ち上がった様子に、二人は目を丸くした。
「……絶対に、真似するなよ」
一応念を押しておくと、二人はこくこくと頷く。その表情からは『スゲェ!』と尊敬と羨望らしきものが入り混じっているのが感じられる――なかなかに悪い気分ではない。
二人の頭を撫でながらふと顔を上げると、そこには物凄い形相で睨みつけてくるノエルの姿があった。先程の一睨みなど比ではないほどの憤怒の形だ。
「ちょっと!」
眉を吊り上げたまま駆け寄って来て、ユーベルの鼻先に人差し指を突き立てる。
「なんてことするの! 危ないでしょう!?」
「そんなに怒るようなことじゃないだろ」
「怒るに決まっているでしょ! 男の子達が真似したりしたらどうするの!」
「だから今、ちゃんと釘を刺しただろうが」
なあ、と二人を振り返る。
「真似しちゃ駄目なんだろ? わかってるよぅ」
「ぼく達そこまで馬鹿じゃないよー」
同意を示したフィルとトーマは笑いながら答える。
その様子にノエルはぐっと言葉に詰まったが、引っ込みがつかなくなったのか、もう一度ユーベルを睨みつける。
「それでも、そういうことやめてよ。普通の人は、そういうことしないんだから」
尖った口調に、ユーベルは思わず笑う。その様子が気に入らなかったらしく、向こう脛を蹴られた。
「痛って! だからお前は、すぐそうやって暴力を振るなよ」
「うるさい! バーカっ!」
悪態を吐いて踵を返そうとするノエルの首根っこを掴まえ、引き留める。ぎゃっ、と小さく悲鳴が上がったが、無視して小脇に抱えた。
「なにするの!」
「買い出しに行くから付き合えよ」
「嫌よ!」
「俺のこと、監視してなくていいのか? またなにかやらかすかも知れんよ」
意地悪く言ってにやりとすると、ノエルは眉間に皺寄せて逡巡する。
ユーベルが言っていることは尤もなのだ。なにをやらかすかわからないところがあるから、神学校に通うことも不安だったのを思い出す。
ややして、渋々と「わかった」と頷く。不本意だが仕方がない。買い出しに行くなら無駄遣いもさせないように見張らなければ。
それに対してユーベルが勝ち誇ったような笑みを浮かべたのは、ノエルには見えていなかった。
そんなこんなでまんまと丸め込まれたノエルは、ユーベルと共に教会のある丘を下り、村外れの伐採場へと行くことになった。木材が必要ならここへ買いに来るのが一番だ。
「荷車は?」
手ぶらでいこうとするユーベルの姿を見て、怪訝そうに眉間に皺を寄せる。
「いいよ。今日のところはそんなに大量に必要なもんでもないし」
そんなもの邪魔だ、と言われ、ノエルは不満たっぷりに唇を尖らせた。
「荷物がたくさんになっても、手伝ってやらないんだから」
つんつんした口調でそう言いながら、さっさと歩き出す。後ろをのんびりついて来るユーベルは、笑いながら「大丈夫さ」と答えた。
「本当に手伝わないんだからね?」
「ああ」
「帰りに、マリーから頼まれたお遣いをするから、絶対手伝えないからね?」
「わかってるよ」
「本当の本当なんだからね?」
「わかってるって」
念押ししてもユーベルの答えは変わらない。可笑しそうに笑っている。
ノエルはまた少しムッとして、そのままずんずん歩き出す。
「やあ、ユーベル」
村の中に入って行ったところで、行き会った靴屋の老主人が声をかけてきた。
「久し振りじゃないか。いつ戻ったんだね?」
「今朝ですよ、セインさん。十日ほどの帰省です」
「じゃあ、また出て行くんだね」
「はい」
愛想よく頷きながら、ひと言ふた言当たり障りない世間話をする。
お互いに健康を気遣う言葉を残して別れ、伐採場への道を更に進む。
隣に並んだユーベルの顔を横目で見上げて、ノエルは肩を竦めて見せた。
「随分と社交的になったのね」
嫌味っぽく言ってやると、まあな、とユーベルは笑いながら頷いた。
「処世術って奴だよ。丁寧で穏やかな物腰で、当たり障りなく愛想よくしておけば、周囲の人間からの評判はよくなるからな」
「それって……なんか騙しているみたいで、ちょっと嫌だな」
呟き、眉根を寄せる。
確かに愛想よく振る舞っていれば、余計な軋轢を生まずにいられるし、それから面倒事に巻き込まれることはなくなるだろう。
けれど、ユーベルの本性を知っているだけに、その態度が作り物だとわかりきってしまっているので、周囲を騙しているようにしか思えない。それがなんだかちょっと嫌だった。
ふっ、とユーベルが吐息を漏らす。
「四年も毎日毎日頭でっかちな選民意識の高い連中に囲まれて、ああだこうだとなにかしらに巻き込まれていてみろよ。嫌でもこういう術を身につけるもんさ」
「神学生って、選民意識が高いの?」
面倒臭そうに零された愚痴とも思える言葉に、ノエルは首を傾げた。
教会に仕える司祭としての勉強を積む為の学校に通っている人達なのだから、ユーベルは例外として、天主様の教えを守って人々に優しく、献身的な精神の持ち主ばかりかと思っていた。
そうだな、とユーベルは頷く。
「全員がそうというわけでもないがな。俺が行ってたのは聖都の神学校だろ? 他の地域のものと比べれば難関と言われている学舎らしいし、そもそもそこに入学する為には有力者の推薦状がいるんだよ」
高い基礎学力の他に、教会内での有力者の後ろ盾も必要なのだということならば、そこに入学出来た時点で『選ばれし者』ということなのだ。だから、そのことを誇りに思う者もあれば、それ以上に笠に着る者もいるわけだ。
笠に着ている連中の中には、家柄の劣る者や、出身地が田舎であるというだけで見下すような者もいた。そういう者に限って、推薦状を用意してくれたのが上位に位置する枢機卿であるとかするのだからまた面倒だった。
更に上級生との上下関係だとかもあり、そんな面倒臭い学生達との交友の他に、権威を振り翳す教授陣もいるわけだ。こちらは少しでも気に入らない態度を取ったりすれば、即成績に響かせてくれるのでもっと面倒臭かった。
そういう厄介な連中がいるところで四年も過ごしていたのだから、それなりの言動が身につく――いや、身につけざるを得なかったわけだ。
今までのことを思い出したのか、僅かにげんなりとした表情を見せる。
彼がこういう感情を表に出すのは珍しい、とノエルは思った。基本的にはいつも適当な態度で飄々としているし、言動は底意地が悪いし、こんな疲労感を漂わせるような態度をしたことはない。
全寮制の学生生活というものは、なかなかに大変だったのだろう、となんとなく想像した。お疲れ様、などとは思いもしないが。
ふうん、と頷きながら、はっと気づく。
「もしかして、私もそこへ行くの?」
嫌な相手に対しても常に愛想よくしていなければならない環境だなんて、あまり自ら進んで行きたい場所ではない。
「さあ? そんなの俺に訊かずに、マリーに訊けよ」
知らない、と欠伸交じりに首を振られる。
確かにそうなのだが、ということはわかっているが、面倒臭そうに言われたことにムッとする。僅かに頬を膨らませてから、さっさと離れて歩き出した。
「なに不機嫌になってるんだよ、お姫様?」
すたすたと早歩きで先を行く小さな後ろ姿にユーベルは首を傾げ、肩を竦める。
「あんたと一緒に歩くのが嫌だから!」
不機嫌そのものの口調で言い捨て、更に足を速める。
両耳の下で結わえられた金髪が、歩みに合わせてぴょこぴょこと跳ねている。その様子がなんだか可笑しくて、可愛らしくて、ユーベルは込み上げる笑いを堪えて肩を揺らした。
背後に感じるそんなユーベルの態度にまた腹が立つ。ムカムカしながら更に足を速め、もう既に小走りだ。
そうやって先に行っているというのに、ユーベルとの距離は何故かあまり開かない。
ちょっと考えれば脚の長さの違いだとわかるのだが、今のノエルの思考ではそこまでに至れなかった。だから唯々頭に来てカッカしてくる。
「なんでついて来るのよ!」
とうとうそんな文句が口をついた。
「なんで、って……お前が財布を預かっているんだろうが」
不思議そうに言われ、そうだった、とそのことを思い出す。心配だからあんたには持たせられない、とノエルが持っているのだ。すっかりと失念していた。
更に続けようとした言葉をぐっと堪え、息を吸って心を落ち着ける。
「あら、一緒にお買い物?」
一瞬の睨み合いの隙を、通りがかりの親子が挨拶して行く。
頷き、笑顔で会釈と挨拶を返しながら、ノエルはひっそりと小さく溜め息を零した。
そうして、ぽつりと呟く。
「……やっぱり、あんたなんか大嫌い」
その言葉にユーベルは片眉を上げた。
「俺は愛しているぞ」
真剣な口調でそんなことを言うので、ノエルは眉を寄せる。
「デタラメばっかり」
「本心だよ」
「大嘘つき!」
語気荒く言い放ち、今度こそ本気で走り出す。それでも目的地はちゃんと伐採場の方角であるところが、ノエルの真面目なところだ。
ユーベルは遠ざかって行く小さな後ろ姿を眺めながら苦笑し、脹脛の下まである僧衣の裾を軽く翻す。子供の走る速度など、本気を出さずとも簡単に追いつけるものだ。
走るのなんて久し振りだな、と頭の片隅で考えているうちに、あっさりとノエルを抜き去る。ぎゃーぎゃーなにか喚く声が聞こえたが、知らん顔して伐採場の門扉を開いた。
ノエルが顔を真っ赤にして辿り着く頃には、ユーベルは親方と話をつけていて、丁度いい木材を選び始めているところだった。
「おう、ノエル。どうした?」
ぜえぜえと肩で息をしているノエルの様子に、親方はちょっと驚いたような顔をする。
「端材か? なにが欲しいんだ?」
ノエルが端材を使って小物を作り、月に二度開かれる村市で売っていることを知っている親方は、その材料を貰いに来たのか、と尋ねるが、ノエルはユーベルの後ろ姿を睨みながら首を振った。
「親方、これください。代金はノエルが持ってます」
不思議そうにノエルの顔を覗き込んでいた親方に、木材を選び終えたユーベルが声をかける。手伝っていた徒弟が数を確認し、金額を伝えてきた。
指名されたノエルは腹立たしげな表情で首に掛けた財布を取り出し、言われたとおりの金額を親方に手渡す。
「持って行けるのか? その細腕で」
ばらけないように板を麻紐で括ってくれた親方は、それを抱えようとするユーベルを揶揄うように笑った。
「化け物退治する祓魔師を舐めないでくださいよ」
ユーベルもにやりと笑みを浮かべて応え、軽々と板の束を持ち上げる。そもそもこの枚数くらいなら、子供達複数人に腕や肩にぶら下がられるよりずっと軽い。
安定するように肩に担ぎ上げると、親方も徒弟も少し驚いたように目を丸くして、手を叩いて褒めた。
「あとは蝶番の新しいのがいるから、道具屋だな。マリーの買い物が先の方がいいか?」
ついでに端材も貰い、すっかりと用を済ませて伐採場を出て村の中心部に向かいながら、ユーベルは三歩分ほど後ろを歩くノエルに問いかける。
また不機嫌になっているノエルは、ムスッとした表情のまま「道具屋でいい」と答えた。
そんな様子に思わず眉尻を下げ、ユーベルは足を止めた。
「なあ、ノエル」
呼びかけると、じっとりと下から睨むように見上げてくる。可愛らしい顔立ちの少女から上目遣いで見つめられたりしたら、本来ならぐっとくるものがある筈なのだが、ノエルの向けてくる目つきはそれとは程遠い。
そのことを残念に感じながら、軽く腰を屈めて目線の位置を近づける。
「お前が俺のことを気に入らないのはわかっているが、もうそろそろ諦めろよ。俺達はお互いが必要不可欠――そういう運命なんだから」
囁かれるその言葉は事実でしかないのだが、それを改めてはっきりと突きつけられると、ノエルの胸の奥に小さな痛みを刻みつけられるような感じだ。痛くて苦しくて、泣き出したい気持ちになる。
身体の真ん中をゆっくりと引き裂かれていくような痛みを感じて、ノエルはお腹のあたりをぎゅっと押さえる。そこにある古傷がじくりと嫌な疼痛を感じさせた。
「だから――」
傷ついたような表情になったノエルの頬に手を伸ばし、そっと引き寄せる。
「さっさと俺に喰われちまえよ」
小さな耳に唇を寄せ、囁きかける。
残酷な響きを孕んだその声音は、ゆっくりとノエルの身体の中に染み込んでいった。痛んだ胸の奥を、更に痛ませる。
ユーベルの手が頬から顎に滑り降りてきたとき、ノエルは俯いたまま右の足を大きく振り被った。
「――…っい、てぇッ! おっ、まえ……っまた……」
蹴り上げたのは再び向こう脛だ。しかもさっきと同じところを正確に狙い撃つ。
「エロ坊主!」
触れていた手を叩き払い、イーッと歯を剥いてノエルは叫ぶ。
「そうやって弱らせて、その隙につけ込む悪魔め! ド変態色魔! バァーカっ!」
悪口をひと息に叫ぶと、下瞼を引っ張りながらべーっと舌を出し、そのまま走り去った。
ユーベルは痛む脛を摩りながら、ぐぬぬっと唇を引き攣らせる。
「ノエルめ……俺が本気を出せないと思ってやりたい放題だな」
昔からなにかというと走って逃げ回る子ではあったが、暴力を振るうことはなかった。今は殴る蹴るしてから走り去るようになっているので、以前よりずっと悪質だ。
何故こんなに凶暴で口が悪く育ってしまったのだろう、とマリーの教育方針に疑問を呈しかけたところで、はたと気づく。
「――…あー……原因、俺か……」
世の中には人攫いなどの犯罪者は多く、この長閑な村の中といえども、よそから侵入してくる者はいくらでもいるので安心は出来ない。特にノエルのように孤児院育ちで身寄りがなく、ちょっとでも可愛らしい外見の女の子などは格好の餌食だ。
それ故に身を守る術として、相手が男なら股間を蹴り上げろ、脛なら男女共に有効だ、と小さなノエルに散々言い聞かせていたことを思い出し、がっくりと脱力した。どうりでそこばかり狙って攻撃してくるわけだ。
教えを忠実に守る素直さと真面目さは美点ではあるが、もう少し頭の柔軟さも身につけさせるべきではないだろうか。
しかし、頭突きは教えていない。やはり生来の性格が凶暴だったのだろうか。
溜め息をつきつつ立ち上がり、取り敢えず教会に戻ることにする。財布が逃げてしまったので残りの買い物は出来ない。
ノエルが蝶番を買って帰って来てくれることを願いながら、まずは雨漏りの修繕だ。
木材を担いで戻ると、分担の掃除などが終えたのか、先程は姿の見えなかったジャンとステアが工具箱と鋸を片手に待機していた。
「どうやって直すの?」
準備をする傍ら、ステアが手順を尋ねてくる。
屋根の割れたタイルを剥がして腐ったところを切り取り、新しい板を打ちつける、と説明すると、身軽な年長二人は手早くそのとおりに動き、作業の効率を上げていく。手際もよく、気が利いていて素晴らしい、とユーベルは思わず感心した。
これは思ったより楽に作業を終えられそうだ、と思っていると、昼食の時間になったらしく、マリーが呼びに来てくれた。
「あら? ノエルは?」
一緒に出掛けた筈なのに姿が見当たらないことに気づき、軽く首を傾げる。
「また喧嘩したのかしら?」
僅かに眉尻を下げながら尋ねられたので、肩を竦めて両手を広げて見せた。
まったく困ったものだ、と苦く笑っていると、そのノエルが戻って来る。相変わらずの仏頂面だった。
「お帰りなさい、ノエル」
「ただ今戻りました。これ、頼まれていた小麦粉と乾酪。あと、村長さんから今月のお布施を預かって来たの」
「ありがとう。お昼ご飯出来ているから、手を洗って食堂に行って」
頷き、大事な財布とお布施の入った包みを渡す。受け取ったマリーは、微笑みながらノエルの頭を撫でた。
ノエルは照れ臭そうにちょっとはにかみ、孤児院の方へ向かって歩き出す。
すれ違い様、ユーベルの胸に包みを乱暴に押しつけて行った。中身は新しい蝶番だ。思わず口許が緩んでしまう。
「素直じゃないよなぁ」
笑いを堪えながら呟くと、マリーもその横で「本当にね」と笑って応じた。
「もちろん、あなたもですけれど」
「俺?」
意外な言葉に目を瞠ると、マリーは笑顔で頷いて踵を返す。
「ノエルのことを構いたいのなら、意地悪をしたり、強引にいくものではありませんよ。わかっているくせに」
去りしなにそんなことを言われるので、ユーベルは片眉を持ち上げて、少々複雑な表情を見せた。
「ノエルは意地っ張りだからなぁ」
道具を端に寄せ終えて、マリーのあとを追うステアが呟きながら走り去る。
「好きな子ほど虐めたいとか、イマドキ十歳のガキでもやらないぜ」
同じくマリーのあとを追いながら、やれやれ、と生温い笑みを浮かべたジャンが軽く肩を叩いてそんなことを言って行く。
なんだというのだ。遥かに年下の少年達から諭されるようなことを言われ、ユーベルは憮然とするしかない。
そういうつもりはないのだが、と首を捻るが、改めて今までのことを振り返ってみると、そういう風に見える言動だったかも知れないと思い至る。そう考えると、少々大人気なかったか。
やはり子供と接するのは難しい。どういう態度で接するのが正解なのだろうか、と考えながらこちらも食堂に向かって歩き出す。全員が揃わないと食事が始まらない約束なので、子供達がそわそわしている頃だろう。
特に急ぐでもなく食堂へ向かい始めると、案の定、眉を吊り上げたノエルが走って来た。
「遅い! 食事が冷めちゃうじゃない!」
「悪い悪い」
「それは謝ってる態度じゃない!」
怒っているノエルを見て、きゃんきゃんよく吠えるなぁ、とぼんやり思いながら、胸の下程の高さにある頭を撫でてみる。びっくりしたように空色の瞳が見開かれた。
「なに!?」
「別に」
「いきなり変ことしないでよ! びっくりするじゃない」
そう言って真っ赤になるノエルの表情は、普段あまり見ないようなものだった。それがなんだか面白い。
早く来なさいよ、と真っ赤な顔のまま文句を言っているノエルに頷き返し、やはりのんびりと歩いて行く。
「早くって言ってるのに!」
ユーベルの様子にやきもきしながら、ノエルはまた怒鳴る。お腹を空かせた育ち盛りの子供達のことが可哀想だと思わないのか。
苛々と急かすけれど相変わらずのユーベルの後ろに回り、その腰のあたりをぐいぐいと押して走り出す。ユーベルは笑いながら軽く足を速めてやった。
そんなことをしながらやって来たので、あらあら、とマリーは微笑んだ。
「仲直りしたのね。よかったわ」
ノエルは反論しようと口を開きかけるがやめて、ムスッとしながら席に着いた。同い年のロジャーと席を替わってもらったらしく、今度はユーベルの隣ではない。
しかし今度は斜め対面だ。また蹴られないように注意しよう、とユーベルは長い足を窮屈に椅子の下へ入れ込み、食前の祈りを捧げた。
またもわいわいと賑やかな食事を終える頃、マリーが思い出したように上着の衣嚢から一通の手紙を取り出した。
「ごめんなさいね、ユーベルさん。あなたが出かけてすぐにお手紙が届いていたの」
すっかりと渡し忘れてしまっていた、と差し出されたものを受け取る。
差出人の記名はなかったが、封蝋に押された印章で何処からのものかわかる。僅かに眉を寄せてから懐に仕舞い込んだ。
「急ぎではないの?」
誰からのものか察しがついているマリーが首を傾げる。
ええ、と頷き、食器を片づける為に立ち上がった。
「屋根と扉の修理が終わったら読みますよ」
「でも、お仕事のことじゃないのかしら?」
それはそうだろう。仕事に関わること以外でわざわざ祓魔師協会からの手紙など受け取りたくはない。
「俺は今、一応休暇中なんです。休暇は心身を休める為のものでしょう」
「それもそうねぇ」
確かにそのとおりだ。しかもユーベルは、四年間ほとんど帰省出来ないような環境にいたのだから、十日やそこらの休みくらい邪魔をされたくなくて当たり前だろう。
「じゃあ、もしも出かけるようだったら、ひと言くださいね」
それくらいは伝達事項として当然だ。頷き、食器を洗い場に置いてから、修繕作業に戻って行く。
「ノエル」
出て行く背高い後ろ姿へ向け、扉の桟に頭をぶつけてしまえ、と物騒な念を送っていると、マリーに呼びかけられる。
「私達、午後はラムジーさんの森に栗拾いに行って来るから、お留守番お願いね」
「はい」
「エレナが少しお熱があるみたいだから、お部屋の中にいるようにしてね」
「わかりました」
笑顔で頷き、スープの残りを飲み干す。
午後はノエルとエレナは室内で夕飯の仕込み、ユーベルとステアが屋根と扉の修繕をする為に外にいて、その他は外出という予定になった。
村一番の農園持ちのところへ行くみんなを送り出し、ノエルはエレナと共に調理場へと居場所を定めた。風邪気味のエレナには暖かい上着を一枚羽織らせるのを忘れない。
「エレナは座りながら、野菜の皮剥きしてて」
「うん、わかった」
一人増えると食事の支度も量が変わる。しかも成人男性なので、子供の二倍は食べると考えた方がいいかも知れない。
今朝もパンが足りなさそうだった。もう少し多めに用意するべきか、と考えながら小麦粉を量っていると、ユーベルとステアがやって来る。屋根の修理は終えたらしい。
「なあ。ここさ、もう少し締めたら、交換しなくても大丈夫じゃない?」
「どれ? うーん。どうかな……やってみるか?」
「俺がやってみていい?」
「そうだな。やり方を覚えておいて損はないからな」
そんなことを扉を開けたままやり始める。
風邪気味のエレナがいるというのに、とノエルは僅かに憤慨するが、扉の修理をするのだからどうしようもない。仕方なく、膝掛けを持って来てエレナに巻きつけ、仕込み作業で汚れないように前掛けをつけさせた。
やれやれ、と溜め息をつきながら、小麦粉を捏ね始める。十一人の家族と追加の一人分の生地を捏ねるのはなかなかに重労働ではあるが、もうすっかりと慣れたものである。十二歳の少女にしてはかなり熟練の手つきで混ぜ合わせ、成形していく。
「たいしたもんだ」
手際のいい手許を覗き込みながら、感心したようにユーベルが呟く。ムッとして、粉だらけの手で追い払う仕種をした。ついでにその真っ黒な僧衣を粉で白く汚してやろうかと思ったが、さすがにそれはやめておいた。
軽く肩を竦めたユーベルは抽斗を開け、予備の包丁を取り出し、先程受け取っていた手紙を開封するのに使い始める。
「ちょっと。食べ物を切るものでそんなことしないでよ」
不衛生ではないか、と顔を顰めるノエルに、ユーベルはいつものようにへらっと笑う。
「ちゃんと洗って戻しておくよ。なんなら、あとで研いでおくし」
答えながら便箋を取り出し、その文面に目を走らせた。
包丁を研いでもらえるのはいい。そろそろ研ぎに出そうと思っていたところなので、手間が省ける。
「ユーベル、出来た。確認して」
蝶番の調整を終えたらしいステアが工具を振りながら呼ぶ。
おう、と応じたユーベルだったが、そちらに戻る前に、ノエルの顔の前に先程の手紙を差し出した。
「ちょっと面倒が起きたぞ、ノエル」
「面倒?」
いったいなんのことだ、と怪訝に思いながら、汚さないように指先でちんまりと受け取る。
ユーベルは面倒臭そうに溜め息を零した。
「特別指令だ」