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1 帰って来た神父



 夜通し走った乗り合い馬車から降り立ったのは、小さくはないが大きすぎもしない、穏やかな雰囲気の片田舎の村だった。名をフローリン村という。


 僧衣(カソック)を纏った長身の青年は、長時間座っていた為に出来た裾の皺を軽く払い、背中を大きく逸らして伸ばしてからあたりを見回す。たった一人の降車客を降ろして走り去る馬車の音に、早起きの小鳥達が迷惑そうに鳴き声を上げていた。


「――…少し、早く着きすぎたか」


 家々から感じる人間の気配が思ったよりも希薄で、静まり返った村へと足を踏み入れることに、なんとなく躊躇いが浮かぶ。

 首や肩を回してゴリゴリと音をさせてから腰につけた鎖の一本を手繰り寄せ、使い込んだ懐中時計を取り出してみれば、案の定、人々が動き出すにはまだまだ早い時間だった。こんな時間に起きているのなんて、小麦粉を丹念に捏ねているパン屋くらいではないだろうか。


 小さな溜め息ひとつ、懐中時計をまた戻し、苦笑を浮かべて地面に置いた鞄を手にする。

 これから訪ねようと思っている場所は、早起きであるパン屋よりも早起きだ。よって、このまま訪問してもなんら問題はない。

 青年は、まだ少し冷たい夜明けの風に遊ばれた銀色の前髪を軽く払い、そのまま歩き出す。その髪と同じ色の瞳が見据えるのは、村のやや奥まった場所にある小高い丘。


「だいたい四年ぶりくらいか……。俺のこと、覚えているかな?」


 四年前、彼が神学校に行く為に別れ、それっきりほとんど会うこともままならないで過ごしていた少女の顔を思い出し、思わず口許を緩める。

 まだまだ小さく幼かった彼女も、先月十二歳になった筈だ。お転婆なところもそろそろ落ち着いたことだろう。それとも、もっとじゃじゃ馬に磨きをかけているのだろうか――どちらにしろ再会が楽しみだ。

 訪ねることは然るべき場所を通して事前に知らせてあるし、きっと待っていてくれているだろう。だが、こんなに朝の早い時間に着くとは、予想もしていないと思われる。このままさっさと行って驚かせてやるのもまた一興。

 あれこれと考えを巡らせながら、思わず笑みを浮かべた。


「待っていろよ、ノエル」





 誰かに呼ばれたような気がして、ノエルは水汲みをしていた手をふと止める。よそ見をしながら石組みの井戸の縁に桶を下ろしたものだから、たっぷりと入っていた水が少しだけ跳ねて、まだまだ女らしさの足りない胸のあたりを濡らした。

 目線を向けた東の空に太陽はまだその姿を見せておらず、薄ぼんやりと明るいだけ。

 気の所為だろう、と首を振り、桶の水を別の桶に移し替える。


 今日はあの男が帰って来るという。畏まった封筒に入れられた滅多にお目にかからない部署の名前を刻んだ便箋に、そんなことが書いてあったらしい。ノエルはその文面を実際に見てはいないが、宛名であった院長がその封書を見せながら説明していたのだ。

 やれやれ、と子供らしからぬ溜め息が零れる。

 あの男とはいい思い出がない。可愛がってくれようとしていたような気もするが、それよりもなんだかいろいろ危ない目に遭わされたことの方が多かったと思う。

 寮制の神学校に行ってくれて清々していたというのに、もう卒業して、配属される前に一度戻って来るという。

 ノエルはまた大きな溜め息をつき、井戸の淵に桶を下ろした。


 そのときだった。

 ふっと、地面との距離が遠くなる。


「ノエル!」


 驚く間もなく、聞き知った男の声がノエルを呼んだ。


「……ぎ、ぃやぁあぁぁああぁあぁッ!」


 男の声を認識した瞬間、ノエルの口からは可愛らしさなんて一切無視した本気の悲鳴が迸る。明け方の清涼な空気にはなんとも似つかわしくない悲鳴だった。

 そんな声が上がることを予測していた銀髪の青年は、軽く顔を背けることでそれを受け流し、腕の中で暴れる少女に満面の笑みを向ける。


「四年ぶりだな、ノエル。会いたかったよ」

「私は! 会いたくなかった! 降ろして離してそして帰って!」

「久し振りなのに随分だなぁ、俺のお姫様は」

「本気で帰って! 助けてマリー!」


 へらへら笑っている男になにを言っても埒が明かない、と経験から学んでいるノエルは、養母であり孤児院の院長である女性を呼んだ。彼女にならこの男も逆らわない。

 ノエルの悲鳴を聞きつけていたシスター・マリーは、もう既に戸口の傍まで来ていたらしく、呼ぶとすぐに顔を出してくれた。


「あらあら、まあまあ。ノエル。大きなお声でなにごとかと思えば、ユーベルさんが帰っていらしたのね」


 少しふくよかなマリーはおっとりとした声で答え、金切り声を上げる少女を抱き上げている男に目を向ける。


「随分と早いお着きでしたのね、ユーベルさん。お昼頃かと思っていましたわ」

「シスター・マリーにはお変わりなく。四年間の就学を終え、任官の前に一度ご挨拶をと戻って参りました」


 ノエルを抱えたまま、ユーベルは腰の鎖のひとつを手繰り寄せ、修学の証のメダルと十字架を見せた。それを確かめ、マリーは柔らかな笑みを向ける。


「無事のご卒業おめでとうございます、ユーベルさん。勝手口からで失礼だとは思いますけど、どうぞこのまま中へ」

「ありがとうございます」


 ぺこりと礼儀正しく頭を下げると、ここでようやくノエルを地面へと降ろしてやった。暴れたノエルは頬を紅潮させ、腹立たしげに背の高い男を睨みつける。

 突き刺さる少女の睨みなど気にせず、ユーベルは自分の大きな旅行鞄を持ち、反対の手でノエルが汲み置いた水の満ちた桶を持ち上げた。


「私の仕事!」

「これくらい甘えてくれよ、お姫様」


 ノエルがちょっと重たく感じる水桶を軽々持って、ユーベルはにっこりと笑う。大人の男と、まだ幼さの残る少女の力が違うことはわかっているのだが、自分が少々苦労して運んでいるものをそう易々と運ばれてしまうとなると、それがまた気に入らない。


「あ、そっ」


 唇を尖らせるどころか頬を膨れさせるとぷいっと顔を背け、そのままユーベルの脇をすり抜けて行った。これでもかと地面を踏み鳴らしながら。

 どうやら自分はまたこの少女の不興を買ってしまったようだ、とユーベルは苦笑する。


「人間の女の子は扱いが難しいな」


 大人も、子供も。女という性別の人間はどうにも御し難い。笑っていたかと思ったら不機嫌になったり、泣き出したり、怒り出したり――ノエルはまだまだ子供だから自分の感情を素直にぶつけてくるので、更にそう感じる。

 どうやってご機嫌をとろうかなぁ、などと考えながら、軋みを上げる勝手口の扉を閉めた。


「……マリー。ここの扉、蝶番イカレてませんか?」


 古い建物なので以前から建て付けがあまりよくなかったが、ユーベルが出入りしていた四年前より閉まりが悪い。ギイギイ音がうるさいどころか、天地左右にどうしても埋まらない隙間がある。これでは冬場は寒風が吹き込んでかなり冷える筈だ。

 そうなのよ、と鍋の中を覗き込んでいたマリーが苦笑する。


「扉自体はまだ大丈夫だとは思うのだけれど、かなり傷んでしまっていてね。もうだいぶ寒いし、いい加減に修繕しようかと思っていたところなの」


 古い建物だから仕方ないのよね、と溜め息混じりに呟く。造られてからそろそろ五十年にはなる筈だ。


「じゃあ、あとで俺がやっておきますよ」

「あら。それは悪いわぁ」


 ユーベルの申し出に、マリーはおっとりと、しかし何処か嬉しそうに答えた。


「構いませんよ。しばらくお世話になる身ですから」

「えっ!?」


 にっこりと答えたユーベルの言葉を掻き消すように鋭い声が短く上がり、更にそれを掻き消すように騒々しい音が巻き起こる。見やると、驚愕の表情に固まったノエルと、その足許に散乱する薪があった。

 あらあら、とマリーが目を丸くする。


「どうしたの、ノエル?」

「マリー……こいつ、しばらく居座るんですか?」


 愕然と尋ねると、これ、と手の甲を叩かれた。


「人を指さすものじゃありませんし、こいつなどと呼ぶものじゃありません。ユーベルさんは一応目上の方でしょう。失礼なことをするんじゃありませんよ」


 言われていることはもっともだ。普段ならノエルだってそのことはきちんと理解しているし、(わきま)えている。だが、相手がユーベルになると話は別だ。


「でも、聞いてないです。しばらくいるなんて」

「言ってなかったかしら?」

「欠片も言ってなかったです! 帰って来るとは言ってたけど、居座るだなんて」


 悪夢だ、という言葉はさすがに飲み込んだ。また叱られる。

 そんなノエルの態度に、勝手に茶器の支度を始めていたユーベルが、くくっと小さく忍び笑いを零した。そんな様子をギロリと睨みつける。


「居座るって言い方がアレだけど、まあ、就任式の前日まではいようかな」

「えッ!?」

「……と、言いたいところだけれど、そんなに長居はしないよ。十日ばかりかな」


 就任式まではこれから半月近くあるというのに、その間ずっと滞在し続けたりしたら、さすがにノエルが発狂しそうだ。以前は一緒に暮らしていたというのに、随分と嫌われたものである。

 十日でも十分に長く感じる。ノエルは苦虫を噛み潰したような憎々しげな顔で、頭二つ分は上にある男の顔を睨みつけた。


「なんだい、お姫様? やっぱりもう少しいて欲しいのかな?」

「いいえ、シュタイン神父。十日などと言わず、今すぐにでも出て行って頂きたいところですわ」


 意地の悪いにやにや顔に、極上の笑みで嫌味を言い返す。

 相変わらずねぇ、とマリーはおっとりと微笑んでお茶を淹れた。


「取り敢えずお茶を淹れてしまったけれど、朝食は?」

「あ、まだです。さっき着いたばかりなんで」

「ではご一緒に如何かしら? 昨夜の残りのスープと、ノエルが仕込んでくれたパンになるけれど」

「それなら是非ともご相伴に与りたいですね」

「すぐに用意しますね。ノエルは他の子供達を起こして来てちょうだい」


 お前に食わせるパンなどない、と叫びかけた口の先を制されるように言われ、ノエルは音もなく唇をパクパクとさせたあと、諦めたように返事をして出て行った。そんな様子をにやにやとユーベルは見送る。


「本当に相変わらずねぇ。四年も経ったなんて嘘みたい」


 焼き窯の前にしゃがんで薪を足し始めたマリーの言葉に、ユーベルは「そんなことはないでしょう」と笑いながら洗い場に立った。


「手伝います」

「あら、ありがとう。そこのお野菜洗ってくださる?」


 頷いて僧衣の袖を捲くったユーベルは、萵苣菜(レタス)の葉を剥き始める。


「ノエルは前よりも随分……口が悪くなりましたね」


 苦笑しつつ呟くように言うと、あら、とマリーは目を丸くしてから笑みを零した。


「ユーベルさんの前だけですよ」

「それは……よほど嫌われているってことですかね?」

「どうかしらねぇ。うふふ」


 おっとり口調で絶妙にはぐらかす。そんな様子に思わず溜め息が零れかけたところに、子供達の騒がしい声と足音が近づいて来た。


「あー! ユーベルだぁ!」


 一番初めに食堂にやって来た少年が、調理場にいるユーベルの姿を見つけて目を丸くして叫ぶ。


「ほんとうだー!」

「いつ帰って来たのぉ?」


 続いて入って来た子供達も次々に声を上げる。半分は歓喜に満ちた声だが、最近やって来た数人は、見覚えのない若い神父の姿に困惑気な表情を向けて遠巻きにしている。


「よう。フィル、トーマ。元気だったか?」

「あったぼうよー!」

「ユーベルも元気だったか?」


 濡れた手を拭い、迎え入れるように広げて見せると、一番手前にいた少年達はその中に勢いよく駆け寄って来る。


「ステアとジャンは随分背が伸びたな。ロジャーは……横に大きくなり過ぎじゃないか?」


 あとから来た少し年長の少年達にも声をかけると、彼等は「ユーベルが言うと嫌味に聞こえる」と唇を尖らせた。背が伸びたといっても、ユーベルに比べればまだまだなのだ。


「ラビサ、エレナ、随分と美人になったなぁ」


 更に少し後ろから遠巻きにしていた少女達にも声をかけると、二人は笑みを浮かべて駆け寄って来た。

 困惑気な表情を浮かべた残りの二人は、ユーベル達の様子を窺いつつ、逃げるようにノエルの後ろに隠れてしまう。宥めるようにその子供達の肩を撫でながら、ノエルはユーベルを睨みつけた。


「神父様。ここでお食事を頂くのなら、食器を並べるくらいしてくださいませんか?」


 棘を含めて嫌味っぽく言うと、ユーベルは顔を上げてにやりとする。


「仰せのままに、お姫様」


 そう言ってわざとらしいくらいに大仰に跪いて頭を下げて見せると、さっと身を翻してマリーの手伝いに戻って行った。

 そういう態度に余計に腹が立つ。ノエルはますます不機嫌に眉を吊り上げた。

 年少の子供達を促して先に座らせ、年長の者達も食事の支度の手伝いに入る。温め終わったスープをよそい、野菜も各自に取り分けられて香ばしくパンも焼き上がると、全員が揃って食卓に着いた。

 平和で穏やかな、いつもどおりの光景だ。ユーベルがいることを除けば。


「祈りましょう」


 マリーが指を組んで目を閉じる。皆もそれに倣った。


「今日も家族がこうして元気に揃い、温かな食事を口に出来ることを、天上の父君に感謝して」

「おとうさま、ありがとうございます――いただきます」


 子供達の元気な声での食前の祈りが終わると、それぞれが食器に手を伸ばす。楽しげに、嬉しげに、皆が笑い合いながらの賑やかな食事となった。

 そんな楽しげな光景の中で、ノエルは一人ムスッとしながら食事を進めていた。

 理由は簡単だ。院長であるマリーの座る席から年齢順に座っていく決まりだった為、運悪く隣が大嫌いなユーベルになってしまったからだ。


「元気なのはいいことだな」


 ひと言も発さずに黙々とパンを千切っては口に入れる行為に徹していると、隣からそんな呟きが漏れ聞こえる。あら、とマリーが小首を傾げる。


「神学校でのお食事中は、話してはいけないのでしたかしら?」

「いいえ、そんなことはありませんよ」


 マリーの問いかけにユーベルは微笑んで首を振った。


「親しい者同士が自然と並んで食べますし、会話を禁止されてはいませんでしたからね。交わされる内容があまり楽しいものではなかっただけですよ」


 苦笑交じりに返されたそんな答えに、あらまあ、とマリーも苦笑した。


「あなたでもそういうことを気になさるのね」

「まあ……あまり耳障りのいいものではないですからね」


 四年もいればうんざりすることもある、と言いながらもうひとつパンを取ろうと手を伸ばすと、横からぴしゃりと叩かれる。もちろんノエルだ。


「なにするんだよ」

「一人ふたつずつ!」

「えぇ……足りないだろうが」

「うるさい、居候」

「これ、ノエル」


 パンの載った籠を遠ざけるノエルの行動に、マリーは窘めるように声をかける。乱暴な言葉遣いも看過出来ない。

 叱られたノエルは唇を尖らせるが、ツンっと横を向いてしまう。彼女が大好きなマリーに対してこんな態度を取るのはほとんどない。余程ユーベルのことが気に食わないようだ。

 しょうのない子ね、とマリーは溜め息を零しつつ、一計を案じる。


「ノエル。食事の片づけを終えたら、シスター・イザベラのところに行って来てちょうだい。ユーベルさんと一緒にね」

「えッ!?」

「ユーベルさんもシスター・イザベラにご挨拶したい筈ですもの。案内してあげてね」


 ノエルは思わず机に手を叩きつけ、即座に抗議の意味を込めて更に口を開けるが、その先を素早く「いいわね」と念押しで制される。開きかけた口はそのまま閉じるしかなかった。

 なんてことだ、腹立たしい。

 やはりユーベルがいるといいことがなにもない。ノエルの平穏で幸せな日々を即刻返して欲しい。





 盛大に不本意ではあるが、マリーに言われたので仕方がない。

 食事の片づけを終えたノエルは出かける準備をして、孤児院に併設されている教会の前へと立った――というのに、肝心のユーベルの姿がない。

 先に出ていた筈なのに、いったい何処に行ったのだろうか。こういうちょっとしたことにも苛々してしまう。

 腹立たしさを抑えながら軽く辺りを見回していると、孤児院の方からやって来る姿が見えた。その手には花束が抱えられている。


「……なにそれ?」

「裏の薬草園から切ってきた。こういうときには花を用意するものなのだろう?」


 確かにそのとおりなのだが、この男が言うとなにか物凄い違和感を覚える。


「そんな顔しなくても、ちゃんとマリーに許可はもらったよ。行こう」


 むうっとした表情で花束を睨みつけていると、道行きを促される。溜め息を零して頷き、先に立って歩き始めた。

 教会の脇に広がる墓地を進み、一番奥にある比較的新しい墓碑の前に立つ。

 持って来た箒で落ち葉を軽く掃いて避けてからそこを示すと、ユーベルは頷いて膝をつき、花束を置いた。

 静かに跪き、胸に手を当てて俯いている姿は、その身に纏う漆黒の僧衣と相俟って、敬虔な聖職者にしか見えない。ノエルは僅かに鼻を鳴らした。


「……あんたが、そういう律儀な奴だとは思わなかった」


 哀悼の祈りを捧げている後頭部を見つめながら呟くと、ユーベルは微かに笑って肩を揺らし、悪戯っぽい笑みを浮かべて振り向いた。


「あの婆さんに世話をかけた自覚はあるからな」


 そう言って立ち上がり、膝と裾についた汚れを払う。


「葬儀にも出れなかったんだ、こういうことはするべきだろう。違うか?」

「違わないけど……あんたの口からそういう『常識』を聞かされるのは、なんだかとても変な感じ。気持ち悪い」


 その言い分にユーベルは声を立てて笑う。


「ひでぇな。これでも俺はかなりの優等生だったんだからな」

「そうらしいね。信じられないけど」


 ユーベルの保護責任者は昨年に亡くなったシスター・イザベラ――この墓碑の下に眠る先代の孤児院長と、現院長のシスター・マリーであり、出身もこの孤児院ということになっている。それ故に、家族宛てに通知される学年終わりの成績表は、ここに送られて来ていたのだ。

 四年間送られて来ていた成績表はどれも優等で、初年度を除いては常に首席だった。その初年度の成績も、様子見で手を抜いた結果だという本人の言を信じるのならば、とんでもなく優秀な学生だったということになる。

 普段の態度を知っているノエルからしてみれば、成績表自体が偽造なのではないかと思えてしまう。

 苛立たしげにもう一度鼻を鳴らし、踵を返した。


「次は森でしょ。さっさと行くよ」

「はいはい。まったくせっかちなお姫様だ」

「私だって暇じゃないんだから、仕方がないでしょ!」


 ノエルは孤児院の中で三番目の年長者であり、しかも生まれたときからいるので、子供達の中では一番の古株だ。下の子供達の面倒を見るのは当然の義務で、その他にも掃除や洗濯や食事の支度の手伝いに加え、決められた課題の学習時間もある。一日にやることは盛りだくさんなのだ。本来ならこんな道案内などしている余裕はないくらいに忙しい。

 ツンツンした態度のまま墓地の隣に茂る森の中を進む。そのあとをユーベルはのんびりとした足取りでついて来ていた。


 しばらく行くと、装飾の着けられた木々が目立つようになってくる。

 色とりどりのリボンや飾り紐に、花環、毛糸で編んだ襟巻がかけられているものもある。そのどれもに人々の想いが込められていることを、ノエルもユーベルも知っている。

 ここは『見守りの森』と呼ばれる場所だ。

 村の古くからの風習で、家族が亡くなると、その人を悼む為に樹木を植える。故人の魂はその木に宿って残された家族を見守ってくれると考えられていて、家族が餓えることがないように、という願いを込めて、実の生る樹木を植えることが一般的だった。


「イザベラはなんの木を?」


 無言で突き進む小さな背中に向けて問いかける。植える樹木は大抵の場合、故人が生前に希望を伝えているものだ。

 ノエルは肩越しに振り返り、眉間に皺を寄せながら「胡桃」と答えた。


「そりゃあまた、実用性に富んだ木を選んだもんだな」


 実は栄養価に優れて食べられるし、油も摂れる。家具を作る木材としても人気が高い。

 あの婆さんらしい、と笑うユーベルの声に、ノエルも僅かに頷き返した。


 シスター・イザベラはノエルが物心ついた頃から既に老婆で、神に仕える身である証の尼僧衣を着ているというのに、どちらかというと物語に登場する『魔女』のような風格の人だった。

 孤児院の子供達を叱ったり一緒に笑い合ったりするのはマリーの仕事で、イザベラはそんな様子を遠くから見守ってくれていて、マリーがみんなにとってのお母さんなら、イザベラは祖母のような人であり、子供達はそんな彼女のことを尊敬していたのだ。一緒に暮らしていた孤児院の子供達はもちろん、村の子供達もこの老尼僧のことが大好きだった。


 教会での説法や告解を行う以外は静かに本を読んで過ごすことが多かったイザベラだったが、亡くなったときも、窓辺で本を読んで転寝しているような、そんな姿のまま静かに息を引き取っていた。大病をすることもなく、誰にも迷惑をかけずに一人で旅立ってしまったのが実に彼女らしい最期だった、と葬儀に参列した旧知の者達は話していた。

 そのイザベラが最期まで案じていたのが、ノエルとユーベルのことだった。

 溜め息を零し、ノエルは足を止める。


「これがイザベラの木」


 指し示すそこに在ったのは、まだまだ若く細い木だ。

 ユーベルは頷き、その若木へ手を伸ばす。


「……婆さん。葬式に出れなくて悪かったな。でも、あんたが言ったとおり、資格を手に入れて来たよ」


 幹を撫でながら報告の言葉を囁く。その様子にノエルは胡乱気な目を向けた。


「そこにイザベラがいるなんて、欠片も思ってないくせに」


 いったいどういうつもりなのだ、と吐き捨てるように呟くと、ユーベルが笑いながら振り返る。


「振りだよ、振り」


 そう言いながら軽く顎先で示された方向を見ると、同じように木にお参りしている家族の姿があった。彼等もユーベルと同じように、木に話しかけているようだ。


「お前も俺にそうさせたいから、ここに案内してきたんだろう?」

「マリーに言われたからよ」


 この村の住人は、墓参と言えば埋葬された墓地と植樹した森を回る。だからそのとおりに案内しただけのことだ。

 唇を尖らせながら言い返し、腕を組んでそっぽを向く。そんな様子にユーベルは小さく笑った。

 そうして、懐からリボンを取り出して枝に巻きつける。


「――…なに、それ」


 ユーベルの手許を見てしまったノエルは唖然とし、次いで眉間に大峡谷を築き上げた。


「魔女婆に華を添えてやろうとね。――ほぅら、可愛い!」

「…………」


 結わえつけられたのは、目にも鮮やかな薔薇色をした幅広のリボンだ。艶やかな絹地を使っていることから、なかなかに高価なリボンだったのではないかと思われる。

 それを贈り物に結ばれている花のような見た目にされているので、まるでそこに大輪の薔薇が咲いているかのようだった。派手が過ぎるし、この場には明らかに浮いていて物凄く違和感だ。

 呆れ果てて怒る気力もない。はあ、と大きく溜め息を零すと、鈍く頭痛を感じるような気がした。


「器用ですこと」


 嫌味っぽく呟き、踵を返す。用は済んだのだからもうさっさと帰ろう。この男に付き合っていても碌なことはない。

 歩き出すと、ユーベルもすぐにあとをついて来た。こちらに気づいた墓参の家族に愛想よく会釈までして、しっかりしたものである。

 こういうところが嫌いだ、とノエルは思った。なにもかもが非常識な奴のくせに、礼儀正しく紳士的に振る舞ったりするのが腹立たしい。しかもその様子にみんなが騙されている上に、誰もその作り物の態度に気づかないのがもっと腹立たしい。

 つまるところ、ノエルはこのユーベルという男の存在自体に苛々するのだ。


 無視してずんずんと先に行く小さな後ろ姿を眺めながら、彼女の心情が手に取るようにわかるユーベルは、ひっそりと含み笑う。


「ノエル」


 呼びかけても無視だ。わかりやすくて本当に面白い。

 さっと歩幅を広くしてすぐに追いつくと、後ろから抱え上げる。また悲鳴を上げられるのはわかっていたので、素早く口許を覆った。


「……ふ、むっうー! んんーッ!!」

「はいはい。わかってるから」


 そう言いつつも下ろしてくれる気配はない。

 取り敢えず急所である股間を蹴り上げてやろうとするが、上手く躱される。ノエルは思わず心中で舌打ちした。

 これ以上は暴れても無駄だろう。どうせしばらくしたら解放してくれるのはいつものことなので、自力での脱出はひとまず諦め、体力を無為に消費しないようにじたばたするのをやめた。


「なあ、ノエル」


 大人しくなった様子を確認しながら、ユーベルが口を開く。

 呼びかけてももちろん返事はないので、取り敢えず顔が見えるようにと、向き合うように抱え直す。真っ赤になった仏頂面が睨みつけてくる。


「尼僧になるって目標、まだやめないのか?」

「やめない」


 即座に答える。

 ユーベルは盛大に溜め息をついてみせた。


「何度も言ってるけどな、やめとけ。祓魔師になるだけなら出家する必要はない。一度出家したら、生涯をエテルノ聖教会に縛られるんだぞ?」

「でも、あんたは神学校に行って、資格を取って来たじゃない」

「俺はここでの身分が必要だったからだ」


 司祭の資格を取って祓魔師になること――それが、他人には言えない出生を持つユーベルが、イザベラに出された条件だった。

 偽造しようと思えばいくらでも可能なことではあったが、長期的に見て、正当な手段を踏んで世間的な地位を手に入れる方が有利だと判断した。それ故に、わざわざ全寮制の神学生などという面倒な環境を享受してやったのだ。


 溜め息をつきながら、膨れっ面になっているノエルの頬をつつく。


「お前の、人の役に立ちたいっていう意思は素晴らしいものだと思うよ。だがな、それを全うする為に、わざわざ不自由に身を投じることはないんじゃないか?」


 祓魔師は稀少な能力者故に、一般人からも助力を募ることがある。協力参加してくれる意思のある人は、エテルノ聖教会の統率組織である教皇庁が制定した祓魔師協会に所属し、被害者からの要請に応じて祓魔依頼を引き受けてもらうことになっている。だから、わざわざ出家する必要はないのだ。

 出家すると基本的に婚姻は許されない。祓魔師は強い能力の子孫を残す為に例外的に許可されてはいるが、相手は自由には選べない。エテルノ聖教会の決めた相手を伴侶にしなければならないのだ。


 まだ十二歳になったばかりのノエルは、恋だってこれから経験することだろう。好きな男が出来れば、その男と所帯を持って子供を産みたいという気持ちになるかも知れない。けれど、尼僧になってしまっていれば、そういったことは一生叶わない。

 別に、結婚することが女の幸せだとか、家庭を持たなければ劣っているとか、そういう黴臭い価値観に基づいて言っているわけではない。これから先、五十年六十年と続くだろう人生を決めてしまうのは早計ではないか、と言っているだけだ。


「確かに、聖教会から認定を与えられただけの祓魔師より、きちんと司祭の資格を持った祓魔師の方が信用は得やすいだろう。けど、結局のところはそれだけだ」


 本当に悪魔祓いが出来る実力があるかどうかは、そんな資格や名前を持っているからではない。修練を積むことで得ることも出来るが、元々特殊な力を生まれ持った者の方が実力者である事実は否めない。

 そして、ノエルにはその力がある。その力が一番役立つのが、祓魔師という職業なのだ。

 まだ幼い故に正しく制御出来ていない面はあるが、それは誰か経験のある祓魔師について使い方を覚えればいいことだ。わざわざ出家せずとも可能である。


「……なんで、そういうこと言うの?」


 ノエルはおおいに不服を滲ませ、ムッとした声で問いかける。


「そりゃあ、お前……」


 ユーベルは答えかけるが、言葉を選ぶように僅かに口ごもる。その様子をノエルは更に睨みつける。


「子供の未来を守るのは、大人の役目なんだろう?」


 躊躇いののちにようやく出てきたのは、そんな答えだった。


 ノエルはそれにとてもがっかりした。

 だから、ぐっと後ろに仰け反り、そのまま勢いをつけて頭突きをかましてやった。


「――…っい……てぇッ!!」


 ぶつかったのは下顎のところだ。大惨事になりそうな唇や鼻でなくてよかったとは思うが、痛いものは痛い。

 思わず悲鳴を上げたユーベルの手からするりと飛び降り、ノエルは着地したその場で拳を握り締めて仁王立ちになる。


「だから! あんたからそういう『常識』を聞かされるのが、すっごく、イヤ!」


 怒りも顕わに叫ぶと、蹲るユーベルを残してそのまま駆け去った。


「……石頭め」


 痛む顎を押さえながら小さく悪態を吐く。掠れ声で零されたそれは、走り去った小さな背中にはもちろん届いていない。


「俺が痛みを感じないとでも思っているんだろうな、あれは。そんなことあるわけないだろうが」


 愚痴愚痴と文句を零しつつ、まだだいぶ痛む顎を摩る。骨に異常はなさそうだし、裂けてもいないようだ。よかった。

 投げ出されていた箒を拾って立ち上がり、眉間に皺を寄せる。


「ありゃあ、あとで仕置きが必要だな」


 剣呑な目つきで物騒な言葉を呟き零すが、その口許は愉悦に歪んでいるように見える。もちろんそれに気づいた者は誰もいないのだが。





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