9 契約者ノエル・ブランカ
幼いノエルには、自分の身に襲いかかったことがいったいなんなのか、わからなかった。
わかったのは、お腹のあたりがすごく熱くて痛くて気持ちが悪いのに、マリーにそれを訴えることが出来ないことだ。
マリーは何処に行ったのだろうか。ガツンガツンと中から殴られるような頭痛を感じながら視線を彷徨わせていると、急激に眠気が襲いかかってきた。
「ノエル!」
眠ってしまってもいいだろうか、と思いながら瞼を下ろそうとすると、マリーの声が聞こえた。金属を打ち合わせたような耳触りの悪い甲高さを含んだ声で、ノエルの名前を呼んでいる。何度も何度も。
彼女のそんな声を今まで一度も聞いたことがなかったので、実は誰か別の人なのではないかとも思えたが、それは確かに大好きなマリーの声で、ノエルのことを繰り返し呼んでいた。
「ノエル! 目を開けて! 目を開けるのよ!」
(マリー……)
その声に応えようとしたが、身体が動かない。伸ばそうとした指先が冷えて重たくなり、ちっとも持ち上がらないのだ。
なんとか指先を持ち上げたが、それはいくらも高く持ち上がらず、すぐに下に落ちた。冷たい石の床の感触を掌に感じたが、もうそれ以上は力が入らず、なにも考えられなかった。
乾いた小さな唇からふーっと細く息が零れると、僅かに上下していた胸が沈み込んだまま動かなくなった。
「ノエル! ノエル! 駄目よ!」
懸命に何度呼んでも、横たわる小さな身体が身動ぐことはなかった。
石造りの狭い部屋の中に、絶望に満ちたマリーの悲鳴が響く。
「許さないわ、ロリータ!!」
金切り声を上げるマリーは、三人の女達に押さえつけられていた。それ故に叫ぶことしか出来ない。その涙に濡れて血走った目が激しい憎悪の感情を向けるのは、大事に育ててきた我が子同然の少女に短剣を突き刺した女だ。
「お前がそんな子だとは思わなかった! 天主様に仕える司祭だなんてよくも名乗れたものね、ロリータ! 我が子を手にかける残酷な母が、司祭で、私の妹だなんて!」
信じられなかった。信じたくもなかった。
昔からロリータは自分勝手で奔放なところがあったけれど、こんな残酷なことをしでかすような娘ではなかった筈だ。
「お前など、地獄に落ちてしまえっ!!」
何処で育て方を間違えたのだろう、と己の不徳を後悔しながら、嘗て生み落して捨てた我が子から流れ出る血溜まりの中に佇む妹の姿を見て、マリーは怨詛の言葉を吐いた。
くっ、と紅い唇が弓月型に笑む。そうして高く笑い声を響かせたあと、ノエルと同じ空色の淡い瞳を冷たく笑ませた。
「そんなもの、とっくに覚悟は出来ているわ」
刃物を含んでいるかのように硬質な声が、マリーを貫いてくる。
「だから、もう黙っていてよ、姉さん」
黒いローブを目深に被った彼女は身を翻し、なんの感情もこもらない瞳で倒れた血塗れの少女を睥睨しながら、手にした書物を読み上げる。
まるで歌うかのような抑揚で、聞いたこともない言語の言葉を繰り返す。
マリーはその場に力なく膝をつき、流れ落ちる涙を止めることもないまま、立ち並ぶ蝋燭の炎の前で踊るように揺らめく黒い女の姿を見つめていた。それぐらいしかマリーに出来ることはなかった。
よく響く女声で紡がれるその呪文は祈りを捧げる調べのようで、不謹慎にも、まるで聖歌のようだと思えた。美しい薔薇窓から射し込む柔らかな光を受けて、天上の主を讃える為に歌われる讃美歌のようだ。
そう思ったとき、蝋燭の炎が大きく揺らめき、油でも被ったかのように激しく燃え上がる。中央の血溜まりに横たわるノエルを閉じ込める檻のように、無数の火柱となった。
突然巻き起こったその光景に、マリーを押さえつけていた女達は驚いて悲鳴を上げ、竦み上がる。微動だにしなかったのは、肩を落として茫然としていたマリーと、その炎のすぐ傍に立っていたロリータだけだ。
炎の檻の向こう側で蠢く人影を見たとき、ああ、とロリータは歓喜の吐息を漏らした。
「その娘を供物に捧げるわ! さあ、この私に従いなさい!」
ロリータはその人影に向かって両腕を差し伸べ、己の願いを口にする。しかし、その声を拒絶するかのように、炎の檻は大きく揺らめいて、その場を鎖した。
「――…見つけた」
その低い囁きは、身動きひとつ出来なくなっていたノエルの耳に確かに届いた。
薄く開かれたまま閉じることのなかった瞳に影が差し、焦点を結ぶことのないそこを覗き込むように、金色の瞳が見下ろしている。
「こんなところにいたのか」
男の声が囁き、ノエルの頬に触れてくる。愛おしいものに触れるかのような優しげな手つきで、その存在を確かめるように、そっと触れてくる。
(……誰?)
ほんの微かに残っていたノエルの意識が、その男の正体を探ろうとする。
「会いたかったよ、俺の――――。お前をずっと捜していたんだ」
金色の瞳の男は誰かの名前を呼んだ。それはノエルの名前ではなかったが、その男の声で呼ばれるととても懐かしくて、マリーに呼ばれるときとは少し違うが、似たような温かな心地になった。
その温かな気持ちが吐息をつくように胸の奥にことんと落ちてきて、その瞬間、ノエルは彼の名前を思い出した。
男の背に生える漆黒の翼が大きく羽ばたくと、まわりを取り囲んでいた炎の檻が消え去り、代わりに青白い炎が立ち昇った。外側にいた女達から悲鳴が上がるが、小さな雑音にしか感じられない。
懐かしさを感じるその青白い炎を見つめながら、ノエルの目尻から涙が伝い落ちる。
(私も会いたかったわ。私の愛しい天使――べリアル)
* * *
カロリーヌは大木の洞に隠れていた。
その姿を見つけてチェレスティーノが迫ると、彼女は小さな笛を鳴らし、その音に誘われて死霊傀儡が飛び出して来た。
「まだいやがったのか!」
襲いかかって来たのは三体だ。ここに来る途中でも、恐らくユーベルが倒したのだろうと思われる一体を見かけたので、全部で五体いたことになる。
なんて女だ、とチェレスティーノは思った。死霊を呼び寄せるにはそれなりの技量がいるし、それを維持して操るのもかなりの力を必要とする。一体でもたいしたものだというのに、カロリーヌは五体も使っていることになる。
「なんの為にこんなことをしやがんだ、あんたは!」
腕に咬みつこうとしてきた傀儡を掴み、その後ろにいた別の傀儡へ向かって投げ飛ばしながら、指示の為の音階を鳴らしている女に尋ねた。
被っていた頭巾は逃げている途中で落としてきたのか、肩まで伸びた栗毛が夜風に踊っている。
「なんの為?」
笛から唇を話したカロリーヌは、小さく呟いて小首を傾げた。
何故そんなことを尋ねるのだろう、と不思議そうな目をして、傀儡と交戦しながら睨んでくるチェレスティーノの姿を見つめ返す。
「別に意味なんてないのよ」
その言葉に、チェレスティーノは愕然とした。
吹きつける夜風に攫われるくらいに微かな声音ではあったが、はっきりと彼女は言った。意味などない、と。
その言を信じるのならば、彼女はまったく意味もなく、なんの罪もない村人達を何人も殺し、その肉体と魂を弄んでいるということになる。そんなことがあってたまるか。
「意味は、ない?」
信じられない思いで呟くと、カロリーヌははっきりと頷く。
「私には死霊術師の才能があった。だから傀儡を作ってみただけ」
そう言って笛を吹く。傀儡達はまたチェレスティーノに向かって襲いかかって来る。
「可愛い子達よ。私の言うことはなんでも聞いてくれて、私に嫌なことをする人達を壊してくれるの」
嫌な人達。村にいた男達は、まだ若いカロリーヌにいやらしい目を向けてきた。妻や娘がいる者でさえも、こちらの意思を無視して蹂躙しようとしていた。
笛を吹く合い間にそう呟き零し、笑みを浮かべる。食事を振る舞ってくれたときと同じ、可愛らしい笑窪の浮いたあの笑顔だ。
その笑顔が、チェレスティーノは腹立たしくて仕方がなかった。目の前がどす黒く染まったような気がする。
彼女の語る言葉が真実ならば、確かにとても憐れなことで、力で押し切られれば女である彼女に勝ち目などなく、ただその暴力を受け止めることしか出来なかっただろう。そのことに関しては、同じ男という立場からして申し訳ない気持ちも感じられる。
それでも、それが二十人もの人々を殺す正当な理由にはならないだろう。
湧き上がってきた怒りにも似た衝動を拳に乗せ、向かって来た傀儡に渾身の一撃をぶちかます。ゴリッと嫌な音が手の甲を伝って這い上がって来たが、構わずに振り切った。
人型をしている傀儡の首はあらぬ方向へ捩じれ、受けた衝撃そのままに吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられる。
しかし、その程度で動きが止まるわけではない。魂を定着させる役目を果たしている核を壊さなければ、いつまでも操られ続ける筈だ。
手っ取り早く済ませてしまいたいところだが、さすがに三体も相手にしながらではだいぶ分が悪い。背後から飛びかかって来た傀儡を避けながら舌打ちが漏れる。
首の捩じれた傀儡も立ち上がり、再び襲いかかって来る。先程投げ飛ばした傀儡もウロウロと徘徊しながら距離を詰めて来るし、もう一体も咬みつこうとするように洞のような口をぱっかりと開けて飛びかかって来る。
これは本当に厄介だ。身を捻って躱し、振り向き様の肘で殴りつけ、反動で振り上げた膝に遠心力を乗せて蹴り飛ばす。単調な動きの相手だからこそ、上手く連続攻撃が繋がって当てていけるが、三体は三体だ。人の形を模した木偶であるが故に体力の限界というものもなければ、痛覚によって怯むようなこともない。浄化の銀弾による効力もほとんどないときている。一人で捌くには限度があった。
ユーベルはよくも丸腰でこんな連中を倒せたものだ。素直に感嘆しつつ、どう対処すべきか素早く考えを巡らせながら、取り敢えず攻撃を躱してその反動を利用して反撃することに徹する。
そんなチェレスティーノの様子を、カロリーヌは時折指示の為に笛を鳴らしながら、茫洋とした目つきで眺めている。
彼女は本当になにも考えていないし、感じてもいないのだ。
そのとき、月明かりを遮って、真上から影が差す。
大きな翼を広げた鳥のようなその陰にハッとして空を見上げると、そこへ黒い影が横切った。
「ユーベル!?」
狙ったように傀儡の内の一体を踏みつけて着地したユーベルの背中に、舞い上がった僧衣の裾が躍る。鳥の翼のように見えたのは、この裾が広がった為だったらしい。
「お前、何処から来てんだよ!」
驚いたチェレスティーノは、掴みかかって来た首の捩じれた傀儡をいなして振り返り、奇抜な登場の仕方をした男へ向けて目を丸くする。
そんな問いかけに短く頷き返しながら、ユーベルは担いで来たノエルのことを下ろす。
「大丈夫か?」
囁くような問いかけに、ノエルは小さく頷き返した。その細い腕がしっかりと猟銃を握り締める。
「大丈夫。あんたは行って」
声は弱々しさを含んで震えたが、強がりを言っているわけではない。今は不規則な鼓動を刻む心臓が痛くて本調子ではないが、もう少し経てば落ち着くのは自分でもわかっている。問題はないとはっきりと自覚していた。
わかった、と頷いたユーベルはノエルから離れ、太刀を鞘から抜き放った。
退魔の為の祈りを捧げられた太刀は、今はユーベルにとっても危険な存在だった。掌にビリビリと痺れるような感触をさせるそれを金色の瞳で一瞥し、そのまま素早く振り被って一閃する。
左上から右下へ向かって走った刃先は、立ち上がったばかりの首の捩じれた傀儡の身体を袈裟斬りに引き裂き、その場に倒れさせた。けれど、それではまだ足りなかったらしく、半身ずつがガタガタと揺れ動いて這い始める。
そこへすかさずもう一撃入れた。肩に相当する関節部分を切り離し、返す刃でもう片方の肩も切り離すと、傀儡はごとりとその場に落ちて動かなくなった。
チェレスティーノはその隙がなく容赦ない動きに驚いたが、技量ににやりと笑んだ。
その様子に顔色を変えたのはカロリーヌだ。慌てたように笛を吹く。残る二体が素早く身を躍らせた。
「胴体を割って、遺体部分を切り離せ」
拳銃を構えたチェレスティーノに向かい、ユーベルは素早く囁いた。魂を定着させる核となっているのは継ぎ接ぎされた遺体であり、胴体を割っておけば確実に再起動を止められる。
わかった、と頷き返しながら、チェレスティーノは僅かな違和感を覚えた。しかし、それがいったいなんなのかはわからない。
その間にユーベルは地面を蹴る。目を瞠るような跳躍を見せて太刀を振り被り、半身を捻って振り抜き、傀儡に一撃を与えながら、その反動を利用してもう一閃させる。傀儡は左腕と胴体を真横に切り裂かれ、その場に崩れた。
チェレスティーノも同じように引き鉄を引き、人体でいうところの心臓がある位置を砕き、その衝撃で動きを止めた隙に間合いを詰めて右脚を掴む。こいつの核はこの脚だ。
力任せに引き千切ったその脚を手放し、振り返る。
その一連の攻防を見ていたカロリーヌは呆然として、その場に震えて立ち竦んでいた。
つい少し前まで苦戦していたし、ユーベルの方もボロボロの手負いにしてやった筈だった。それなのに、何故こうもあっさりと形勢が逆転してしまったのだろうか。
「――……ール……」
震えて後退りながら、カロリーヌの唇が音を紡ぐ。
なにを言っているのかは聞こえない。どうせ命乞いだ、聞くつもりもない。
「観念しな」
チェレスティーノの銃口がカロリーヌの額を捉えながら、一応の最後通告を口にする。
「このまま大人しくするなら、殺しはしねぇ。異端審問局に引き渡すだけだ」
後退るカロリーヌは、木の根に踵を引っかけたらしく、その場でよろけて尻餅をついた。
「なんで、異端審問局なんか……私、なにもやっていませんわ!」
尻餅をついた痛みからか、逃げ場のなくなった恐怖からなのか、カロリーヌは両目を潤ませながら金切り声を上げる。おっとりと微笑みを浮かべ続けていた彼女が、初めて大きな感情の揺れを見せた。
「よく言うぜ。何人殺したんだ?」
「殺してなんていません! 私は」
「お前さん自身は、だろ。その死霊傀儡に命じてやらせたくせに」
呆れて溜め息を零しながら、引き鉄に指をかける。
「チェレスティーノ、なにかがおかしい」
同じく自分の得物を構えていたユーベルが、小さく囁く。
なにが、と視線だけを向けるが、その言わんとされていることに気づいた。
犠牲者に残されていて、直接の死因となったのは、なにか大きな動物による咬み傷だ。野犬や狼などよりも大型の歯形が、犠牲者達の命を奪った原因だった。
しかし、この死霊傀儡にはそんな歯はない。人間を模しているので顔に口らしきものはあるが、ただの平らな縁だ。人間の皮膚を噛み千切るような力はない。精々が骨を圧し折る程度の攻撃だけだろう。
では、あの歯型の主はなんなのか――そこで思い浮かぶのは、先刻倒した人狼だった。
けれど、一介の死霊術師には人狼など作り出す術はないし、手懐ける術もない筈だ。
そもそも人間と友好的になる魔物というのもあまり考えられない。人間も怪異も、お互いを憎んで嫌い合い、太古から対立し合っている。出会って殺し合いになることはあっても、仲良く協力関係を築くなんて聞いたこともない。
チェレスティーノはカロリーヌをじっと見つめる。
「お前、あの人狼とはどういう関係だ?」
その問いにカロリーヌは答えはしない。じりっと後ろに下がる。
「村人は、大型の獣に襲われたような死因だった。犯人はあの人狼か?」
更に問いを重ねると、カロリーヌは引き結んでいた唇を緩ませる。
「……そうよ。だから私は関係ないわ」
そう言って笑ったかと思うと、パッと身を翻して横へ飛び退るように転がる。ハッとして銃口を向け直すが、その動きは存外素早く、引き鉄を引くときには木の陰に転がり込んでいた。
「アルベール!」
銃弾を躱して木の陰から木の陰に移動しながら、カロリーヌは声を張り上げる。
「アルベール、助けて!」
叫びながら次の木に移ろうとして、ハッとして息を詰まらせた。
視界の端に入り込んだ黒い人影に気を取られて振り返ると、それはもう既に間近に迫っていて、振り上げられた刃が月光を鈍く弾かせている。
「アルベール!」
カロリーヌの絶叫に近い呼び声と、ユーベルの太刀が振り下ろされるのと、森中に獣の咆哮が響いたのは同時だった。
切っ先がカロリーヌの脳天に届く直前で、ユーベルはその場から飛び退く。
そこへ大きな影が飛び込んで来た。勢い余って幹に激突したそれは大きく叫び、その木を押し倒したのだった。
「あいつ……!?」
その大きな影を目にしたチェレスティーノはギョッとして身を強張らせる。蹲っていたノエルも同様に双眸を瞠った。
そこにいたのは、倒した筈の人狼だった。
確かに撃ち込んだ筈の銀製の銃弾による傷はなんともないのか、グルグルルと低く唸り声を上げ、倒れた木の上からのっそりと起き上がった。
「不死身かよ……」
弾を詰め直しながらチェレスティーノがぼやく。
彼が放った弾丸は、確かにあの人狼に当たっていた。撃ち込んだ部分に窪みのようなものが見えるが、流血は見当たらない。あの分厚い筋肉が壁となって防いだのか。
思い返してみれば、倒したときに致命傷に至るほどの流血は見当たらなかった。皮膚を引き裂いて肉を抉る前に止められていたのだ。
もっとよく確認しておけばよかったか、と一瞬の後悔が思考の端を掠めるが、今となってはどうにも出来ないただの失態だ。苦々しげに奥歯を噛み締めた。
「アルベール」
カロリーヌはホッとしたような声で囁き、人狼の腕に触れる。
「無事だったのね、アルベール。よかった」
嬉しそうに微笑みかけると、人狼は喉を鳴らしながら微かに頷くように首を振った。
名前をつけているのか、人狼から真名を教えてもらったのか、そのどちらかはわからないが、カロリーヌは確かにこの人狼の名前を知っていた。そして親しげでもある。
「村長の長男だな」
姿勢を立て直してユーベルが呟く。チェレスティーノは顔を顰めた。
一年程前、事件が起こり始めた頃に親と喧嘩して家を飛び出した村長の長男は、そのまま行方が知れなくなっていた。それが、この人狼だというのだろうか。
「村長は人間だろ」
チェレスティーノは眉間に深く皺をよせて呟いた。ああ、とユーベルも頷く。
「だったらなんで息子は人狼なんだよ」
そう言ってしまってから、不意にノエルの言葉を思い出した。真実を見通す瞳を持つ彼女は、この人狼を「普通の男の人だ」と言っていた。
「そういうことだ」
なにかに気づいたらしいチェレスティーノに向け、得物を構え直したユーベルが頷く。
馬鹿な、という呻き声しか出てこない。そんなことがあって堪るか。
それでも、どうやらそれが真実なのだ。
彼は行方不明になっていた村長の息子で、何故か人狼へと姿を変えているのだ。
そうして、嘗て共に暮らしていたリリベル村の住人達を襲い、実の弟さえもその爪牙にかけて殺害した。
何故、とやり切れない思いが込み上げてくる。
幼い頃から共に暮らしていた同郷の者達なら、家族も同然だろう。こういう周囲と少し離れたような位置にある小さな村なら、村人同士全体が家族のように結びつきは尚更に強い筈だ。
そんな関係にある人々を、どうして何人も殺すことが出来るのだろうか。
「アルベール」
人狼の腕に身を預けるカロリーヌは、甘い声を零す。
「この男達を殺して。私に酷いことをするの」
艶やかな薔薇色の唇が、ねだるようにそんな言葉を口にする。その甘えるような声音を聞き、ああ、そういうことか、とチェレスティーノは思った。
人狼は――アルベールは、このシスター・カロリーヌに惚れていたのだ。どんなに恐ろしく残忍な望みでも叶えてやろうと、その手を染めてしまうほどに。
彼女があの甘えた声音で、自分を凌辱した男達を殺してくれ、と懇願したか、森に誘い出したところを襲わせたのかは知らない。だから被害者は、働き盛りともいえる年齢の男達ばかりだったのだ。
彼はあまりにも愚かだ。けれど、そうしてしまうくらいに、彼はカロリーヌに支配されてしまっていたのだろう。
「……愚昧な」
そのチェレスティーノの心中に同意するように、ユーベルは吐き捨てる。静かに太刀の切っ先を人狼へ向けるその目つきは、いつもの彼らしくなく、酷く冷徹で剣呑な光を湛えていた。
人狼はグルグルと喉を鳴らしながら、カロリーヌの言葉に頷く。
そうして、離れているようにとでも言うように、優しい仕種でそっとその腕を外し、視線をユーベル達へと向けた。
「でもね」
今にも飛びかからんと全身の筋肉に力が走る瞬間に、カロリーヌはニッと唇を歪め、対峙する祓魔師達の後方へ指を向けた。
「先にあの子を殺して。私達の仲を引き裂こうとする悪い子なのよ」
あの少女が彼等にとって重要な存在であることは、なんとなく察しがついた。こんなところにまで連れて来るのだから、手放したくはない存在に決まっている。
だから、殺してしまえばいい。
庇う為に僅かにでも焦りを生めば、それが隙になる。その一瞬さえあれば、アルベールの爪牙の方が速い。
はっきりとした悪意に満ちたその言葉尻が夜陰に解けきる前に、アルベールは大地を蹴っていた。
「しまっ――…!」
チェレスティーノが身を翻すよりも早く、人狼の大きな身体は暴風のようにその場をすり抜けて行く。
ユーベルも地面を蹴るが、間に合うかどうかはわからない。
蹲っていたノエルは異変を感じて顔を上げ、流れるように自然な動きで抱き締めていた猟銃を構える。
こちらに向かって襲いかかって来るのは、やはり普通の男の人にしか見えない。気の弱そうな顔をして泣いていたあの表情は、今は歯茎が見えるくらいに食い縛った歯を剥き、血走った目をノエルに向けている。
散々練習した動きが――手首を軽く捻って銃身を回し、装填させる動きが、一瞬のうちに整っていた。
その銃口がはっきりと男の心臓へ照準されるのと、恐ろしい爪がノエルの鼻先に触れる距離に迫ったのはほぼ同時だった。
「――…おやすみなさい」
囁きながら引き鉄を引くと、眩いばかりの力が一筋の閃光となって駆け、人狼の大きな身体をまっすぐに貫いた。
ノエルを頭の上から引き裂こうと構えられていた鋭い爪を備えた腕も、その閃光の衝撃に仰け反り、巨体は遥か後方へと吹き飛ばされる。
その先に待ち構えていたのはユーベルだった。
彼の構えた退魔の太刀が、一瞬の躊躇いさえも生まずに背後から心臓を刺し貫く。
アルベールから断末魔の咆哮はなかった。ただ一度大きく身体を跳ねさせ、全身に力を入れて強張らせたかと思うと、そのままゆっくりと両腕を落とし、静かに絶命した。
ユーベルの上にずるりと圧し掛かって来たアルベールは、先程まで見えていた人狼の巨体ではなく、鎖骨や肋骨が浮くほどに痩せ細った青年の姿になっていた。これが本当のアルベールの姿なのだろう。
今までにどういうことをしていたのかは知らないが、その痩せ細った身体は傷だらけで、骨も何度か折れていたのか、彼方此方が明らかに歪んでいる。こんな状態では、身体中がずっと痛かった筈だ。
太刀を抜いて地面に横たわらせると、その死に顔は微笑んでいるようにも見える。
彼もまた、カロリーヌという死霊術師に悪戯に魂を縛られていて、今ようやく解放されたのだろうか。
頼みの綱だったらしいアルベールが倒されたことにカロリーヌは呆然とし、その場に力なくへたり込んでいた。
その腕をチェレスティーノが掴み、自分のベルトを解いて拘束しておく。カロリーヌは抵抗することもなく、その拘束を受け入れた。
「リリベル村教会管理者、シスター・カロリーヌ。二十二件に及ぶ一連の殺人事件の首謀者として、貴様を拘束する。貴様の身柄は今後異端審問局に移され、尋問を受けることになる」
怪異の主原因が人間だった場合、伝えるべき口上を淡々と述べる。カロリーヌは一瞬だけ視線を上げてチェレスティーノの様子を伺ったが、先程までのように自分のしでかしたことを否定するでもなく、特になにも言わなかった。
暗かった森の中に、東から青白い光が満ちてくる。夜が明けてきたのだ。
ユーベルは太刀をきっちりと鞘に戻しながら、ノエルの許へと駆け寄る。
「ノエル」
倒れ込んでいた細い身体を抱え起こし、その顔を覗き込む。
「……大丈夫。少し、疲れただけだから」
胸の息苦しさももう治まっている。ただ全身に重たいくらいの倦怠感があって、起きているのが億劫なだけだ。
「眠っていい」
ユーベルは金色の双眸をやわらかく細めて囁き、大切な主人を抱き上げる。
「次に目覚めるときは、フローリン村だ。寝台の横で、マリーがお前を優しく見守ってくれている筈だろう」
「うん……」
頷いて小さく微笑む。
その力ない指先がゆっくりと持ち上がり、頬に触れてくる。ユーベルは静かに視線を落とした。
「ありがとう、べリアル。私の天使――」
囁くように言うと、ノエルは静かに瞼を落とした。
ユーベルは泣くのを堪えるかのような表情になったあと、閉じられてしまった瞼の上に唇を寄せた。躊躇うようにそっと触れて、ゆっくりと離す。
「俺はもう御使いなんかじゃない」
囁く声が微かに震え、昇ってきた朝陽の中に解けていく。
ずっと捜していた嘗ての恋人。敵対していた男に奪われ、それっきり消息がわからなくなっていた。その魂の行方さえも。
だから、今度は命を賭してでも守りたい。その傍らに留まって、成長を見守り続けていきたい。
「俺はお前だけのものだ、ノエル。永遠に」
死が別つことなく、お前の傍に寄り添おう――今度こそ、悠久のときを共に。