プロローグ
その数日のことは、断片的にだけれども、ひとつひとつはよく覚えている。
何故自分だけが旅行に連れて行ってもらえるのだろうとか、いろいろと疑問に感じるところはあったのだが、縫ってくれたばかりの紺色のよそ行きの服を着て、親代わりの一人であるマリーに手を引かれて孤児院から出たところで、もうなにもかもがどうでもよくなっていた。時折買い物に出かける隣の街よりもうんと遠くへ初めて向かったのだから、興奮してしまったのだ。
大きな街で街道馬車から鉄道に乗り換え、汽車というものにも生まれて初めて乗った。車窓を流れる景色はびっくりするくらい速くて目が回り、あっという間にノエルの生まれ育った村とはまったく別の、都会的な街並みが映るようになっていった。そうかと思えば、景色は一変して田園風景になり、大きな森を見下ろしながら峠を進んだりもした。
そんな目まぐるしく変わる風景に驚いているノエルに、マリーは穏やかな笑みを向けていた。
「何処に行くの、マリー?」
日帰りは出来ない場所まで出かけることは聞いていたが、目的地自体の名前は聞いていなかった。ノエルはビスケットを齧りながら尋ねる。
マリーはちょっと気不味げな笑みを浮かべながら、ノエルの頬についたビスケットの欠片を取ってやる。
「ロスティバル共和国よ」
隣国の名前だ。驚いて目を丸くする。
「そんなに遠くに?」
「あら。そんなに驚くほど遠いわけではないのよ。この巡礼列車に乗っていれば、明日の日暮れ前には着くから」
一昨年の終わりに運用され始めたばかりの巡礼鉄道は、大陸の各地に散らばる大天使の名を冠した大聖堂と、聖教会の礎を築いた十二使徒に所縁ある聖地を結ぶ計画だ。教会発行の巡礼手形を所持していれば、格安で真新しい寝台列車を利用出来る。面倒な乗り換えの手間もなく、国境での検問も基本的には免除されるという。
計画が提案された当初、己の足で歩いて巡るからこその巡礼である、と眉をひそめる者も当然いたらしい。特に教会の上層部には反対する声が多くあったようだが、一般市民にしてみれば、何ヶ月も何年もかけて各地を巡るより安易に安全に聖地に詣でられるようになるので、願ったり叶ったりの計画だった。
一番初めに開通したのは、ロスティバル共和国にある聖都からノエルの住むフランデル王国への路線だ。聖都からの距離が一番近かった為、完工されたのが最も早かった。
始発列車に乗車し、フランデル王国の聖地である『大天使を祀りし護国の湖上聖堂』へと降り立った教皇は、安全且つ快適な道行きであったことを喜び、この巡礼列車を大絶賛した。危険を冒す巡礼は確かに尊いものではあるけれど、信徒の健やかさがなにより望まれることだ、と笑みを零し、全線の開通を早急に行うように指示を出したのだった。
計画上はまだ全体の二割ほどが未完成という話だが、既に運用は開始されている。
今までは旅費や日程の都合で躊躇っていた聖地へ、誰もが安全に、そして気軽に気兼ねなく向かうことが出来るようになったのだ。この一年と少し程の間で列車の運行に反対する者は身を潜めていったのは当然の結果だったのだろう。
列車の旅は快適であると同時に暇でもあったので、マリーはその巡礼列車の成り立ちを教えてくれた。まだ六つにしかならないノエルには少し難しい話ではあったが、なるほど、と興味深く頷いて聞いていたのだが、やはり半分くらいはよくわからなかった。
そのことは当然マリーもわかっているようだったが、ノエルの頭を撫でながら、
「教会の中でとても熱心な人達が頑張ったから、多くの人々の信仰に役立つよいものが出来たのですよ」
と複雑そうな表情で告げた。
その表情がなんだか少し気にかかったが、今度の言葉はわかりやすかったので、ノエルははっきりと頷いて笑った。
「とても素敵なことね!」
そう答えると、マリーは明らかに困惑の表情を浮かべたが、ややして「そうね」と頷き返した。
車内に在る食堂は少し割高になるのだが、マリーが「ちょっとだけ贅沢しましょう」と言うので、そこで夕飯を頂くことになった。
列車の中で移動する夜景を眺めながら食事をするというのも不思議な感覚で、ノエルは緊張しながらスープを啜った。それはいつも食べている孤児院の食事よりもとても美味しくて、驚いて、でもその態度をマリーに見せるのは、いつも温かい食事を用意してくれている彼女に悪いような気がして、黙って食事を進めた。
「パン、ふわふわね」
ノエルの気遣いに気づいたのか、マリーはそう言って微笑む。
「粉が違うのかしら?」
「お砂糖をいっぱい使っているのかも。とっても甘いもの」
咀嚼しながら検分するように呟かれたマリーの言葉に、ノエルは大きく同意した。いつもマリーが焼いてくれるパンや、村のパン屋さんが作ってくれるものとはまったく違う。口の中で溶けてしまうようにふわふわで甘みが強い。
「砂糖ではなく、|牛酪《バター」をたっぷり使用しております」
二人の会話が聞こえていたらしく、通りがかった給仕係の男性が笑顔で答えてくれた。
「恐らく、お客様の普段お口にされているパンの、倍くらいは使用していると思いますよ」
その親切な捕捉にノエルは目を丸くした。
「そんなに!? 高いのに!」
思わず声に出してしまうと、頬を染めたマリーに「これっ」と窘められる。ノエルはハッとして俯き、恥ずかしげに給仕の男性を見上げた。
「あの、ごめんなさい。とても美味しかったの」
男性はにっこりと微笑んだ。
「味にご満足頂けたなら幸いにございます。料理人にも伝えておきましょう」
「本当に、本当に美味しかったの。スープも。美味しいお料理をありがとうって伝えてください」
「はい。こちらこそありがとうございます」
そう言って立ち去った彼は、しばらくして食事を終えて退席するノエルの許へやって来て、こっそりと包みを渡してきた。
「料理長がお夜食にどうぞ、と。冷めても美味しいパンですから」
先程のパンを持って来てくれたらしい。
ノエルは驚いてまごつくが、マリーに受け取るように言われ、礼を言って受け取った。男性は優しげに目を細めて「よい旅を」と告げ、職務に戻って行った。
「巡礼列車ってすごいね、マリー」
自分達の個室に戻り、相部屋の人がまだ戻っていないことを確認してから、ノエルは包みを抱き締めて笑った。
「ご飯は美味しいし、人も親切。あっという間に隣の国にも行けちゃうの!」
そうね、とマリーも頷いた。
運行が開始されてまだ二年にも満たない短期間で、驚くほどの利用率だと聞いてはいたが、マリーも乗車するのは初めてだ。多少なりとも不安がなかったとは言えない。
実際に乗ってみて、これは人気が出るのも頷けると思った。寝台付きの客車は清潔で、教育の行き届いた乗務員達も親切で、まるで高級な旅籠に泊まっているかのようだ。
たかが寝台列車の為になにを贅沢な、と思う人間はいるかも知れないが、礼節を弁えた者に接せられれば、こちらも思わず居住まいを正す。そうしてお互いに礼儀と秩序を持って車内で過ごすから、誰も彼もが居心地がよくなる。
この巡礼列車計画を提案した人物を、マリーはよく知っていた。
家族を棄ててまで心血を注いだこの計画が、彼女の望みを叶える為の僅かな足がかりだということもよく知っている。
それ故に、なんとも言えない悲しさが込み上げてきていた。
パンを抱き締めたまま眠ってしまったノエルの腕からそっとその包みを外し、代わりに毛布を掛けてやる。朝早くに孤児院を出発したし、一日興奮のしどおしで、疲れていたのだろう。幸せそうな寝顔だ。
その顔を見つめながら、手提げの中から封書を取り出す。
数日前、この列車の切符と旅費が入って届けられたものだ。手紙と呼べるようなものは特になく、簡素に『この列車に乗って聖都に来てください』とあるだけだった。
「なにを考えているの……」
封書を見つめながらぽつりと零し、マリーは表情を暗くした。
六年――いや、もう七年に近い。
その前も数年音沙汰なくいて、突然帰って来たかと思うと、驚愕するような大きな問題を押しつけて風のように去って行き、そうして再びこれだ。
今度はいったいなんだというのだろう。自分から連絡を絶ったのだから、もう関わってくれるな、という意味だと思っていたからこそ、マリーは黙っていたというのに。
翌日の夕刻、エテルノ聖教会の総本部の在る聖都サングィスに降り立ったノエルはまた目を丸くした。
土地面積はノエルの住む村が五つか六つ合わさった程だと聞いたことはあるが、そこへいくつもの壮麗な寺院や司法役所、官邸、そして権威ある大学と神学校が建ち並び、なんともすごい圧力を感じた。
村にいれば、高い建物といえば三階建ての領主様のお屋敷が精々だったのに対し、聖都に在る建物は低いものでその高さで、ほとんどはそれよりもうんと高い。寺院などは天井がとても高く設計されているので、その所為で建物の背がみんな高いのだろう。
そしてなによりも、天を突くように聳える鐘楼が多くて、上から抑えつけられるような感じがすごい。
うわぁ、と声にならない声を零しながらノエルが呆然とあちこちの建物の天辺を眺めていると、そのすべての鐘が一斉に鳴り響き出す。定刻を告げる鐘だ。
あまりにも大きな音に、ノエルは「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げて身を竦め、休んでいた白鳩達も夕暮れの空に一斉に飛び立つ。
「ノエル」
確認することがあるから、と駅員事務所に行っていたマリーが戻り、声をかける。鐘楼の音がうるさすぎて一瞬気づくのに遅れたが、ノエルは興奮気味に振り返り、マリーに駆け寄った。
「すごい鐘の音ね!」
音に負けじと大きな声で話すノエルに、そうね、とマリーは頷き、その手を取った。
「行きましょう」
その言葉に頷き、手を握り返して歩き出す。
しばらく歩いて行くと、一軒の大きなお屋敷の前で立ち止まった。
ここにご用かしら、とマリーの横顔を見上げるが、彼女の表情は何処か怒っているような、とても硬いものだったことにノエルは首を傾げる。
「マドレーヌ・ミラノ様ですね」
呼び鈴を押す前に、中から女中らしき女が出て来て尋ねた。マリーは頷きながら、ノエルの手を握る指先に力を入れる。
二人を招き入れた女中は言葉少なに案内し、屋敷の奥へと向かった。
しかし女中は、応接間らしき部屋を通り過ぎてしまう。よそのお屋敷のことなどよくは知らないノエルだけれど、お客様は応接間に通し、お茶を出してもてなすのが普通なのではないだろうか。ノエルの暮らす孤児院では場所がないから談話室に通して、子供達は傍で騒がないように言いつけられる。
変なの、と思っていると、女中は突き当たりの壁の前に立って待つように告げ、そこでなにか手を動かすと、壁だったところがくるりと開いて新しい通路が現れた。なんということだ、とノエルは目を丸くする。
壁の中の通路は石造りの階段になっていて、地下へと下りるようだった。
「少し滑るかも知れません。足許にお気をつけを」
言われたとおりに足許に注意しながら階段を降りて行くと、ひんやりとした空気と共に、なにか不思議な臭いが漂って来た。
黴臭いのとは違う。どちらかというと錆びた鉄の匂いに、お菓子を焼いているときのような甘い匂いが混じっている。なんだか気分が悪くなる匂いだ。
けれど、よそのお家で「臭い」などと言うのは失礼に決まっているので、ノエルはひっそりと鼻の頭に皺を寄せ、口と鼻を手で覆った。
階段を下りきると小さな部屋になっていた。そこには薄っすらと煙が漂い、視界が靄がかって見える。先程から感じていた匂いも一際強い。
部屋の真ん中には床の上に蝋燭が並べられていて、その前に誰かが立っていた。
「待っていたわ」
頭から足許まですっぽりと黒い布に覆われたその人は、マリーとよく似た声で言った。だから女の人だとわかった。
大好きなマリーと同じ声だというのに、ノエルはその人からなにか恐ろしいものを感じて、繋がっているマリーの手を思わず強く握り締める。その掌が汗ばんでいたのだが、それはノエルのものだったのか、マリーのものだったのか。
足音もなく女の人が移動して、するりとノエルの前に立つ。全身を覆う黒い布は、目のあたりまでも隠しているし、部屋も薄暗いので、女の人の白く尖った顎先と紅い唇だけが見えていた。
「こちらにいらっしゃい」
そう端的に告げて、女の人はノエルの腕を掴んだ。
「なにをする気なの」
怯えて震えたノエルを庇うように、マリーが硬い声を上げる。女の人の紅い唇がきゅっと歪んだ。
「邪魔をしないで、姉さん」
「質問に答えなさい、ロリータ」
「姉さんには関係ないわ」
女の人はぴしゃりと言い放ち、ノエルの腕を強く引き寄せた。
「この子は、この為に生んだのだから」
そう言って口許を歪め、女の人はノエルを引きずって行った。
マリーが止めようと駆け出すが、案内をしてくれた女中がそれを押し留める。
「離してちょうだい! ノエル! ノエルをどうするつもりなの!?」
女の人はマリーの声には一切答えず、怯えるノエルを蝋燭が並んでいる真ん中に突き飛ばした。小さなノエルはころりと転がる。
「さあ、ノエル」
尻餅をついたお尻が痛いし、変な臭いは吐き気がするほどだし、この女の人はなんだかよくわからないが恐いし――ノエルはぽとぽとと泣き出してしまう。
「あぁ、泣かないで。恐いことはないのよ」
女の人は、優しいけれどなんだか恐ろしい声で言って微笑み、いつの間にか手に持った短剣を振り翳した。