討伐依頼
衣千伽が召喚されて三日が経つ。二人は日暮れ前に宿場町へと到着し、今日は宿に泊まる事となった。
そして、宿場町と名乗るだけあり、この街には三つの宿が存在する。一つ目は高級宿。二つ目は平均的な宿。三つめは安宿である。アン・ズーは迷わず、真ん中の平均的な宿へ向かい手続きを始めた。
彼女が言うには、高級宿は上流階級向けでぼったくり価格。安宿は大部屋での雑魚寝であり、今の二人には都合が悪い。手ごろな値段で個室が借りられる、平均的な宿を選ぶべきと説明してくれた。
いずれにしろ、久々のベッドに衣千伽の頬は自然と緩む。これまで倉庫での仮眠か、毛布に包まれての野宿しかなかったのだ。都会っ子の衣千伽にとって、部屋での睡眠は安心感が段違いだった。
とはいえ、衣千伽はその考えを即座に頭から追い出す。心を読めるアン・ズーに知られれば、不快な思いをさせるかもと思ったからだ。
なにせ、野宿の間はアン・ズーが夜通し火の番をしていた。悪魔は睡眠が不要と、衣千伽が眠る間も働き続けていたのだ。それを理解する衣千伽であるため、自分の立場は十分に弁えていた。
「さて、宿の手配は済みました。それではまず、酒場へ参りましょうか」
「――っ……」
返事をしようとして、衣千伽は慌てて口を閉ざす。代わりに小さく頷きを返した。
今の衣千伽は、呪いで話せない設定となっている。人の居る場での発言は禁止されていた。
実際、アン・ズーの口からは異国の言葉が紡がれている。衣千伽がそれを理解出来るのは、アン・ズーが翻訳した言葉を、彼の頭に届けているからにすぎない。
設定を覚えていた衣千伽に、アン・ズーは満足気に頷く。そして、部屋に荷物を放り込むと、扉に鍵を掛けて二人は酒場へと向かう。
宿に隣接する酒場は、程々に先客が入っているようだった。空いているテーブルに腰掛けると、アン・ズーがウェイトレスを呼び、衣千伽に代わって注文を伝える。
(いや、本当にアン・ズーが居て良かった。注文の仕方も、メニューの見方もわからないからな。例え話せたとしても、やっぱりアン・ズー頼りだった気がする……)
『ふふふ、この程度はお安い御用です。ご主人様は、ご主事様らしく、どっしりと構えていて下さい』
衣千伽の心の声に、アン・ズーが思念魔法で返事をする。人の居る場では、基本的にこのやり方で会話する約束となっていた。
そして、もう一つのロールプレイとして、アン・ズーは衣千伽の召使という設定である。対外的には、衣千伽とアン・ズーは、主人と従者の関係とする決まりだった。
契約による物とは言え、これは二人の関係に大きな差が無い。むしろ、衣千伽だけでなく、アン・ズーにとっても対処が楽な立ち位置でもあった。
「おまちどうさま~。何かありましたら、またお声かけ下さいね~!」
パンとスープに、肉や野菜の炒め物。衣千伽の前には果実水が置かれ、アン・ズーの前には泡の溢れるエールが置かれる。
アン・ズーは悪魔であり、基本的には食事が不要だ。とはいえ、何も食べないのは外聞が悪い為、衣千伽と共に食事を取る事にしている。
それにアン・ズーも味はわかり、酒を好むと聞かされていた。衣千伽としても、一人で食べるより、二人で食べる方が食事を楽しむ事が出来た。
「ふふふ、酒場は情報が集まりやすくて良いですね」
アン・ズーはエールに口を付け、微笑みながら衣千伽を見つめる。衣千伽はその視線にドキリとし、視線を避けるように自らの視線を料理に落とす。
アン・ズーは美女の姿をしている。それも、衣千伽にとって理想と思える姿である。東南アジア系の顔立ちであり、そこが理想かは疑問に思ったが、見惚れる程の美女である事に違いは無かった。
ソワソワしながら食事に手を付ける衣千伽に、アン・ズーは楽しそうな声で語り掛ける。
「この先の街道に魔猿が出没している様ですね。行商の邪魔になっていると、商人達が愚痴っております」
話の内容に興味を引かれ、衣千伽は視線をアン・ズーへと戻す。そして、衣千伽の反応を見て、アン・ズーは微笑みを浮かべた。
どうやらアン・ズーは、魔法を使って聞き耳を立てていたらしい。周囲には他の客として、行商人らしき者達が多数いた。そして、彼等は他の行商人と酒を飲み交わし、情報交換を行っていたのだ。
アン・ズーはただ食事を楽しむだけでなく、情報収集も同時に行っている。衣千伽はその事実に驚くと同時に、アン・ズーの有能さを改めて理解したのだった。
『ふむ、魔猿ですか……。ご主人様の実戦には、丁度良い相手かもしれませんね……』
(魔猿って魔物なんだよね? オレでも倒せる、弱い魔物ってことかな?)
雑魚モンスターとの初実践。そう考えて、衣千伽は気軽に問い掛ける。
しかし、アン・ズーは意味ありげに微笑むだけ。衣千伽の問いには答えず、手を挙げてウェイトレスを呼び寄せる。
そして、いくつかのやり取りをすると、ウェイトレスは店の奥へと下がる。それを見届けたアン・ズーは、衣千伽に対して説明を行う。
「やはり、町長から討伐依頼が出ておりました。町長には店主が話を付けてくれるので、我々は実践訓練のついでに路銀も稼ぐと致しましょう」
(いや、さっきの質問の答えって……)
嫌な予感がして、衣千伽はなおも食い下がる。しかし、アン・ズーはそれに構わず、衣千伽へと別の説明を続ける。
「この世界では、魔物の討伐は傭兵が行っております。国や領主の正規兵は、魔王軍との戦いで手が回りませんからね。必要な時だけ雇える、流れの傭兵が重宝されている訳です」
(いや、どうして質問に答えてくれないのかな?)
完全に意図して無視されている。流石の衣千伽にもそれは理解出来た。
そして、問題はその理由である。アン・ズーの面白がる視線に、衣千伽の嫌な予感は益々大きくなる。
「なお、魔猿の規模は二十匹程との事です。報酬は――ご主人様の国なら、ボスの魔猿が十万円。取り巻きの魔猿が一匹五千円の換算になります」
(え、マジで? 全部倒すと約二十万円?)
元々が高校生である衣千伽には、二十万円は大金に思えた。一日で二十万円を稼げるなんて、かなり美味しい依頼ではないかと考える。
しかし、衣千伽は金額の大きさに驚き、頭がまともに回っていなかった。その金額が一人分の稼ぎでは無いということ。そして、失敗した時には命を落とす可能性があるということにだ。
アン・ズーはその事に当然気付いている。しかし、微笑みを浮かべたまま、衣千伽へ気楽にこう告げた。
「実力者からすれば良い小遣い稼ぎという感覚。腕に自信が無い者には、割に合わない金額といった所でしょうね。まあ、ワタクシがサポートすれば、ご主人様でも問題無いでしょう」
(なるほど。確かにアン・ズーが居れば安全だよね!)
アン・ズーの説明に安堵する衣千伽。その様子を見て、笑みを深めるアン・ズー。
衣千伽はまだ気付いていなかった。アン・ズーは全てを話していない。衣千伽にとって、都合の良い部分しか語っていないと言うことに。
そして、その事を表情を一切出さず、アン・ズーは最低限の注意だけを告げる。
「ああ、それと念の為の注意です。森の主――熊が出た時はご注意下さい。アレを倒すのは面倒ですので、気配を感じたらすぐ逃げて下さい」
(あ~、熊が出る事もあるのか。確かにそれは危なそうだね)
衣千伽は腰のシミターに視線を落とす。剣の稽古は小まめに行い、少しは様になって来た自信もあった。
しかし、猿と違って熊と戦う自信はない。魔猿という雑魚とは違うのだからと、衣千伽は内心で納得する。
そして、二人は食事をしながら、他愛ない話を続ける。食事を追えると、翌日に備えて早めに就寝する事となった。