異世界情勢
衣千伽は薬による手当てを終えた後、そのまま倉庫で眠りに着いた。短時間に起きた様々なイベントにより、彼の精神も疲弊していたのだ。
そして、朝日が顔を出し始めた頃、衣千伽はアン・ズーに起こされる。人気が少なく、警備の手薄なこの時間に、二人は街を抜け出す必要があるからだ。
それと言うのも、この街は領主の住まう大都市であり、街は大きな城壁に囲まれている。魔物が存在するこの世界では、大都市なら城壁は当然の様に備わっていた。
また、城壁が備わっている以上、警備の兵士も常駐している。兵士は入場者の身元確認を行い、身分が不確かな者は取り調べを行う。今の衣千伽には、それを避ける必要がった。
眠い眼を擦りつつも、衣千伽は黙ってアン・ズーの指示に従う。この世界の常識を知らぬ彼には、彼女の指示に従う以外の道は無い。その程度の判断は、半分眠った頭でも出来た。
そして、アン・ズーの幻術は非常に優秀であった。不可視の術を掛けた二人は、見張りの兵士達を素通りし、あっさりとその横をすり抜けて行く。
「はぁ~。本当に見えてないの?」
「しっ……。声を出すとばれますよ」
幸いな事に、その声が兵士に気付かれる事は無かった。とはいえ、衣千伽は口を手で押さえ、冷や汗を流しながらアン・ズーの後を追う。二人は無事に城壁を通り抜け、街からの脱出に成功するのだった。
そして、街から十分に距離が空き、人気が無いのを確認すると、アン・ズーは幻術を解いて衣千伽に微笑む。
「ふふふ、お疲れ様でした。少し先に休める場所があります。そこまでのんびり歩くとしましょう」
「了解。それにしても、魔法ってやっぱ凄いんだね」
衣千伽の感嘆にアン・ズーは微笑みを返す。彼女は特に誇るでもなく、微笑ましいものを見る目で彼を見つめるだけだった。
その瞳にくすぐったさを感じ、衣千伽は思わず視線を逸らす。そして、美女に見つめられたドキドキと、子供扱いを感じてのモヤモヤを衣千伽は同時に感じていた。その自分の感情を、彼自身もどう捉えて良いかわからずにいた。
「そ、そういえばさ。この格好って似合ってるの? オレにはちょっと大きすぎない?」
「そんな事は御座いませんよ。ご主人様にはとてもお似合いだと思います」
アン・ズーの微笑みに、衣千伽は眉を寄せる。その表情を見る限り、彼を馬鹿にしている様子はない。しかし、彼女の言葉が本心なのか、彼にはその真意が掴めなかったのだ。
その為、衣千伽は改めて自らの恰好に目を向ける。下半身は白くブカブカなズボンに、腰に巻いた赤い帯。上半身はグレーのシャツの上に、赤いチョッキを重ねた姿だ。
着替えを見た時には、シンドバットを彷彿とされる姿で、衣千伽も目を輝かせた。しかし、一夜明けて見つめ直すと、それはアラブの商人にしか見えなかった。鏡を見た訳では無いが、衣千伽は自分の顔を思い出して、シンドバットは無いなと嘆息する。
アン・ズーはそんな衣千伽の態度に思案する。そして、彼が納得出来る様にと説明を行った。
「その恰好は、今のご主人様に最も相応しい姿です。それと言うのも、我々の容姿は、この地域では目立ちます。その為、南の国からやって来た傭兵、と言う設定が必要となるのです」
「南の国から? ……って、そもそも、ここって何処なんですかね?」
屋敷で出会った騎士に従者らしき者達。城壁を守る兵士達は、いずれも金髪碧眼だった。その為、衣千伽はここがヨーロッパでは無いかと推測していた。
アメリカ等も考えたが、アメリカに騎士はいないはず。古い時代ならインディアン。白人が海を渡った後はカウボーイの時代となる。そう考えれば、おのずと候補は絞られた。
そして、衣千伽の予想は正しかったらしく、アン・ズーは満足気な表情で頷きを見せた。
「ご主人様の世界で言えば、ここはイギリスとなります。しかし、この世界では島の名前がアルビオン。支配する国はイングランド王国となりますが」
「なるほど、イギリスか……」
衣千伽は胸内で考える。中世ヨーロッパのイギリス。そう考えると、アジア人は珍しいのだろう。この格好は、その為の偽装という事らしい。
そして同時に別の疑問も思い浮かぶ。ヨーロッパは時代によっては植民地を持つはず。この世界では、白人や黒人はどういう立ち位置にあるのだろうかと。
「ヨーロッパの国々は、植民地を所持していません。特にイギリス、ドイツ、スウェーデン等は、魔王領と隣接しています。魔王軍の相手で、他国へ侵略する余裕などありませんからね」
「魔王領? それって、どこにあるんです?」
今更ではあるが、衣千伽は自分が勇者として召喚された事を思い出す。アン・ズーとの契約で、魔王を倒す予定であることもだ。
そして、魔王が居る以上はその領地だってあるのだろう。衣千伽にはどこの国で、どの様な支配を行っているかは、想像も出来なかったが。
「ご主人様の世界では、ロシアという国です。こちらでは魔王軍に占領されるまでは、モスクワ大公国という名前でした」
「え、ロシア? それって大国じゃないの? メチャクチャ影響デカく無いです?」
衣千伽は中世のロシアに詳しい訳ではない。しかし、現代社会のロシアは大国である。世界大戦では、アメリカのライバルという位置づけだったはずだ。
そんな国が魔王軍に占領されたと言う。ならば、魔王軍および魔王の力は、人類にとってかなりの脅威に思えた。
内心で不安を覚えた衣千伽は、それと同時に自らの故郷を思い出す。北方領土等の隣接地域があり、日本もかなり危険な状態ではないのかと。
「日本は大和国という名ですが、海を挟む為か戦闘は無いそうです。代わり中国――こちらでは、秦という国。それにモンゴルは隣接国として、厳しい戦況にあるようですね」
「秦に、モンゴルか……」
衣千伽の知識では、秦は三国志の後の時代。中国を統一した国家という認識しかない。
それと、秦の始皇帝が万里の長城を築いた。遊牧民族であるモンゴルに対し、睨みを効かせる目的だったと、雑学程度に知る程度である。
だが、衣千伽の意識はそれよりも大和国に向く。恐らくは古い時代に、そんな名前が出て来たはず。その時代の有名人で言えば、聖徳太子が居た気がするが、衣千伽にはそれが正しいのかも自信が無かった。
「あまり自国の歴史で考え過ぎない方が宜しいかと。この世界では、歴史や文化も異なる部分が多そうですので」
「なるほど。了解です!」
魔法があり、魔物が存在する世界である。衣千伽の世界と同じ歴史を歩むとは考え辛い。そう納得する衣千伽に対し、アン・ズーはニコリと笑みを見せる。
「――さて、話を戻しますが、この国では我々の容姿が目立つという話です。その為、出身地を偽り、名も変える必要が御座います」
「出身地と名前?」
そう言えばそんな話だったなと、衣千伽は思い出す。この地はイギリスで、アジア系の民族は珍しいと言う話である。
そんな衣千伽に対し、アン・ズーは片目を瞑り、困った表情を見せた。
「はい、ご主人様の名前は、この国、この時代に相応しくありません。秦でも大和国でも、同様の名は見つからないでしょうから」
「な、なるほど……」
古くから続く名で言えば、藤原や平等が有名だ。しかし、夜神の名がこの時代にあるかは不明であった。
衣千伽という名も同様である。当て字に近い名で、古い時代に存在したとは考えにくい。
「そして、東洋から西洋への移動も、あまり例がありません。魔物が闊歩するこの世界で、それ程の長旅は通常行われません。命がいくつあっても足りないですからね」
「……魔物が闊歩してるの?」
衣千伽も魔物が居るという話は聞いていた。しかし、イギリスや日本の話をしていた際に、おもむろに魔物の話が出て来たのだ。その違和感に、衣千伽は困惑してしまう。
それを見たアン・ズーは、顎に手を当て思案顔を浮かべる。そして、衣千伽に対して、誤解を解こうと補足を行う。
「この世界の魔物は、魔法により魔化した動物です。サルが魔化すれば魔猿。狼が魔化すれば魔狼となります。――その為、ご主人様の馴染みあるゴブリンやオークと言った存在は、この世界には存在しません」
「そうなんだ……」
この世界は衣千伽の世界と平行世界。その為なのか、衣千伽の知るファンタジー世界とは、常識がかなり違っているみたいだった。
衣千伽は自ら知るマンガやゲームの知識が、どこまで通じるか不安となる。知識面でのアドバンテージも、得るのは難しそうだと内心で息を吐く。
「そういう訳でして、アジアの人間が来るとすれば、中東からの腕の立つ傭兵くらいです。アラビアやエジプトなら何とか来れる距離。そして、腕の立つ傭兵は、魔王領に近い程に需要が高まりますので」
「ああ、それでこの格好なのか」
衣千伽は自らの恰好を見て、アラビアン風の服装であると理解した。ただし、平凡な日本人である衣千伽が、腕の立つ傭兵に見えるかは疑問であったが。
「それと、ワタクシが傍に居る際は、周囲の会話は翻訳してお届けします。話を聞くだけなら問題ない状況を作りましょう」
「マジっすか!」
アン・ズー自身は、悪魔姿の時は脳内に直接声を届けていた。恐らくは、言語とは違う手段で会話を行っていたのだろう。
美女の姿になってからは、衣千伽の知る日本語を普通に話す。だがそれは、衣千伽の記憶をコピーしたからこその芸当なのである。
つまり、衣千伽にとってアン・ズーは唯一会話が成立する相手。その彼女が、衣千伽の通訳も請け負ってくれると言うのである。
最も大きな問題が解決し、衣千伽は安堵の息を吐く。しかし、アン・ズーは指を立てて、注意事項を付け加える。
「とはいえ、ご主人様自身は会話が出来ません。大陸共通語を教えるにも時間が掛かります。――その為、設定を一つ追加させて頂きます」
「設定を追加?」
アン・ズーの説明に、衣千伽は気を引き締める。重要な話が始まりそうだと、何となく空気を察したのだ。
そして、アン・ズーは小声で告げる。薄っすらと口元に笑みを浮かべながら。
「それは、悪魔の呪いに掛かっているという設定です。それにより、ご主人様は言葉を奪われたという事に致します」
「なるほど。悪魔の呪いね」
確かに悪魔であれば、そういう呪いも掛けれそうだ。衣千伽は内心で納得する。
だが、衣千伽は同時に不安も感じる。その設定はばれる事がないのだろうかと。
「真偽は確かめようがありません。正しく言うなら、鑑定道具を除けば……ですがね」
「え? 鑑定道具を使うとばれるの?」
アン・ズーの説明により、衣千伽は昨日の出来事を思い出す。騎士は水晶を覗き込み、その後に衣千伽へ激高し始めた。
ならば、あれこそが鑑定道具だったのだろう。衣千伽のその考えを肯定するように、アン・ズーはゆっくりと頷いて見せた。
「ふふふ、そこでご主人様のスキルです。『偽装』スキルは、ご主人様の望む情報を偽装するもの。これは鑑定道具でも見破る事が出来ません」
「おお、そこで役に立つんだ!」
自らのスキルが活かせると知り、衣千伽は喜びが沸き上がる。ハズレスキルで使い道が無いかもと、内心で不安を抱いていたのだ。
「それと、取り急ぎの決定事項として、今後はご主人様がアルフ。ワタクシがライラと名乗る事にします。『偽装』スキルでの設定をお忘れなく」
「了解。アルフとライラね。ちなみに、アン・ズーは鑑定されても平気なの?」
何気ない質問であった。スキルを持たないアン・ズーは、どうするつもりか気になったのだ。
しかし、それは想定外の反応を生む。アン・ズーは目を細め、衣千伽に対する圧を強める。
「……ふ、ふふふ。面白い冗談です。ワタクシが悪魔とお忘れでしょうか? 人間如きの魔法が、悪魔であるワタクシに通じるとでも?」
「そ、そうっすね! アン・ズーさん、悪魔ですもんね! 効く訳ないですよね!」
目が完全に笑っていない。その事で衣千伽も、今の発言が地雷だったと気付く。
悪魔には悪魔の矜持があるのだろう。その辺りも今後は知る必要がありそうだ。
衣千伽は身を震わせながら、しっかりと肝に銘じるのだった。