異世界の法則
白い仮面の道化師。それが、悪魔アン・ズーの姿であった。
だが、衣千伽の眼前で一礼する存在。彼女は紫の衣を纏った美女である。その人物が、自らをアン・ズーだと名乗っていた。
戸惑う衣千伽に対し、美女は頭を上げて妖艶に微笑む。そして、胸に手を当て衣千伽へと尋ねる。
「ええ、ご主人様。ワタクシは悪魔アン・ズーです。この姿は如何でしょうか?」
「この姿って……」
両手を広げ、自らの姿を晒す美女。彼女は何も言わず、ただ衣千伽の反応を伺っていた。
その為、衣千伽は遠慮しつつもその姿を確かめる。彼女が本当にアン・ズーなのかと疑いながら。
まず、美女は東南アジア系の顔立ちに見えた。浅黒い肌を持ち、白人や黒人、日本人とは違う顔立ちをしている。
そして、年の頃は二十歳程であろうか。衣千伽よりも年上ではあるが、その差は五つ程度と、衣千伽の中ではアリの範囲だった。
着ている衣服は紫色で、民族衣装に似た衣装。布地を体に巻き付けるスタイルで、インドの民族衣装サリーが近い様に思える。
そして、トータルでの感想は絶世の美女。エキゾチックな魅力を醸し出す、神秘的な美女である。衣千伽は相手の目も忘れ、ただその姿に見惚れてしまった。
「お気に召して頂けましたか? ご主人様の好みを、トレースさせて頂きましたからね」
「……っえ? オレの好みって、どういうこと?」
アン・ズーの言葉に、衣千伽は遅れて反応する。声を掛けられるまで、完全に上の空になっていたのだ。
そして、鈍くなった脳にゆっくり言葉が染み渡る。その意味を考えて、衣千伽は内心で不安が沸き上がって来た。
「清楚な黒髪の美女。そして、世話焼きで尽くしてくれる年上の女性。その様な従者を、ご主人様はお望みなのでしょう?」
「――ちょっ、やめてっ! オレの願望を暴露しないで!」
言われた言葉にドキリとする。確かにラノベを読んでいた際に、その様な妄想を抱いた事があった。余りにも心当たりがあり過ぎた。
そして、自らの都合の良い願望を口にされ、衣千伽の顔は熱く火照る。自らの恥部を白日の下に晒されて気分で、思わず両手で顔を覆ってしまった。
しかし、美女――アン・ズーは静かに微笑むだけ。衣千伽の反応を楽しそうに眺めつつも、それには触れずに話を続けた。
「ご主人様と認識を合わせる為に、記憶をコピーさせて頂きました。この世界を説明する為にも、共通の認識が必要になりますからね」
「な、なるほど……」
衣千伽に僅かばかり残されていた、冷静な部分が状況を理解した。元々、認識に齟齬があるから、先に契約を済ませる流れだったと思い出した。
そして、この姿は契約主である、衣千伽へのサービスでもあるのだろう。今後の良好な関係を築く為に、彼の理想の姿に近づいたと推測出来た。
実に悪魔的なサービスである。わかっていても、理想の美女を軽く扱えるはずがない。その証拠として、既に衣千伽の脳裏から道化師姿は綺麗に消去されていた。
アン・ズーは自らの顎に、その細い指を添える。そして、記憶を探る様に目を細めつつ、衣千伽に対して説明を続ける。
「……ほう、これは興味深い。この世界とご主人様の世界は、平行世界の様ですね。国境線等は大きく異なりますが、大陸の立地や国名は共通の部分が非常に多い」
「そ、そうですか……」
衣千伽は話に耳を傾けるが、その目はアン・ズーに釘付けだった。布地をしっかり巻き付けたその姿は、ボディラインがくっきり浮かび上がっていた。
程良く大きなバストに、はっきりわかる腰のくびれ。腹部がわずかに露わなのも、高校生の衣千伽には刺激が強過ぎた。
年頃の少年である衣千伽は、見てはいけないと思いつつも、その誘惑に抗えなかった。アン・ズーはそんな様子すら楽しそうに、ただ笑みを深めるだけだった。
「ご主人様の歴史で言えば、中世が近いでしょうか? しかし、魔法と法力が存在する為、文化や文明はまったくの別物とお考え下さい」
「ほ、ほうほう……」
やはり、アン・ズーは悪魔なのだろう。側にあった木箱に腰掛けると、身をくねられてポーズを取る。それは、モデルが見せる仕草に似ており、衣千伽にとってはクリティカルヒットであった。
ごくりと喉を鳴らす衣千伽に、アン・ズーはくすりと笑う。そして、上目使いで甘える仕草を見せ、を衣千伽に対して声を掛ける。
「お気に召して頂けたようで、大変うれしく思います。……ですが、お話はしっかり聞いて下さいね?」
「ふぁっ?! は、はいっ……!」
アン・ズーの言葉に衣千伽は我に返る。それと同時に、アン・ズーが心を読める事を思い出した。
彼女は衣千伽の反応を見て、望む仕草を取る。衣千伽には、自らの心を隠す術がないのだ。
――何という悪魔的所業。これが本物の悪魔かと、衣千伽は内心で恐れ戦く。
そして、その反応に満足したのか、アン・ズーは木箱から降り、急に真面目な表情を浮かべた。
「では、詳しい話は改めて。大切なのは、この世界は心の強さが重要と言う事です」
「……心の強さ?」
アン・ズーの纏う空気が変わる。先程までの、衣千伽をからかう雰囲気は微塵も無かった。
そんな空気に衣千伽は戸惑う。大切な話が始まるらしいと、自らの意識を引き締め直した。
「自らの願望を強く持つと、それだけ強い魔法が使えます。自らの願望を強く律すると、それだけ強い法力が使えます。そのいずれかを使いこなす者こそが、この世界の支配者となるのです」
「魔法に法力か……」
今の話で詳細まではわからない。魔法と法力が、具体的にどう違うのかも理解出来ていない。
だが、それこそが重要な要素なのだとは理解出来た。衣千伽の世界と違い、この世界を動かすルールこそが、魔法と法力なのだと。
それと同時に、衣千伽は疑問を抱く。アン・ズーの説明では、いずれかを使いこなす者との事だった。その両方を使いこなす者は居ないのだろうか、と……。
「両立は不可能ではありません。しかし、普通はどちらか一方を伸ばします。そもそもが、人類の半数は使えない力となります。初歩の力を使うだけでも、相当な修行が必要になりますので。――それと、ご主人様にはいずれ、魔法を習得して頂く予定です」
「今はまだ、使えないって事か……」
今の衣千伽には戦闘能力がない。使えるらしい能力は、情報を隠す『偽装』スキルのみ。これで魔王を倒そうと言うのだ。衣千伽は思わず苦笑を浮かべてしまった。
そして、衣千伽がアン・ズーに目を向けると、彼女は足元の小瓶に手を伸ばしていた。拾い上げた小瓶を片手に、衣千伽に対して微笑みを向ける。
「詳細な説明は追々という事で。まずは傷の治療を終わらせましょう」
「あ、はい。――って、ちょっと待った! 自分で、自分でやりますから!」
アン・ズーは自然な仕草で、衣千伽のズボンを脱がそうとした。足の治療には、ズボンが邪魔でしかないと言わんばかりに。
しかし、今のアン・ズーは衣千伽にとって理想の美女。例え人間では無いとしても、年頃の衣千伽は耐え難い羞恥プレイであった。
「ふふふ、甲斐甲斐しく世話を焼いて欲しいのでしょう? ささ、遠慮は不要ですよ?」
「か、勘弁して下さい! その位は自分出来ますから!」
楽しそうに微笑むアン・ズー。どう見ても確信犯だが、衣千伽には反論の言葉すら思い付かなかった。
アン・ズーの手から小瓶をひったくり、衣千伽は木箱の陰へと駆けて行く。先程までの疲労も忘れ、脱兎のごとく駆けて行くのだった。
そして、やはりアン・ズーは悪魔なのだなと、衣千伽は内心で深く息を吐くのであった。