悪魔との契約
衣千伽とアン・ズーは、闇の中を駆けていた。夜も遅い時間なのか、大通りに人影は見えない。それどころか、どこの建物にも明かり一つ灯っていなかった。
とはいえ、今いる場所が無人の廃墟という訳でもない。逃亡した屋敷は手入れの行き届いた立派な建物だった。その周辺には警備の兵士もチラホラと見る事が出来た。
そして、屋敷を中心とした街も、今は人気が無いというだけだ。どの店も民家も、しっかりと手入れがされている。足元の石畳も荒れていたり、雑草が生えていたりもしない。
衣千伽の居た世界と違い、この世界では夜は人々が眠る時間。人々にとって、活動する時間では無いというだけの話である。勿論、衣千伽の居た世界とて、全ての国や地域で夜が明るい訳では無いのだが。
『目的地はもう少しです。もうひと頑張りお願いします』
「はあ、はあ……。が、頑張ります……」
小走り程度の速度とはいえ、かれこれ一時間は走り続けている。帰宅部であった衣千伽は、さほど体力がある訳では無かった。
しかも今は、足の至る所に打ち身がある。ズキズキと痛む足を止める事無く、衣千伽は必死にアン・ズーの後を追う。
そして、アン・ズーの言葉通り、目的地にはすぐ辿り着いた。屋敷からかなり離れた場所にある路地裏。その一角に存在する倉庫へ、アン・ズーと衣千伽は滑り込んだ。
「こ、ここは……?」
『とある商人の倉庫です。この時間なら、近付く者もいないでしょう』
アン・ズーは頭陀袋からランタンを取り出す。そして、指先に火を生み出し、ランタンに明かりを灯した。
衣千伽はアン・ズーの使う魔法に興味を引かれる。しかし、アン・ズーが床に敷いた毛皮に、その視線が吸い寄せられる。
『大変な状況でしたが、落ち着いていらっしゃいましたね。大人しく従って頂けましたので、穏便に脱出する事が出来ました』
「いや、まあ……。命が掛かってましたんで……」
アン・ズーはジェスチャーで、衣千伽へ腰を下ろすように促す。それを見た衣千伽は、待ってましたとばかりに毛皮へと身を投げ出した。
そして、緊張の糸が切れたのだろう。衣千伽の体にずしっと疲労が圧し掛かる。彼の足は既に限界で、しばらくは使い物にならなそうであった。
アン・ズーはクスクスと笑い声を漏らし、頭陀袋から小瓶を取り出す。そして、衣千伽のズボンをたくし上げて、中の粘液を指で掬い取った。
『魔法では傷を癒せませんからね。多少の時間は掛かりますが、薬を使うとしましょう』
「魔法では傷を癒せない?」
アン・ズーの台詞に衣千伽は首を傾げる。しかし、それを見たアン・ズーが動きを止める。しばらくの間、互いに不思議そうに見つめ合った。
そして、アン・ズーは悩む仕草を見せた後に、納得した様子で頷きだした。小瓶を床に置きながら、衣千伽に対して肩を竦めて見せる。
『なるほど、世界の常識が違うのですね。それでは順序が変わりますが、先に契約の話を進める事にしましょう』
「け、契約……?」
衣千伽はごくりと喉を鳴らす。悪魔との契約と言えば、大きな代償が伴うはず。衣千伽にとってアン・ズーは、警戒が必要な相手へと変わった。
しかし、アン・ズーはお道化た仕草で説明を始める。まるでそれが、作り物のお話であるかのように。
『悪魔は契約ごとで嘘をつきません。契約は必ず順守します。そうしなければ、その存在を維持出来ない。悪魔とはその様な、悲しい存在なのです……』
「ふむ……?」
衣千伽の知る知識とも一致する。その説明は、一旦信じても大丈夫だろうと判断した。
そして、心を読めるアン・ズーは、衣千伽の判断を理解する。楽しそうに、歌うように、自らの存在を語り聞かせる。
『そして、悪魔は魔法を使いますが、自ら魔力を生み出せません。契約者から、無理ない範囲で魔力を供給して頂く必要があります。そうしなければ、魔力が尽きて、消滅してしまうのです』
「へえ……」
アン・ズーは確かに魔法を使う。しかし、幻術や小さな火を灯す程度しか使っていない。契約が無い今は、大きな魔法が使えないという事だろう。
納得して頷く衣千伽に、アン・ズーは芝居がかった身草を見せる。何かを美味しそうに食べる、パントマイムを演じていた。
『そして、悪魔にはそれぞれ、嗜好性があります。契約者の望みと、悪魔の望みが一致した場合のみ、契約を結ぶ事が出来るのです。契約は絶対の為、お互いに納得出来るかが重要となります』
「悪魔の、嗜好性?」
アン・ズーの説明に、衣千伽は頭を捻る。嗜好性という説明がピンと来なかったのだ。
そんな衣千伽の様子に、アン・ズーはクスクスと笑う。そして、自らの胸に手を添え、衣千伽に対して手を差し向ける。
『嗜好性とは存在する目的や願望等ですね。私の場合ですと、退屈が死ぬほど嫌いなのです。常に面白い刺激を得ていたい訳です』
「なるほど……」
悪魔の存在意義。そして、アン・ズーの場合、それが快楽等にあたるのだろう。
つまり、望みの対価はアン・ズーが楽しいと思うこと。アン・ズーの性格にもよるが、それなら何とかなりそうだと衣千伽は安堵した。
『ワタクシを楽しませてくれるなら、貴方様の願いを叶えましょう。元の世界へ帰す等は、ワタクシの能力では出来ません。その他に、この世界でやりたい事はないでしょうか?』
「やりたい事か……」
不意に問われ、衣千伽は回答に困る。元々、望んでこの地にやって来た訳では無いからだ。
しかし、ラノベにハマり、物語の主人公になれたらと思った事ならある。チートスキルで無双して、多くの人々に感謝される日々である。
そんな衣千伽の考えを読み取ったアン・ズーは、腕を組んで考える仕草を見せた。
『無双とは少し違うかもしれませんが……。勇者となり、人々から尊敬される、というのは如何ですか?』
「――って、出来るんですかっ?!」
アン・ズーの提案に、衣千伽は驚かされる。先程、大した力は無いと言ったが、やはりそれは謙遜だったのかと疑う。
しかし、アン・ズーは右手を振り、何でもない事のように告げる。
『なに、簡単な事ですよ。勇者とは魔王を倒した者に送られる称号。魔王さえ倒せれば、多くの人々から尊敬を集める事が出来るのです。――例えそれが、どの様な手段を使おうとも、です』
「……ん? どの様な手段を使おうとも?」
最後の説明に衣千伽は不安を覚える。そこにどの様な含みがあるか想像が及ばなかったのだ。
そして、それは悪魔的な手段による物に思えた。非道な行いに手を染めれば、その報いをどこかで受けるのではと不安になったのである。
そんな衣千伽の不安を察し、アン・ズーは軽い口調で説明を行う。
『言葉で周囲を惹き付けるのです。力ある者達を集めるのです。最後の止めが貴方様で無くとも、その集団のリーダーが貴方様なら、その成果は貴方様の物となるでしょう』
「ふむ……」
その説明に衣千伽は納得する。『隠蔽』という力しか持たない衣千伽が、魔王を倒すのは難しいだろう。しかし、仲間に倒して貰うなら、まだ可能性があるように思えたのだ。
ただ、大きな問題として、人を惹き付ける程の魅力も話術も、衣千伽は持ち合わせていなかったが。
『魔王さえ倒してしまえば、最後に貴方様は勇者となるのです。初めの言葉が嘘であろうと、魔王さえ倒せば真になるのです。その為の環境を、ワタクシでしたら整える事が出来ます』
衣千伽の不安に応じ、アン・ズーは言葉で答える。衣千伽の足りない部分は、アン・ズーが補ってくれると言うのだ。
悪魔が話術で人を騙す。それだけ聞けば、悪魔らしいペテンな気がする。しかし、それで魔王を倒せて人々が喜ぶなら、問題無いのでは衣千伽は思い始める。
『警戒する事は大切です。しかし、視野を広く持つ事も大切です。貴方様は言葉がわからず、常識もわからない異世界人。ワタクシと契約しなければ、より過酷な未来が待ち受ける事になります』
それは衣千伽が抱える、最も大きな不安であった。アン・ズーの助けが無ければ、既に衣千伽は死んでいた。この先も一人で、生きて行く自信も無かった。
元より今の状況に選択肢は無いのだ。アン・ズーの手を取らねば、衣千伽の運命はここで終わる。ならば、より良い希望が残された道を選ぶだけである。
そう決断した衣千伽は、アン・ズーへと右手を差し出した。
「オレを勇者にして欲しい。その為に、アン・ズーを楽しませれるよう頑張るよ」
『承知いたしました。それでは、ここに契約を結ぶと致しましょう……』
アン・ズーは優雅に一礼をして見せる。そして、衣千伽の手を恭しく握り締めた。
――すると、アン・ズーの体が眩く輝き出した。
暗い倉庫は、一瞬だけ真昼のように明るくなった。その眩しさに、衣千伽は思わず目を閉じてしまう。
「な、何が起きてっ……?!」
アン・ズーの発光は一時的なものだった。光が治まり、衣千伽は眩む瞳を再び開く。
そして、目の前の光景に目を見開く。ポカンと口を開き、目の前の人物を凝視した。
「ふふふ、それでは改めまして。悪魔アン・ズーです。本日より宜しくお願いします」
衣千伽の前で優雅に一礼を見せる人物。それは、先程までの仮面の道化師では無い。
紫の衣を纏った妖艶な美女。見知らぬ人物が、アン・ズーを名乗っていた。