魔人の記憶
衣千伽は深い眠りの中にいた。その事は自身でも自覚し、ぼんやりと目の前の光景を眺めていた。
そこに映し出される誰かの記憶。アン・ズーが奪った魔人の記憶なのだが、衣千伽はそこまで理解せずに映像を見つめ続ける。
映像の中心人物は15歳の青年である。年齢は衣千伽と同じ程だが、その身はやせ細り、その瞳は世を恨むかの様に全てを睨みつけている。
青年の名前はダグラス。スラム街を生き抜いた孤児であるが、法力を身に付ける事は無かった。その代わりに彼は知恵に優れ、人を騙す事で何とか生き延びた者であった。
そう、この様な者はスラム街に一定数は存在する。そのままであれば日銭を稼ぐか、どこかで野垂れ死ぬだけの運命。しかし、彼には悪運も備わっていた。
『チクショウ、離しやがれ!』
『たく、手癖の悪いガキだな』
その日、酔い潰れた大男を夜の路上で見つけ、ダグラスはその懐に手を伸ばした。しかし、運悪く相手は凄腕の傭兵だったのだ。即座に目を覚まして、ダグラスは腕を捻り上げられてしまう。
しかし、それはダグラスにとっての幸運でもあった。大男は腕を捻り上げながら、彼に向かって興味深そうに声を掛けた。
『ほう、冷静に逃げる手立てを探っているな。それに何より、魔法の素質が感じられる。――どうだ、うちに来る気はないか?』
『はあ? うちって、どういうことだよ?』
それは傭兵団へのスカウトだった。大男は有名な傭兵団の団長であり、素質のある者には声を掛ける様にしていたのだ。
多くの者は傭兵になる事を怖じ気づく。魔物相手に戦う仕事など、スラム街の生活よりも命の危険が高いと考えるからである。
しかし、ダグラスは違った。この掃き溜めから逃げ出せるチャンスと捉えたのだ。そして、大男に向かって問い掛けた。
『あんたの所に行けば、オレも魔法が使えるようになるのか?』
『ああ、オレ様が直々に指導してやる。オレ様の名はハーゲン。これから宜しくな!』
こうして、ダグラスは傭兵の道を歩むことになった。ハーゲンという師を得て、魔法の才能を開花させていく事になるのだ。
そして、ハーゲンの傭兵団には五人の仲間達が居た。彼の妻であり副団長であるバルバラ。彼とは幼馴染であり、四十五年の付き合いになるそうだ。すらりとした細身の女性で、遠距離からの攻撃魔法が得意だった。
四人の仲間は、ダグラス同様にスカウトされた者達。リオル、マイケル、リース、オースの四人。それぞれに剣、手斧、弓、槍を得意武器とし、魔法による様々な搦め手を使う。彼等はダグラスの事を、弟の様に可愛がってくれた。
ダグラスは傭兵団での生活に満足していた。団長であるハーゲンは師匠であり、彼の父親であった。魔装という魔術の奥義を使い、常に先頭で家族を守り続けていた。ダグラスは生まれて初めて、尊敬に値する人物と巡り合えたのである。
――しかし、そんな彼の幸せは、とある依頼で崩れ去ってしまう。
『荷物の護衛ね……。楽な仕事なんだけど、退屈でもあるよな……』
『おい、ダグラス。油断はするなよ。ここは戦地も近いんだからな』
ハーゲンから硬い声が投げ掛けられる。他の誰かなら、ダグラスも肩を竦めるだけだっただろう。しかし、尊敬する師匠からの声に、彼は慌てて姿勢を正した。
今回の依頼は物資運搬の護衛である。ポーランドの前線基地までの護衛であり、傭兵団には魔物が出た際の相手を期待されている。逆に言えば、魔物が出なければ仕事はない。ただ、馬車に並走して歩き続けるのみである。
ダグラス以外の兄弟も、慌てて姿勢を正していた。彼ほどに気を抜いてはいなかったが、それでも内心では同じ気持ちだったのだろう。なにせこの一週間、魔物との遭遇すら一度も無かったのだから。
そして、皆が気を引き締め直したその直後。彼等の身に不幸が訪れる。
『――やれ! 積み荷を全て焼き払え!』
『――なっ……?!』
唐突に現れた謎の人物。トカゲの様な鱗に覆われた、筋骨隆々の大男であった。彼は手にしたハルバートを馬車に向け、周囲に対して指示を出す。
その指示と共に、ダグラス達の周囲に魔物が湧き出て来た。魔狼や魔猿、魔鳥に魔蛇。先程までは気配も無かったのに、数多の魔物が姿を見せたのだ。
『おいおい、数が多すぎる! こんなの、どうにかなるのかよ!』
『いや、無理だ! 相手は魔王軍の魔人! 全力で逃げるんだ!』
混乱する状況の中、ハーゲンが撤退の指示を出す。荷を運んでいた商人達も、荷物を諦めてダグラス達の元へと集まる。
しかし、鱗の魔人はニヤリと笑う。ダグラス達に向けて、無慈悲な宣言を行う。
『我々の事を伝えられては面倒だ。貴様等は全員、この場で死んで貰う』
『ちいっ! 奴はオレが抑える! お前達は何としてでも生き延びろ!』
ハーゲンは魔装を使用し、全身を魔法の鎧で包まれる。そして、人外の速度で魔人へと迫る。
だが、魔人もやはり人外の強さであった。ハーゲンを武器で弾き飛ばすと、周囲の部下達へと指示を出す。
『さあ、やれ! 人間どもに絶望を与えろ!』
『行け! オレの事はいいから、早く行け!』
再びぶつかり合うハーゲンと魔人。実力は魔人の方が上らしく、ダメージを受けるのはハーゲンのみという状況であった。それでもハーゲンは仲間を守る為に、魔人へと剣を振るい続けた。
副団長バルバラの指示に従い、傭兵団は撤退を開始する。ハーゲンの意思を無駄にしない為に。この事を国へと伝える為に。商人達すら見捨てて、彼等は全員で逃げ出したのだ。
しかし、魔物の数は多かった。更には魔人がもう一人潜んでいた。バルバラと兄弟達は、全てをダグラスに任せて魔人と魔物の足止めを行った。
そして、ダグラスは任務を全うした。近隣の軍事基地へと駆け込み、魔人の襲撃を伝えたのだ。それによって騎士団が動き、奇襲を行った魔人は討伐される事となった。
『何だよ……。何なんだよ、これは……』
魔人襲撃の知らせに対し、ダグラスは仲間の遺品と、幾ばくかの報奨金を受け取った。それらを前にして、失った者の大きさに絶望した。受け取った遺品も金も、彼には何の慰めにもならなかった。
ダグラスは失意の中、故郷の街へと戻って来た。元のスラム街へと戻り、マフィアの末端として所属し、ただ毎日を酒に溺れた。
金ならば十分にあり、生活に困る事は無かった。マフィアからの依頼で、簡単な任務をこなせば、済む場所にも困らなかった。
だが、それ以外には何も無かった。ダグラスは生きる意味を失い、ただ無為に残された命を消費するだけ。仲間達に救われた命に、何の価値も見い出せずにいたのだ。
――だが、そんな時に奴が現れた。
ひょろりとした優男。芝居がかった、どこか不快感を感じさせる人物。だが、ダグラスが酔っていた為か、その顔だけは思い出せなかった。
謎の男は酒場で酔い潰れるダグラスに対し、親し気に肩を抱いて来た。そして、彼の耳元でそっと囁くのだ。
『貴方には権利がある。全てを奪われた者として、全てを奪う権利がね』
『権利、だと……?』
朦朧とした頭で問い返すと、謎の男は大仰に頷いた。全身で喜びを示しながら、まるで親友の様な口調で語りだした。
『貴方にも大切な人がいたのだろう? 何て残酷な話なのだろ。君は何も悪い事をしていないのに、大切な人達を失ってしまってさ……』
軽薄な態度とは裏腹に、男の言葉には力が感じられた。軽薄な仮面の下に、底知れぬ執念を感じる事が出来た。だから、ダグラスもその言葉に耳を貸し続けた。
『この世界は不平等だ。この世界は不幸だらけだ。人々の模範とさせる人物程、早く命を散らせてしまう。本来ならば彼等こそが、この世界に必要なはずなのに』
ダグラスは男の言葉に内心で同意する。彼の師であるハーゲンは、死ぬべきではなかった。生き残るならば自分では無く、彼の様な優れた人物であるべきだったのだ。
『こんな世界は糞だ。世界のルールなんて糞喰らえだ。こんな世界は壊れてしまえば良い』
普段のダグラスならば、こんな話は鼻で笑っただろう。だが、この時のダグラスには、その考えこそが正しいと思えた。そう、全てはこの世界が間違っているのだと。
男は嬉しそうにダグラスの肩を軽く叩く。そして、最後の言葉をダグラスへ贈る。
『わかってくれて嬉しいよ。そんな同士へ、私からのプレゼントだ』
そこでダグラスの意識は途切れる。酔いが回り過ぎたのか、その後の事は覚えていなかった。
だが、次に目覚めると暗い闇の中にいた。そこはあの地下室だ。明かりも無いのに室内の様子がわかった。そして、足元から漂う甘い香りに気付く。
『何だ、これは……?』
足元には見知らぬ子供が横たわっている。その子は喉が掻き切られ、既に死亡している様子だった。
ダグラスは子供を見て、美味しそうだと思った。血の匂いが食欲をそそり、柔らかそうな肉に唾液が止まらなかった。
そして、ダグラスはその子供を貪り食った。子供を喰う最中に、自らの右腕が剣になっている事に気付いた。だが、その剣がハーゲンの物と気付き、彼はただ歓喜だけを感じていた。
彼は既に狂っていた。彼の中のルールでは、弱き者は食われるのみ。強き者が全てを喰らう。弱肉強食こそが、彼のルールに変わっていたのだ。
スラムの子供を狙ったのは、捕まえやすくて数が多いから。生きが良さそうな者なら、それ以外に特に拘りは無い。腹が減ったら意識を奪い、この地下室で貪り喰うだけである。
『ああ、もっと沢山喰いたいなぁ……!』
食えば食う程に、ダグラスの力は増していた。弱き者を食う事で、自分は強者なのだと自覚した。自分は生きているのだと実感出来たのだ。
だが、子供達を食い始めてすぐにあの女が現れたのだ。人の皮を被った、忌々しい悪魔である。
あの悪魔が現れなければ。いや、せめて後一月も後に現れていれば、ダグラスも十分な力を身に付けていた。ああも一方的にやられる事は無かったのだ。
やはり、ダグラスには運が無かったのだ。ここまでの悪運も、あの悪魔と出会った事で尽きてしまったのである。
『――なあ、聞こえてるんだろう? そう、お前だよ。悪魔付きの小僧』
夢の映像に映るダグラスは、魔人に代わる以前の姿であった。彼は苦しそうな表情のまま、まっすぐに衣千伽を見つめていた。
『最後に忠告しておいてやる。悪魔に魂を売った事を、いずれ後悔する時が来る。その時の為に、心の準備をしておくんだな』
夢の中の衣千伽は、口を開く事が出来なかった。ダグラスに対して、返事をする事も、問い掛ける事も出来なかった。
ダグラスは悲しそうな眼差しを衣千伽に送る。しかし、すぐに背を向けて、そのまま砂の様にその姿を散らせてしまった。
十一人の孤児を殺害した連続殺人鬼。魔人へと姿を変えられてしまった男は、これでその存在が完全に消滅してしまったのだろう。
衣千伽はそんな彼を憐れむ。そして、彼は最後に後悔したのだろうかと、疑問に感じながら目覚めの時を待つのであった。