姉弟との別れ
その日の朝食は一切の会話が無かった。衣千伽はいつも通りの無表情だが、アン・ズーまでもが無表情であった。ラザーは二人の空気に何かを察し、ドゥーヤは不安そうに様子を伺っている。
そして、いつもより時間を掛け、四人は朝食を食べ終えた。それを見届けたアン・ズーは、ラザーとドゥーヤに話し掛ける。
「さて、食事も終わりましたね。それでは、お二人に別れの挨拶を致しましょう」
「え……?」
呟いたのはドゥーヤだ。驚いた表情を浮かべ、アン・ズーの言葉に動揺していた。
ラザーは寂しそうな笑みを浮かべるのみ。アン・ズーの言葉を予想していたらしく、その瞳には諦めの色が感じられた。
「ご主人様とワタクシは、明日には海を渡ります。ドゥーヤの容態も良くなりましたし、後は二人でも何とかなるでしょう」
アン・ズーの言葉に、衣千伽は拳を握りしめる。何とかなるはずがない。スラムの生活に戻れば、二人は苦しい日々を送る事になる。命の保証だって有りはしないのだ。
それでも衣千伽は動かない。アン・ズーとは昨晩に話し合った。二人を連れての旅は、衣千伽達には出来ないと結論が出たのだ。
欧州の旅だけなら何とかなっただろう。しかし、法力を持たぬドゥーヤでは、アフリカ――サハラ砂漠を超えられない。そこで確実に命を落とす事になる。それならば、残った方が良いという結論に達したのだ。
「今後も姉弟で力を合わせ、強く生きるのですよ。ご主人様もお二人の無事を祈っております」
アン・ズーの言葉は間違いではない。衣千伽は確かに祈っていた。二人が幸運にも、この先も生き延びてくれることを。そして、少しでも幸せであってくれることを。
だが、それが難しい事も理解していた。十歳であるラザーは、まだ法力を宿す可能性がある。しかし。弟のドゥーヤが生き残れる可能性が、非常に低いと知っているのだ。
衣千伽は苦い思いが胸に溢れる。すると、追い打ちを掛けるように、悲痛な叫びが酒場に響く。
「……やだ。やだよ、そんなの! ドゥーヤは、にいちゃんといっしょがいい!」
「ドゥーヤ……」
目に涙を浮かべ、いやいやと首を振るドゥーヤ。ラザーは悲しそうに顔を歪め、弟の肩にそっと手を置く。
しかし、それで気持ちが落ち着くはずもない。ドゥーヤはポロポロと涙を零し、衣千伽に対して訴えかける。
「ドゥーヤ、なんでも食べるから! これから、いい子にするから! だから、ドゥーヤのことを、おいて行かないで!」
その泣き顔に、衣千伽の胸は締め付けられる。ドゥーヤの必死な訴えに、応えてやれない自分を恥じる。
所詮、衣千伽は偽りの立場。偽りの勇者なのである。弱い者を救う力なんて持ってはいないのだ。
食事を与え、病気を治して良い気になっていた。その先の事なんて考えず、目先の救済で希望を与えた。
――なのに、最後はドゥーヤに絶望を与えた。
何という偽善だろう。何という愚か者なのだろう。何と自分は惨めなのだろうか。
居たたまれなさに泣きそうになる。しかし、それすらも傲慢と思う。泣く権利があるのはドゥーヤである。衣千伽が泣くなど許されるはずがなかった。
衣千伽は内心で自分を責め続ける。すると、アン・ズーの手がそっと肩に触れた。顔を上げた衣千伽は、アン・ズーの優しい微笑みを目にする。
「ドゥーヤ、涙を拭きなさい。貴方は男でしょう? ご主人様の様になるのでしょう?」
アン・ズーの問い掛けに、ドゥーヤは顔を上げた。そして、涙を堪えてアン・ズーを見つめる。
アン・ズーは真剣な眼差しをドゥーヤに向ける。真剣な口調でドゥーヤに語り続ける。
「幾多の困難が訪れようとも、知恵と勇気で乗り越えるのです。体を鍛え、技を磨き、弱き者が居れば手を差し伸べるのです。その魂が気高ければ、貴方はいずれ気高き者となるでしょう。それが貴方が憧れる、ご主人様の様になるということです」
「ねえちゃん……」
五歳の子供に語る言葉では無い。そう思う衣千伽であったが、ドゥーヤの表情にハッとなる。先程までの泣き顔では無かった。駄々をこねる子供では無かったのだ。
ぐっと涙を拭った後、現れた表情には覚悟があった。何とか涙を堪えたまま、衣千伽に対して笑顔を見せた。
「にいちゃん、ドゥーヤがんばる。にいちゃんみたいに、かっこよくなるから!」
ドゥーヤの言葉に衣千伽は戸惑う。偽りの自分に憧れている事では無い。本来の自分が、気高き者では無いという部分でもない。
ドゥーヤの覚悟に敬意を感じる。それと同時に、五歳の子供が覚悟を決めたことに、改めて今の自分を恥じたのだ。自分は何の覚悟も持たず、ぬくぬくと生きて来たのだから。
ドゥーヤは腰に手を当てた。そこにはアン・ズーの作った木剣が下げられている。それを誇る様に、衣千伽に対して笑みを浮かべた。
衣千伽も同じく腰のシミターに手を当てる。ドゥーヤの気持ちに応じるように、力強く頷いて見せた。
今の衣千伽は偽りだらけかもしれない。それでも衣千伽は、ドゥーヤの前では演じ切ろうと決める。その覚悟を裏切らない事が、せめて自分に出来る罪滅ぼしだと言い聞かせて。
「さて、それでは最後に餞別を送りましょう」
「ライラ様、それはもしや……?」
アン・ズーの掌には、二つのペンダントが納まっていた。黒曜石と思われる黒い石。そこに紐を通しただけの質素な装飾品である。
アン・ズーは二人の首に、それぞれペンダントを掛ける。高価な品では無いのだろう。しかし、キラキラ輝くその石を、二人は嬉しそうに見つめていた。
「ちょっとした、お守りだと思って下さい。宝石では無いので、盗まれる心配も無いでしょう」
「あ、ありがとうございます! ずっと、大切に身に付けます!」
それは、ささやかなサプライズ。アン・ズーからの気持ちばかりの贈り物である。
だが、ラザーにはその気持ちが嬉しかった。最後まで自分達を、人として扱ってくれた。これまでの日々で失った、人としての尊厳を取り戻した気がしたのだ。
ラザーは深々と頭を下げる。そして、石を手に笑顔を浮かべる、弟の手をそっと握る。
「今まで本当にお世話になりました。このご恩は一生忘れません。どうか、お二人にも天使様のご加護がありますように」
「ありがとう御座います。我々も、お二人の事を忘れる事は無いでしょう」
ラザーは顔を上げると、最上級の笑顔を向けて来た。その美しい笑顔に、衣千伽は思わず見惚れてしまう。
そこには一片の悪意がない。美しい善意だけが満ちていた。衣千伽は内心で息を漏らす。天使の微笑みとは、きっとこういう物だろうと思ったのだ。
そして、二人は多くは語らず宿から去って行く。衣千伽はその背中を見送りながら、アン・ズーへと問い掛けた。
(これで良かったんだよね? 助けた事に意味はあったんだよね?)
『ええ、その通りです。助けた事に意味はありました。それは間違いありません』
それは慰めでしかないのかもしれない。それでも衣千伽にとって、アン・ズーの答えは救いであった。
こんな偽りだらけの自分でも、二人にとっての助けとなった。自分の存在が無価値でないと、そう思う事が出来たのだから。