天使教
衣千伽達は馬車のまま、天使教の教会へ到着する。すると、そこには多くの人が集まっていた。大多数はスラム街の孤児であり、振る舞われるだろう食事に期待を寄せている様子だった。
残りの者達は作業着を着た天使教の聖職者。或いは、ボランティアに参加する信者達である。彼等は手に包丁やナイフを手にしたり、調理用の鍋を運んだりと忙しそうに準備を進めていた。
二人の兵士と聖職者側の代表が、魔狼の受け渡しを行っている。それを横目で見つめる衣千伽の元に、司祭と思われる人物が歩み寄って来た。清潔な白のローブ姿であるが、所々が擦り切れている。贅沢をしている感じではなく、衣千伽は好感が持てる人物だと判断した。
「この度はありがとうございます。これで多くの者が飢えを凌ぎ、寒い冬を越せる事でしょう」
「我が主からすれば、当然の事で御座います。施しを行うは、高貴な者の務めで御座います故」
衣千伽に代わり、アン・ズーが答える。ジャック市長より事情を聞いているのか、司祭はその事を不快に感じている様子は無かった。ただ、静かに笑みを浮かべ、満足そうに頷くのみである。
「異国の御方ですので、信じる教えは異なるのでしょう。しかし、人々を思う気持ちは同じで御座います。ならば、我等が信じる天使様も、きっとお二人を祝福してくれるはずです」
「ふふふ、それはありがたい事です。この地でのご利益は間違いないでしょうからね」
二人のやり取りにを見つめる衣千伽。そして、昨晩に聞かされたアン・ズーの説明を思い出す。
天使教が信仰するのは天使である。何とこの世界では、神を信仰する宗教は存在しないそうなのだ。その理由は天使や悪魔、精霊が実在しており、人々へと干渉を行うからである。
逆に神は人々の前に姿を見せない。実在するという証拠がない。それ故に、この世界では神と言う概念は浸透せず、神に代わって天使や精霊が信仰されているのだ。
そして、天使教の天使は欧州の人々に知恵を与えた存在。法力の力を広めて、生活の基盤を作り上げた存在とされている。
なお、天使という呼び名だが、キリスト教の天使とは異なる存在である。天空に住まう超常の存在であり、使命を帯びて人々の前に現れる者の総称とのことである。
「少しでも多くの子供が、生き延びてくれればと思います。十歳に達した子供は信心も芽生え、法力を得る事がありますしね……」
「幼い子供は弱い存在です。あの境遇では、生き残るのも困難でしょうからね……」
司祭とアン・ズーは、そろって孤児達に視線を向ける。その瞳には悲しみが宿り、彼等の境遇を憐れんでいるとわかる。
この辺りの事情も、衣千伽は既に聞かされていた。天使教が普及する理由は、その一番が法力の獲得である。そして、法力の効果は身体強化だが、何より重要なのが回復能力や免疫力の向上なのである。
医者にかかれない貧しい者には、法力の獲得が生存に大きく関わる。特に欧州は法力の獲得を前提とした社会基盤であった。法力を獲得出来なければ、命を落とすのもやむなしという考えなのである。
そして、幼い子供には信仰を理解出来ない者が多い。親が敬虔な信者であっても、その子に法力が宿るのは十歳前後となる場合が多いのだ。そのため欧州では、十歳未満の死亡率が極めて高い。スラム街の孤児であれば、その生存率は一割程度と言われていた。
そして、衣千伽はドゥーヤの姿を思い浮かべる。まだ五歳のドゥーヤは、衣千伽達に出会わなければ死んでいた。その命は幸運にも救われたが、スラム街に戻れば再び命を落とす可能性があるのだ。
あの環境から救い出すには、どうすべきなのかと思い悩む。そんな衣千伽の元に、当のドゥーヤが駆け寄って来た。
「にいちゃん、にいちゃん! あれ、ぜんぶやっつけたの!」
「ええ、そうですよ。魔狼は全てアルフ様が倒されたのです」
ドゥーヤの問いにアン・ズーが答える。その答えを聞いて、ドゥーヤは目を輝かせていた。その憧れの眼差しを、まっすぐ衣千伽に向けた。
衣千伽はその眼差しに罪悪感を感じる。衣千伽の功績は衣千伽の実力ではない。アン・ズーの支援と、シミターの剣技によるものである。衣千伽はその事を理解しており、ドゥーヤを騙していると考えていたのだ。
とはいえ、それをドゥーヤに告げても意味は無い。そして、今の衣千伽は偽りの立場に甘んじており、アン・ズーとの契約を果す義務もあるのだ。全てを飲み込み、衣千伽はドゥーヤの頭をそっと撫でた。
「それとドゥーヤ。貴方へのお土産です。体調が良く良くなれば、しっかり稽古を行うのですよ」
「わあ、やった! この剣で、ドゥーヤもにいちゃんみたいになる!」
アン・ズーが木剣を手渡すと、ドゥーヤは再び目を輝かせる。そして、嬉しそうにその剣を、その場で振り回し始める。
だが、慌ててやって来たラザーにより、その腕を止められる。ドゥーヤに厳しい視線を向け、ラザーは姉としてしっかり躾を行う。
「ここは人がいるから危ないでしょ? 稽古をするなら、アルフ様と一緒に朝からにしなさい」
「うん、わかった! ドゥーヤも、にいちゃんと一緒にけいこする!」
ドゥーヤは姉の言葉を素直に聞き入れる。それは「衣千伽と一緒」という言葉が嬉しかったからだ。自分も衣千伽の真似をして、格好良くなりたいと思ったのである。
そして、ドゥーヤは衣千伽の腰に目を向け、帯に止められた鞘を見つめる。その視線に気付いたアン・ズーが、ドゥーヤに笑みを向ける。
「ドゥーヤにも帯が必要ですね。アルフ様と同様に、剣をさす必要がありますから」
「うん、にいちゃんと同じ! ドゥーヤも剣をさす!」
ドゥーヤは嬉しそうに、満面の笑みを浮かべる。そんな無邪気な笑みに、衣千伽の心は癒されていくのを感じた。思う所は色々とあるが、この一時だけはそれらが全て消え去った。
そして、衣千伽が和んでいると、ラザーがドゥーヤの手を握る。その頭をゆっくり下げると、衣千伽達へと断りを入れる。
「私とドゥーヤも、お手伝いに加わります。それでは失礼します」
「……うう。にいちゃん、また後で! ドゥーヤ、行ってくるね!」
一時の別れを惜しむドゥーヤだが、姉の言葉に従うと決めたらしい。衣千伽と一緒に居たい気持ちより、衣千伽に恰好良く見られたいという気持ちが勝ったのである。
その気持ちを察した衣千伽は、ドゥーヤにしっかり頷いて見せた。ドゥーヤは嬉しそうに笑みを浮かべ、そのまま手を振って姉と共に去って行く。
その背中を見つめる衣千伽に、静かに見守っていた司祭が言葉を掛ける。
「あのように素直な子を見ると、幸せを願わずにはいられません。せめてこの国に余裕があれば……。いえ、魔王との戦争が無ければ、身を預かる事も出来たのでしょうに……」
衣千伽と並びドゥーヤを見つめる司祭。その瞳からは悔しさを感じ取る事が出来た。きっと寄付等の支援があれば、彼は孤児院の運営を行っていたのだろう。
しかし、今は魔王相手の戦時である。国の財政は戦費に割かれ、貧しい民への支援に回す余力がない。当然ながら市民への税も重く、人々が寄付に回す余力もないのだ。
衣千伽はドゥーヤの背中を見つめる。そして、勇者となる意味を改めて考える。多くの人々に感謝される、その意味について考え直す。
そんな衣千伽を、アン・ズーは静かに見守っていた。その瞳は何故か悲しみを帯びていたが、衣千伽がそれに気付く事は無かった。