日本の人権偏狭社会
日本の人権問題の例として、しばしば加害者人権と被害者人権の問題が挙げられる。加害者人権ばかりを尊重して、最も大切な被害者人権の尊重を蔑ろにしているのではないか、という意見である。
精神的、または経済的な苦痛を与えられた加害者に対して、被害者が厳罰な刑罰を求めるというのはごく自然なことであり、これを否定するというのはそれこそ人権問題に成りかねない。
ただ、前提として知っていてほしいのは、裁判所というのはあくまでも法に従い、適正な手段によって適正な処分を下す場であって、被害者個人の復讐という感情的理由のみによって処分を下す場ではないということだ。司法とは理不尽なもので、客観性と公正性が不可欠であり、そこに被害者側の主観は影響を及ぼし得ないのである。
これは大方、日本国憲法の三大原理の1つ、「基本的人権の尊重」に当たるものであり、人権は全国民が平等に有するものだという考えに基づいている。だから、憲法改正の条件完遂なしに国家機関である裁判所がをそちらが上、あちらが下といったふうに決めることなどできないわけである。
だが、本当にそれが「平等」なのかは甚だ疑問である。なぜ、国家は被害者に対して著しく基本的人権の尊重を拒むのであろうか。「基本的人権の尊重」とは国民1人1人に人間として生きる権利を与えるものであり、決して被害者側への尊重も怠ってはいけない。
例えば、刑事責任能力の欠如と判断され、被疑者が刑罰を与えられなかった事件があったとする。当然、これは被害者から見れば大変に憤ろしいことである。そこで被害者側が「刑事責任能力がないから刑罰を処せないとはどういうことか」と異義を申し立てたとして、国家は多くの場合、これを「加害者にも人権はあるのだ」とただ突き放す。もっと言えば、これから被害者の人権をどう守ろうか、とはあまり考えない訳である。
日本は加害者に甘く、被害者に厳しい国である。時効の問題も含め、そんな見解が被害者側で生まれてしまうのも、結局は日本のどこか一方通行な人権思想、つまりは人権偏狭社会が主な原因なのである。
この人権偏狭社会をどうのように解消していくか。それこそ、被害者側がこれから考えていくべきことではないかと私は思う。日本とは国民主権の国であり、我々の意志がなくては社会を変えることはおろか、保つことすらも不可能である。だから是非、自らの意志を大切にし、社会をより良い方向へと導いていく方法を模索していってほしい。国民1人1人がこの意識を高めた時、その先にはいずれ本当の「平等」、そして本当の「基本的人権の尊重」があることだろう。