虚飾を束ねて
小さな光の差す水面の下を、ふわふわと漂う。その背中をそっと押されてゆっくりと浮上していくように、まどろみの中から目を覚ました。
ベットから上半身を起こし、腕を前に出して小さく伸びをした。ほの白い陽光に照らされて影を落とす外の木々は、その緑をより一層濃く見せる。寝室を満たす、しんとして清らかだけど刺すように冷たい冬の空気に、思わず身を縮めてしまう。このまま身体を横にしてまた毛布に包まりたいと、つい心が揺らいでしまう。
しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。まだ残る眠気をもう一度伸びをして振り払い、少し乱れた髪を手ぐしで整える。少し手間取りながらも着替えを済ませストールを羽織り、寝室を出た。
廊下はさらに冷え込んでいて、屋内だというのに吐息が白い靄となって現れる。少しでも体温が逃げないようにストールの前を合わせたけれど、あまり意味はなかった。
けれど、階段を下りて広間に行くと一転した。先程までの研がれた氷のような冷気は、仄かに紅茶の香る暖かな空気へと変容し、私を優しく包み込んだ。暖炉には薪がくまれて、煌々と燃える火が周囲を淡く色付ける。
「おはようございます、お嬢様」
声の方を振り向くと、恭しく頭を下げる男――使用人のアルベールが立っていた。まるで蝋人形のような、息を感じさせない硬直した佇まい。その身に纏う燕尾服には、襟の乱れも皺の一つも見あたらない。顔を上げると、細身の銀フレームの眼鏡に暖炉の光が反射して、ちかりと光る。
「おはよう、アルベール。今日も届いているのかしら?」
「ええ、もちろん。すぐお持ちいたします」
アルベールは一度広間を下がると、両手いっぱいの花束を抱えて戻ってきた。大ぶりの白百合がいくつかと、その隙間を埋めるように小さい紫の花がたくさん並んで束をなしている。顔を近づけると、独特の華やいだ甘い香りが鼻腔をくすぶる。
「……綺麗ね」
思わず感嘆の声を零してしまうほどに美しく、しばらく見惚れてしまった。彼の抱えている花束にそのまま自然と手が伸びる。
私は、今日もお兄様からの贈り物を、そっと胸に引き寄せた。
私はこの屋敷から出られない。
小さい頃から治ることのない難病を患い、一人で外に出かけることすらもままならない。今も街や両親、大好きなお兄様とも離れて、療養のためにこの森の奥にある屋敷で、アルベールと二人だけで暮らしている。
正直、退屈でしかなかった。毎日浅い眠りから目を覚まし、アルベールの作ったご飯を食べて、読書や編み物をして空が暗くなるのを待つばかり。ただ時の流れに、季節の移り変わりに身を任せる。いくら身体を安静にさせるためとはいえ、これでは死んでいるのと同じだ。でも実際に私にとって、お兄様と会えないここでの生活は、死ぬことよりも苦痛であった。
互に焦がれ合う恋人に、愛の溢れる家族、それぞれが仲睦まじく寄り添い合って、同じ時間を過ごす。そんな小さな幸せ。しかし、私からしてみればそれも夢物語。私の会いたい人はここにはいない。
広大な屋敷に、窓から臨む変わり映えのしない景色、身の回りの世話をしてくれるアルベール。私の世界はここで完結してしまっている。時の狭間から零れ落ちたような、虚無の中を私は生き続けている。
それでも、私が絶望しないで命を繋ぎ止めているのは、お兄様から届く贈り物があるからだ。私が寂しくないように手紙と、お兄様が庭園で丹精込めて育てている綺麗な花を束ねて毎日贈ってくれる。手紙には街での出来事や、お仕事を頑張っているご様子、ご自身の私生活にいたるまで、事細かに書き綴られている。そのお姿を思い浮かべるだけでお兄様に会えたような気がして、私はその日その一日だけは寂しさを紛らわすことが出来る。
しかし、それで本当に満足出来るわけがない。そう、むしろ逆だ。こうしてお手紙を拝見して、そのお姿を思い浮かべるたびに、会いたいという渇望が日々増していく。時には自分でも抑えることができず、胸が張り裂けそうなほどに。それでも明日も届くお兄様からの想いが、私の心の孤独を埋めてくれる。
だから信じている。いつかお兄様がこの屋敷を訪れて、迎えに来てくれることを。この冷たい牢獄の中に閉じ込められた私を連れ出してくれる。その日が来るのを私はずっと待っている。
「アルベール、今日もお兄様から届いているかしら?」
「ええ、もちろん。そこに置いてありますよ」
アルベールの視線は、暖炉の側の机に向けられており、そこには花束と手紙が置いてある。
それを見た途端、まだぼんやりとしていた眠気と虚無感が綺麗に消え去った。おぼつかない足取りで駆け寄り、椅子に腰掛けてから自分の元へと抱き寄せる。今日の贈り物は、薄い黄色の薔薇がたくさん束ねられている。お兄様の庭園の中で、私が一番好きな花だ。
「お兄様ぁ」
自分でも分かるほどの胸の高鳴りに呼吸が苦しくなる。頬が熱く火照るのも、決して暖炉の熱にあてられているわけではない。花束に顔を近づけると、酔いそうなほどの甘ったるい香りが、鼻腔を通じて脳を緩やかに刺激する。身体が痺れるような感覚がまた心地よい。
ああ、お兄様からの愛を感じる。
花束を抱きしめていると、お兄様に抱きしめられているような。耳を近づけると、お兄様の囁きが聞こえるような。そんな甘美な幸福が体全身を包んで、沈んだ心に光を灯し、満たしてくれる。
お兄様、私はここにいます。
私はお兄様のことをこんなにもお慕いしております。小さい頃からずっと私のお側にいてくれて、あらゆる害悪から私を守ってくれました。怖くて眠れない夜は、この手をずっと握って下さりました。優しくて格好よくて、いつも私のことを大切に思ってくださる、私のことだけを考えてくださる。私だけのお兄様。
またいつかお兄様にお会い出来るその日を夢見て、私は今日も生きています。この閉ざされた籠の中で、寂しさに押しつぶされそうな私を救ってくれるのを、ずっとずっと待っています。
だから、早く私を迎えに来てください。私の元に来てください。私の大好きな、お兄様。
◆◇◆◇
よかった、今日も喜んでくださっている。
お嬢様はさして長くもない便箋に何度も目を通し、花束を潰れそうほどに抱きしめては、恍惚とした表情を浮かべている。暖炉の揺らめく光が当たり、背後に虚ろな影を作り出した。
お嬢様がこの屋敷に来ることになった理由。持病の療養という名目で、この隔離された土地へと追いやられた本当の理由――それは、兄への重度の依存症だ。
お身体が弱いことは本当だ。しかし、それ以上に精神が脆かった。幼少の頃より人見知りが激しく、外界に触れることを恐れ、私たち使用人との会話もままならない。そんな妹のことをお兄様――ユリウス様は大変気にかけられていた。仕事でお忙しい旦那様や奥様に替わり、いつもお側にいて優しく見守り続け、妹のことを本当に大切にされていた。お嬢様もそんなユリウス様のことを慕っており、また心の拠り所にしていた。しかしそれが、兄への依存に拍車を掛け、お嬢様を壊していった。
一年前、ユリウス様の結婚前夜での出来事だった。
その日は旦那様も奥様も屋敷に帰られ、婚約者のご家族様とご一緒にささやかな食事会が行われた。もちろん、お嬢様も同席されて。
しかし、彼女は知らなかった。大好きな兄に婚約者がいることを。そして信じたくなかったのだろう、自分の目に映る光景を。自分以外の女性と親しくしている兄の姿を見たお嬢様は、しばらく呆然を立ち尽くし、次には奇声を上げて暴れ出した。料理や食器を手で払い、机や花瓶を蹴り倒す。もはや誰の手にも負える状態ではなかった。そして何より最悪なことは、投げたグラスの破片が、婚約者の額に傷を作ってしまったことだった。
当然、婚約は破談となり、それと同時にユリウス様はお嬢様を意識的に遠ざけるようになった。以前と何も変わらぬ様子で自分を求めてくる妹に対し、嫌悪と恐怖を顕にして拒絶した。しかしそれによって、一人になってしまったお嬢様が心の拠り所を求めて兄の名を叫び続けるという、悪循環が生まれてしまった。
最後の手段として、森の奥にあるこの屋敷にお嬢様を一人で住まわせることを、旦那様が決断された。
お嬢様本人は、当時のことを何も覚えていない。この人の中には、今でも優しかった頃の兄への偶像だけが焼きついて離れていない。ここ最近は特に酷く、朝起きてから一日のほとんどを、暖炉の側で花束を抱きしめてお過ごしになられている。後は時折、「お兄様、お兄様」と、うわ言のように呟くだけ。お食事もまともに摂らず、四肢はどんどん細くなるばかり。
お嬢様は捨てられたのだ。この誰も近寄ることのない、外界と隔絶された闇の中に。
しかし、その事実をお嬢様にお伝えすることは、私には出来ない。今のお嬢様にご自身の置かれている立場や、ユリウス様のことを話したとしても、それを理解し受け入れてくれるとは到底思えない。何より、現実を知ったことにより、これ以上壊れていく彼女の姿を想像するだけで、恐くて口を開くことが出来なかった。
例え見捨てられたとしても、お嬢様をお守りすることが私の仕事。身体も心も。そうなると私の取るべき行動は、ひとつしか思い浮かばなかった。
私がずっと、あなたのお側にいるから。私だけはあなたの味方です。私がいる限り、何不自由ない生活をあなたに送り続けよう。例えそれが、永遠に閉ざされた籠の中での、偽りの幸福だとしいても。
屋敷の裏に咲く、彩鮮やかな虚飾を摘み束ねては、今日も甘い夢物語を書き綴る。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。