4
亜美ちゃんとファミレスでやけ食いした翌日、私はとある場所へと向かっていた。
地下鉄千代田線の湯島駅を降りて地上に出ると、すぐに見えるのは二本の広い道路──不忍通りと春日通りが交差する天神下交差点。『天神下』というのは、すぐ近くに学業成就で有名な湯島天神があるからだろう。
その交差点の信号が変わったのを合図に道路を亘って一本道を入ると、すぐに見えてくるのは旧岩崎邸庭園だ。敷地内には十七世紀のジャコビアン様式を基調とした重要文化財のお屋敷があるらしいけれど、私は行ったことがない。その旧岩崎邸庭園を左手に見ながら、角を曲がる。すると、二ヶ月前に訪れた風情のある坂が目に入った。
坂道を上る足取りが重いのは、たぶん自分のせい。
二カ月前の自分のバカさ加減には本当に呆れてしまう。亜美ちゃんが言うところの『類まれなるクズ男』にデート代を貢いで大事な万年筆を質入れしてしまうなんて……。
あ、貢いだって今自分で認めちゃった。もういいや、色々といいや。とにかく、あの万年筆さえ手元に戻ってくればそれだけでいい。
そんなやややさぐれた気持ちでその坂道をもくもくと登った。九月末にもなったのに、今日は気温が上がって太陽が射すように痛い。歩くだけで汗が額から滴り落ち、目に沁みた。
坂道の途中にあるのは純和風の見覚えのある門構え。門の横には『ご不要品のお引き取り致します つくも質店』と手書きで書かれたチラシが貼られている。私はぐっと手を握り、飛び石を渡ると扉に手を掛けた。
「ごめんください!」
ガラッと音を立てて扉を引く。
「いらっしゃい」
鼓膜を揺らしたのは、落ち着いた低い声。クーラーのひんやりとした空気が火照った体を包む。
そこにいたのは年配の男性だった。髪は半分近くが白髪になっており、目じりには年齢を感じさせる笑い皺が寄っている。五十歳過ぎだろうか。先日対応してくれた若い男性とは明らかに違う人だった。
私に気が付いた年配の男性は、カウンター越しにこちらに向かってにこりと笑いかけてきた。
私はさっと店内を見渡す。陳列棚に並べられているのは私も知るような高級ブランド品の鞄の数々、銀色の棘みたいなものが生えた個性的なパンプス、カラフルなスカーフに時計……。
(シロ、いないな……)
店内をぐるりと見まわして、そんなことを思う。私が手放したくせに、もうどこかへ行ってしまったのだろうかと心配になる。
「どうしましたか?」
「あの……、預けていた品物の取り置き期限を延ばしてもらいたいんです」
「ああ。利息を払いに来たのかな?」
男性は笑顔で頷くと、「質札を見せて下さい」と言った。
「え? 質札?」
「質入れの際の控え書だよ」
質入れに控え書なんて貰ってない。戸惑う私を見て、中年の男性は怪訝な表情をした。
「預けた際に、こんな紙を受け取っただろう?」
中年の男性はカウンターの引き出しから複写式の紙の束を取り出す。サンプルを見せてもらうと、氏名や住所、質入れ日や借入金などを事細かに記載する欄があった。
「書いていないです」
「書いていない?」
困惑気味に中年の男性は私を見る。私は信じられない思いで見返した。
騙されたのかも……。
脳裏を過ったのは、いやな想像。
そもそも、お金を貸してくれるのに何も控えがないなんておかしいと思ったのだ。もしかしたら、あの万年筆には物凄い価値──一〇万円位はしたのかもしれない。それを五万円で騙し取れるなら、儲けものだ。
サーっと血の気が引くのを感じた。
あのイケメン、澄ました顔をしてとんだ悪党だ。質入れと見せかけて僅かばかりのお金を渡し、商品までちゃっかりと手に入れるなんて。親切そうな態度を見せておきながら、心の中でバカな奴だと笑っていたのかな。鼻の奥がツーンと痛むのを感じた。
「えっと……、どういう状況で何を質入れしたのかな?」
急に涙ぐんだ私を見て、目の前の男性は困った様子だ。
「二ヶ月位前にここに来て、若い男の人が──」
そこまで話し、私はハッとした。名前! 名前を書いたメモが財布に入れっぱなしのはず。慌てて鞄を漁り、財布を探す。
「あった。これだ」
ポイントカードの間に紛れた二つ折りにしたメモは、端がボロボロになっていた。丁寧に開くと、中年の男性もカウンター越しにそのメモを覗き込む。
「えっと、飯田──」
そのときだ。背後からガラガラッと引き扉を開ける音がした。急な物音にびっくりして振り返り、目に入った人物に私は目をみはる。
「あー! あのときの悪党!」
「…………。はぁ?」
そこには、前回私の接客をしたイケメン、もとい、質入れ詐欺男がいたのだ。
よくも性懲りもなく目の前に現れたな、この悪党め!
そんな気持ちを込めて目の前のイケメンを睨み付ける。
「この人です、この人! この人が私の万年筆を横領しました!」
ビシッと人差し指を突きつけて、カウンターにいた中年の男性に訴える。男性は困惑顔で私とイケメンを見比べた。
「あー……。真斗、このお嬢さんと知り合いかい?」
落ち着いた、けれど、戸惑ったような口調で中年の男性がイケメンに尋ねる。私は男性とイケメンを交互に見比べた。
「え? 知り合い?」
「息子だね」
「…………」
店内に、なんとも言えない気まずい雰囲気が広がったのだった。