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「そうだ、ちょうどよかった。年末年始に父が帰宅するので、時計を出そうと思いまして」
「ああ、そうですか。承知しました。すぐにご用意できるようにして、お待ちしています」
真斗さんはにこりと微笑んでそう言うと、カウンターの一部を占めているおせち料理へと視線を移動させる。粕谷さんから中身を説明され、結局、三~四人前の二段重箱を予約していた。
◇ ◇ ◇
「なんか、シンプルなのにかっこいい腕時計ですね」
今年も残すところあと数日。
年内最後のアルバイトでつくも質店を訪れた私は、真斗さんが綺麗に拭いていた腕時計を眺めてそんな言葉を漏らした。
金色の丸い縁に囲まれ、時刻を表す放射状の短い棒とブランド名だけが表記された白い時計盤。ベルトは黒の皮製で、落ち着いた雰囲気を放っている。
この時計の印象を一言で言うならば、『とてもシンプル』だ。
なのに、一目見たら引き込まれるような魅力がある。まるで、絶対的な自信があるかのような重厚感を感じると言うか。
時計盤の中央上部のブランドのロゴには、『PATEK PHILIPPE』という文字が入っていた。
「買取希望が入ったんですか?」
「いや、違う。粕谷さんが今日、時計をとりに来るはずだから」
粕谷さんと聞いて、すぐに先日弁当屋さんで喋った物腰の柔らかい男性が脳裏に浮かぶ。
「ドウダ。オレ、カッコイイダロ?」
真斗さんの横で時計を眺めていたフィリップが得意げに体を揺らす。
「これ、フィリップなの?」
「ソウダ」
「じゃあ、粕谷さんが持ち主?」
「マサルダ。コノマエアッタダロ」
「へえ……」
私は改めてその腕時計を見つめた。
少しアンティークっぽい雰囲気もあるその時計は、とても簡素なデザインだ。無駄なものが一切ない。
フィリップに散々『かっこいい時計』と聞いていた私は、勝手に文字盤から機械仕掛けが半分見えているとか、時計の枠からねじ回しが何個も飛び出ているとか、そんなごっつい時計をイメージしていた。
初めてみるその実物と、想像との違いに驚いた。
「なんて読むんだろ?」
「『パテック・フィリップ』ダ」
「パテック・フィリップ? もしかして、フィリップの名前ってここから取ったんですか?」
私は真斗さんに話しかける。
「うん、そう」
真斗さんは作業しながら短く返事した。
「へえ……」
なんてことだ! ディズニー映画の王子様の名前を腕時計の付喪神様に付けるなんて、真斗さんってば見た目に寄らずなんてロマンチックな人なのねと内心で大笑いしていたのに、ロマンチックな奴は私だったらしい。王子様は全く関係なかった。
「これって、有名なメーカーだったりするんですか?」
私は両手を畳につき、座り込んで作業する真斗さんの手元を覗きこむ。
パテック・フィリップ。私は聞いたことがない腕時計メーカーだ。
見るのも、多分初めてな気がする。
「世界最高峰とも言われる腕時計メーカーだよ」
真斗さんはその腕時計を私に見せるように、目線の高さに上げた。
「二〇一九年に、ここの腕時計がオークションに出されたときのニュースが流れていたんだけど、いくらだと思う?」
「オークション?」
真斗さんの意味ありげな聞き方に、私は眉を寄せる。
以前、真斗さんからシャネルのマトラッセの値段を聞かれて大外ししたことがある。この流れは、きっとそのオークション金額はびっくりするほど高額だったに違いない。
びっくりするほど高額っていったら一体幾らくらいだろう?
全然想像がつかない。でも、ただの時計だし……と、私はうーんと悩み、おずおずと金額を言った。
「一千万円!」
真斗さんはゆっくりと口の端を上げ、ニヤリと笑う。
「外れ。正解は約三十四億円」
「さ、三十四億!?」
想像を遥かに超えた高額具合に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。時計に三十四億円って何? 都心の一等地にビルが買えちゃうんじゃないの!?
「それが腕時計の落札額としては過去最高額のはず。その前の時計の過去最高落札額は二〇一四年のオークションで出された二十四億円。それも、これと同じパテック・フィリップ社の懐中時計だった」
「うそ……」
あまりにスケールのでかい価格に唖然としてしまう。
フィリップって、そんな凄い時計なの?
ただのお喋りなインコだと思い込んでいたのに!
「もしかして、この時計もウン億円?」
うっかり触って傷なんてつけたら大変だ。一生かけても払えない借金を負う羽目になる。
私はちょっと遠巻きにその腕時計を眺めつつ、恐る恐る尋ねる。
真斗さんは数回目を瞬き、けらけらと笑った。
「そんなにしないよ。そもそも、ウン億円のものを質入れするっていうことは、うちがその額を相手に貸し付けるってことだぞ。さすがに無理だろ」
真斗さんは肩を揺らしながら、手に持っていたフィリップが宿るというその腕時計を置いた。
「これはパテック・フィリップ社の『カラトラバ』っていうシリーズだよ。今の定価は……二、三百万円くらいじゃなかったかな。このブランドの代表的なモデル」
室内灯を浴びた時計の金縁が鈍く光る。
私はおずおずと、その時計を覗き見た。クリーム色の文字盤には枠と同じ金色の針が嵌っている。そして、文字盤の六時の位置には独立した秒針盤がついていた。
「全部、一流の職人が手作業で作成している。親から子へ、子から孫へ受け継ぐ時計って言われていて、永久修理保証なんだよ」
「全部手作業? 永久?」




