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「そう。結婚しようと思って。でも、早く辞めすぎちゃって暇だったから、ものの試しにちょうど目についた採用面接を受けたんだ。先週から、アパレル関係の販売をやっているの」
私は暫し目を瞬かせてから、その意味を理解してどっと嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
その相手はもしかして──。
「淳一さんとですか?」
「うん。あの後しっかり二人で話し合って、とんとん拍子に話が進んで。婚約指輪も買ってもらったのよ。ほら」
ミユさんは嬉しそうにはにかむと左手を顔の前で見せるように立てた。人差し指には大きなダイヤモンドがついた指輪が光っている。
「わあ、素敵!」
つくも質店の室内灯を受けてキラキラと輝くそれに、私は目を奪われた。ミユさんが指を僅かに動かすたびに、たった一粒の石から無数の煌めきが放たれる。
「これがミユさん──あ、汐里さんが欲しいって言っていた指輪なんですか?」
私は『ミユさん』と言いかけて慌てて『汐里さん』と言い直す。もう夜のお仕事を辞めたのだから、源氏で呼ぶのはよくないと思ったのだ。
あのとき、淳一さんはミユさん改め汐里さんが欲しいという指輪をプレゼントしてけじめをつけたくて、副業を始めたと言っていた。
指輪を眺める私に、汐里さんは再び手を振って見せる。
「ううん。これは御徒町で買った。ルースを選んで、台座に嵌めてもらったの。昔淳一に欲しいって言ったブランドは、たいして何も考えずに口走っただけなのよ。無理して買ってほしいとは思わないし、好きな人にもらえるならどこのだって嬉しいでしょ」
ミユさんは少し照れたように笑う。
「御徒町?」
私は予想外の地名に首を傾げた。
御徒町とは、山手線で上野の隣の駅だ。秋葉原駅と上野駅のちょうど中間地点に位置しており、湯島からもそんなに遠くはない。距離で言えば五〇〇メートル位しか離れていないと思う。
たしかに都心ではあるけれど婚約指輪を買うようなお洒落な街には思えなかったのだ。
「御徒町は貴金属の卸問屋街として有名なんだよ。宝飾店よりも廉価にいい石が手に入る」
汐里さんが持ち込んだ品々を査定していた真斗さんが顔を上げ、補足するようにそう言った。立ち上がった真斗さんは、全ての査定結果と金額を汐里さんに提示する。量が多いだけに、なかなかの額だ。
「うん。じゃあお願いします」
汐里さんがそれでいいと言ったので、真斗さんはちょっと待っていてほしいと告げて奥へと向かった。カウンターには私と汐里さんが残される。
「梨花ちゃんはさ、なんでここでバイトを始めたの? あんまり目立たない場所にあるのに。家がこの近所?」
「あ、いえ。そういうわけじゃないんですけど……」
汐里さんに聞かれ、私はおずおずと簡単にこれまでの事情を話し始めた。
私生活で上手くいかないときにちょっとたちの悪い男性に引っ掛かり、縁あってつくも質店で働くことになったと。
「ふうん、そうなんだ」
汐里さんはカウンターに肘をついたまま聞いていたけれど、ふと真面目な顔をした。
「ねえ。恋は常に、前だけを向いた方がいいよ」
「え?」
「つまりね、後ろは振り返らない。振り返ったとしても、自分がいけなかったところだけを反省して、次に生かすだけ。たらればを考えても仕方がないし、間違っても気持ちのなくなった相手に縋り付いて復縁しようとか思っちゃ駄目。次の恋でもっと幸せになればいいの」
「はあ……」
大真面目な顔をした汐里さんを、私は毒気の抜けた顔で見返した。言われずとも、健也と復縁したいという気持ちは全くない。
汐里さんは私の表情からそれを感じ取ったのか、安堵したように息を吐く。
「梨花ちゃんは大丈夫か。真斗君、優しそうだもんね」
「へ?」
ぽかんとする私に対し、汐里さんはにやりと意味ありげに笑う。
その意味を理解した瞬間、耳まで赤くなるのを感じた。
汐里さんは未だに私がついた『真斗さんと付き合っている』という嘘を信じているのだ。
「お待たせしました」
あたふたしていると、すっかりと聞きなれた、落ち着いた低い声がする。真斗さんの右手には、汐里さんに支払うためのお金が入った封筒があった。
「どうかしたの?」
顔を火照らせて耳まで赤くした私を見て、真斗さんは怪訝な表情を浮かべた。
「ううん、なんでもないよ。女同士の話。ね、梨花ちゃん」
汐里さんはくすくすと楽しげに笑った。
その日、私と真斗さんは汐里さんを門の外までお見送りした。無縁坂の通りに出ると、汐里さんはこちらを振り返る。
夜の仕事を辞めた汐里さんは、もうここにお客様のプレゼントを売りに来ることはない。もしかしたら、つくも質店に来るのもこれが最後かもしれない。
「今までありがとうね」
「はい。こちらこそ今までありがとうございました」
「一回も真斗君を接客できなくて、残念だったなぁ」
ちょっと不貞腐れたように汐里さんが口を尖らせると、真斗さんは苦笑した。汐里さんは口許に笑みを浮かべてそんな真斗さんから目を逸らすと、私を見つめてにこりと笑う。
「梨花ちゃん。よかったら、今度うちのお店に買いに来てね」
「はい、是非」
私は笑顔で頷き、その背中を見送った。
店内に戻ると、真斗さんと今日買い取ったものの撮影やネットショップへの登録を行う。数が多いだけに、気付けば窓の外は真っ暗になっていた。
時計を見ると七時近い。そろそろ帰らないと。




