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後日、飯田さんと真斗さんはささやかな歓迎会を行ってくれた。
つくも質店から無縁坂を登ると、東京大学の本郷キャンパスがある。
本郷キャンパスは都心の一等地にもかかわらず、端から端まで地下鉄の一駅分にも匹敵するほどの広大な敷地を持つ立派なキャンパスだ。
その本郷キャンパスには複数の入り口があるが、無縁坂から一番近いのは、東京大学医学部附属病院が近い『鉄門』だ。鉄門の正面には、病院のまだ新しい建物が見えた。
「鉄門って、東京大学の医学部に入るのが難しすぎて『鉄の門』のようだから鉄門っていうんですよね」
私は得意げにとなりを歩く真斗さんへと話しかける。
「はあ? 誰だよ、そんなでたらめ教えたの? 鉄門は、ここに種痘所があった名残からだよ。種痘所の門が黒い鉄製で、『鉄門』」
「え!?」
呆れたように真斗さんがこちらを見下ろしたので、私は狼狽えた。誰の情報って、亜美ちゃん情報だ。ちなみに、種痘所とは天然痘の予防と治療を目的に作られた施設で、今でいう医学研究所のようなものだ。
(知ったかぶったら、恥ずかしい……)
思わず耳が赤くなる。髪の隙間からそれが見えたのか、真斗さんは声を殺して肩を揺らしていた。
鉄門から東京大学の構内に入り、しばらく西に歩くと歴史を感じさせる大きな赤い門が見える。
加賀藩十三代藩主である前田斉泰が将軍家から妻を迎えるにあたり建立したというこの門は、国の指定重要文化財にも指定されている赤門だ。東京大学の本郷キャンパス正面入り口としても有名で、その名の通り、朱色に塗られた大きな門だ。
この赤門を抜けると大きな幹線道路──本郷通りに出る。この本郷通りを渡り、少しだけ本郷三丁目駅方面に歩き、小道を入るとあるのが『菊坂』だ。
実はこの辺り一帯は文筆家として有名な樋口一葉ゆかりの地として知られている。趣味で小説を書いている私としては、一度ゆっくりと来てみたいと思っていた場所だ。
菊坂の都心とは思えないような静かな雰囲気の商店街には、樋口一葉のゆかりの地を紹介する案内板も設置されていた。
その通りを歩きながら、私は隣を歩く真斗さんを見上げる。
「どこに行くんですか?」
「喫茶店なんだけど、多分遠野さんは好きだと思う」
「私が好き?」
私は意味ありげな言い方に、首を傾げる。
私が好き……。
なんだろう? 喫茶店は喫茶店でも、美味しいお菓子が食べ放題とか?
そんな想像をしていると、真斗さんと飯田店長は通りからさらに一本、細い道に入った。
両手を広げたくらいの幅しかないその道を見て、私は戸惑った。本当にこんなところにお店があるのだろうか。
「ここだよ」
立ち止まった真斗さんがこちらを振り返ったとき、私はポカンとしてしまった。
だって、そこにあったのは喫茶店というか、ペットショップだったのだ!
青色ののぼりには大きく『金魚』と白い字で書かれているので、正確に言うと金魚屋さんだろうか。通りから見える水槽では、近所の小学生と思しき子供達が金魚釣りを楽しんでいた。
呆気にとられる私をよそに、真斗さんはそのすぐ脇にある扉を開ける。すると、すぐに上と下に向かう階段があるのが見え、玄関前にはたくさんの金魚グッズが置かれていた。
もしかして、これは──。
「喫茶店なんですか?」
「そうだよ。喫茶店だってさっき言っただろ?」
驚く私を見て、真斗さんが笑う。
「前に土屋さんの出張査定に行ったときに玄関の金魚をじっと見ていたから、喜ぶかなって思ってさ」
「はい。面白いです! こういうの、好き」
私はきょろきょろと辺りを見渡す。店内には金魚にまつわる小物が至る所に置かれていた。メニューは普通の喫茶店なのに、面白い!
「金魚って、お姫様みたいじゃないですか?」
「お姫様?」
案内されたテーブルの正面に座る真斗さんと飯田店長には私の意図が伝わらなかったようで、二人は不思議そうな顔をしてこちらを見返してきた。
「ひらひらの尾が、まるで赤いドレスを着ているみたいに見えませんか? あの姿が、ダンスを踊るお姫様みたいだなって」
昔、家でリュウキンを飼っていたとき、よくその姿を眺めていた。
ひらひらと水中で揺れる赤い尾が、まるでお姫様のドレスが揺れているようだなと思ったのを覚えている。おとぎ話で王子様と踊るお姫様のドレスの裾も、あんな風に揺れるのだろうかと想像した。
それを聞いた二人は顔を見合わせると、「面白いアイデアだ」と楽しそうに笑った。
みんなそんな風に見えているのかと思っていた私は、逆に驚いてしまう。
「さすが作家志望。着眼点が面白い」
「そうですか?」
「普通、そんなこと思わないだろ。それで何か書けばいいのに」
真斗さんは運ばれてきたこの店オススメの薬膳カレーをスプーンで掬う。私も一口、口に運んだ。色が普通のカレーに比べて黒いけど、味はカレーだ。美味しい。




