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一〇月も下旬となった今日この頃、街ではハロウィンの飾り付けが至る所で見られるようになった。
無縁坂から少しだけ見える旧岩崎邸庭園の木々の一部は、いつの間にかほんのりと黄色に色づき始めている。もう少ししたら、真っ赤に染まる景色が見られるかもしれない。ぼんやりと頭上を眺めていると、ザッと強い風が坂上から吹きぬけた。思ったよりも冷たい空気に思わずぶるりと身震いして、首元の服を手でキュッと引き寄せる。
「こんにちはー」
戸を引くと、珍しく先客がいた。
後ろ姿で目に入った茶色く染められた髪は、背中の真ん中位の長さで毛先がくるんと巻いてある。服装は長袖の薄手のニットにジーンズを合わせたカジュアルなものだったが、足元の高いヒールが女性らしい印象を与えていた。
そして、ちょうど彼女の斜め前、カウンターの上には、金色のチェーンと黒い革紐が絡まった印象的なショルダーチェーンが付いた黒い鞄が置かれているのが見えた。
カウンターの向こう側にいる真斗さんはテーブルの上に置かれた商品の査定を行っているのか、小さなルーペを覗いて小さなポーチの内側に付いたロゴを確認していた。
すぐに私が来たことに気付いたようで顔を上げると視線で奥を指したので、中に入って来いということのようだ。私はおずおずと女性の横を通り抜けて真斗さんの方へ行く。
カウンターの上には先ほど見えた黒い鞄のほかにも、たくさんの箱が積み重なっている。女性の脇を通ったとき、甘ったるい香水の匂いがスンと鼻孔をくすぐった。
「こちらも非常によい状態ですね。傷もありませんし、ランクAでお引き取りします」
「やったー! ありがとねー」
その女性は甘えるような声で歓声を上げると両手を顔の前で合わせる。真斗さんは今持っていたポーチをカウンターの上に戻すと、今度は黒い鞄へと手を伸ばした。そして、女性には買い取り申し込みの用紙を差し出す。
「もう少しかかるので、こちらを記入してお待ちいただけますか?」
「これさあ、毎回毎回同じことを書いていて面倒くさいんだけど、省略できないの?」
「決まりなので、すいません」
「えー、固いなぁ。まあ、どうせ待っているんだからいっか」
女の人はくすっと笑って、目の前に差し出された用紙への記入を始める。
下を向いているのをいいことに、私はその女性を窺い見た。まつ毛エクステをしているのか、長い睫毛はくるんと上を向いて目元に影を作っている。二重のはっきりとした大きな目元のせいで、化粧はさほど濃くもないのに華やかな雰囲気がある。そして、首元にはお花のような形をした白いネックレスを付けていた。
一方、真斗さんを見ると女性が持ってきた黒い鞄を片手で持ち上げ、それをじっくりと眺めていた。
黒い皮にはダイヤ模様のような交差状の縫い目が付いており、肩ひも部分は金色のチェーンと黒革紐を組み合わせたような特徴的なデザインだ。フリップ部分にはアルファベットの『C』を左右対称にひっくり返して重ねたような金属が付いている。
随分と特徴的な鞄だなあと思って眺めていると、真斗さんが口を開いた。
「シャネルのクラシックハンドバックですね」
「そう」
ペンを走らせていた女性はちらりと真斗さんを見たが、またすぐに手元へと視線を戻した。僅かに眉を寄せた真斗さんは、フラップを開くと中を覗き込む。
「書けたよ」
暫くすると女性はペンをカウンターの上に置き、鞄を査定している真斗さんへ声を掛ける。
一方、真剣な眼差しでバックを見つめていた真斗さんは、何やら難しい表情をしたまま顔を上げた。
「これ、うちでは買い取りできないですね」
「え?」
私は驚いて小さく声を上げた。つくも質店でアルバイトを始めてまだ一カ月弱だけれども、これまで『買い取りできない』と断った商品はなかったのだ。勿論、あまり状態がよくないものにただ同然の額を提示することはあったけれど『買い取りできない』ではなかった。
「あー、やっぱり」
女性は真斗さんの答えに特に驚くふうでもなく、落ち着いた様子で返却された鞄を受け取る。そして、何事もなかったかのように持っていた紙袋にその鞄を突っ込んだ。
「じゃあ、今の以外をお願い」
何も言われていないのに女性は財布から運転免許証を取り出し、記入済みの用紙と一緒に真斗さんへと差し出した。
「かしこまりました」
立ち上がった真斗さんは免許証とその紙を見比べながら、鉛筆でチェックを入れてゆく。高価な古物を買い取る際は盗品である可能性もあるので、必ず本人確認が必要になるのだ。
「前回から変わってないよ」
「みたいですね。こちらはお返しします」
真斗さんは免許証を女性に返却すると、カウンターの上に置かれたお店用のパソコンをカタカタと操作する。そして、店の奥に戻ると封筒に札束を入れて戻ってきた。