脱原発
小説というより、勉強ノートだ。読み直して「よくぞ勉強したもんだ」と笑ってしまう。しかしその笑いには深い怒りがあった。何ミリシーベルト、覚えていますか?今ではいろいろと知られただろうが、再度勉強のつもりで読んで貰いたい。いつからこの国の人は怒らなくなったのだろう。本気で怒り、行動し、原発を福島からなくし、破天荒に町の復興を図る人達の物語である。長いので、まず終章を読んでから・・変な小説だ。
第1章東京編
2011年2月22日、ニュージーランド南島の最大都市、クライストチャーチでM6.3の強い地震があった。古いイングラドを思わせる建物が多く崩壊し、語学留学していた邦人が通っていた学校が崩れ、邦人学生ら23人が被災し、11名と連絡が取れていないと23日の新聞の一面は伝えていた。
藤井俊介は「あの高山源三もそう言えば、語学留学でニュージーランドに行ったはずだ。たしか半年の留学期間だったから、帰ってきているのか、ひょっとしたら遭遇しているのではないか」と案じた。
源三とは故郷福島で同じ高校だった。親しくはなかったが、一年年生のときクラスを同じくした。「腰の軽い奴」それが、俊介の一番の印象で、どちらかというと好きでなかった。俊介は陸上部で長距離をやっていた。クラブ活動で女の子と付き合っている余裕などなかったが、源三は学校の行き帰りの女の子がよく変わっていた。
それが3年前、北千住の駅で源三から声をかけられたのだ。俊介は32歳、独身。常磐線上野駅から6つ目の駅、綾瀬にアパートを借りて住んでいる。東京に出てきて、6年になる。従業員百人ほどの建設会社で建設重機を運転している。休みの日、買い物がてらにぶらりと北千住に出てきた。北千住は綾瀬の上野よりの隣駅である。源三はこの北千住で一番大きな病院で看護師として勤務、5年になり、病院に隣接した寮に住んでいると語った。東京の私大を出たけれど思うような就職口もなく、1年アルバイトをした後、看護学校に行き直したのだという。
それから、2ヶ月に一回位の付き合いが始まった。会うのはいつも綾瀬の駅前の焼鳥屋で、俊介が連れて行ったのだが、「こんな、旨い焼き鳥は北千住、南千住でもない」と、偉く気に入ったのだ。源三は腰の軽いのはいがめないが、付き合ってみると、自分なりの考えを持って生活していた。仕事柄、女性との付き合いは相変わらずらしい。
「お前に前から訊こうと思っていたのだが、どうしてあんなしんどい長距離をやってたんだ」と、源三が訊いて来た。
「俺も訊こうと思ってたんだが、どうして女の付き合いに熱心なんだ」と俊介は受け流した。
「そりゃ、楽しいからさ」
「俺も楽しかったからさ」
「でも、走っているお前は苦しそうな顔してたぜ」
「苦しいのが好きな奴もいる」
「へー、変わってんだ。女とは付きあっても楽しくないんだ」
「別にそうでもないが、きつい仕事で職場と寮の往復じゃそんな機会もないよ」
そんな会話があって、源三に紹介されたのが、石野綾子であった。
「仕事は出来る。美人の範疇だ。しかしお堅い。俺のタイプじゃない。結婚をあせっている。付き合ってみるか?」と、紹介されたのだ。
綾子は源三と同じ病院の看護師で、年齢は30歳。源三の美人の基準は当てにならなかったが、しかし俊介は昔どこかで会った様な懐かしさを感じた。おっとりして見えるが、芯はしっかりしている。信州松本の出身で、源三とは看護学校が同じだった。
「職場まで同じになるなんて最悪。実習のときどれだけ面倒見さされたか・・」と、源三のことを語った。
源三より電話が入った。
「心配したろう。スマン、ニュース見ただろう。3日前に無事帰国していて、休暇を貰って成田から直接、浪江の実家に帰っていたんだ。明日、東京に帰る予定だ。土産を持って行くよ」。無事だったら何よりだ。
昔から源三は悪運の強いとこがあった。焼鳥屋で会って、源三は「つくづく人の運命は分からないものだ、国際医療救急隊の看護師を目指して、語学研修で行ったのだが、今回の災害でその思いを一層強くした」と、何時になく真剣な口調で語った。
***
それから、1ヶ月後、まさかこの日本でこんな大きな地震が起こるとは、俊介も源三も夢にも思わなかった。地震に加え、千年に一度という大津波が東北から関東にかけての太平洋沿岸を襲った。特に三陸から福島にかけては見るも無残なものだった。
町ごと流されていく津波の映像は幾ら見ても、胸が震え、津波の恐ろしさをまざまざと知らされた。それだけではなかった。地震、津波で福島の原発の電源がストップし、翌日には水素爆発を起こし、放射能を撒き散らす最悪の事態となり、地震、津波、原発事故と三重の苦しみを人々は味わうことになった。
俊介の故郷は福島県の浪江町であった。地震、津波のニュースを見て、まず父親に電話を入れたが、通じない。2、3の友人にも入れたが何れも通じなかった。一瞬躊躇したが、そんな場合でない、真知子に電話を入れたがやはり通じなかった。こんな時に通じない携帯電話とは何のためにあるかと腹立しかった。真知子の家は漁師で民宿もやっていて、海の傍だ。無事でいて欲しいと願った。
政府は11日夜、原発事故に対して、緊急事態宣言を発し、半径3キロ以内の住民6千人を緊急避難させるよう、県と、大熊町、双葉町に指示を出した。その後、直ぐ3キロを10キロに訂正した。住民達は詳しいことは分らなかったが、爆発と放射能の恐怖の前に、着のみ着のままに避難した。
翌12日午後、原発1号機の建屋が爆発した。政府は同日午後6時25分、原発住民の避難範囲を半径20キロに拡大した。新聞を見て俊介は父の家が20キロ圏にないことを確認してホットした。その後、8時ごろ、父、康之より電話が入った。車で福島まで出てきて、公衆電話からかけていると言った。
「俺も、家も無事だ。それより原発事故で会社から召集が来たので、明日から原発に入る予定だ。又連絡する」
「気をつけて」と言おうと思ったが、それより先に電話は切れた。依然、真知子にも、友人にも連絡はつかなかった。
その後、20キロ圏から30キロ圏は自主避難という、避難していいのか、いてもいいのか、人々が判断に迷う指示が政府より出されたが、ともかく30キロ圏は危険地域とされた。俊介の家は浪江町と川俣町との境に位置し、かろうじて30キロ圏の外にあった。
地震と津波にはまさかと思ったが、その後の原発の事故には、『遂に起きた』と、俊介は思った。TVが映し出す東京電力第一原子力発電所の遠景を見ながら、生まれ育った浪江町の事を思い出していた。
福島県双葉郡浪江町、通称、浜通りの中央部に位置する。人口2万人ほどの町で、人口は減りも増えもしない、変り映えのしない田舎町だ。今回、津波の災害に遭ったのは、請戸漁港から請戸川に沿っての平坦地である。浪江町の地図は横に細長く、真ん中でくびれ、浜地区と陸部に食い込んだ所に分かれる。
俊介の家は陸部の奥、川俣町と二本松市との三つが接する位置にあった。よって津波の被害とは無縁であったし、避難地域の指定からも免れた。第一原子力発電所があるのは大熊町と双葉町である。大熊町には今回問題となった1号機から4号機まであり、双葉町には5号機、6号機がある。第二発電所は4基あり、西に隣接した富岡町、樽葉町にある。実に、浜通りは、ズラーと並んだ原発通りであるのだった。
原発の1号機が営業開始したのが、1971年(昭和46年)だから俊介が生まれる前から存在した。73年にオイルショック、これが原発推進を加速させた。最後の第二原発の4号機が出来上がったのが1987年、ソ連ノチェリノブイリの事故があった翌年、俊介の小学校2年のときだった。
***
俊介の父、康之は会津の農家の次男として生まれ、工業高校を出て東京の蒲田にある電気製作の工場で働いていた。そこで、同じく働く敏江と知り合って結婚した。敏江の母が亡くなり、父の面倒を見なければいけなくなり、地元の人の口利きで、康之は原発関連の下請け会社で仕事を得る事が出来、二人は浪江の町に帰って来た。そして、俊介を産んだ。
康之は東京の町工場に勤めながら、夜は勉強にいそしみ、独学で電険3種、2種と難しい電気の資格を取った。「お父さんは頑張り屋じゃ、俊介もその血を受け継いでいるから頑張らにゃ」が母のよくする言葉だった。俊介が生まれて3年もしたころ、祖父が脳溢血で亡くなり、母はあまり多くない田畑だが、その仕事を引き継いだ。
康之が休日に母を手伝おうとすると、「あんたは、ちゃんとお勤めの仕事があるから、休んでいて」と云って、手伝わさなかった。康之は仕事から帰ってきては原子力関係の本を勉強するようになり、その関係で必要な資格もとり、会社では技術屋として必要な人材となっていた。
だから、幼い頃、俊介は父に遊んで貰った覚えがあまりない。父親とキャッチボールをしたりする他所の子が羨ましかった。中学校の時だったか、下請けなのに、何でそんなに勉強しなければならないか聞いたことがある。
「下請けでも、職場は原子力発電所で、配管一つでも間違ったら、自分の命だけではすまん」と云うのが康之の意見だった。
中学校の時だか、母に「何で、あんな面白くも可笑しくもない男と結婚したのか?」と俊介が訊いた事があった。机に向かっている父か、台所でタバコをくわえ、苦虫を噛み潰した顔をしている父の姿しか、俊介には記憶がなかったからである。
「なんでやろぅね。あれでも、お父さんは結構面白いとこがあるのよ。何より勉強家じゃし、私は勉強でけんかったから、勉強する人が好き」と母は笑った。 夫婦には夫婦にしか分からない事があるらしいと俊介は思った。それでも、春には弁当を持って花見をし、秋には近場の温泉に一泊で行った。こんなとき、母はこれ以上嬉しいことはないという顔をしていたが、康之は相変わらず家にいるときと同じ顔をしていた。
康之が晴れやかに笑った顔をした事が一度あった。それは、町内のマラソン大会のことだった。ゴールのテープの付近でトップランナーは誰かと、人々が今か今かと待っている。母に手を繋がれた幼い俊介もその中にいた。
はるか向こうの家角を曲がって、芥子粒ほどの人影が二つ現れた。やがて、近づいて、その姿をはっきり見せた。その一人が康之であった。母はあらん限りの大声で「あんた、頑張ってェー!」と声援を送った。俊介も母の手を離し、両手を握り締め声援を送った。康之がテープを切ったとき、母は人目もはばからず、父に抱きついた。康之は、そのとき、これ以上はない晴れやかな笑顔を見せ、その笑顔で俊介を見た。
俊介が高校1年のとき母、敏江が亡くなった。めったに病気をしない敏江が腹痛を訴え入院した、盲腸かと思ったが、胃癌で、すでに手遅れで1ヵ月後に亡くなったのである。
「あまり苦しまなかったのが救いだった」と康之は言ったが、涙は見せなかった。苦虫を噛み潰した顔がさらに気難しくなり、怒りっぽくなった。一緒に暮らしているのに、必要最低限度の言葉しか発しない。お互いこんな雰囲気では冗談も言えなかった。母のいるときは、学校のことや、父の悪口も含めて冗談を言えた。女がいない男だけの家というのは、殺風景で寒々しいもので、家には女がいる、妹でもいてくれていたら良かったのにと俊介は思った。
***
俊介が敏江を病院に見舞ったとき、死期を察したのだろうか、「一度お前は、私に『あんな面白可笑しくもない男と何故結婚したのか?』と訊いたことがあったね」と前置きをして、めったに喋らない夫婦間の事、一緒になった経緯を話した。
「私は中学校を出て直ぐ、浪江から東京の工場に女工として入ったの。部品を油で洗浄する仕事で、匂いはきついし、身体は汚れるし、中腰はきついし、慣れるまでは大変だった。お父さんは工業高校を出て、その会社で2年目の新米工だった。従業員は全部で50人位の町工場で、敷地内に寮があって、お父さんも寮を共にしていたの。1階が男子寮で2階が女子寮だった。1年が過ぎ、連休には実家に必ず帰ろうと思っていたのに、寮の当番を先輩から押し付けられて、しょんぼりしていた私に、お父さんが声をかけてくれたのが二人の付き合いの始まりだった。寮は日曜日には食事がなく、一緒の外食がデートがわりね。職場の同僚に分からないように、一駅おいたところで待ち合わせたり、苦労したわ」。敏江は昔を思い出してか、表情は楽しそうであった。
手元にあった水で一息入れて、話を続けた。
入って5年、私は21才になっていた。お父さんは25才、勉強家で、難しい電気の資格も取り、若手の技術者として信頼を得ていたわ。大口の急ぎの仕事が入って残業の連続で、いよいよ明日の生産で完納だというときに、ある工員さんの操作ミスで電源盤が故障して生産ラインが止まったの、その日、お父さんはその工員さんと一緒に徹夜で故障を直し、ラインを復旧したの。社員は勿論、社長の信頼は絶大なものとなったわ。
でも、私はあまり嬉しくなかった。社長には一人娘さんがいて、綺麗な人で、工場の若い男達で憧れないものはいないぐらいだった。心配は当たったの。案の定、婿養子になって将来会社を継いで欲しいという話が社長からされたみたい。お嬢さんも、復旧の件以来、まんざらでもなくなったらしいの。こんなとき、社内の噂は、速く正確のものよ。お父さんとは結婚の約束はなかったけど、身体の関係はもう出来ていたわ。お父さんが何にも話さない以上、私も聞くわけにもいかなかった。いいえ、訊こうと思えば聞けたけど、答えを聞くのが怖かったの。口に出せば全てが終わるような気がして・・結婚はいよいよダメと諦めようとしたとき、お父さんが社長さんの話を断ったという話を聞いたの。 それでも、お父さんは私に、何も言わなかった。社長の態度は急変したわ。いづらくなったお父さんは、「辞めようと思う。暫く職なしになるけど、一緒になってくれるか」と言ってくれたの。お母さんはどんなに嬉しかったか。お父さんは、あんたの言う通りだし、たまに手が出ることもあるけれど、わたしはいっこも辛くはなかった。あんたも、お父さんの良いとこを見てあげてね」
話し終えた敏江の目には、うっすらと滲むものがあった。俊介はいい話だとは思ったが、高校生で、まだ恋愛経験もない俊介には、実感を持って捉えることも、男女の機微を深い所で理解することも難しい事であった。それから、敏江は10日後に息を引き取った。
***
俊介は大学に行くつもりだったが、母が亡くなってからは、あまり勉強にもクラブにも身が入らないようになった。小学校からマラソンに熱心になったのは、やっぱり、父のあの笑顔のせいだろぅか。中学校から本格的にはじめ、学校の練習以外にも、毎日5キロを走る事を日課にしていた。
康之は俊介があまり勉強していないのを知っていて、「陸上を続けたいなら、東京の私学に行ってもよい」と言ってくれたが、俊介はそこまでして陸上を続けようとは思わなかった。大学の進学は諦め、地元の建設会社に就職した。営業で入ったのだが、体力を認められ、重機の運転の講習に行かされ、免許を2、3取らされ、運転の仕事についた。
康之は自分で弁当を作ったが、俊介は仕事場の近くの食堂を利用した。康之は車で、俊介はバイクでそれぞれ出勤した。康之はいつしか机に向かう事もなく、TVを見ながらの晩酌を始めだした。夕食は早く帰った方が作る事になっていたが、康之は進んでやっていた残業もしなくなり、康之が炊事係のようであった。
男二人、味気ない生活といえばそれまでだが、慣れてしまえば別段のことはない。しかし、対立関係が生まれてしまった中で暮らすのは、味気ない上に、息苦しさが加わった。それは、東京電力の原発事故の隠蔽を指摘し続けた大熊町の町会議員候補の選挙運動を俊介が手伝った事から発した。
2002年、俊介が24歳の時、福島県は原発の問題で大きく揺れた。第一原発3号機にプルサーマルの導入計画が提出された最中、8月、まさにその3号機で制御棒と直結の配管36本が損傷した。この年だけは、原発反対派は無論、原発賛成派も地元住民は原因の徹底究明の声を上げた。
中部電力の浜岡原発でも4月に水漏れ事故が起き、原発のある地元民は事故に敏感になっていたのである。地元住民の声に押される形で大熊、双葉町の町議会、及び県は原因の徹底究明を東電と国に求めた。この過程で、東電の数々の過去のトラブルが判明し、そのトラブルを隠してきた隠蔽体質が大きな問題となり、地元議会、県知事が東電、国に抗議する騒ぎになった。
ようやく、保安院の立ち入り検査が行われ、第一原発だけでなく、第二原発を含む他の原発機にも再循環系配管のヒビが見つかり、修理記録の虚偽記載までが判明するに及び、第一原発の全部の運転が一時停止され、1号機の運転の1年間の停止処分が決定した。時の経済産業大臣が謝罪し、東電はようやく検査の不正を認め、県、地元議会、住民に謝罪した。東電の他の原発でも同様の問題が発覚し、東電の原発の17基が2003年には一時停止する事態にまでなった。他県の人々は忘れてしまったかも知れないが、福島の人には忘れられない原発騒動であった。
この騒動の4年前の1999年には、茨城県の東海村で、わが国初めて臨界事故が起き、三井住友鉱業の作業員2名が死亡し、7百人近くが被爆する事故があったばかりである。「裏マニュアル」を使った、バケツ臨界と揶揄された事故であった。
俊介の会社は第一原発のある大熊町の駅前に所在した。駅前で毎日のように福島の原発問題を告発する町会議員候補がいた。万年候補で一回も当選していない。40代半ばの男性で、風采の上がらない、ボサボサ頭で幟の旗には市ノ瀬真一と名が書かれてあった。
5年も前を通っていると、聞くともなしに聞く片言一句が一つに繋がる。2002年の原発騒動の事態の推移で、人々は、彼の言っていた事の信憑がわかった。相変わらず風采の上がらぬ姿で語る彼であったが、何時しか足を止めて聞く人が増えていき、その人達の中から、彼を『町議会に送ろう応援団』が出来上がった。俊介もその一人であった。
***
俊介の高校時代、原発をもじって、原八先生という物理の先生がいた。本名は田山元、双葉町の出身で、地元きっての秀才で、京都の大学で原子力工学を勉強したという。大学でも将来を嘱望されたらしいが、主任教授と意見を異にしたとかで、大学での研究を諦めて、原子力関係の研究機関に勤めたりしたが、高校教師になって郷里に帰ってきたということである。
これには地元有力者になった同級生の口添えがあったという。これらは陸上部の先輩からの言い伝えだった。狭い田舎町では、噂は早く伝わり、意外と正確なのだ。「必ず2時間、原発の話をするからな」とも、陸上部の上級生は付け加えた。
理科系に属していた俊介はどんな授業をするのか興味を持った。先生は物理に興味を持って貰えたらそれで良いといった感じで、授業内容は平易で判りやすかったし、何より皆が喜んだのは、試験問題で出そうなところをサジェストしてくれる事であった。授業が原子核分裂の箇所にかかってきた。先生はまず、「自分が何故原子力に関心を持ち、原子力工学を学んだのか」から話し始めた。
《中学時代、広島、長崎の原爆写真集を見、その惨禍を知ったときから始まりました。人間は何と恐ろしいものを考え出すものかと身震いしました。原子と云う言葉を知ったはじめです。そして、「何故原爆は、広島と長崎の二つに落とされたのか?」という疑問が僕には生じたのです。戦争を早く終わらせる為の原爆投下なら、広島で十分でなかったか?何故、3日後の長崎に落とされたのか?》
俊介は、科学を勉強する人は変なとこに関心を持つものだと思った。考えもしなかった。
《調べると、広島の原爆はウラニウム型で長崎はプルトニウム型なのです。アメリカは二つ落とす必要があったのだと思ったのです。この聞きなれないプルトニウムという物質はどんなものか?凄いエネルギーを出す核分裂とはどんなものか?すごく興味を持ったのです。そして原子力の平和利用が言われた時代、原子力工学を専攻したのです。先週の授業で、原子を構成するのは原子核と電子であり、核は陽子と中性子より成り立っている事を学びました。まず、核エネルギーについて話しましょう。「質量はエネルギーの一つの形態である」と、アインシュタインは質量がエネルギーに変換できる事を発見しました。これを相対性理論と云います。原子核が分裂したとき、反応の前と後では質量の合計が少しだけ減少する事がわかりました。その減少した分だけエネルギーが発生します。これを一般に「核エネルギー」と呼んでいます》
アイシュタインが出てきた。相対性理論とはそんなものだったのか、原八先生はこの田舎高校生相手にアカデミックな講義を始めた。皆は少し偉くなったような気持ちで珍しく聞き入っていた。
《核分裂性物質で代表的なのが、君達がよく知っているウランです。このウランの原子核に中性子を1個ぶつけると、原子核がポコット割れて大きさのほぼ等しい原子核に分裂します。分裂の際、中性子が2~3個飛び出します。その中性子が次の原子核をまたボコット分裂させる。ねずみ算的に増えていくわけなのですね。これが核分裂の連鎖反応で、この過程でエネルギーを外部に放出します。原子核の崩壊過程は発熱反応で一度に大量の熱を出します。この連鎖反応をゆっくりと減速させ、エネルギーを持続的に取り出すのが原子炉で、高速で、一瞬に取り出すのが原子爆弾なのです。
天然ウランには核分裂を起こすウランと起こさないウランがあります。前者を仮にウランA.後者をウランBとします。ウランAは天然ウランの0.7%程度にしか過ぎず、残りは核分裂を起こさないウランBです。0.7%では原子炉で使えないので2~3%に濃縮して使います。これを濃縮ウランと云います。日本にはこの技術はなくアメリカの濃縮したウランを買っています。ウランBは核分裂を起こさないと云いましたが、これに中性子をぶっつけるとプルトニウムが出来るのです。プルトニウムは核分裂で出来る物質で、天然には存在しない物質なのです。原子炉内ではAとBのウランが混合されているのでプルトニウムは勝手に出来てしまうことになります。名前の由来「ブルートー」とは「地獄の神」という意味です。その放射能は強力で、半減期は気の遠くなるような年数2万4千年もかかり、その毒性はダイオキシンと並び、人類が作った最悪な物質の一つなのです。プルトニウムは核兵器の原料となります。原子炉があれば作れるという事になりますが、原発の軽水炉で出来るプルトニウムでは核兵器の原料にはなりません。濃度が問題になるのです。
原子炉の種類を説明しましょう。軍用のプルトニウムを作る生産炉と商業用の電力を作る原子炉に分かれます。後者は減速材の種類によって、水を使う(1)軽水炉、(2)重水炉は水素の同位体・重水素使うのですが、重水素は高価なのです(3)黒鉛炉は構造が簡単で原子力開発の低い国でも作れますが、発電効率が悪いのです。しかし核兵器用のプルトニウムが製造できるのです。ソ連のチェリノブイリはこれでありました。そして(4)高速増殖炉があります。電力発電のほとんどは軽水炉です。冷却に水を使いますので、河川や海の傍に作られます。高速増殖炉は減速材を使用せず、核分裂に伴って発生する高速中性子をそのまま利用します。そして冷却にナトリウムを使います。これで出来るプルトニウムは核兵器にも利用できます。日本には実用化にむけて実験炉「もんじゅ」がありますが、昨年、ナトリウム漏れ事故を起こして止まったままになっています。
ウランBとプルトニウムの酸化物を混合した燃料をMOX燃料と云いますが、このMOX燃料を軽水炉で使って発電に使う考えがあります。この計画をプルサーマル計画といいます。「もんじゅ」の事故で高速増殖炉の道が閉ざされた今、政府はこの計画を強力に進めようとしています。使用済み核燃料の再処理したプルトニウムを消費でき、資源の有効利用をはかれるとしましたが、元々、軽水炉はこの燃料を使う事を想定して作られていないのです。技術的な問題や、安全面での課題も多いのです。原発の町に住む者としてこの程度の知識は知ってもらいたいのです。「私達、原発はあまり知らないんです」では通用しないのです。原発をこの町に作った以上、全てのリスクを覚悟したのですから・・・》
***
先生の講義は続く。
《次に、使用済み核燃料の話に移りましょう。原子炉を「トイレを持たないマンション」によく喩えられます。上手い喩だと感心しています。使用済みの核燃料をどの様に処理するかという技術の確立を持たないまま、見切り発車をしてしまった所に原子力発電の悲劇があります。
処理方法として(1)そのまま埋没処理するワンススルー方式と(2)再処理方式があります。前者は一度使ったものを破棄し埋没処理する。その技術も未完成なのです。燃料プールという形で中間保管しているのが現状です。中間保管とはいい言葉ですが、核燃料が水の中でむき出しで置かれているのです。プールが地震なんかでひび割れを起こし水がなくなったとき、高い熱を出し、水と反応して水素爆発するリスクがあるのです。世界の使用済み燃料棒は原発にある燃料プールに貯められ、増え続けているのが現状です。核燃料は化石燃料のように全て燃えて、炭酸ガスと灰になるのとは違い、核燃料は(1)燃え残りウラン(2)核分裂生成物(3)新たに生まれたプルトニウム、これらが混然一体となったものとして残ります。使用済みの燃料棒を細かく切断し、化学的に処理をし、ウランとプルトニウムを取り出して再利用する。資源の乏しい我が国には有効なように思われます。これを核燃料サイクルといいますが、プルトニウムを主に使う高速増殖炉は「もんじゅ」で行き止まり、プルサーマルも燃料効率のアップも10%止まりで安全面の問題もあり、このサイクルはいまだ未完成なのです。
青森の六ヶ所村に再処理工場を作りました。世界で再処理工場があるのはフランスとイギリスです。日本は再処理をこの両国に委託しています。六ヶ所村の処理能力は、計画では完成しても、日本の原発の一部の処理能力しか持ちません。全国の使用済み燃料が集められて来るのですから、事故が起こったときは一原発の比ではありません。再処理の実験工場が東海村にあり、まさに東海村の臨界事故はこの再処理過程で起きた事故なのです。そもそも、考えられているのは、最終的には地下深層岩盤部に埋没処理するのですが、ドイツでも実験段階です。その場所すら日本では決められていないのです。国民の理解と合意を得ず見切り発車をしたつけです。ロケットにでも積んで宇宙にでも飛ばしますか。あながち冗談ではなかったぐらいです。死の灰と言いますが、灰にすらなれなくて、半永久に放射能を出し続ける、使用済み核燃料はそれ程厄介なものなのです。普通それ程までしてと、考えますね。理由は、最初に言いましたね、最初の原子炉は原爆を作った原子炉です。発電のエネルギーにもなりますが、プルトニウムは核兵器の原料になるのだという事です。動力炉「もんじゅ」や「MOX燃料のプルサーマル」といい、これらのこだわりは、核兵器に使用可能なプルトニームへの拘りなのです》
「では、日本は核兵器を持つんですか」と誰かが質問した。
「いいえ、日本は核不拡散条約に加盟していますから出来ない建前になっています。持ちたいのは、『いつでも持ちたいときには持てるぞ』というポテンシャルなのです。原発の町はいつでも核の生産工場に変われるのです」
俊介も、皆も最後の言葉に無言のショックを受けた。
先生は何事もなかったかのように話を続けた。
《核分裂生成物に簡単に触れておきます。原子炉が、事故が起こったとき、飛び散る放射性物質です。人体にどの様な影響があるか重要な問題なのです。セシウムは体内の骨に取り込まれ、半減期は30年と長く、ヨウ素131は甲状腺に取り込まれ、いずれも発癌のリスクは高いのです。高温では揮発性のこの物資がまず広範囲に飛散します。福島には第一と第二を入れて、現在、原子炉は10基あります。君達の住んでいる町は原発の町です。原子力工学を学んだものとして一つだけ言っておきます。もし原子力を制御できるエネルギーと思いあがったら、必ず痛いしっぺがえしを受けるだろうということです。大きな事故を起こしたとき、どんな惨禍が待ち受けているかは想像に難くありません。チェリノブイリが語っています。最悪の想定も入れておかねばならない。それが科学というものなのです。絶対安全などありはしません。最悪のとき、人間が近づけないようなものが技術なのかどうかと思ってしまいます。原発の町に住むものとして最低限知って欲しい事を喋りました。いずれ、この町を出て行く者も、もし、この町の惨禍を見たら、故郷をどんな思いで見ることになるか想像して欲しいのです。想像力は力です》
原八先生の長い講義は終わった。俊介は、先生が何故この町に帰ってきたのかが分かったような気がした。
***
この年の福島の原発騒動は市ノ瀬真一に味方した。執拗に訴え続ける事によって、やっと人々は耳を傾けるようになり、耳を傾けた内容が白日の下に晒されるに至って、彼を議会に送り出そうという輪が広がり、市ノ瀬は当選した。町会に入った市ノ瀬の論鋒は鮮やかで、追求の手を休めず、隠れていた東電の事故隠蔽の事実を次から次ぎへと明らかにしていった。原発推進派も沈黙せざるを得ず、町議会は東電、国に全容解明の抗議を決議するに至った。
又、1998年(平成10年)に一旦了承したプルサーマル計画を県知事佐藤栄佐久は今回の東電のトラブル隠しを問題として、了承を取り消し、この計画を推進したい政府と対立した。東電のトラブル隠し疑惑解明に政府が消極的だったのはこの辺にあった。「この計画を何としても進めたい立場にあった国と東電は共犯関係にあった」とは市ノ瀬議員の言であった。
俊介は原発に賛成でも、反対でもなかった。生まれたときからあったし、原発はこの地の一つの風景ですらあった。只、原八先生の講義を聞いてからは、父の原子力発電の本や、ノートを垣間見るようになっていた。
高校の物理の基本から、原子炉の種類、構造、電気関係の専門、歴史、国の原子力行政、法規、これが他国にまで及ぶ。康之のノートは克明で、何十冊にもなり学習の歴史を語っていた。
中学校のとき、父に何故そんなに勉強するのかを聞いたときの答えだけではない、康之の勉強ぶりに尋常なものではないものを俊介は感じた。康之のノートの冊数が多かったのは原発事故に関するノートであった。外国、国内問わず書かれていた。俊介は、いつの間にか、炉の種類や、簡単な構造位は言えるようになっていた。だから、市ノ瀬が駅で言っている事も誰より理解できたのだった。
選挙運動に参加したのは、市ノ瀬の執拗さに感心したのである。どうして、あまり得になりそうもないことに、そこまで打ち込めるのだろうかと思った。何か康之と共通するものを見たのである。そして東電の振舞いはあまりにも地元民を舐めた態度で、地元の推進派の人でさえ怒りだす始末であった。俊介も同じ思いであった。
市ノ瀬への選挙運動は、それ以上に、俊介は何か家と通勤以外の事に関わってみたかったのが本当のところだった。
ある日、俊介は康之から聞かれた。
「お前、原発反対派の市ノ瀬の選挙運動を手伝ってるのか?」俊介は別に隠すこともないので、「うん」と答えた。
「やめとけ、今は東電の問題が批判されているが、この地方は東電で食べさしてもらっている。この町で暮らすなら、反対派の急先鋒のお先をかついでろくなことはない」
「親父が、東電関係で仕事をしてるからって、原発反対派の選挙運動を手伝ったて、別段どうってことなかろうが」と、父に初めて逆らった言葉を口にした。
「俺が、東電関係で仕事をしている立場を慮って言っているのではない。日本には原子力発電が必要だから言っているのだ」
「だからといって、トラブル隠しが許されて良いわけないだろうが」と言い返した。
「うるさい。俺は、お前達を養うために東電の仕事をして暮らしてきた。この町も本来過疎になってもおかしくない町だけど、そうならずに済んでいる。そんな中でお前は大きくなったのだ」
「だから、賛成派になれということか」
俊介は、原発の事より、日ごろの不満をこの際にぶっつけようとしたのだ。あまり口答えをしたことのなかった俊介に、康之は少し驚いたようであった。
「反対するなら、しっかりした考えをもってやれ。原発は片手間でやるような問題ではない。おれが問題にしているのは、お前のその中途半端さだ。陸上にしたってそうだ。続けようと思っていたら続けられたのだ。今回の件でもそうだ、本当に東電に怒っているのなら、選挙運動を手伝うような中途半端は辞めろという事だ。やるなら、お前が市ノ瀬になれ。その根性もなかろうが!」
康之の怒りを込めた激しい言葉だった。俊介はその気迫の前に、これ以上受け答えをしても無駄だと思って、「人との待ち合わせがあるから」と言って、バイクに乗って出かけた。
陸上は中学、高校と6年間それなりに真剣にやった。県大会でも一万メートルで何回か入賞している。痛いとこを突かれた思いだった。
***
むしゃくしゃした気持ちを静めるには、酒かと思ったが、バイクで出かけてしまった。真知子を呼び出した。真知子とはお互いの仕事の都合でここ3週間も逢っていない。浪江の駅前の喫茶店で待ち合わせ、お茶をそこそこにして、ホテルに行こうと誘った。
「嫌よ、話したいことがあるんでしょう。話し聞いてから」と真知子は答えた。
真知子の家は浪江の浜地区にあり、漁師をやっており、民宿も兼ねていて、真知子は民宿を任されていた。魚の売り上げより民宿の売り上げの方が最近多くなり、漁は民宿用を優先した。新鮮な魚と、真知子の明るい接客は民宿を繁盛させた。真知子はテキパキと自分の意見をはっきり言う、俊介の母とは違ったタイプだった。
いつ、何処で出逢ったのか忘れた。それぐらいズート前から知り合っていたような、自然な感じがしていた。別に何時も身体の関係を持っていなければ不安という関係でもなかった。暫く逢っていなくてもなんと言うこともなかったし、俊介には、あまり気を使わず、使われず、良い相手だと思われた。無口な俊介が気をおかなくて喋れる唯一の相手だった。
真知子も俊介には遠慮のない意見を言った。真知子は22歳、知りあって、3年が過ぎていた。話をして、そのまま別れることも事もあったし、気分が合えばホテルに行くこともあった。真知子には高校生の弟がいたが、弟は漁師を継ぎ、民宿は真知子がやっていく事が決まっていた。結婚となると、養子でなくても一緒に民宿をやっていく事が条件だった。二人の間にはまだ具体的な結婚の話はなかったが、「何れ考えねばならないときが来るだろう」と俊介は思っていた。
一つ家に、対立関係が出来てしまった事は、父との生活を一層住みづらいものとした。あれ以降、父は何も言わなかったが、目が怒っていた。又、職場の上司から市ノ瀬の選挙運動を手伝った事を聞かれた。只、聞かれただけである。でも、それは注意されたのと同じ事だった。俊介の会社は原発関連ではない。宅地を造成し、販売する事をメインにしていた。それでもこの様な無言の圧力を受ける。地元企業は取引先やお客は原発関連が多いのだ。
市ノ瀬が当選してしまったら、原発に別段の興味もなくなったし、高校を出てから6年、仕事もマンネリに感じていたし、俊介は急にこの町にいる事が息苦しく感じられるようになっていた。どこかもっと広い所に行きたい・・「もう、父親とは住みたくない」と俊介は思った。
俊介は東京に行こうと、その思いを真知子に話した。
「それは、相談。それとも決めたの?」と真知子は聞いた。
「決めようと思う」と答えた。
「俊介はいいわね。嫌になったらさっさと出て行けるのだから。私のことなんか何も考えなかったでしょう。私ってそんな存在だったんだ」と、大粒の涙を頬に伝わらせた。
東京までついて来いと言えなかったし、言っても真知子は来っこない事は分かっている。民宿を真知子と一緒にやるのは楽しいだろう。一度はそんな事も考えた。でもこの町で今、一生を暮らそうとは思えなかった。何か言おうと思ったが、言うべき言葉は思い浮かばず、俊介は「俺は勝手な奴だ」と思った。
「駅までも見送らないからね。勝手に行けばいいんだわ」と真知子は言ったが、出発の日、「今日、何時の列車で行くの?」と携帯にメールが入り、『特上の旅立ち弁当』と言って手渡してくれ、見送ってくれた。それから2年、真知子が結婚した事を俊介は地元の友人より聞いた。
***
俊介の東京に出てきてからの生活は、別段、浪江に住んでいたときと大して変わらない。仕事も建設重機の運転の仕事だし、終わればアパートに帰るだけだった。大きな違いは、父の顔を見なくていい事と、いつも見ていた原発の建物を見ないことであった。職場で親しくなった友達が3人、たまに居酒屋に行く。それ以外には故郷を同じくする源三。そして綾子。俊介の行動半径は狭い。綾子と一緒に出かけた浅草から以西の東京は知らない。出てきてから一度も浪江には帰っていない。
2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とする国内観測史上最大の巨大地震が発生、千年に一度といわれる大津波が東北から関東にかけての太平洋沿岸を襲った。地震はマグニチュード9.0、津波の高さは10メートル以上、所によっては20メートルにも達したといわれる。岩手、宮城、福島3県では壊滅状態の地区が続出、家屋の倒壊、流失、火災は無論、多数の死者、不明者を出した。津波の被害は三陸地域から宮城県にかけて酷く、福島県浜通りの地区は津波被害に加え、翌12日の福島第一原発の爆発事故が起こり、半径20キロ圏内の住民は緊急避難を強いられ、いつ帰れるのか、解決が見えない中に置かれることになった。
新聞によると、1週間後の避難者は3県で約37万に達し、避難所では食料、医薬品、燃料などの不足を言われたが、鉄道、道路の補給路がずたずたの状態で、物資の補給も遅滞した。電気も水もない寒さの中で、続く余震に怯え、福島の人達はさらに放射能の恐怖にさらされた。東日本大災害と令名され、震災後1ヵ月にならんとする4月10日の新聞は、死者1万2千9百15人、行方不明者1万4千9百21人、避難者(避難所にいる人々)は15万3千6百人、建物被害22万軒と記している。減った避難者は、一時の避難を解かれた人は無論、長期に渡る避難所生活に親戚や、他所に身を寄せる人、復興の見切りをつけ地元を去っていく人達を含んでいる。救助活動に自衛隊10万6千人、警察1万1千人、米軍1万8千人が動員された。
ちなみに、戦後最大といわれた、1995年の阪神・淡路大震災と比べてみる。阪神は死者6千4百34人、不明3人、負傷者4万3千7百92人、建物全半壊25万棟、火災7千4百83棟、被害総額は10兆円といわれている。阪神の震災は倒壊と火災である。行方不明者と負傷者の数が両者の災害の相違を顕著に表している。東日本の不明者の大半は津波でさらわれていった人達である。阪神の負傷者は建物の倒壊に巻き込まれた人達で、死者の大半が倒壊した建物の下敷きになった人達である。阪神は大都市部の震災、一方、東日本は東北の太平洋沿岸の地方震災といえた。前者は、行政区は機能したし、無傷の隣接する大阪という大都市の補給基地を持った。後者は地方の小都市や町であり、町ごと罹災したところもあり、行政機能がダメージを受けた。
もう一つ、都市部災害と沿岸地方災害の特徴を端的に現しているのが、今回の原発の事故である。大阪湾、東京湾沿いには原子力発電所は一基もない。大都市部の繁栄は、地方にその危険リスクを押し付けてあったのである。
福島第一原発1号機で12日午後3時36分ごろ爆発が発生した。原子炉建屋が骨組みを残して吹き飛び、作業員4人が負傷し、放射性物質が飛散して敷地外にいた住民3人が被爆したと13日の新聞の一面は報じた。原因は地震で外部電源を喪失し、大津波で非常用ディーゼル発電機のポンプ設備が損傷。その結果、原子炉を冷却する機能を失い、水素爆発を起こしたとされる。放射能漏れが起きており、格納容器は破損していないものの、炉心燃料の溶融という深刻な事態が発生した。東電は海水を注入することを決定。避難指示の範囲を半径10キロから20キロ圏に拡大した。
1号機にだけでなく、14日3号機でも水素爆発を起こし黒煙を上げ、原子炉建屋上部が激しく壊れた。2号機でも炉心溶融を起こし、運転休止中であった4号機の燃料プールからも火災が発生し、4基全てが危機的状況に陥ったのである。
空気中には放射能を撒き散らし、海には汚染水を垂れ流し、土壌は汚され、解決の見通しもない中で、大爆発の危機も予測の中にあり、人々は放射能に怯え、いつになるか分からない避難生活を強いられる事となった。3月31日になって、東電はようやく1~4号機の廃炉を決定し、炉を安定した状態に冷却し、燃料を取り出せるようになるまでに「数年かかる」と長期化の見通しを語り、事故以来はじめて陳謝した。
俊介は2002年の福島原発の騒動を思い出し、「起こるべくして起きた事故だ」と思った。原八先生の講義が思い出された。燃料プールのひび割れ、爆発はまさにそれだった。東電は、事故の原因を想定外の津波のせいにしたが、地震そのもので配管がこわれなかったのか?地下に置いた非常用発電機が水を被り、動かなかったとは何ともお粗末な事かと腹立たしかった。
先生や市ノ瀬議員は無事なのかどうかを思いやった。父はこんな中、原発に入って仕事をするというが果たして、大丈夫なのか?白い防御服を身にまとった父の姿を想像した。海辺に住む、かつての恋人真知子は無事なのか?浪江の町で知っている人達の顔が次から、次に浮かんでは消えた。原発避難地域に指定されなかったら、捜索に入れて助かる命もあっただろうに。無念の手付かずの遺体を思った。
俊介の中に言い様のない怒りがこみ上げてきた。東電か、経産省の保安院か、「直ちに、健康の被害の心配はない」とオオウムのように繰り返す、TVに映る官房長官か、地方を札束で叩き、原発のリスクを押し付けた都会の享楽と上面の繁栄にか!いや、そんなものだけではない、もっと深いところにある怒りであった。原発を風景のように見ていた自分への怒りであった。
持って行き場のない悲しみと怒りが俊介の心の中に火をつけた。「帰ろう、浪江に帰ろう。父と一緒に仕事をしよう。原発に入って仕事をしよう」と思った。原発に反対、賛成どうでもよい。町を守り残すため、誰かがやらなければと思った。
父や、先生や、市ノ瀬に共通するものは、仕事や、立場は違え、「頑なさ」だと俊介は思った。仕事に対する頑なさ、頑なに生きる力。それらを学ぼうと思った。その夜、俊介は興奮で身体が震え、発熱してダウンするのではないかと思ったぐらいだった。
あくる日、綾子を呼び出し、浪江に帰り、原発で父と共に働く事を告げた。
「俊介はいつも勝手なんだから、私のことなど考えなかったでしょう」と、綾子は、真知子と同じ言葉を口にした。それでも「私と別れて、俊介の旅立ちやね」と、涙をこらえて横を向いた。俊介はいい女だと思った。区切りがついたら、いや、つかなくても、1年経って綾子が一人でいたら、迎えに来ようと思った。
第1章 了