15.新しい生活の前に
蜘蛛の魔物との戦いからおよそ一週間が過ぎた。
ああいった事件があったと言っても、広い王都では大きく話題にならないことが多い。
実際、誰かが犠牲になったというわけではないのだから。
地下水道は第一騎士団によって閉鎖され、現在は第二騎士団による調査隊が編成されることになっている。
そのメンバーを選出するのは、騎士団長であるアウロだ。
その騎士団長の補佐官として、サーシャは今日から正式に仕事をすることになっている。
そんなサーシャが着替えを終えて思ったことは一つだった。
(引っ越し先、考えないといけないよね……?)
今、サーシャのいる寮はあくまで魔法士官学校の生徒のための寮だ。
多少は猶予期間はあるものの、いつまでもそこにいるわけにはいかない。
サーシャが今日向かうのは、アルシエのいる支部の方だった。
朝方から、支部にはアルシエがいた。
「サーシャちゃん、本当に怪我はもう平気なの?」
「無理な運動は控えるようにとは言われてますが、動く分には問題ないです」
アルシエの問いに笑顔で答えるサーシャ。
二日ほど前までは、寮ではなくサーシャは病院にいた。
魔物の一撃を受けたサーシャの診断は肋骨にひびが入っているとのことだった。
少なくとも折れているわけでもない――サーシャは魔力を使って自身の治癒力を高めることもできる。
入院自体は検査のために時間はかかったが、ひび程度なら固定さえすればある程度は何とかなるものだった。
(サポーターがちょっときついけど……)
骨の部分に負担がかからないようにサーシャの動きを、サポーターがある程度制限している。
痛みも多少はあるが、サーシャ自身問題はないと考えている。
「本当に大丈夫? つらかったらいつでも言ってね?」
「大丈夫ですって。それより、アウロさんはまだ来てないんですか?」
「アウロさん……? あ、ああ! へリオン騎士団長のこと!」
「アルシエさん、名前忘れていたんですか……」
サーシャの突っ込みに、慌ててアルシエは首を横に振る。
「ち、違う違う! アウロさん、なんて呼び方する人いないから新鮮すぎて……」
「! ま、まあ……補佐官になった以上は、アウロさんが怖い人ではないということを、ですね。私が証明していかないといけないので……その一環です!」
歯切れも悪いが、何とか言い訳をするように理由を絞り出したサーシャ。
別に名前で呼ぶことに理由などいらないのだが――サーシャは特にアウロのことに関しては理由を付けておきたいと思っていた。
「サーシャちゃん……何て健気な子なの!」
バッとアルシエがサーシャに抱きつく。
「いたっ、いたた! ア、アルシエさん! お、折れちゃいますから……!」
「あ、ご、ごめんなさいね。うん、でも、サーシャちゃんがこうして補佐官になってくれたこと、本当に嬉しいわ。やりたいことが見つけられたのね」
「はいっ」
アルシエの問いに笑顔で頷くサーシャ。
第二騎士団の一員として、目の前の困っている人を助けていく――そんなサーシャの決意があった。
「それなら良かったわ」
「それで、アウロさんは……?」
「サーシャちゃんを回収するために寄る、とは言っていたけど……まだ来てないわね」
「回収って……」
物か何かのような扱いにややサーシャの表情は険しくなるが、そういうところも含めて直させると決めたのだ。
(というか、今のはアルシエさんの言い方な気も……まあ、一先ずは置いておいて)
「それならアルシエさんにお願いがあるんですけど――」
「なに、看病!? やっぱりサーシャちゃんはまだ動くのがつらいのよね!」
「いや、そうじゃなくて――」
「ソファーに横になる? 来客用だけど来客があるまでは使えるから!」
「来客用ならダメですよ! 別に体調は大丈夫ですからっ!」
アルシエはどう見てもサーシャに対して過保護だった。
元々そういう性格なのかもしれないが、年齢的にもまだ学生のサーシャには気を使っているのかもしれない。
「そ、そう? じゃあお願いっていうのは?」
「これから仕事をしていく上で、住む場所が必要になるので」
「え、もう追い出されたの?」
「変な言い方しないでくださいっ! まだ寮にはいますけど、いつまでもいるわけにはいかないので……」
「あー、そういうことねぇ。部屋が開いてるならそのまま使わせてくれればいいのに――って、サーシャちゃんの方が嫌よね。うん、つまりお部屋探しがしたいってことね?」
「はい。いいところとか知っていれば教えてほしいんですが」
「それはもちろん、騎士団の仕事として必要になるわけだから色々紹介できるところはあると思うわ」
「本当ですか! それなら助かります」
ホッと胸を撫で下ろすサーシャ。
一先ず補佐官になったことにより路頭に迷うというとんでもない状況は免れそうだった。
「でも、第二騎士団って少し特殊でね。色々なところに出回ることが多いから……へリオン騎士団長の方が詳しいと思うけど」
「そうですか? アウロさんはそういうのに疎そうなので」
――というか、疎いということを知っている。
家のことなど、特にアウロが詳しいはずもない。
どういった生活をしているか分からないが、アウロに対して相談するつもりはなかった。
「そうねぇ。まあ仮に追い出されたとしても、しばらくはうちに泊めてもいいけど。なんだったらうちに住んでもいいけど」
「いえ、そこまでご厄介になるわけには……というか、アルシエさんはこの近くに住んでいるんですか?」
「ここよ」
「……へ?」
アルシエが指差したのは二階――サーシャは上を見上げて、もう一度アルシエの方を見る。
「だから、ここ。二階がわたしの家」
「……それって職権乱用なのでは?」
「サーシャちゃんはもう少し柔軟な考えを持った方がいいわ。わたしはいつでも対応できるようにここにいるの!」
物は言いようとはまさにこのことだ。
アルシエは自身の働く小さな支部の、使っていない部屋をそのまま自宅としている。
だから朝早くからいたのか、とサーシャは納得した。
さすがにサーシャもここに住みたいとは思わない。
アルシエは改めて考え始めて、ふと思い付いたように口にする。
「うーん、そうねぇ……第二騎士団の動きとか考えたら、いっそ家とかない方が楽かもしれないわ」
「……冗談ですよね?」
「ふふっ、冗談に聞こえる?」
アルシエの笑顔が初めて怖く見えた。
帰る家がない方がいい――冗談でも、そんな事態は本気で避けたいサーシャだった。