12.約束をしたから
「サーシャは大きくなったら何になりたいの?」
山の近くにある村では、夜になると綺麗な星空が見える。
サーシャの母――リリータは星空を見上げながらそうサーシャへ問いかけた。
「大きくなったら?」
「そう。まだ小さいからサーシャには分からないかな?」
「ううん、あるよ! 大きくなったらねー、《ドラゴン》さんになりたい!」
両手を大きく広げてポーズを取るサーシャ。
サーシャの言葉にリリータは苦笑する。
「そ、そういう大きくなったらとは少し違うかなぁ……」
まだ幼いサーシャは、母の言葉の意味をそのままに受け取っていた。
《竜種》と呼ばれるドラゴンになりたいというのはさすがに母も応援できるようなことではない。
そもそも、人はドラゴンにはなれないのだが。
「……でも、サーシャがなりたいものだったら私は何でも応援するわ」
「ほんとっ?」
「ええ、本当よ。大きくなりたいのだったら、好き嫌いはしてはダメよ」
「え、えぇ……じゃあ大きくなれなくてもいいかも……」
「こらこら、すぐに諦めないの」
小さなサーシャを、リリータは抱き上げる。
サーシャは安心したような表情を浮かべて、リリータに身を任せる。
この村で暮らしていくならば、きっとそれほど変わった日々を送ることもないだろう。
それでも、娘がなりたいものであればリリータはそれを応援するつもりだった。
リリータの父がどう考えるかはまったく別の話だが。
「これからサーシャにも大きくなってやりたいことができると思うわ。そうなったら約束してほしいことがあるの」
「約束?」
「ええ、約束。大きなことでなくたっていいわ。小さなことでも、人のためになることをしてほしいの」
「人のため……?」
「そうよ。それはいつかサーシャのためになることだから。サーシャは優しい子だから、心配はしていないけれど」
リリータの言葉を聞いて、サーシャは少しだけ考える。
そして、笑顔で頷いた。
「うんっ! 約束する! 人のためになること、これからいっぱいしていくよ!」
「ふふっ、いい子ね。サーシャ」
母であるリリータとの他愛のない会話――サーシャは今でもよく覚えている。
それはきっと、今後も忘れることはない。
遠い日のサーシャとしての記憶だ。
***
狭い通路にサーシャは立つ。
サーシャが見据えるのは蜘蛛の魔物――ではなく、その先の道だった。
(ここはさすがに狭すぎる……)
どこか開けた場所に出れば、まだ戦いやすい場所があるはずだった。
サーシャは呼吸を整える。
動きを止めると、目の痛みがはっきりとしてくる。
ズキズキと痛み始める目は魔法の効果の限界が近づいてきていることを意味している。
もう、あまり長い時間をかけることはできない。
魔物と対峙して、震える身体に言い聞かせる。
(迷うな、ここからが本番だから……っ)
ちらりと、サーシャは少女の方を見る。
ここでは少女にも危害が及ぶ可能性がある――サーシャの判断は早かった。
「キシュ――」
「っ!」
プシュ――空気の抜けるような音と共に、白い糸がサーシャへ向かって飛ばされる。
非常に粘り気のある糸に捕まれば、サーシャでも逃げ出すことは難しいかもしれない。
サーシャは横へ跳び、そのまま流れる水の中へと飛び込んだ。
水の流れは速く、魔法がなければただの自殺行為にしかならない。
だが、サーシャは水中でも先が見えている。
サーシャは水の流れに合わせて、水中を進む。
ドポンッ、と丸太のように太い足がサーシャを狙って振り下ろされる。
暗闇の――それも水中にいるサーシャの場所が分かっているようだ。
水中で捕まればひとたまりもない。
(けど、大丈夫……っ)
水の中はより魔力を強く通す。
サーシャは水の中で加速する。
攻撃を回避すると、サーシャはそのまま蜘蛛の魔物の下を泳いでいく。
水面から顔を出すと同時に、サーシャは魔法を放つ。
矢の形状となった魔力をそのまま蜘蛛の魔物の腹部へと放つ。
「キシュッ!」
ブゥン、と後ろの足がサーシャに向かって振り下ろされるが、サーシャはそれを回避する。
腹部への攻撃は魔物の身体を貫いた。
だが、動きは鈍らない。
サーシャは再び水中を進んでいく。
(……魔法への耐性が高いわけじゃない。私でもやれる)
今の攻撃で確信する。
魔物の中には魔法に対して耐性の高いものがいる。
少なくとも、低レベルの魔法でも攻撃を通すことは可能だった。
王都の下にある地下水道ではあまり大きな魔法を使うことはできない。
より大きな被害が出る可能性もあるからだ。
ズン、ズンと水中でも響く足音がサーシャの耳に届く。
近づいてきているのは分かる。
サーシャは振り返るようなことはしない。
離れすぎず近づきすぎずの状態を維持し、サーシャは水中を進んでいく。
(この先だ)
王都の地下水道には避難経路の他、万一に備えて人を収容できるスペースがいくつか確保されている。
サーシャが見たのはその広い場所――すでに《遠視》の魔法効果は解除していた。
ズキリと痛む目に残されたのは《暗視》の能力。
これでサーシャの戦える時間は伸びた。
パシャリ、とサーシャはしばらく進んで水から出る。
水は二手に分かれて円形の道を流れるように沿っていく。
上から見れば円形上の広場だった。
「こ、これって……!」
サーシャはその場の状況を見て、驚きを隠せなかった。
蜘蛛の糸が張り巡らされた広場の中、いくつもの大きな球体が転がっている。
そこに感じられるのは小さな魔力――魔物の卵だ。
(子供を攫ったのは生まれてくる子の栄養にするためってこと……っ!?)
サーシャが間に合わなければ、そうなっていたのかもしれない。
それどころか、生まれて増えた蜘蛛の魔物がさらに大きな被害を生む可能性がある。
「ふぅ……」
濡れた服が少し重く、サーシャは上着だけその場で脱ぎ捨てる。
後ろで結んだ髪を解き、サーシャは蜘蛛の魔物を迎え撃つ。
「キシュウウウ……」
広い場所では、より蜘蛛の魔物の姿がよく見えた。
パキリと開くのは鋭い牙のような蜘蛛特有の顎。
ポタリ、ポタリと垂れる液体は地面に触れると音を立て始める。
(消化液……あれで溶かしてってことね)
サーシャが一歩後ろに下がる。
先に動いたのは蜘蛛の魔物だった。
口元から放ったのは消化液。
噴射したそれは霧状に広がり、サーシャの逃げ場を封じる。
サーシャが手を前に出すと、魔法印が浮かび上がる。
それは宙で円形に模様を描くと、魔力の壁を作り出した。
周囲の地面が溶けたことで音が響く。
サーシャには消化液が届くことはない。
魔力で作り出された壁は溶かされることはなく、サーシャの身体を守る。
極力魔力は消費せず、サーシャが作り出した魔力の壁は人に比べるとかなり薄い。
必要に応じて必要なだけの魔力を消費する――それがサーシャの魔力の使い方だ。
「……っ」
サーシャの眼前に迫ったのは蜘蛛の魔物の前足。
地面を抉るほどの勢いがあった。
サーシャはそれを防ぐわけではなく回避する。
(あれを受け切るには少し魔力の消費が激しいかな)
ズキリと痛む目を押さえながら、サーシャは構える。
魔力の消費を抑えつつ、確実に倒せる隙を作り出す。
(相手が虫なら……!)
サーシャが再び魔法を放つ。
魔力で作り出した矢が、今度は燃え盛るように火を纏う。
サーシャの周囲に数本以上の矢が並び立つと、真っ直ぐ蜘蛛の魔物へと向かって飛んでいく。
「ギシュウウウッ!」
蜘蛛の魔物が雄叫びをあげた。
ダメージはある――燃え盛る矢が蜘蛛の魔物の身体を貫くと、そこから火が広がっていく。
再び蜘蛛の魔物が消化液を放つ。
それは上方に、広場を雨のようにして包み込む。
サーシャはそれを防ぐが、蜘蛛の魔物の身体に降り注ぐと音を立てながら火を消していく。
「さすがに、自分の消化液で溶けてくれるってことはないよね……」
サーシャは思わずそんなことを呟く。
蜘蛛の魔物が再び動き出した。
今度は、壁に向かって足を出すと――蜘蛛の魔物はそのまま壁に沿って歩き始める。
(くっ、大きな身体で壁を歩くなんて……)
サーシャは火の矢を作り出し、蜘蛛の魔物へと放つ。
蜘蛛の魔物が作り出したのは糸の壁。
糸はよく燃えるが、蜘蛛の魔物までは届かない。
「キシャアアアッ!」
「なっ……」
糸の壁を引き千切りながら、蜘蛛の魔物は大きな身体で落下してくる。
サーシャをそのまま押し潰す気だろう。
(捨て身の攻撃ってわけね……! でも、その方が好都合!)
サーシャが魔力の壁を作り出す。
先ほど作り出した壁とは違い、分厚い魔力の壁を作り出す。
蜘蛛の魔物の巨体を支えるほどの強力なものだった。
ミシリッ、と魔力の壁の軋む音が響く。
「う、りゃあああっ!」
気合いの入れた声が地下水道に響く。
魔力の壁が割れると同時に、蜘蛛の魔物を弾き飛ばす。
その巨体がバランスを崩しながら壁へと叩きつけられる。
(ここだっ!)
サーシャが一気に魔力を高める。
サーシャの両手に浮かび上がるのは魔法印。
大きな魔法は使えないが、低レベルの魔法でも威力を上げる方法はある。
作り出した火の矢を一カ所に集めて、殺傷力を高めた一撃とする。
(少し遠いけど、これなら――!?)
それは突然のことだった。
はっきりとしていた視界が暗闇に包まれる。
ズキリと痛む目がサーシャの限界を告げていた。
(この、タイミングで……っ!)
それでも、サーシャは蜘蛛の魔物が見えていた方向に矢を放つ。
大きな矢が真っ直ぐ進むと――蜘蛛の糸に引火して周囲を照らし出した。
近くに蜘蛛の魔物の姿はない。
「――っ」
サーシャの身体を衝撃が襲う。
サーシャの小さな身体は簡単に吹き飛ばされてしまう。
暗闇の中で全身に痛みが走る。
もう一度視界をはっきりとさせるには数分以上かかる。
「か、はっ……」
(息、が……!)
サーシャはそれでも動くのをやめなかった。
ここでサーシャが負ければ、少女を助け出すこともできなくなる。
サーシャは身体を起こして構える。
(痛い、けど、まだ動ける……)
身体だけではなく、頭も痛む。
こんな状況が以前にもあった気がする。
(そう、だ……あの時も)
フォルが残って、帝国の軍勢と戦った時もそうだ。
全身に痛みが走りながらも、それでもフォルは戦い続けた。
その時のことを、今になって思い出す。
(私は、死ねない……!)
必ず助けると、サーシャは約束した。
ズン、と足音だけが耳に届く。
燃え盛る火の光で、かろうじて蜘蛛の魔物の姿が見える。
すでに蜘蛛の魔物の射程内――その足がサーシャに再び迫っていた。
大きな音が周囲に響いた。
「……え?」
「――よくやったな、サーシャ」
その声だけでも分かる。
暗くてよく見えないが、サーシャよりも大きな身体を持つその男のことが。
サーシャの前に立っているのは、蜘蛛の魔物の一撃を剣で防いだアウロだった。