11.ただひたすらに
数メートル先すらも見ることができないほど真っ暗な通路を、サーシャは迷うことなく進んでいた。
踏み外せば水の中へと落下してしまう可能性がある。
けれど、サーシャにはそんな迷いも全くない。
サーシャの目はこの暗闇の中でもしっかりと先が見えていた。
(十分程度……虫の魔物は足が速いものが多いみたいだけど、私なら追いつける)
途中、足場の悪い場所でもサーシャは軽く地面を蹴って飛び越えていく。
サーシャの目には魔力が集中している。
魔力によって刻み込む《魔法印》をサーシャの小さな瞳に宿し、そこに魔力を集中させることで効果を発動させる。
本来、魔法印は身体に刻み込むような使い方はしない。
《魔法》を発動させるために必要な魔法印は、地面に刻み込んで発動するか空中に魔力で描くことが通常の用途だった。
一歩間違えれば大きな代償を伴う使い方――けれど、サーシャは魔力の使い方も魔法のこともよく理解している。
《暗視》の効果と《遠視》の効果を宿した瞳は、暗く狭い通路の先まで見据えていた。
(……私の目はそんなに長くは耐えられない。すぐにでも追いつかないと!)
滑る足場でも、サーシャは勢いを殺すことはしない。
恐怖は動きを鈍らせる。
魔物に対する恐怖も全て、サーシャは考えていない。
今考えるべきことは、連れ去られた子供を助けることだけだ。
だが、地下水道は奥の方へと進むと入り組んだ構造になっている。
真っ直ぐ進めば別の地下水道の入口から出ることになってしまう。
あるいは、王都の外まで真っ直ぐ繋がっているかもしれないが。
(もう一つ……っ!)
サーシャはさらに自身の目へと魔法印を刻み込む。
発動した効果は《魔力追跡》。
魔物はどれほど小さなものでも、微弱な魔力を持つ。
その痕跡は、十分程度ならばはっきりと残される。
消えそうなほどの無数の小さな跡の中に、くっきりと丸みを帯びた足跡が見つかる。
「……っ」
サーシャはそれを見て息を飲んだ。
地下水道の人が歩ける場所は狭くなっているが、水路を挟んだ反対側にも通路がある。
――足跡は、その両方に刻み込まれている。
(片足ずつってことは、それだけ大きな魔物がいたってこと……!?)
だが、それは同時に魔物の移動経路をある程度絞れることにも繋がった。
サーシャは一度、《魔力追跡》を解除する。
少なくとも、狭い通路の中を通ることはできない。
広く分かれた道でのみ、痕跡を追うように使えばいい。
サーシャの動きが加速する。
大型で一歩一歩進むようならば、それこそあまり遠くまでは行っていないはず。
上手くいけば、サーシャの知らせを聞いたアウロと合流できるかもしれない。
(ちゃんと、気付いてくれたかな)
サーシャは一瞬、アウロのことを考えるが、小さく首を横に振るとその考えも振り払う。
今、一番子供を助けられる可能性があるのはサーシャだ。
余計なことを考えている暇はない。
暗く狭い通路の中、小さな動物の鳴き声も響く。
他にも魔物が潜んでいるのだろう。
サーシャの心臓の鼓動が高鳴っていく。
余計なことは考えるな――そう言い聞かせても、魔物が近くにいるという感覚が、かつての記憶を呼び起こそうとする。
(もし、間に合わなかったら――なんて、考えるな! 間に合わせる……約束したからっ)
サーシャと同じ思いを、少女達に背負わせるつもりはなかった。
再び遠くを見据える。
姿が見えないのならと、また加速する。
だんだんと目に痛みを感じるが、サーシャは真っ直ぐ前を見る。
呼吸は荒くなり、加速すれば加速するほど身体への負担は大きくなっていた。
それでも、サーシャはひたすらに走る。
(間に合え、間に合え――)
「……っ!」
不意にサーシャはピタリと、足を止める。
肩で息をしながら、サーシャは遠くに見える大きな影を見据えた。
その背中に、意識のない少女が糸によって拘束されているのが見える。
(い、た……!)
間に合った――そう考えるにはまだ早い。
けれど、確かに少女の姿が見えた。
サーシャは再び動き出す。
可能な限り足音を消して、サーシャは魔物へと近づく。
だが、湿った地面と地下という状況は嫌でも音を発生させる。
音を消すことはやめ、サーシャは大きく加速した。
魔物の動きが止まる。
近づいてくるサーシャの動きを感じ取ったのか、大きな身体をサーシャの方へと向けようとする。
「遅い――」
サーシャが跳躍する。
手に魔法印が浮かび上がると、魔力の刃が作り出される。
少女を拘束する白い糸をサーシャが切断する。
そのまま、魔物の身体を蹴るとサーシャは距離を置いた。
粘り気のある糸に拘束されていたが、かえって少女の身体を支えやすい。
「……っ」
身体の大きな魔物の全容を、サーシャは目の当たりにする。
赤黒い身体に、八本の足。
そして、足の数と同じく赤く光る眼が、ギョロリとサーシャの方を見た。
(蜘蛛の魔物……白い糸っていうのはそういうことね。身体は大きいけど、私ならこの子を抱えて逃げられ――)
ブシュッと腹部から白い糸が放たれる。
サーシャはそれを咄嗟に交わすが、その白い糸はさらにサーシャの後方へと伸びていった。
(しまった……!)
糸が作り出したのは、サーシャの退路を塞ぐための糸の壁。
少女を拘束していたものよりも分厚く、切断して逃げるにしてもわずかに時間がかかる。
蜘蛛の魔物が、その隙を見逃してくれるとは思えない。
助け出した少女は、すぐ近くの狭い通路の方へそっと寝かせる。
少なくとも外傷はない。
そのことに、サーシャはホッと胸を撫で下ろす。
(けど、安心するにはまだ早いよね……)
サーシャは蜘蛛の魔物から視線は逸らしていない。
その大きな身体では、狭いはずの場所でも蜘蛛の魔物は器用に身体を動かしてサーシャの方を向いた。
(ここでこいつを倒すしかない……!)
ふぅ、とサーシャは小さく息をはく。
大きな蜘蛛の魔物と、サーシャは対峙した。