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8「生きているのが楽しくなる薬」

8「生きるのが楽しくなる薬」


 五十年前のこと。博士がまだ学生だったころの出来事。今では薬の研究と開発にしか興味を示さない博士にも、かつて一度だけ恋をしたことがある。しかし、その女性には当時、付き合っている男性がいた。


 ある日、大学のキャンパスの片隅で、その彼女が泣いていた。それまで一度も彼女に声をかけたことがなかった博士だが、思い切って泣いている彼女に声をかけた。

「ど、どうしたの、で、ですか?」、博士は震えた声で彼女に話しかけた。

「なんでもないわ」と彼女は冷たくあしらった。

 すると博士は、ポケットから実験で使う「濾紙」を取り出して、彼女に差し出した。

「ハンカチ、もってなくてごめんなさい」と博士は付け加えた。

「彼氏と別れることになったのよ。もう、生きていることも嫌になったわ」と言って、再び泣き出した。

「じゃ、僕が『生きているのが楽しくなる薬』を作ってあげる。それまで、どうか、我慢して生きていてください」と彼女に告げて、その場をあとにした。

 博士はそのとき、薬が完成したら彼女に告白しょうと考えていた。


 それから、博士は五十年の歳月をかけて、ようやく「生きているのが楽しくなる薬」を完成させた。


 博士は「いよいよ告白のときが来た!」と、彼女の家に向かった。あれからもう五十年も経っており、彼女が五十年前と同じ家に住んでいるのかどうかなど考えもせず……。


 彼女の家に着き、玄関のベルを押した。幸い、彼女は引っ越さずにその家に住んでいた。

 玄関のドアが開き、おばあさんが出て来た。

「約束通り、『生きているのが楽しくなる薬』を作って持って来ました」と、博士はそのおばあさんに言った。姿はもうすっかり老人になっていたが、博士にはすぐにそのおばあさんがあのときの彼女であることがわかった。

「あ、あのときのあなたね」、奇跡的にも彼女は博士を覚えていた。

 彼女は、博士を家の中に招き入れた。そして、博士はリビングに通され、彼女はキッチンでお茶の支度を始めた。

 しばらくすると、おばあさんはトレイに紅茶を乗せて戻ってきた。そして、博士にカップとソーサーを差し出した。そしてもうひとつ、ボロボロの紙片を博士に見せた。

「これ、覚えています? あのとき、あなたは泣いてる私に、この『濾紙』をわたしたのよ」

 博士はコクリとうなずいた。

「泣いてる女性に『濾紙』をわたすなんて……。私、あのあと、おかしくて大笑いしてしまいました。死にたいなんて、吹っ飛んでしまったわ。私の悲しみはこの濾紙ですっかり濾過されてしまったのよ。今でもこれは私のお守りなのです」

 そのとき、リビングのドアが開き、ひとりの紳士的なおじいさんが入って来た。

「あなた、こちら、例の『濾紙』の……」と言いかけると、

「あなたが、『濾紙』の……。妻に話は何度も伺っています」と、おじいさんは両手を出して、博士に握手を求めた。

「そういうわけで、そのお薬はもう必要ないのよ。この『濾紙』で、私は十分に生きていることが楽しくなりました。あなたには本当に感謝しています」とおばあさんは笑顔で言った。


 博士は何も言わずにソファーから立ち上がり、挨拶もせず、玄関から外へ出て行った。


 気がつけば、大きな河にかかる橋の上に来ていた。博士にとっては五十年前の初恋。その後、誰に恋をすることなく、彼女を思って薬の研究と開発に没頭してきた。しかし、彼女に告白もできずに、人生で初めての失恋を経験した。五十年前の彼女の失恋の痛みがようやくわかった。博士はもう生きているのも嫌になった。いっそ、橋から河へ身を投げて死んでしまおうと、泣きながら橋の欄干に足をかけた。

 そのとき、ズボンのポケットから何かが落ちた。博士はそれを拾い上げた。

「この薬、本当に効くのだろうか」と、博士は薬の効果が気になり、一粒飲み込んだ。


 その後、博士は口笛を吹きながら、スキップで研究室に帰って行った。


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