承認欲求に関する覚え書き
小説ではない。
断じて小説ではない。
日頃の鬱憤を小説に・・・と思ってたら、
おかしな事に。
やっぱり、文学の才能はないんだろうなぁ。
最近、よく聞く言葉がある。
「努力が認められない。(だから努力は無駄だ。)」
これはおかしい。
本来、他者からの評価というのは、
何らかの成果に対して発生するものであり、
成果というものは、何らかの努力の結果のはずだ。
つまり、努力の結果からのみ発生するはずの評価がなければ努力ができない・・・、
というのは少なくとも必然ではないだろう。
(努力の為のモチベーション維持に他者からの評価が効果的な事は否定していない。あくまで、努力する為には評価が必須ではない、と述べているだけだ。)
ではなぜ、そのような矛盾したフレーズが疑問なく叫ばれているのか。
勿論、それを若者の責任と断ずるのは間違いだろう。
(何故なら、その思考を形作る環境を作っているのは、紛れもなく今の・昔の大人だからだ。以下略)
私の経験から思うに、"相対評価"にあるのではないだろうか?
一つ例を挙げよう。
・Aさんは高校一年の時は学年10位の成績だったが、高校三年の頃には学年20位の成績になった。
これを見てどう思うか?である。
私が思い出す限りの周囲の人達(親、教師含め)は
「成績が落ちた」(せいぜいが「上位をキープできてる」)
と口を揃えて意見するはずだ。
もっと言うならば、「努力を怠った」「効率良く努力してない」という声もあるだろう。
確かに、これらは一側面では事実だ。
しかし、これは学年順位という数字にしやすい"相対評価"に頼り切った意見としか思えない。
果たして、Aさんは"評価に値しない努力"をしなかったのだろうか?
高校一年10位と高校三年20位の間には、大きな学力の"差"があるはずだ。
その"差"は、二年間のAさんの努力の結果であり、(十分かはともかく)成果物のはずだ。
なのに、この"差"についての評価を耳にした覚えがない。
(言葉にすると「(高3のAさんに)高1に比べれば、多くの英単語を覚えてるし、微積分もできるようになりましたね。」といったところか?私自身、書いていて違和感しかないが、確かな成長であるはずだ。)
思うに現代の評価者達は無意識に、"実際の努力"から"行って当たり前の努力"を引いているのだろう。
だが、これは非常に危険な行為だ。
何故ならこの評価方法に依ると、
「当たり前の努力だけを行っている人」は「(特別な)努力をしない人」であり、
「当たり前に僅かでも届かなかった人」は「(他者に比べ)怠け者」になってしまう。
(先も書いたが、この評価自体は相対評価においては事実である。)
しかし、当人にすれば少なからず(多くにとっては"少なくない")努力と成果が存在するのだ。
昨日までできなかった事ができるようになった。
昨日に比べ、知っている単語が幾つ増えた。
これらは当人にとって、成績等に対する影響はともかくも、学ぶ喜びや自身の成長を実感できる貴重な体験のはずだ。
それらを見ない(評価しない)事、それこそが「(当人がしたはずの)努力が認められない」という異常事態に繋がるのである。
"努力の評価"は(質や量に関わらず)努力に対する報酬になり、
努力を継続する、そのモチベーションの維持に効果的だ。
必ずしも過大評価をする必要はない。
等身大の評価こそ、正当な、信用できる評価になり得る。
そしてその評価を糧に努力を継続する事によってのみ、おそらく本当に求められているだろう、「心からの評価」が勝ち取れるのだ。
また、その一方で忘れてはならないのが、"相対評価"も一つの評価である事だ。
他者の努力は基準にも目標にもなり得る。
それは、他の目標の為にある程度妥協する際や更なる上昇を望む際には大きく、そして不可欠な力になるだろう。
大切なのは"努力の評価"と"相対評価"は別のものであり、
相手に、その目的に応じて使い分けるべき、という所である。