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かつての聖堂

 ドノラグの中心から少し外れた、寂れた地。忘れ去られたかのように寒々しく聳え立つ、古びた建物があった。かつては聖堂として機能していたらしいそこは今や何も崇められてはいない。ただその歴史的価値が認められているが故に立ち入り禁止となり、一般的な領民は足を踏み入れることを許されない。

 ここに来るたび、寒気や冷気とは違うひやりとしたものを感じる。大抵の人間はそう感じるらしく、信心深い領民などは時折この聖堂の手前まで祈りに来る。ルイスはどちらかというとそこに不気味なものを見て滅多に近寄ろうとは思わないのだが、数日ぶりの食事を邪魔されないためにはここがちょうど良かった。ルイスにとってこの崩れ掛けた建物は、目に見えぬ力を崇める場ではなく、単に雨風を凌ぐための避難所のようなものだった。

 聖堂の重い扉を開けると、薄汚れた大理石の上にぽつぽつと泥水の足跡が出来ている。泥塗れの自分の前にある、まだ乾ききっていないそれを見て、ルイスは顔を顰めた。先客がいる。マントの中で麻袋を握り締め、眉間に深く皺を寄せて奥へと進んだ。この土砂降りの中、また外に出るのは嫌だ。

 くしゅん、と奥から小さな嚔が聞こえた。

 ドーム型の屋根からぽたぽたと漏れる雨水が壁画を濡らし、元が何だったのかわからなくなっている。厳かに立つ聖像は、手首から先や鼻が欠けている。とても食べられそうにはないキノコや苔の生えた、椅子の成れの果てが並んでいる。そのうちの一塊の木片に腰を下ろす者がいた。

 目深に被ったフードはしっとりと濡れていて、白い髪が垂れている。櫛を通していないのだろう、土っぽく汚れて絡まっているが、朝露に濡れた蜘蛛の糸のようだった。


「ヴィラ」


 呼ばれ、ゆっくりと上げられた顔は蒼白の仏頂面で、血の色の透けた瞳がルイスを睨め上げた。


「お前か」


 低くなりきらない声が唸った。

 目尻を釣り上げ、目一杯恐ろしく見せようとしているが、正体はルイスとさして年の変わらない少女だ。寒さのため、ぶかぶかのローブの中に埋もれるように縮こまっている。覗く足は骨っぽく、ほとんど肉がない。

 ヴィラに負けず劣らずの苦渋に満ちた顔で、ルイスは舌打ちした。


「なんでおまえがここにいるんだよ」

「ここはお前の家でもないだろ。領主の犬」

「偉そうに言える立場かよ、負け犬」


 売り言葉に買い言葉とばかりに噛みついて、ルイスはヴィラから距離を置いた。元は椅子だったそれに、ヴィラに背を向け、腰を下ろした。

 ヴィラは唇を噛むだけで何も言い返さず、膝を抱え込んだ。言い返すだけ惨めになることを知っていた。赤が滲んだ。

 言い返さない相手に構うほどルイスも攻撃的ではない。麻袋を取り出して、パンを掴み、ほとんど噛まずに飲み込んだ。ぱさぱさして、口内の水分が全て奪われる。食事は、ただ胃袋を満たすため、生きるためだけのものだ。そこに楽しみはない。かすかすのチーズを飲み込み、干し肉を噛みしめる。唾液で唇を湿らせた。腹は満たされるどころか、中途半端に食べたせいで寧ろ空腹感が増した。それでも身体に力が入るようになった気がする。

 雨粒が屋根を跳ね、土を打つ音が響く。遠雷が微か、耳に届く。底冷えするような音。聖堂に入り込んだ雨水が、集まって、流れとなって外へと出て行く。

 透き通る水の音に紛れて、ぐるる、と腹が鳴った。


「……お前今、飯食ってたんじゃないのか」


 つい、呆れたようにヴィラが言う。


「うるせえな。領主がケチなの知ってんだろ。くっそ、思い出したらムカついてきた。こんなんなら商人にでも見せた方がマシだったんじゃねえの」


 とはいえ、商人がくれるのは貨幣だ。ドノラグでは貨幣はほとんど価値を持たない。


「お前はまだマシな方だろう? これから冬が来る。人が死ぬ季節だ。毎日飽きもせずあちこちを発掘するお前なら体力もあるし、難なく越えられそうだな」

「知らね」


 息を吐いた。白くなって、霧散した。底に蟠った埃っぽい空気は、ほんの少しだけ温かい。冬の朝の冷たい清浄な空気よりもこちらの方がルイスは好きだった。寒さは惨めさを際立たせる。


「誰でも死ぬからな。冬は、特に」


 食べ物の供給の少ないドノラグでは餓死者が多い。どんよりとした曇り空が太陽の燦々と煌めく光を阻み、小麦や豆が育たないのだ。真っ当な領民ならば、商人の持ってくるそれらを彼らが生産した毛織物と交換したりして生活しているが、ルイスのような者たちはごみ溜めを漁るか、上流階級の間で流行っている価値のある芸術品の蒐集に一役買うかが主な生活手段だ。

 死はいつでも傍らにいると、物心ついたときからルイスは知っていた。ヴェールのように質量を持たず覆い被さり、息の根を止めてやろうと揺らめいている。いくら振り切ろうとしても、それは決して誰も逃しはしない。

 必ず死は訪れる。密やかに手を引いて行くこともあれば、突然頸を掻き切ることもある。死は気紛れにやってくる。

 その息遣いに怯える者たちの間には、隣人愛などない。利己主義の人間たちによる食べ物を巡った殺しなんてものはザラにある。

 冬が最も死に近いのは、その寒さからだ。

 去年の冬は、壁に凭れて転寝しているように死んでいる男を見た。その前の冬は、病が流行ってたくさんの人間が野垂れ死んだ。更にその前の冬は、朝起きると、隣で寝ていた母親が死んでいた。父親の方は知らない。母親に聞くと困ったような微笑で「遠くに行ってしまったのよ」としか言わなかった。


「冬を甘く見ると、死ぬぞ。おまえにはもう何にもねえんだからな」

「そんなことはわかっている」


 そう呟いて、ヴィラは視線を落とした。

 薄い身体。棒と形容するに相応しい四肢。

 それらは、ほんの半年前はもう少し健康的な柔らかさを持っていた。瞳はもっと明るく快活だったし、白髪にも艶があって銀めいていた。色素の薄い肌は血の色を透かしていたが、今は煤けて蒼白い。薄地の毛織物でできたサーコートは、着古された質の悪いチュニックと擦り切れたローブになった。

 何度も惨めさに心が折れそうになった。何度も死んだ方がましだと思った。


「それでも私は、死ぬわけにはいかないんだ」


 ヴィラの父は、かつては領主だった。それが半年前、今の領主が死を引き連れてきた。男は父を領主の座から引きずり降ろし、ヴィラの目の前で豚を屠殺するためのナイフで殺された。同じナイフで母も殺された。

 飛び散る血は、ヴィラの瞳と同じ色をしていた。鼓膜を震わす不快な怒号は何も耳に入らなかった。ただ、両親が最期、必死に逃そうとした一人娘を安心させるような微笑みを浮かべたことだけが目蓋に焼き付いている。


「あいつを地獄に送るまで、私は死ねない」


 ぽつりと零れた呟きは雨音に紛れることなくルイスに届いた。困惑とも苛立ちともつかない表情で、ルイスは振り返る。


「死ぬことは罰なのか」


 報いなのか。問い掛けにヴィラは顔を上げた。


「私の両親を死に追いやり、私の人生を滅茶苦茶にしたあいつが生きていることが許せない。人殺しがおめおめと生きていていいわけがない」


 まるでルイスが親の仇だとでも言うように、鋭い視線をルイスへと向けた。それに臆することなく、琥珀色の双眸は受け止めた。


「おれの母さんが死にそうなとき、おれが助けてくれって言っても無視したのはお前の両親だ。おまえの言い方だと、おまえの両親だって生きてていい人間じゃねえだろ、母さんを見殺しにしたんだから。おれの母さんを殺したおまえの両親が生きててよかったのか? ……死んで当然だったんじゃねえの。あの屋敷に残っている芸術品のうち、おまえの両親が集めたもんがどれくらいあると思う? おれが持って行った絵や本を、おまえの両親は何と交換したと思う。あいつと何も変わんねえよ。おまえの両親も今の領主も同じだろ」


 怒りをぶつけるわけでもなく、ルイスは淡々と言う。あの全身を刺すように寒い日のことを、ルイスは忘れたことがない。けれど、冬は人が死ぬ季節だ。仕方のないことだった。


「あんな男と、父上と母上を、一緒にしないで!」


 ヴィラは憤激して立ち上がった。作っていたぶっきらぼうな口調が崩れていた。


「父上と母上を、侮辱しないで! 二人とも立派なひとだったわ。私の誇りよ。あんな、人を人とも思わないような輩と一緒にしないで! あいつは私の両親を、豚を殺すのと同じナイフで殺したのよ。貴方が、父上と母上の何を知っているって言うのよ!」


 激昂するヴィラを冷めた目で見た。ごろごろと雷が近付いてきていた。


「もし知ってたとしたらどうなんだよ。母さんを助けてくれって言ったおれに、おまえの親父が何て言ったか教えてやろうか。そっくりそのまま言ってやれるぞ。『帰りたまえ。同情を誘いたいのならもう少しマシな嘘を吐くといい。どちらにせよ、私に売女を助ける義理はないがね。』その後ろで、おまえの母親はごみでも見るような目でおれのことを見てた。おまえの両親とあいつと、何が違うんだ?」


 言ってから、しまったと思った。言いすぎたと思ったのではない。その次の言葉を容易に想像できたからだ。言ってしまった言葉を取り消すことはできない。


「貴方の母親なんかと私の両親を一緒にしないで。私の両親は、貴方の母親みたいな汚らわしいことをしなかったわ」


 ぶつり。眼球の奥、脳の中心。何かが切れたような気がした。思わず飛びかかろうとして、閃光が瞬く。間髪入れず、轟音。

 雷が落ちた。

 反射的に目を瞑り、耳を劈く雷鳴に平衡感覚を失った。冷たい床に座り込む。そして、しばし、静寂が訪れた。

 土に水が染み込むように、雨が聖堂を穿つ音が戻ってきた。

 ざあ、ざあ、ざあ。

 雷雲は遠退いていく。雨土の匂いが薄まる。仄暗い、濃灰色の密度が変わる。夜の気配がすぐそこにまでやってきていた。

 見上げる。聖堂が崩れ落ちる気配はない。漆喰の欠片すら落ちてこない。


「おれは何も聞こえなかった」


 見上げたまま、ルイスは言った。ヴィラは答えず、ルイスを見遣る。


「復讐でも何でもすればいい。でも、反論できない死者を貶めるのは卑怯だと、おれは思う」


 ルイスは立ち上がってマントを掛け直した。そしてそのままヴィラと目を合わせることなく、小雨となった外へと出て行った。

 残された少女は何も言わない。膝を抱えて蹲った。


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