第五歩 五文字の誓約
1
忘れられない人がいる。
誰にだっている。
僕にも、あなたにも、みんなにも、きっといる。
遠いところで今も僕達をまち続けている。そんな気もする。
僕はあの人に、何分の一かでも返せたのだろうか。
あの人に、いま、何ができるのだろうか。
答えはない。でも、もしあるとするならば。
それは、きっと素晴らしいことではないだろうか。
秘密は秘密のままでもいい。
僕はその裏側をすこし覗いただけ。
世界が変わる真実にすこし、触れていただけなのだ。
2
僕が囲炉裏薪の事を思い出そうとすると、大体あのおっとりドSにいじめられた事しか思い浮かばない。
何かというと僕をいじめては、最終的に笑って喜んでいて……いや『ほくそ笑ん』で楽しそうにしているのが薪という人間なのであった。
腐れ縁というやつがもしあるのならば、それはまさしく僕と薪のことであり、またそれがにあう二人も中々いないだろうと思っていた。
出会ったのはいつだったのか。確か、小学校の五年くらいだったと思う。
僕の薪にたいする最初の印象は「大人しくて可愛い子」、だった。
まわりから親切にされる術を心得ているヤツで、転校生だというに早々にクラスでの自分の立ち位置をキープしているその姿に、〝大したもんだなぁ〟と子ども心におもったのをよく覚えている。愛想よく、男子には「面倒見がよくてスポーツマンの菅野くん」や「頭がよくて端整な顔だちの今井君」といった好青年たちからラブレターを貰っていたし、クラスでの人気は無論ナンバーワンだった。とはいっても、全ての男子があっけなく玉砕したのだが。
だが、ただでさえ男子と女子という壁があり、しかも、如才なく人脈を広げているアイツと暇つぶしにいつも落書きをしたり友達と自作した将棋を指しているような僕には接点自体もなく、しばらくは、そのまま何事もおこらずに日々は淡々と過ぎていった。
転機は、ある日唐突におどずれる。
その日、薪の机には彫刻刀で『死ね、ブス』と大きく彫られているのを、僕達は見つけた。
正義感に燃える当時の新米教師は「犯人探し」にやっきになっていたが、結局、犯人は見つからずに、叩けば埃が出そうな生徒もここにはいなかった。
こういうことは、大人が介入するとかえって厄介な事態になるのはどこも同じであり、ますます、薪の身辺は危険なかおりが漂うようになってしまっていた。
突然やってきた転校生。しかも、容姿もよく器量もいい。皆の注目を一身にあびて輝いているような女の子。確かに、面白くはない。でも、そういうことが平気で出来てしまうというのも、思いかえせば子どもというものは怖いものなのである。
かるい気持ちでやったことが後になって、取り返しのつかない事態にまで発展することまでは、考えがまるで、およばない。
その一回で済むわけもなく、だんだんと行為はエスカレートしていった。
彫刻刀の一件は体育の時間におき、次の靴隠しは図工室に行っていた時におきた。朝礼のあとに戻ってきてみたらノートが破られていて、なぐり書きのような文字で臭い、死ね、学校に来るな、イイコぶりっ子などの子どもらしい、しかしダメージも大きい罵詈雑言が書かれていた。
その最後のノートのあたりから、薪は学校に来なくなっていた。
犯人はわからず、しかし、おかしなことに誰もそれをした人間を見ていない。
僕はそのとき、たまたま薪の隣の席にいたので、薪に配布されていたプリントを持っていくように教師に言われ、(新米の彼は、かなりこの事態に参っていたらしく、こちらが心配する程に憔悴しきっていた)はやめに帰宅することを許されて彼女の家まで歩いていったのだった。
玄関のチャイムを押すと、向かいの家の二階のカーテンがわずかに捲られるのを見た。
そのままさっとすぐに再び閉められたので、特に気にもせずにチャイムの返事を待つ。
開けられたドアから出てきたのは、感じの良さそうなおばさんであり、「……あの子の、お友達?」と訊いてきていたので、とりあえずは笑顔で肯定。まあ、席が隣でもほとんど喋ったことすらもなかったのだけど。
こういう時は、無邪気な小学生を演じた方が楽なのである。……とおもっていた僕は本当に嫌なヤツだったなぁといま振り返ってもおもう。こまっしゃくれすぎだろう僕。
とりあえず、家の中にと入れてもらい、その家をよく見ていた。
どこにでもある、一戸建てのマイホーム。清潔感があってセンスもなんだかいいように思えたし、むかいで座っているジュースとお菓子を持ってきてくれたおばさんも若くてきれいだったし、こりゃまあ囲炉裏さんが何やかや言われるのも無理はないのかなぁ、とまで思った。嫌な小学生だったなぁホントに。僕。
その時。――向かいの家のカーテンが少しだけ開き、先程の誰かが、じっとこちらを覗いているのに気がついていた。
僕はぶるりとしながらそれを見たのだが、すぐにカーテンは閉められ、ふたたび視線は消える。
とりあえず、部屋からは出ようともしない薪に会うことは出来ずに、申し訳なさそうなおばさんに会釈してからその家を出た。
いま思えば、学校側を訴えても全く問題のない事態だったのだが、おそらくは薪側のおじさんおばさんが強く出る事を拒んでいたのだろう。
気がよわくて、上品で、優しい。そんなちょっと周囲といさかいを起こしたくない、ナイーブな二人だったから。
帰る時。再び、向かいの家のカーテンをそっと僕は見た。
少しだけ開いている窓から、誰かの顔が見えていた。
笑っているように見えたのは、たぶん、僕の気のせいではない、とおもっていた。
3
次の日、僕は疲れた表情の担任教師にあることを訊いた。すると先生は訝しりながらも答えてくれ、「なんでそんな事を知っているんだ道草くん」と言ってきた。
適当にそれを誤魔化しながら、僕は持ってきていた詰将棋の本を取り出してから、読む。
頭の中で、この件の『詰み』を拙く計算をしながら。
その日の放課後。
足早に帰る一人の同級生に、声をかけてみた。
「菅野くん」
僕は呼びとめて、その人の元へと、小走りに近づいていく。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」
「……何だよ、俺は話したいことなんてねえし道草」
「まあそう言わずに、……ね」
「なんなんだよ、マジで。今まで、まともに話したこともねえじゃんか、俺たち」
「妹さんは、元気?」
「……ああ?」
「不登校の妹さん、学校に来てるんでしょ。こっそりと」
「な、に言ってんだ……お前……」
菅野君は、ランドセルを握った手を震わせながら僕を見ていた。その怯えたような顔は真実を雄弁に語っていた。僕は歩きながら続ける。
「おかしいと思ったんだ。教室で誰かがやったことは確かなのに、嘘でも何でも無く犯人を誰も見ていない。それに僕達の誰かがやるには時間が変則的だ。そう僕達が教室に絶対いない時、クラスの皆がその場に居ない時に起きてる。体育の時。図工の時。朝礼の時。みんな僕達が確実に全員いない時だよね。つまり僕達の中には犯人はいないということになる。ではどういう事か。……僕この前囲炉裏さんの家にプリントを届けに行ったんだけど、気付いたんだ。…菅野くん、君の家、囲炉裏さんの真ん前だよね。で、二階に妹さんの部屋があるよね。そこからじっとこっちを見ていたんだよ。――妹さんが」
菅野くんは青ざめてうつむいたまま黙っている。可哀そうなくらい手は震え、汗も出ていた。
続ける。
「ここからは僕の想像なんだけど、妹さんは君から囲炉裏さんの話を聴いていたんじゃないかな。で、振られたことも知っていた」
菅野くんがごくりと大きく喉仏を鳴らしてつばを飲み込むのが見える。
ろれつが回らないのか、何度か喋りかけそうでかけない。僕は構わずに続きを話した。
「面倒見がいいお兄さんな君を振った人間が家の目の前にいる。学校にも行けていない私を気づかってくれる、優しいお兄ちゃんを。許せない。そんな感じだったんじゃない」
「ち、違う。あ、アイツは何も知らないし、何もやってない。だ、第一証拠はあんのかよ、証拠は」
「事件が起きた時だけ妹さんが保健室登校してたって解れば、真っ黒に近いグレーじゃない?」
絶句する菅野くん。すかさず僕はにこりと笑い、
「僕に考えがあるんだけど、聞く?」
怯えた表情の菅野君を見て言った。
「犯人なんて見つけなくていいんだ」
そのまま僕達は薪の家まで歩いて行った。
薪は、どういう態度でくるだろうか。
頭の中の詰将棋が、激しく動いていた。
4
「薪ーお客さんよー、部屋を開けてくれなーい?」
僕と菅野くんは二階にある薪の部屋の前に立っていた。
「……帰ってもらって……」
「そう言わずに会ってみなさい、せっかく来てくれたのよ」
「今は、誰にも、会いたく、ないの……」
「囲炉裏さん、僕、遠回理です。えっと、隣の席の。今日はちょっと話したい事があるから、来てみました。中に入れてくれませんか」
「帰って!!」
「薪ッ!!」
「おばさん、ちょっと三人で話させてもらってもいいですか」
おばさんに話しかけると、心配そうに僕らを見つめた後、
「……解ったわ。何かあったらすぐ呼んでね」
と言ってとんとんと階段を降りて行った。ふうとため息をつくと、ドアに向かって静かに語りかける。
「囲炉裏さん、誰がやったか解りましたよ」
僕のその声に、ドアの向こうからごそっと動く音がした。
「犯人を教えますから、中に入れて下さい」
そう言うとガチャリとカギの開く音がし、静かに向こう側へドアが開けられていく。
ピンクのパジャマを着たままの薪はとても疲れた顔をして、まぶたは真っ赤にはれ上がり、ついさっきまで泣きはらしていたのがありありと解った。隣で息を飲む菅野君の呼吸が聞こえた。
「誰がやったの……」
「その前に、言っても許してあげてくれませんか、その子を」
「理由によるけど……」
「助かるよ」
詰みまであと少しだ。さて、どんな投了になるだろうか。
笑いながら僕は考えていた。
5
「殴ってくる」
「許してあげるって言ったじゃないですか!」
「私だって怒りたくなる時くらいあるわ!!」
「抑えてー!抑えて!!!」
「は~な~し~て~」
「本当に済まなかった、囲炉裏! 許してくれ!!」
「菅野くんじゃなくて、向かいにいる子に用があるの私は!!」
詰みを失敗した。どんがらがしゃんだ。
腕を押さえながら僕は必死に薪を押し止めていた。まさかこんなに気の強いとは。
学校での一面とは違って『筋は通す』、『義理人情は果たされるもの』、と考えているのがはっきりと解る。人当たりがいいものの実は強情で、融通もきかない性格らしい。
なだめすかしてなんとか落ち着きを取り戻した彼女は、ぜいはあと息を荒げながら僕達を睨んでいる。
なんとか会話になれる雰囲気になったので、ゆっくりと腰を降ろして全員その場に座った。
全体的にピンクや赤系統でまとめられた室内はカーテンが閉め切られ薄暗いものの、綺麗に掃除され小物もきちんと棚に収められている。
僕はベットに腰を降ろした薪を見上げながら、
「説明はさっき聞いたよね。彼女のしたことは確かに許されることじゃないし、許すべきでもない。それは解る。でもそこをちょっと堪えてくれるだけでいい、駄目、かな」
「何で私がこんな目にあってるのに、あなたはあっちの味方をするの? 私は悪くない!!」
涙をこぼしそうになるのをぐっとこらえ、拳をぎゅっと握り膝の上で震わせる薪。
僕は流石に気の毒になったが、続ける。
「不登校なんだ、その子」
こちらを見た薪。僕は一言一言ゆっくりと相手に届けるように喋る。
その言葉に隣で正座をしていた菅野くんは辛そうな顔をする。一番切ないのは彼だろう。自分の妹が自分のために、自分を傷つけた同級生に嫌がらせしたのだから。
しかも自分が好きだった女の子に。
僕は菅野くんの事をちらりと見てから、
「このまま囲炉裏さんが菅野君の妹さんを糾弾したら、ただでさえ不登校になっている彼女は本当に学校に来れなくなる。更に不幸になってしまう、それは流石に可哀そうだと思うんだよ。どんな理由があったにせよ、逆恨みで自分勝手で卑劣な行為を行ったのだとしてもね」
言って少し区切る。薪の反応を確かめた。
考え込むようにして頭を下げ、唸っている薪。しかし結論は出たようで、
「わかった」と言って了承してくれた。僕はほっと胸を撫で下ろしていると、「でも」という言葉が続いた。
「一言だけ、言ってくる」そう言い、僕達がいるのもお構いなしにパジャマを脱ぎ、僕達が「ぎゃー」と素敵にシンクロするのも無視し、ジャージを箪笥から引っ張り出してきて着て、そのままの勢いで飛んで行ってしまった。
しばし呆然としていた僕だったが、はっと気づき急いで彼女を追った。見れば、向かいの菅野君の家のチャイムを押し、出て来た神経質そうな中年のおばさんに何やら早口で告げると、そのまま二階へ上がる。僕たちはあまりのその行動力に目を点にし、だがそれも無視し急いで菅井君の家へ突入する。
階段をばたばた駆け上っていると、「ぱーん!」と何かをひっぱたく音が聞こえた。
何があったのかを瞬時に察知した僕たちは、その妹さんの部屋らしきドアをけやぶる様にして入った。
どんな地獄絵図が起きているのか――と心配した僕達だったが、そこには右頬を真っ赤にして呆然とした表情の、まだ幼さの残るあどけない顔立ちの少女が薪にぎゅっと抱きしめられていた。
何が何やら解らないまま再び目を点にした僕達に、薪の、「辛かったね」と優しく澄んだ声が聞こえた。
「でもこんなこと、二度としちゃダメだよ。今叩かれたよりもっと相手の心は痛いんだよ、解るよね」
そう言って抱きしめられている妹さんは、次第に涙声になり、「ご、めんなさ、い」としゃくりあげながら素直に言った。
人形になって突っ立っている僕達二人に、首だけ振り向き薪は言った。
「名探偵にはこのくらいのアフターサービスがいるんじゃない?」
にっこりと笑って、僕達に悪戯っぽく笑った。
きっとこの時からだ、僕と薪が近づいたのは。
僕の中で薪が大きくなり始めたのは。
その優しさと芯の強さに、憧れに似た何かを抱いたのは。
なんとなく僕たちはそれから一緒に下校するようになった。遊ぶようになった。
周りの同級生達は僕たちをよく茶化したが、薪はそんなこと全く気にしていない様だった。
腐れ縁が続き、僕が「散歩屋になる」と行った時は初めて応援してくれた。
それまでは反対の姿勢を崩していなかったのに、急にやってみなよと言ったのだ。
何処までも現実主義者で、どこまでも厳しく、優しかった薪。
十月二十二日。寒さが体を縛り、誰も彼もみな背を丸めて歩いている。
墓参りに行く途中、タンポポと歩いていたら、急に思い出して話していた。タンポポは嬉しそうに聞いていた。時折、凄く切なそうな顔をしながら。
マフラーで顔を覆う。肌に冷気が残り、コートの中の体温が奪われていく。
それでも僕は幸せだった。もう一度思い出していた。
「道くん、前言撤回するね。道くんは、その『道』でいいと思う。向いてるよ。だから、頑張りなよ。〝シャーロック・ホームズ〟には成れないだろうけどさ」
あの時、何故急に薪は僕の味方になってくれたのだろうか。未だによく解らない。でも、最初の出会いを思い出す度に、あの薪の顔が浮かび上がっては消えた。
空を見た。
青と灰が混ざったような色。
隣に歩くタンポポは手に花を。僕は数珠や蝋燭やマッチを持つ。
道は、墓地に差しかかろうとしている。
6
タンポポはその話を噛み締めるように聴いた。
時折「へぇ」とか「凄いな」とか「薪姉さんらしい」とか言って苦笑したり、僕達のその邂逅話を隅から隅まで聞きたがった。
僕も懐かしくて、つい喋りすぎてしまっていた。どんどんとその事で頭が一杯になり、実はまだ薪があのおっとりした『フリ』で僕の背中に水でも入れてくるんじゃないか、ひょっこり顔を出して驚かして来るのではないかという幻想も頭をよぎった。ぐっと唇を噛み締めて追い払う。いい加減、想い出として消えて欲しいと真剣に思う。一番大切な人だったからこそ、思った。
「お前が荒れてた時も、薪がいなかったら多分大変だっただろうな」
矛先をわざとタンポポに向ける。タンポポは「俺の黒歴史はもういいじゃねえか」と赤くなって顔を背ける。
可愛いな。
こいつを見てそう思う事が最近凄く増えた。
駄目だ駄目だ、僕は保護者なんだから、という自制心と、一人の異性として僅かに、タンポポを確実に意識する時間が増えて来ている。
こいつはどう思っているのか知りたくないと言ったら嘘になる。
でも例えこいつも僕に対してまんざらでもない気持ちを持っていたとしても、そんな事になったら僕は死んだこいつの両親、つまり紫陽花おばさんと父親の風流さんに顔向け出来ない。
でも――
「兄さんが昔話するのって実は珍しくねぇ?」
そう言って冷たさで頬をリンゴのように赤くしたタンポポを見ると、思わず笑みがこぼれる。変わってくれたんだよな。こんなに。僕の力じゃないとしても。
茶髪にピアス、キツめだが整った顔だち。男口調だしがさつだし、性格も僕以上に男らしい。でも変わった、変わってくれた。以前に比べれば雲泥の差な歳相応の表情を見れば、そのまま抑えておくのが難しい気持ちに少し理性が戻る。
身長は僕よりも高いのに華奢な体つきのタンポポは、寒そうに身体をダッフルコートに収めながら、はーっと手に息を吹きかけている。
無言でマフラーを取り、かけてやる。
驚いたもののすぐに笑顔になり、「さんきゅ」と言って顔をマフラーに埋めた。
「兄さんの匂いがする」
「失敬な奴だ」
「褒めたんだ」
嬉しそうに笑うその顔は、二年前には想像も出来なかった。
「〝時間は流れる〟かぁ…」
僕のその言葉の意味を図りかけたタンポポは首を傾げる。
僕は何も言わず、前を向き歩いたのだった。
7
両親をほぼ同時に病気と事故で亡くしたタンポポは荒れに荒れていた。
いつしか柄の悪い連中とつるむようになり、しまいには暴走族のヘッドにまでなっていた。
毎日喧嘩して帰ってきては僕と両親に説教され、反発し、そして酷い時には数日間も家に帰ってこないこともざらだった。
流石に怒り心頭になった僕の母さんが二度と家の敷居を跨ぐな!と絶縁状を叩きつけた。
僕は家の近くにアパートを借り、そこでこいつと一緒に生活する事にした。
ケジメだった。
まだ僕も散歩屋としての道を歩んでいない頃で、バイトでなんとか生活していた日々に、家賃と同居人の暮らしを成り立たせるのは並大抵の苦労ではなかった。
家族には何度も頭を下げ、両親を説得、「あいつは僕が絶対に面倒見るから!!」と土下座してようやく納得してもらい少ないながらも仕送りをしてもらえることになった。
しかしそんな額では全然足りず、毎日毎日深夜までバイトの連続。タンポポとはろくに話も顔も合さない日々が続く。
そんな中、僕は『散歩屋』という職業を思いつく。周囲にはただでさえ大変なのに、何を言っているか、ちゃんと定職に就け、と嵐の様に言われた。あの薪でさえ、
「絶対にやめて」
と真剣に言っていたくらいなのだ。
僕は諦めた。そうだ、僕にはもう守るべき人がいる。自分の都合で好き勝手にしていい歳では無い、そう自分に言い聞かせた。仕事に打ち込む日々が増えた。
それからだ。タンポポが僕を見る目を変えたのは。変化していったのは。
喧嘩の頻度が増え、携帯を怒鳴りつける。かと思えば急にふさぎ込んで外を飛び出す。
暴走族が暴力団との繋がりも時にあること。麻薬、覚せい剤、合法ドラックなどの資金源にしている事も知っていた。
だが僕は、タンポポがそれを許さない事を誰よりも知っていた。
――タンポポの父の風流さんを轢き殺した男も、覚せい剤を使用していたからだ。
日増しに酷くなるタンポポの行動。何も言わずに『貯金』する僕。切り詰めた生活の中で、タンポポは料理がいつもコンビニの安い弁当なのに皮肉を言ったが、僕は笑顔で「結構美味しいよ」と言って食べた。
そんな僕にタンポポはだんだんと、一緒にご飯を食べる事が多くなった。
時々、本当に時々ではあるが、笑ってくれるようにもなった。
薪も積極的に料理を作っては持ってきてくれ、三人で食べるようになった。
薪は嫌がらせのようにオムライスを高頻度で作り、いつも僕の額に青筋を作らせた。薪も僕と同じように、タンポポを見ても何も追求しない。そしてタンポポの顔はどんどん柔らかくなっていった。
そんな時。
最後に、それっぽい事をやって気持ちを収めよう、そう思い僕はたまたま家にいたタンポポと散歩しようと思い立った。
恥ずかしがり嫌がるタンポポの手を取り、近くのウォーキングコースを歩いた。
タンポポはずっと黙っていた。何か言おうとして、そして止める。言いかけ止めて、言いかけては止める、その繰り返し。
僕はタンポポの頬が赤く腫れている事に触れなかった。タンポポの歩き方がおかしい事も口に出さなかった。タンポポの行動にある焦り、緊張を無視した。
言いかけては止めるタンポポを見て、僕は言った。
「手切れ金は、いくら?」
鈍器で殴られたかのようにたじろいだタンポポは、石の様に立ち尽くす。
気付いていた。
彼女が、族を抜けようとしているということを。
そして大抵それには、『手切れ金』なる腐った金が必要になることを。
「――し、知ってたのか!? あ。だからあんなに給料、切り詰めて貯金してたのか!? 俺の金、作ってたのかよ!!?? 馬鹿じゃねえの!? 何考えてんだ!! そんな事一言も頼んでねえじゃん!! 余計な事すんなよッ!!!」
「家族じゃん」
タンポポは止まった。
「家族じゃんか。もう僕達。違う? タンポポ」
その固く作られた仮面が、ゆっくりと融解して――
「僕が守るから。だからもっと笑ってて。タンポポ」
飛び込んできた。
身長差など考えもせず、僕に覆い被さる様にして泣く。泣きじゃくる。
赤ん坊のように大きく声を出し遠慮も恥も捨て去り、傷ついた女の子は泣き続けた。
泣いてもいいのだと、ようやく誰かに許されたように。
強く抱きしめ、僕は誓った。
何があっても、僕は笑顔で抱きしめようと。
何があっても、僕だけは絶対に受け止めようと。
温かく沁み出してくるこの温もりは、彼女の体温だけではないことを心の何処かで強く感じながら。
タンポポと、本当の家族になった日。
『散歩屋』としての仕事が、始まったのだった。
8
懐かしい思い出話に花を咲かせていると、もうすぐ墓地の入り口だった。今日は平日なのもあってか人は全くと言っていい程いない。
僕達は入り口を通り、しばらく真っ直ぐ行ってから左に折れる。墓と墓の間を通って行くと、少し立派な墓が並んでいる所に出た。
着くと、もうそこには薪のおばさんとおじさんが来て行ったのだろう、花と線香と薪の好きだったドーナッツが置かれていた。薪はドーナツを買ってくると全部一口づつ齧っていい所だけ堪能し、後は僕とタンポポに寄越すという人としてあるまじき行為の常習犯だった。笑いが込み上げる。
僕はしゃがみこみ、周りの雑草を抜く。タンポポと一緒になって、しばらく二人で無言で草を抜きあう。
ニ十分くらい入念に抜き終ると、爪と爪の間に土が入って黒くなっていた。何だか解らないけどおかしくて二人して笑う。
僕達は花を一緒にさし、線香も二本加え、火をつける。ゆらゆらと白い煙が空へと昇っていく。
数珠を切り、手を合わせ、目を閉じる。
無音の世界。
何も聞こえず何も解らず。
ただ僕達の周りには穏やかな沈黙と空気が流れる。
僕がじっとして目を閉じていると、
「薪さん、ありがとう。約束、忘れないから」
そう隣で聞こえてきた。僕は目を開けると、タンポポはもうんーっと伸びをしながら背を向けている。僕は返って来ない事を前提に訊いた。
「約束って、何だよ」
茶髪が揺れて、背中越しにタンポポは呟く。
「『散歩屋』は、兄さんにはぴったりだって事だ」
意味が解らずに、もう一度訊く。
「約束とどう関係あんだよそれ」
「んー? 何だろうなぁ」
くすりと笑いタンポポはこちらを向く。
「兄さんの背中を押したのは、薪さんだけじゃないってことかもな?」
その意味を理解した時。僕は何も言えなくなった。
だから、薪は反対していた『散歩屋』を応援する気になったのだ。
僕に一番影響力のある薪へ、頼んだのだ。応援してやってほしいと。
――背中を押してあげてほしい、と。タンポポが。
「〝ワトスンになってあげてね〟って、言われたんだよ。薪姉さんに」
僕はぐっと拳を握りしめる。
無造作に『囲炉裏』の彫られた文字を袖で拭った。おばさん達が洗ったのか、水気で少しジャンバーが濡れた。
『私の自慢のシャーロック・ホームズだからね』っていつも言ってたから」
違う。これは今袖が濡れたからだ。僕の眼から何も落ちてないし何も出ていない。
袖が濡れているだけだ。そうに決まってる。
「兄さん……」
僕は何も言う事が出来ない。喉に何かが絡まって、蔓のように声帯にしがみついて離れない。言葉が出る時には違う呻きになって外へ出てしまう。力が入らない。しゃがんで袖で顔を拭う。拭っても拭っても袖は何かで濡れていく。
ふわりと誰かが、僕を抱きしめる。
「『絶対に守る』ってのは、男だけのキメ台詞じゃねー」
ぎゅっと、手を握られる。
「大好きだよ。――……兄さん」
ゆっくりと顔を上げた時。
息が、吸いこまれた。
何も言えない。何も見えない。
でも、その唇に感じた体温は、目の前にじわりと映った瞼は、確かにいつも僕が見ているあの顔で――
「――女みてえにいつまでも手こまねいてんじゃねえよ。馬鹿」
優しく顔を離されて、言われた。
今度は、自分から引き寄せる。抱きしめもう一度強く重ねる。苦しそうに息を詰めるタンポポ全身を飲み込むように、息を吸う。何もかもを吸い込んで、このまま溶かしていしまいたい、そう思った。
そして。
ゆっくり二人の唇が離れる時、気付いた。
「……墓地でやることじゃねぇよな……」
「言えてる」
どちらともなく、柔らかな笑いが響く。
ふと、置いてあるドーナッツに目が行った。あれ?
タンポポも気付く。訊かれる。
「兄さん、お供え物食べるなんて最低な真似したか」
「するわけないだろ」
そこに入っていたドーナッツたち全てが。
いつの間にか一口ずつ、一番いい所だけ、齧られていた。
僕達は顔を見合わせ、しばらく黙り、そして誰もいない墓地に。
高い笑い声を、轟かせる。暫く笑って涙を拭う。
――ったく久しぶりに会ったと思ったら。お前って、お前ってやつは。お前って奴はさ、本当に。
「なんも変ってねえんだな、お前は!」
ひゅううう、と笑い声の様に風が飛んでいく。
繋いだ手が冷たい風にさらされ一層強く握られる。
タンポポが微笑む。僕も微笑む。
誰かと共に歩く散歩道は途切れることなく未来へと続いていく。
僕はそう、信じている。