第四歩 『先生』
1
想い出はときに寂しさを運ぶ。
いいものであれ悪いものであれ、風のように流れてそっとこころの奥深くへと息をふく。
明日なんて誰にもわからないのなら、わからないままでもいい。どうせまたなにかに僕たちは惑わされて引き寄せられてそして、振りまわされるのだろうから。
後ろを振り返るのが怖いのであれば、むかなくてもいい。
でもそれが大切なものであれば思い切って向き合ってみるのも、いい。
戻らない日々を懐かしむことが出来るのも人間の特権なのである。
つらい日々は過去の摩擦で磨かれ削られそして感傷となって運ばれる。
まわり道なんかだとしてもいい。ただ、その香りだけで胸の奥は熱くなっていく。
記憶の海へと射しこむ、あの、あたたかい陽の光のように。
2
「青春の無駄遣いをしとるんじゃないか、君は」
「青春の意味が『青臭い』なら、今も充分青春してますが」
「青臭くなくなったら男は意味がないからな」
「じゃあ男ですね、僕はまだ」
「顔は子どもみたいだがな、背も低いし」
「そう、で、す、ねぇ……」
「男は男らしく生きなきゃならん、男に生まれてきたからには」
「ぞう、でず、ねぇ……ッ」
「例えば儂のように」
会話放棄したい。僕にそう思わせる依頼対象には久しぶりに会った。
僕が今日の依頼人、鷲矢大典さんをはじめて見た時ぱっと思いうかんだのが〝昔の軍人〟だった。背が高く、細身ながらも異様な迫力をかもし出す鋭い雰囲気。歳に関係なくびしっと伸びた背筋。
細面に高い鷲鼻、オールバックにした白髪と同じく白い髭をたくわえ、腕はうしろに組まれ油断なく周囲をみる。瞳は獲物をまえにした猛禽類のようだった。
僕は完璧に委縮してしまい思わずお辞儀した。何故かはわからないけど、しないと殴られそうな感じがした、直感で。
そんな鷲矢さんとの待ち合わせ場所は本人の自宅だった。出迎えてくれたのは奥さんのおばあさん。瞳さんというらしい。
僕が玄関先で挨拶すると、「あらあらようこそ」と人のよさそうな笑顔を向け「散歩屋さんって感じだわねぇ」といった。「ねぇ」に同意していいものか迷った。というより『散歩屋な感じ』がよく理解出来なかったので曖昧に誤魔化す。……褒め言葉だと思っておこう。僕に顔を近づけ瞳さんはそっと耳打ちしてきた。
「……あの人が知らない人と一緒に健康のために歩きたい、なんて言った時は驚いちゃったわ~、頑固で融通がきかなくて、人と足踏みそろえて何かするっていう事が出来ない人だったのに。家でも部屋で黙々と文学全集を読みふけってるような友人もいない人が、息子がおいて行ったパソコンに四苦八苦してあなたにメールした時は驚いて腰が抜けちゃうかと思ったわよ。定年迎えて随分たつから、人恋しくなってきたのかもねぇ、いい傾向だわ。あの人にとっては」
言っていることは辛辣だが、表情にはいたわりと愛情が詰っていた。言葉にしなくてもいい関係、というものに少なからず憧れを抱いていた僕には、その二人の関係が羨ましく映った。更にそこに何か言いたげな顔をしていた瞳さんの横に、当の鷲矢さんが現れたというわけなのだが、もう三和土に正座しなければならないような厳しい目つきで見下ろされるものだから、一気に緊張が高まり先程いった腰を九十度まげてお辞儀をしてしまったのだった。
何故かばつの悪そうな顔をしていた鷲矢さんを、顔をあげた僕は不思議に思って見上げた。その顔はやたら優しげな顔をして鷲矢さんの顔をみている瞳さんを、見ないようにしているようでもあった。
「……行ってくる」
「気をつけてねぇ」
「ああ」
短いやりとりをしつつ僕を置き去りにして玄関をでる鷲矢さん。僕は慌てて「では、失礼します」と駆けた。「散歩屋さん!」と呼び止められる。振り返った僕に、
「気難しいけど、優しい人だから。今日は特に。よろしくお願いします」と瞳さんは言って頭をさげた。
後ろで束ねた白髪が揺れる。「笑っちゃうわよ。不器用すぎて。きっと」と微笑んだ。僕はすこし立ち止まってその顔を見て、「行ってきます」といって鷲矢さんを追いかける。最後に心なしか寂しそうに細められた瞳さんの目をみて思った。
今日もまた何かありそうだ。そんな予感を胸によぎらせながら。
3
「今日は儂の散歩につき合ってもらい、感謝する」
前を見つめたまま、しっかりした足取りで進んでいく鷲矢さんに、僕は大股でついていくのが精一杯だった。「い、いえ、一緒に歩かせていただいてこちらにしても、はあ、ありがたい、です、……」息も絶え絶えなのが情けない。六十ちかく歳が上のひとに歩く速度で追いつけないというのは、確かに恥ずかしいし青春を無駄にすごしたツケが回ってきたのかもしれない。
鷲矢さんは速度を心なしかすこし緩め、「鍛え方が足りん」と口を引き結びながら言う。本当に軍人さんみたいだ。
夏の暑い日である。蝉がどしゃぶりの雨のように鳴り響き、耳にもことさら八月も中盤にさしかかっていることを教えていた。タンポポに帰りにジュースを買ってくるように頼まれた本日八月の十五日、この歳になって歳下の従妹にパシらされている男、遠回理道草。『青春の無駄遣い』が心に突き刺さる。誰か僕に愛情ください。
「本、当にこれじゃあ、男とは、言えないかもしれません、ねぇ……」
暑さと緊張のせいで喉が粘つく。カラカラになった喉は水分を欲している。
散歩屋の僕は持ってきていた腰につける小ぶりのメタリックグリーンの保冷ボトルから薄めたスポーツドリンクを取り出すと、フタのコップに注いで鷹矢さんに手渡した。
「君は今時の若者にしては中々モノになりそうな男だがな」
少し唇の端をあげ喉を鳴らしながら飲む。喉仏が上下にうごくのを見ながら僕は褒められた理由があまりよくわからず首を傾げた。
飲み終えた鷲矢さんは僕の顔をみるとその内心を見透かしたかのように「そのボトルだ」と指を向け、
「儂のためにわざわざ買ったんだろう?」と言った。
僕はおどろいて聞き返す。
「何で知ってるんですか?」
くく、と渋みのある顔で笑いながら(昔の俳優さんみたいでカッコいい)「いくら君が小柄でもその量は少なすぎるからな」と言って「ありがとう」とコップを返した。「それに昨日のチラシで安くなっていたしな」あ、そうか。知ってたんだ。そりゃ気付くわけだ。
僕はお年寄りとあるくときは必ず保冷ボトルを持つことにしている。今日のように暑さが厳しい日だけでなく、涼しい時でも同様であり、水分を気づかぬうちに失っている高齢のかたは最低限の水分が必要だからである。だが昨日準備しているときタンポポが「ごめん水筒失くした」といきなり言ってきたので、うろたえた僕はどうしようかと悩んだのだが、ヤツが「今日入ってたチラシに安く売るって書いてあったな」とすこしも申し訳なさげにせずに言ってきたのを聞き、急いで買いに行った。それにしても、鷲矢さんよく見てるよなあ。
「おみそれしました」
頭をさげると鷲矢さんは嬉しそうに「闇市はもっと厳しかったぞ」と言って、笑った。
4
「素敵な奥さまですね」
僕は暑い日差しのなか、じりじりと肌を太陽に焼かれながら手でひさしを作り、陽炎が前の方のアスファルトの視界を揺らしている。
みーんみんみんみんみーん……と蝉たちが今日も合唱をいっせいに鳴り響かせる。その五月蠅い街路樹の脇をとおり、僕たちはゆっくりと歩く。
「まあな」
ぼそりと、まんざらでもないような感触の言葉で返してきていた。
「振り返って初めてわかることもある。あれは今までよく儂に尽くしてくれた。感謝もしている。だから少しくらい我儘も許してやらんといかん。ようやく最近そう思えるようになってな」
その声に若干の哀愁を感じとった僕は「そうですか」と言ったあと話題選びに失敗したかと後悔していた。仲がよさそうだったのが、何かあったのかもしれない。
「長く生きてきてようやくわかった」
突然のその言葉に顔を上げると、鷲矢さんは遠くを見つめていた。先にある墓地を眺めて、「違う道を行こう」と提案し、その手前でまがる。慌ててルートを頭の中で再構築して後ろに追いついていた。
「男はどんな時でも男らしくなくてはいかん」
中学生の初々しいカップルが手をつないで学校の部活の帰りなのか、制服のまま見つめ笑いあっている。白シャツが光に照らされて着ている本人たちと同じように若々しく輝く。
鷲矢さんは目をほそめ言う。
「どんな時でも、だ」
声が湿り気を帯びていることに気づかない振りをし、僕は前をむいた。
鷲矢さんは彼らを、じっと見つめていた。
5
「暑い日はいつも昔を思いだす」
鷲矢さんはそう言いつつ、両手を後ろに回してコツコツとウォーキングシューズを鳴らしながら歩く。颯爽という言葉が似合う人はいいなあ、とハンカチで汗をふきふき僕は短い息をはく。暑い。暑いから頭が回らないんだろうかと首を傾げた。ぼんやりとした思考のなかで鷲矢さんは続ける。
「女房と会った幼い頃も、こうやって一緒によく街を歩いていた」
僕が傍にあった自販機でスポーツドリンクを買う間、鷲矢さんは思い出を懐かしむように言いながら木陰のベンチに座り、両指を組み合わせながらその顔を目の前の商店に向けていた。献花が売られ、数珠や線香、ライターなどを買っていく人が自動ドアを開けて出ていく。今日という日を考えれば当然か。僕はごくりと喉を鳴らしアクエリアスを飲みこむ。
熱風が頬をなでる。僕はその買い物客をじっとみている鷲矢さんが寂しそうな顔をしているのを見て、「何か、思い出でもおありですか」と尋ねた。
鷲矢さんはくすりと笑い、
「『散歩屋』はなかなか大変な商売だな。老人に気をつかうのは骨が折れるだろう。特に儂みたいなヤツにはな」と言った。僕は首を振りながら「それが楽しくもあるんですよ」とおどけながら返していた。
鷲矢さんのしわが表情をつくる。
孫を見るようなその顔に僕の緊張もほぐれていった。「くだらん昔話だよ」僕が一緒にベンチにすわると、すこし腰を上げそのスペースを広くしてくれた。
そのさりげない気遣いに僕が頭を下げると、「礼を言えるのは大事なことだな」とふんと息を吐きからかうように呟く。気難しい人だが頭がきれ顔も魅力的だったであろうことを想像すると、昔はモテたんだろうなあと思っていた。
「あの頃は何もなかった。服も食べものも家だって粗末なもので、明日暮らしていけるかさえもわからなかった」
そういう鷲矢さんは向かいの商店から目を逸らさず、じっと買われていく花や蝋燭や線香を見ている。
「そんな中で儂は瞳と結婚した。あいつの都合も考えずに、自分の気持ちを優先させ、一緒になったんだ。そうやって儂は生きてきた。ずっと。妻の我儘も見過ごせんつまらん男だ、心の底までな」
ふう、とため息をつき背中を丸めた。鷲矢さんの言っていることが薄ぼんやりとだが見えてくる。でも、それならば彼はとてもいま複雑で辛い心境ということになるだろう。
僕は横目で遠く、むこうの青々とした山を見つめていた。
「奥様とは、結婚されてどのくらいになられるんですか?」
訊いていいかどうか迷ったが、今このタイミングならばいいだろうと思い話しかけてみた。
鷲矢さんは疲れたように目を僕の方に移しながら、
「もうすぐ六十年。気づけば金婚式もすぎ息子も孫もいる。時というものは不思議だな」
ぽつりと言った。
「後にも先にも、儂があれほど熱心に女を口説いたのは初めてだった」
苦笑さえも絵になる人がいうと、確かに真実味もある。
人生で一度は言ってみたいセリフである。僕の場合、出番は当分先なんだろうけれども。
「そのころ瞳は随分と落ち込んでいてな。離れて見ているだけで辛さが肌をさすようで、儂はその傷心につけ込んだと言っていい。その時だ、儂の人生が一度死んだのは。あれからだ、儂がこの女のために生きようと本気で決めたのは。そう思ったんだ。この儂が、だ」
くく、と鷲矢さんは笑った。僕は下を向きながらじっと話を聴く。
「この歳でようやく、『先生』の気持ちがわかるようになるとはな」
僕はその言葉の意味を感じとり、何もいえずにただ黙って商店に目をむけている。
店先に並ぶ色とりどりの花々が、眩しい陽を柔らかく受け止めていた。
6
「時間はどのくらい経ったかな。遠回理君」
僕は自分の腕時計を確認して、「歩き始めてからそろそろ二時間ほどだと思いますが」
と答える。
「今日は墓地が混んでいますから、先程の通りは通らないようにしようと思います。よろしいでしょうか?」
「儂もいまそう頼もうとしていた所だ。人ごみは苦手なのでな」
歩きを再開した僕たちは鷲矢さんの近所をおおきくぐるりと回り、ちかくにある墓地を通らないルートを選んで歩いていた。
「今日は暑いな」
「今年一番の暑さだそうです」
「魂はあると思うか」
「……は?」
「遠回理君、君は魂はあると思うか」
突然の話題転換にとまどいながらも、「あれば、いいとは思いますが……」と本音で答える。
鷲矢さんは「そうか」と短くこたえ、
「儂も『ある』のであれば、今日帰ってきてもらいたい奴がいる。……世迷い事だ、忘れてくれ」
「いえ……」
僕はさきほど買ったアクエリアスを蓋を開けてすこし飲む。汗が一筋ほおを流れ落ちる。暑い。身体の芯から体力が抜け出ていくようだった。
喉が潤ったところで鷲矢さんの望む『魂』は何なのかを考えていた。答えはもう出来あがりかけているものの、まだ正しいとは言えない。でも、『それ』のために今日僕を呼んだということだけは、わかっていた。
僕に出来るのは、一緒に歩くことだけ。
少しの間、相手の肩に背負った荷物をおろしてもらうだけだ。
額に張りついた髪の毛をつまみ汗をふく。
相変わらず僕のまえを靴音をならしながら進む鷲矢さんの背が、なにか訴えているようだった。
「魂に、どんなことを願っているんですか?」
僕が真剣に尋ねると鷲矢さんは、
「詫びたい」
と短く、簡潔に、しかし強い意志を感じさせる声で言った。
「どうしてですか?」
僕が強い言葉を包み込むイメージで柔らかく返すと、鷲矢さんは、
「儂にはそれくらいしか出来んからな」
とつらそうに言った。
墓地の前にでて、鷲矢さんは足早に方向をかえ、脇の道へとまがった。顔は苦みで満ちており、僕はその背中に追いつこうとして、ある人を見ていた。
僕は視線を合わせないようにそっと向きをかえ、鷲矢さんの後に続く。
晴天の空に、線香の匂いが漂ってきていた。
煙は空にとけて消えるのだろう。
残された人の心を置き去りにしながら。
7
歩きながら考えをまとめていく。
僕は視線を鷲矢さんにむけつつ、心の中では結論に至ろうとしていた。
もちろんそれが間違っている事もあるだろうし、そうであればこのまま何事もなく無難に仕事を終わらせ切り上げるのも考えていた。
しかしそのままでいいのだろうかという気持ちが、むくむくと胸に膨らんできたのも事実であった。
鷲矢さんは無言で前を見つめながら歩く。
そのしっかりとした足取りはとても八十を超えているとは思えなかった。
お年寄りと歩くことが多い僕でも驚嘆してしまうほど、その身体は若々しく映る。
だがその表情は確かに年齢をかさねた、人生を背負っていることも感じさせる。考える。
先程の鷲矢さんの言葉の意味を。先程みた光景の意味を。
あの顔を思い出し決めた。鷲矢さんに顔をむけ、「――鷲矢さん」と呼びかける。
顔だけこちらに向け、後ろで組んだ腕をゆるめて僕を見る。
「――何だ」
僕はふたたびその迫力にのまれ、つい、どもりそうになってしまっていたのだが、気をつよく持ちなおし言う。
「お供え物、買いに行きませんか?」
「何?」
鷲矢さんはいきなりの提案に不審そうな顔を向けて睨んだ。
僕はその視線に蛇ににらまれ絶体絶命のカエルの気持ちを十二分に味わいながら、腹に力を込めながら続ける。
「感謝をこめてです」
「ふんくだらん、いきなり何をいいだすかと思えばお供え物だ感謝だと? 一体どうしてそんな事をせにゃならん、大体――」
「奥様と鷲矢さんとの、今日は大事な日ですから」
足を止め、彼は瞳をむける。
なぜ貴様が知っている――そんな感情で顔を覆い尽くしながら。
「奥様の恋人が亡くなった日なんですよね。今日」
僕はおだやかさを意識しながら笑う。
鷲矢さんのその表情を見、想像を確信に変えながら。
「いきませんか。奥様はもう済ませているようでしたから、会う心配はありませんし」
「……何を……言っているのだ、……貴様、は……」
「『こころ』は――僕も読みましたから」
その言葉で鷲矢さんは、力なく腕をたらした。僕は思わず涙ぐんでしまっていた。
これで、よかったのだろうか。
鷲矢さんの顔をみて、世のお節介焼きが嫌われるのは当然だと思っていた。
8
僕の読書遍歴を人に話すとまずひどいと言われる。
なにしろ、まともに読んだ本というのが国語の教科書であり、顔に似合わず意外と読書家のタンポポには呆れる前に馬鹿にされる。
「兄さんに小説の話するくらいなら近所の猫のほうがまだ建設的だ。癒されるし」
そこまで言うかと怒りたくなったのだが、事実であり、確かに僕に話しても無意味である。文字通りお話にならない。
別に、嫌いなわけではない。
ただ、難しすぎてよく理解出来ないだけだ。(「猫以下だ」と、タンポポには言われた)僕の方が上だ、だって文字読めるし。
そんな僕でも、国語の教科書にのっている話くらいはちゃんと覚えていた。
芥川龍之助の「羅生門」だとか、中国のやつの「山月記」だとか、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」だとか。
あんまり読まない分、一度読んだら忘れないし記憶からシーンを呼び起こすことも容易に出来る。
「宝の持ち腐れだなぁ」との再びタンポポの声。五月蠅いこのベタ甘かくれラブコメ小説ジャンキーめが。
そんな数すくない読書経験で僕が感銘を受けたものの中に、夏目漱石の『こころ』があった。
語り部の青年の『私』が興味をいだいた初老の男性、『先生』からおくられてきた過去の罪の懺悔を手紙による告白形式で綴られる物語であり、最後には結局『先生』の自殺で幕を閉じる。人間心理の暗さ、嫉妬に孤独、耐えがたいエゴイズムの悲哀さを描いた傑作中の傑作である。
暇つぶしに授業中読んでいたら面白くて、あてられたのに気付かずに思いきり殴られたのをいまだに覚えている。
そんな中で鷲矢さんから出てきた『先生』という言葉。
文学全集を読んでいるくらいなんだから当然知っているんだろう、『先生』が犯したあの罪。
墓地で見てしまった、あの瞳さんの寂しそうな微笑。
鷲矢さんが帰ってきてほしいという『魂』。
「詫びたい」と願っている『魂』。
結婚する前、不安定だったという瞳さん。
そこにつけこんでしまったと語っている鷲矢さん。
瞳さんの我儘を許せるようになったという鷲矢さん。
今日は、八月一五日。終戦記念日。
互いにひかれていることを知りながら、恋焦がれていた女性を手に入れるために親友と彼女のなかを引き裂き、彼を死に追いやってしまった『先生』。
その女性と結婚し、しかしずっと罪悪感を抱き続けていた『先生』。
そして鷲矢さんは――
「儂は、『先生』と一緒なんだ」
そう言っていた。
「戦争で死んだか、そうでないかというだけでな」
くしゃりと笑う。
こぼれ落ちる大粒の涙で、頬を濡らしながら。
9
「儂が勝浦と出会ったのは、すでに戦争が終わりかけた暑い夏の日のことだった」
みーんみんみんみんみー……――蝉の声がすこし遠くなる。実際遠くにいるわけではなく、この墓地がある寺はたかい木々の天辺あたりで陣どって鳴いているため、下にまで強く響かないだけである。
その年輪を経た大木が大きく緑の両腕を広げている真下にいるため、強い日差しはここまでは届かずに涼しい。さわさわと風に揺られる葉擦れの音が、風鈴よりも夏の印象を強くしていた。
僕と鷲矢さんの目の前。そこには古いのだが丁寧に掃除されており、綺麗な花が活けられていて、線香の煙をゆらゆらと揺らしながら空へと昇らせている、小さめの墓があった。
『勝浦家ノ墓』と彫られているそこには、家族以外の誰かが来たのだとすぐに分かる、違う種類の花があって通常さす場所ではなく直接地面へと置かれていた。
それを見下ろしながら、鷲矢さんはコンビニで売っていた復刻版のラムネを二本、手に持ちながら一本を静かにその脇におく。
「いつもいつも、ラムネを飲んでるようなヤツでな」
苦笑しながらゆっくりと立ち上がって、続ける。
「ヤツのラムネを儂と勝浦と瞳の三人で一緒に飲むのが楽しみだった。本ばかり読んでいる儂のような暗い男に、おかまいなしに喋りかけてくるような変な男でな。最初は馴れ馴れしいと思って邪険にしていたんだが、気がつけばいつも一緒にいるような腐れ縁となっていた。……今思えば、あいつも不安だったのかもしれん。戦争に行くと豪語していたものの覚悟と不安とは別物だ。儂のような人嫌いが、逆にそんなあいつの何かに引っかかったのかもしれん。今となってはわかりようもないが、同じく儂も戦争にいくと決めていたから、同志という気持ちもあったんだろうな」
そう語る鷲矢さんの瞳はすみ、一瞬彼のすがたが学生服を着ている青年になった気がしていた。
もちろんそれは気のせいですぐに後ろに手を組んだ深く皺の刻まれた鷲矢さんがいたのだが。
「ヤツと瞳が恋仲になったのも、その頃だった」
その言葉をいった後、鷲矢さんはその地面に直接置かれている花をじっと見下ろしていた。そのままぽつりと、
「嘘をついたんだよ」と言った。
風に花がゆれる。その匂いが僕の鼻に届き、芳香が胸をすぎる。よい香りなのに何故だか寂しい。まわりにも僕と同じ気持ちの人たちなのだろうか、花に顔を近づけながら、静かに目を閉じていた。
「奴のところに赤紙がきた時、儂はヤツから頼まれた。〝戦争が終わったら、お前に仲人を頼みたい〟と。儂は笑顔でいった。『任せろ』と。そして薫にこう言った。『俺のことは忘れて幸せになれと言われた』と」
僕の心に黒々とした闇が広がっていった。そのとき鷲矢さんは必死だったのだろう。
到底許される事ではないが、嘘をつかずにはいられなかったのだ。瞳さんを手に入れるためには。
「最低だと笑え」
悲しげに歪んだ笑みを浮かべている鷲矢さん。
「どちらか死ぬか。どちらも死ぬか。二人して生きていることは考えなかった。……儂は死ぬつもりだったからな。そうなれば、どう転んでも瞳を傷つけることは減る。そのとき儂は愚かにもそう思ったのだ。結局、奴がいって死亡通知がきても場所もわからず死体も届かず、そして儂がいく前には戦争が終わった。残ったのは儂の罪だけになった」
過去の過ちを語る人を、戦争のせの字も知らない小僧が何を言えるのだろう。
親友を裏切り、妻をだまし、そしてそのことを胸に隠し続けた一人の男を、どう笑えるというだろうか。
僕は精一杯の気持ちを込めながら、言う。
「許しは得られなくても……こうやって、勝浦さんの前で悔やむあなたを責められる人は誰もいません。いるとしたらそれはあなただけですよ、鷲矢さん」
ふ、と鷲矢さんは笑った。
「瞳は許さんだろうな。これを知ったら」
「奥さんはもう、お気づきになられています」
誠意をもち、真剣に答えることにした。
驚きの表情を作り、鷲矢さんは僕の眼を凝視する。
「結婚して六十年間、嘘をつき通すのは難しいですよ。特に女性には」
ゆっくりと鷲矢さんに微笑む。
――『不器用な人だから。笑っちゃうくらいに』――
瞳さんの玄関でのことばが耳に響く。
「だからもう、自分を許してあげませんか。鷲矢さん」
僕がそう言うと、鷲矢さんは声を詰まらせながら、「儂、は……」と呻く。その顔は苦しそうに歪められ、つぎの言葉が出てこない。僕が声をかけようと口を開けると、
ざぁぁあぁああッ――――! ……、と……。
突如、竜巻のような突風が吹き荒れあたりは騒然となった。
悲鳴が鳴り響くなか、僕も驚きながら顔を手で覆いつつ、息を止める。何だ、何だ一体なんなんだ――……
風はぐるりと渦をまき、同じく驚いて顔を覆っていた鷲矢さんを包みこみながら、揺れていた線香の煙と共にゆっくりと上昇し、墓前に飾られていた花ではなく地面に置かれた花を巻き込みながら空へと高く舞いあがった。
花びらが鷲矢さんを包み、大きな音をたてながら、ゆっくりと静かに飛んでいく。
謎の事態に僕がなにも声を出せずにいると、
「馬鹿野郎」
鷲矢さんは空を見て呟いていた。泣きながら。
「いまさら来ても、遅いんだよ」
爽やかな笑顔を空にむけている鷲矢さんの顔が、僕の眼に焼きつく。
言った。
「遅刻するのが当たり前だったんだよ、昔っから」
そういって苦笑いをしながら、手にもったラムネを開け、一気にあおっていく。
喉がなる音と、炭酸の弾けていく音が、風も蝉も止んだなかで響く。
飲みほした瓶を置いてあった瓶へとぶつけた。カチンとカロンというビー玉が鳴り音がかさなる。
「来年、またくる」
そう言って、くるりと鷲矢さんは背をむけていく。
僕も慌てて付いていこうとして振り返っていた。
意外と、蝉も空気を読むものなんだなと。
穏やかな日陰のなか、墓のまわりに散らばった花びらを見、汗をかいて寄りそうラムネを見、僕は微笑んだのだった。
10
「ただいまー」
タンポポが用事から帰ってきたのが聞こえていた。
僕は「おかえりー」と居間で横になりながら、古本屋でかった夏目漱石の『こころ』の文庫本を読んでいた。がらりと襖が開けられ、「あっじいー」と胸元を大胆に開けて汗をかき、ぱたぱたと手で風を送っているタンポポが入ってくる。そして僕の方を見て一瞬、固まっていた。
「兄さんが……小説読んでる……」
世界が終わりを迎えたかのような表情を作るとともに、疑惑の念をむくむくと膨らませたらしきタンポポから、
「何があったんだ、あの馬鹿でマヌケでどうしようもなく教養もない本嫌いの兄さんが、よりによってあの漱石の『こころ』読むだなんて」
と悪気のない悪意をまき散らしてきていた。
ふふん、と僕は鼻を鳴らしながら、
「僕だって、知的な面は持ち合わせてるのさ」
「兄さんの知的レベルは似非関西人がつかう関西弁よりも薄っぺらい」
どういう意味だ――!
思わず文庫本を投げ出したくなったのだが、ぐっと堪えて読書を再開していた。
「まぁ、兄さんの趣味に『読書』が増えるのはいいことだよな」
タンポポは、割と本気でそう思っているのがわかる、嬉しげな瞳をこちらに向けながら、台所へと向かっていた。
「いやあそれにしてもあっついよなぁ、……そうだ、兄さん頼んどいたジュースとか買って来てくれたか?」
タンポポはがちゃりと冷蔵庫を開けると中をのぞきこんだ。「ん?」と声を出しながらその入っていたものを取り出す。
「……これって…ラムネ、か……?」
薄緑色をしているくびれたガラスの瓶に、炭酸の微かな音と上部のビー玉がぴかりと光っていた。暫くしげしげと眺めていたタンポポだったのだが、「まぁ、……いいか」と蓋を開け、しゅわあああーという炭酸が抜けていく涼しげな音がしてきた。
僕はごっごっごっごっと勢いよく飲んでいるタンポポの脇を通ると、自分も、冷えているラムネを取り出してから蓋を開けた。蝉の音が外から響いてくる。
ついている道具でビー玉を押し込みながら、炭酸と甘い匂いを鼻で沢山かいでいた。
「なぁ、タンポポ」
僕はそれに口をつける前に、ぽつりと独り言のように言っていた。
「夫婦って、いいもんだよな」
そうではない人も多いのだろうし、上手くいかなくて悩んでいる人はそれこそ星の数ほどもいるのだろう。でも、それでも。だから。難しいから、こそ。
光に眩しく反射し輝くガラスの瓶をじっと見つめながら、僕は思った。だからこそ――
「添い遂げるってのは、一つの奇跡だ」
そう呟いて、ゆっくりと瓶を傾ける。炭酸の痛みが喉をかけ、甘さが口一杯に広がっていく。
瞳をとじれば笑いながら楽しく飲んでいる鷲矢さん達がいた。
飲み終わったとき、タンポポはふうと息を吐きながら、優しく笑いながら噴き出た汗を手でぬぐっていた。
無防備きまわるその仕草から、瞬間、もの凄まじく暴力的で、愛おしさとも独占欲とも情欲とも違っている、形容しがたき荒々しき感情が沸き起こっていき、その身体を抱きしめたいと思ってしまっていた。
頭をふりながら、その衝動を必死に押し戻す。それは僕がしていいことじゃない。僕は、こいつを守るって決めたのだから。大切にするのだから。心でそう念仏のように唱え続けていると。
「兄さん? 顔、赤いぜ?」
心配そうに見つめてきているタンポポに僕は「大丈夫」、と言って笑った。
床には、開いたままうつ伏せの『こころ』の本がある。
『先生』は、誰の心にもきっといる。
人に心があり、悩むことをやめない限り。
辛いだろう。苦しむだろう。でも、それでいいのだろう。
愛しさの距離を、愛しく思い続けられるという奇跡も、時には、起こるのだから。
掌に瓶の水滴がつたって流れる。
ガラスにビー玉がカロンと音を立てながら、鳴いた。