第三歩 コイントスの世界
1
表があれば裏がある。コインを投げ落ちればどちらかの面がでる。
空中で回転している時、僕たちにはどちらの面が出るかわからない。
それが人生にとって有意義なものかもしれないし、受け入れがたい時もあるだろう。
人は誰でも表で生きていたいと思っている。
しかし表も裏もあるからこそ、僕達はいきていける。
だからコインを投げよう。どちらの面が出てもかまわない。
それが僕達の姿であることには変わりないのだから。
裏がでた時、より一層表の大切さがわかる。
光と影の、その陰影によって。
2
「人生は素晴らしい! いや、実に! そうは思いませんか、遠回理さん!?」
「そうですねぇ、人生を語れるほど生きてはいませんが、そうでありたいと願ってます、はい」
「そうこなくちゃねぇ、ほら、娘の写真、見る? 超可愛いんですよ~見てださいよほらほら」
「ええ……可愛いですねぇ、ホントに」
「いや、よかったよかった、中々話せるひとで、ははははは!!」
「どうもありがとう……ございま、す……?」
「ははははは!!!」
じゃねえよ。
やたらとテンションの高いひとと一緒に散歩するとき、気をつけなければいけないこと。
それはいかに場を冷たくしないか、ということである。
本人は楽しく話しているのに、それを台無しにされたと考えられてはこちらも商売あがったりである。上手くのせてあげることも僕、『散歩屋』には重要な仕事だ。こちらはそうやって料金を得、暮らしているのだから。何かとハイテンションな人にはハイテンションのままでふる舞ってもらえればそれでいい。
僕のほうも仕事なのだから、と割りきってつき合うことが出来るし。――しかし。
「いやあ、こんないい天気は久しぶりです!」
青色すらのぞかない曇天を絶賛する人に、一体どう対応すればいいのだろうか。
だれも教えてくれないまま、時間だけがただ過ぎていく。
僕の足取りは重く、疲労が確実に蓄積されていく。
「僕の娘の写真、もう一度みてくださいよ、見て、見ろ、みなさい、ね!?」
すでに何度目かわからない溺愛話を笑顔で聞いている。
内容を、左耳から右耳へ瞬間移動させながら、だが。
笑顔が崩れていないだろうか、すこし気になった。
3
僕がその依頼を受けたのは、ちょうど三日前だった。
その日は自宅で休みをとっていたのだが、タンポポに言われてコンビニにプリンを買いにいき、(タンポポはプリンに目がないのである)コンビニのまえの交差点には看板がたっており、先日午後三時、ここで交通事故があったこと、二台の乗用車が激突し三人が死亡したことなどが書いてあった。危険だから充分注意するようにと。
その交差点でじっと立ちつくす男性がいて、ガードレール前でなにかぶつぶつ呟いていた。
そのときの彼の顔が悲壮なものを含んでいることに気づいた僕は、何かあるなとは思ったものの、見つめるのも失礼だと思い、その横をたえだ通りすぎていた。
しかし僕の顔をみた瞬間、凄まじい形相で顔を睨みつけてきたその姿は、心にざわめきを起こさせるのには充分だった。
そして帰ってパソコンで依頼を確認していたとき、すぐ近所にいる男性から、一日コースの依頼があった。
『五月十三日に、〝Promenade〟に散歩の依頼をしたい。ルートはこちらで決める。時間は一日コースで、昼食代はこちらが持つ。よろしく頼む』
とそっけない文面で。だが特に気にはしていなかった。
気むずかしい定年退職した夫を、運動不足解消のために妻が無理矢理――というパターンなんだろうかと勝手に想像し、とくに何も考えず了承の返信をして、帰宅したタンポポのオムライス(いまだに僕を子ども扱いしている件についてはもう何もいうまい。元レディース総長がこれを作るのをちゃぶ台で見ていると、何故か微笑えましい気持ちにさせられるので)を二個おかわりして、タンポポの料理の腕が上がったことを素直に褒めたら思いっきりガンをつけられていた。照れ隠しの方法が怖すぎる。でも、満足そうな、それでいて駄目人間を見るような目つきでケチャプライスを盛ってくれるこいつはちょっと可愛いなぁと、保護者としてどうなんだという感情にとらわれながらすぐ気をとりなおし完食。そしてそのまま布団にくるまって寝た。
交差点の男性の顔が、なぜか脳裏に浮かび上がっていた。
僕のもとに来る依頼人はかわった人も多いが極々普通のひとも多い。まあ『普通』の定義自体が曖昧だから、その辺の線引きは個人の感覚だけども。
今日の依頼人とのまちあわせ場所は街中の喫茶店だった。
オープンテラスに座ってあつめのコーヒーをゆっくり飲んでいると、依頼人の男性は、少し早足でやってきて僕に会釈した。
背が高く、がっしりとした体格。百八十五はあるんじゃないだろうか。身体中からハイなオーラを振りまき、僕にくらべたらまるで子供と親である。そんな彼は目の下にくまを作り、しきりに左手に着けているかなり幅広の腕時計のベルトをなでながら話した。歳は三十五、六だろうか。
「いやー、遅れて申し訳ございません! ちょっと仕事で寝ていなかったもので! はい、約束の時間に遅れてしまいました!!」ちょうどぴったりですよ。安心してください。ビビりながらそう言った。少しそのテンションが怖い。
くたびれた背広からは汗のにおいがした。クリーニングをだし忘れたような感じで、よく見ればワイシャツも黄ばみがみえる。洗ってる暇も無いほど忙しいらしい。
コーヒーを飲みながら丸テーブルのむかいに座ることを勧めると、彼は大きな身体をねじ込むように座り、僕にふたたび挨拶をした。
「メールでお伝えした岩城巌です。今日はお世話になります。『散歩屋』という珍しい職業に興味をひかれまして。企画のネタにならないかなぁと思った次第です。はい」
名刺をとり出しお互いに渡しあう。そこには『格報堂プランナー』との肩書がのっていた。僕でもしっているその名前に、驚いて名刺から顔を上げて、彼の顔をまじまじとみた。
「広告関連では一、二をあらそう大手じゃないですか。凄いですねえ」プランナーって何ですか? と聞くのはちょっと恥ずかしかったので、曖昧にごまかす。
「僕は、駄目な社員の見本みたいなもんですけどね!」
そう言って苦笑いをする所を見て、ようやく気付く。この人、ついこのあいだ交差点であった人じゃないだろうか。
が、別に言うことでもないので、「僕の仕事ってなんの参考になるんですか?」と話題を変えた。
岩城さんはそのくまが酷い顔をハイテンションでぬり固め、しきりに腕時計のベルトを撫でていた。
「『散歩屋』なんて職業、聞いたことありませんからね。特異性だけでも参考になるモノがあると思います。僕らの仕事はそういったネタ集めが主なものですから」
感心半分驚き半分。僕は自分の仕事をこうやって何かの参考にされることなど生きて来きてほとんど無かったので、逆に新鮮だった。嬉しさもあったが、それよりもなにか有意義な経験にさせてあげられるかどうかの不安が大きくなっていた。
よく見れば、さきほどから岩城さんは脚を激しく貧乏ゆすりし始めている。
僕のコーヒーがゆらゆら揺れる。一緒に僕もゆらゆら揺れる。地震かと思うほどだんだんと岩城さんのテンションが上がっていくのがわかってしまった。
「だ、大丈夫ですか……あの、どこか悪いんじゃ…………」
「寝てないので!」ああ、……そうですか、ですよね、ハイになりますよね、そういう時、ええ……。
僕はなんとなく今日は疲れそうだな、とこめかみを愛想笑いしながらかく。
ぎらぎらした彼の瞳を見、その腕時計のベルトをみ、彼が時折みつめる向かいのガードレールを見、思った。
だがまだそれは、確信に程遠い『勘』でしかなかったが。
4
「どういった経緯で『散歩屋』を始めようと思われたんですか?」
岩城さんは胸にいきかけた手をとめ手帳も取りださず、口頭で僕に訊いてきた。 ボイスレコーダーも書きもしないことに違和感を覚えたが、素直に答える。癖というのは怖いなぁ……。「三~四年前ですかね」僕はこの仕事を始めた経緯を話そうかどうか迷ったが、あちらも真剣ならば真剣に返すのが筋と、少々重い話になりますが、と前置きしてから語る。
「僕に出来ることって、何にもなかったんですよね。何かに秀でてるとか、突出してるとか、技術や資格があったでもないし、でもサラリーマンは多分向いてないだろうなあとは思っていて。そんな時に、高校で視覚障害者の方と触れ合う機会があったんですよ。周りはどうしていいものだか解らなかったみたいなんですけど、僕は特に気負いもせずに普通に話しかけて、いつの間にやら雑談を授業中ずっとしてしまっていて。その時にその人に言われたのが、『あなたは誰かの心を楽にひらかせる不思議なひとね。私が眼が見えないからこそよく解るのかもしれないけど、とても素晴らしい力よ。大事にしなさい』と言ってくれまして。その時からですかね。誰かの心に寄り添いたいと考えるようになったのは」
一緒に歩きながら、岩城さんは神妙な顔をしながら聴いていた。先程までのハイテンションはなりを潜め、一気に静かになり僕のことを見ようとしなくなる。ずっと脇のガードレールを時折みては腕のベルトをなでる。その理由を無意識に探していた僕だったが、とりあえず続ける。
「そして、高校を卒業してからこの職業を思いついたんです。カウンセラーにはなれないだろうし、何か特徴的な武器があるわけでもない。でもひとと一緒に歩くことくらいなら出来るんじゃないかな、って」
顔に陰りが強くなってきた。目が虚ろになり、心ここにあらずのような岩城さん。
隣にいると、頭が脂で光っているのがわかる。何日風呂に入っていないのか、すこし強い体臭にゆがみそうになる顔を笑顔でごまかす。足取りも次第におそくなり、周りの風景にも気をまわせないようだった。
僕は注意深く彼をみていた。
不意に、彼が口をひらく。「もし、もしですよ……」笑顔にしようとして失敗しましたと言わんばかりの顔に、僕はおもわず胸を締めつけられる。よく見れば顔にも細い皺が無数に刻まれている。
その一本一本が彼のなかの何かをあらわしている気がして、その真実はなんなのか、気をつけて見ていた。
「自分がこれからなにをしたらいいか解らなくなる不安は、……ありませんか……」
その言葉に、僕に一番触れられたくないことを触られた気がした。そのことを思いだすのは苦でしかないが、彼のその瞳をみて伝えることにした。こんな話はするべきじゃないと思いながら。
「僕がこの仕事を始めたとき、僕のことを知るほぼ全ての人たちが僕が『散歩屋』をすることに反対しました。ま、当たり前なんですけどね。皆に口をそろえて普通に真っ当に、堅実な道をあるけって言われてたんです。親父にも、オフクロにも友達にも。僕自身は自信があったんですけど、就職難なこのご時世になにを言っているんだ、って人がおおかったんですね。そこまで言われてたら流石に諦めるしかないかなあって。元々現実を直視してないヤツっていわれてたから、尚更駄目かなって思い始めたんですよ。気分もしずんできて、なげやりになってたところに一人だけ、僕に『散歩屋』は向いてるって言ってくれた人がいたんです。僕がなにをしようと今まで全く意見を言って来なかったヤツだったんですが、その時だけはなぜか凄く応援してくれて。で、そこで一念発起、バイトで貯めていた金使って、小さなデザイン会社にチラシ作ってもらって、近所のお年寄り達の家に送ってみたんです。そしたら意外と話し相手を欲しがってた人たちから依頼があって、結構喜んでくれたんですよ。彼女の応援のおかげで、それからの僕の『散歩屋』人生は始まったたんです」
その時のことを思いだして、苦笑いがこみ上げる。あいつは、あのとき何を考えて僕を応援してくれたんだろう。いま思えば、無謀なことをしようとしていたのは確かだったのに。
「そしてちょうど始めての仕事から一年たったころ、僕は彼女と無料で散歩したんです。それで、僕は彼女にどれだけ救われているか、よくわかりました」
その瞳に光はなく、岩城さんの魂があるとするのならば、もうそれはこの世にないのではないか、と思った。次の言葉を、僕が言うまでは。
「それが僕と彼女の、最後の散歩になりました」
岩城さんは、ばっと顔を上げて僕をみて、震える声でいう。
「その方は、今は……」
「僕と歩いた日から二日後、酔っ払って突っ込んできたバイクにはねられてそのまま天国に逝っちゃいました」
「そ、んな……」
「僕がこの仕事を辞めることはないと思います。彼女との想い出を……消したくないですから」言葉を切り、僕は溜まりそうになった何かを必死でおし戻す。
「あいつにもう、心配かけさせたくないんです、僕」
隣で幽霊のように歩いていた岩城さんの足どりが、すこし軽くなったように感じられる。
そっと様子を探ると、彼は呻きもせず嗚咽も漏らさず―泣いている。引きむすぶ唇が、しずかに震えている。
その『ポケットに入っていたもの』をおもいだし、僕はその予想が間違っていないようだと重い感情を心にしずめる。
しばらく無言で、葉をおとした桜の木の前をとおる。
左手に小学校のグラウンドがあり、男女関係なく入りみだれ、汚れながら遊んでいる。
岩城さんは歩く速度をゆるめ、その光景をじっとみていた。
暖かく、しかし深い闇に沈んでいくような、黒いくろい瞳で。
5
ぶおおおん、と車が数台、僕達のよこを通りすぎていく。
排気ガスの臭いが鼻につく。
こんなものを吸ってるから、杉花粉もひどく悪性のものになるんだな、とテレビで聞いた知識を引っ張り出しながら思っていた。
隣で露骨に顔をしかめている岩城さんは、見るのも不快だといわんばかりに顔を背けていた。
僕はその意味をはかりながら、慎重にその行動をみる。
腰に手がのび、ポケットの定期入れに入っている、ちょうど収まるようにカットされた娘さんの写真を取りだして、「可愛いでしょう?」といってもう一度渡してくる。もう嫌がることもせずに受け取ると、その写真をよく見た。
歳は五~六歳くらいだろうか。頭の両側を短いツインテールにした、活発そうな笑顔の可愛い女の子だった。八重歯が出ているのがその悪戯っぽい顔によく似合っている。
彼女を抱えているのは奥さんだろうか、顔が半分以上切れてしまっていて見えない。写真の下も少し切り取られおり、その日付もわからなかった。
「可愛いですね」
僕は正直にそういう。嘘もてらいもなく、この二人は幸せそうで、そしてそれがよく伝わってきていた。
「僕の全てですよ……」と寂しそうに岩城さんは笑う。僕はなにも言えずにそのまま写真を優しく持ってかえした。彼はそのまま折れないように丁寧に定期入れにしまう。
その時、前から先程の写真の奥さんとおもわれる人によく似た背格好の女性が、幼稚園くらいの男の子の手をとって歩いてきていた。
「僕、ね、あのね、恐竜さんとね、ウルトラマンがね、がおーってね、戦ってね、でね、おやつにね、皆でゼリーを食べたの!」
「そっかそっかぁ、良かったねぇ、よっちゃんゼリー好きだもんね、美味しかった?」
「うん!」
小さな子供独特の脈絡のない会話を聞きながら、自然と笑みがこぼれる。タンポポにもあんな時があったっけ。で、僕と薪で一緒にプリン買って食って、おばさんに「勝手に物をあげるな」って怒られて……。二人して怒鳴られて、はん泣きになって……そして結局最後まで手もつなげなかった幼馴染を思い出して、……――あいつの遺体の時の顔がフラッシュバックして一瞬よろけていた。
ハッとした時にはもう彼女たちは笑いながら横を通り過ぎている。慌てて頭をふり、姿勢をただす。何してるんだ、仕事中だぞ。
「すいませんでした、岩城さん」と小走りで横にならんだ。
岩城さんの顔は見えなかったものの、「行きましょう」というその声は固く、なぜか怒りが滲んでいた。僕はもう一度ふり返り、親子のうしろ姿を見た。薪に少し似ているな。そう、思っていた。
6
昼食は歩いて二時間ほどたった頃、岩城さんからの提案でちかくのファミレスに寄って食べることになった。その中で、「もし最後の晩餐があるのだとしたら、迷わず私はカツカレーをたのみます! 受験のときとか、重要なプレゼンのときとかは必ず食べてましたから! 正にソウルフードですね!」と高いテンションを復活させ、運ばれてきたカツカレーの大盛りをがつがつと食べていた。
僕はいちおう仕事中だし相手持ちということもあって、安いミートスパゲッティを音を立てないように慎重に食べていた。それにしても豪快な食べっぷりだ。まるでなにかを忘れるかのようにかきこんでいる。僕はその様子をみて何があるのかを考えていた。なにが出来るだろう、そう考えて外をみた。ガラス窓に近いこの席は、曇天の空がよく見渡せた。
真むかいではスプーンと皿がこすれる音がひびく。
なにが出来るだろう、僕に。
その言葉が頭にずっとかけめぐっている。
外に出ると、時刻は二時をまわっていた。
手首をなでる仕草が多くなってきた岩城さんに、慎重に僕は観察を怠らない。今の状態がよくないことくらいわかるが、それでは一体どうしろというのか。僕にはわからない。
岩城さんはハイテンションを復活させたまま喋り続けている。それは僕にというわけではなく、ただの独り言にちかいのかもしれない。時折僕をにらむように目を細めると、僕はぶるりと震えそうになる心を、ぐっとおさえて、笑顔をつくる。
その都度、岩城さんは一瞬正気に戻ったかのようにはっと僕をみるが、すぐに暗い笑みを浮かべなおし、マシンガンのように話し出す。
歩きはじめて四時間。今日はどうなるのか、まだ予測がつかない。ふと、薪のあの穏やかな顔が浮かんでくる。今だけでいい。今だけでいいから薪――
僕を、見守っててくれ。
空が次第に晴れたきた。青空がときおり見えてくる。心も少し軽くなりそうだ。空を見上げてそんなことを思っていたら、突然、
「晴れるな!!」
と隣で岩城さんが怒鳴った。
僕は驚いて岩城さんをみると、その鬼のような形相のまま、「晴れるんじゃねえ馬鹿野郎!!」と繰り返しさけんでいる。僕はどうしたというのか、その錯乱ぶりに一瞬動揺したが、その理由を考えている暇もなかった。
うしろから羽交い絞めにして、暴れる彼を取りおさえる。しかしいくらなんでも体格差がありすぎる。僕は子どもが親におんぶをせがんでいるかのように吊り上げられ、振りまわされた。
「ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!! 晴れるんじゃねえ、バカヤロォ!!」
あばれる彼にどうしたらいいか見当もつかずにふと、彼の言っていた言葉を思いだす。
――「いやあ、こんないい天気は久しぶりです」――
僕の中で、ピースがはまる音がした。最初からもっていた違和感が、確信にかわる。
彼がこれからどうしようとしているのか。
そして、これから僕をどうしようとしているのか。
「岩城さん、行きましょう」
「俺は、俺は、俺は……」
「一緒に行きますから、僕も、あの交差点まで」
彼の身体から、一瞬で力がぬけた。
ゆっくりと振り返り、僕をみつめる。
「死んであげる事は、出来ないんですけど」
その言葉は宙を舞い、風に乗って何処かに飛んでいくような錯覚を、僕に与えていた。
7
しばらく会話せず、僕は岩城さんがはなし出してくれるのを待つ。
家々が立ち並ぶとおりを眺めながら、ゆっくりとそこへと近づいていく。
がーっ、がーっと車が勢いよく脇をとおっていく。
静かにならないこの道で、彼の心の中がどうなっているのか僕にはまったく解らない。
でも待とうと思った。
沈黙を沈黙として受けいれられる。その大切さを、僕は薪から教わったのだから。
沈黙の時、横で一緒にだまっていられる人間になろうと、僕は決めたのだから。
心に寄りそえる人間になろうと、あの時決めたのだから。
僕がよこで静かにあるいていると、ゆっくりと、岩城さんはおおきな身体からは想像もつかないほどに小さな声で、語り始めた。
「妻とは、ずっと不仲でしてね……」僕はおだやかな表情を心がけつつ、続きをまつ。
岩城さんははじめてその身体に纏っていた嘘の明るさをけし、しぼんだのではないかと錯覚してしまいそうな肩をすぼめ、力なく笑う。
「結婚して五年目で離婚したんです。その頃はもういがみ合っていて、たがいに娘の真央の親権で争っていましたから、あの子には悪いことをしたと思っています。……結局、妻に取られてしまって、私は月に一度、おそい昼食を一緒にとるだけが会える機会になってしまいましたが……」
ポケットのなかの定期入れを触っているのがわかる。僕はなるべく視線をそこにいかせないよう気をつけながら、前のほうを向いた。
「今年、小学校にあがったばかりだったんですよ……」
それまで抑えこんでいた感情の波が堤防を突き破って溢れて出て来たらしく、嗚咽交じりに話し続ける。
「……その昼食の日、妻は私のまつファミレスに向かって車を走らせているところでした。前から大雑把なところのある女でしたが、あろうことかその時、真央に、シートベルトを着けさせていなかったんですよ。そして、よそみ運転していた若者の車に激突して、二人とも、……即死でした……」
予想通りの展開に、僕はただ頷く。
ガードレールばかり見ていたのも、無意識のうちに娘さんを思い出していたから。
奥さんに責任を押しつけようにも既に文句は言えず、相手の若者にも復讐はできない。
いき場のない怒りはどこに向かえばいいのか。それすら解らなかったのだろう。
「私はもう五日、会社にも行ってないんです。通夜にも、葬式にも、出ていません。行くあてもなく、ただふらふらして、ただ、死に場所を探していました……」
「その腕時計の下……リストカット、したんですよね……? 時計のベルトで隠してますけど、痛いのかなんども触ってましたから……」
その言葉に、岩城さんは驚きを隠せないようで、
「よくわかりましたね……そうです、つい昨日、ビジネスホテルで……無意識に……」
「全体の雰囲気でそうじゃないかな、と。あのとき交差点にいたのを見たときから、そう思っていましたが……」
「そうです……僕は死ぬつもりでした」
「僕を殺してから、ですよね」
その言葉に、いまさら自分が何をしようとしていたのかを思い出したのか、岩城さんはぼろぼろと涙をこぼしはじめる。
「死体を、……見たんです。ぶつけてきた男の……あなたに、そっくりだった……」
死ぬまえに食べたいカツカレーを頬張り、殺した相手ににている人物を殺してから自分も死ぬ。そんな切ない最後が、許されるわけがない。
僕は自分が殺されるかもしれない状況でも、目の前のこの人のことを憎む気持ちにはなれなかった。僕が薪を殺された時、全く同じことを考えたからだ。
「胸ポケットに入ってるんですよね? 折り畳みナイフ……渡してもらえますか」
僕が柔らかくたずねると、岩城さんは大人しくその小さめのナイフを手帳のうらから取りだし、僕に渡す。
「僕が頼まれた仕事は岩城さんと一緒に歩く事で、一緒に死ぬことじゃないですから」
寂しさが胸にこみ上げる。
岩城さんはくぐもった声でうなり、絞り出すように「申し、訳、ありません、でし、た……」と言った。
「たとえ僕がそのぶつかった相手に似ていたとしても、そんなことしたら多分真央ちゃん、お父さんきらいになっちゃいますよ」
「遠回理さん、僕はこれから、何をささえにして生きていったらいいんですか……ッ、解らない、全然、わからないんですッ……」
「真央ちゃんが心配しないように、生きていくべきです。それに……」
薪に語りかけるように僕は天を仰いだ。青空がみえ、光が降りそそいでくる。
「真央ちゃんが死んだ曇り空の日に死んでも、喜んでもらえませんよ」
僕はさしこんで来た光に目をほそめ、いう。
「いい天気ですよ、岩城さん」
折りたたみナイフを懐にしまって、僕は笑う。なあ薪、見えてるか。
「みていてくれますよ。天国は僕、信じてませんけど」
信じてるんだ、薪。お前のあの、優しさは。
「ホント、――いい天気です」
青空の向こう側で、薪が微笑んだような気がした。
8
僕はかえりに近所の花屋で花束をかい、岩城さんといっしょに事故現場にいって置いてきた。
彼の顔には焦燥感はもうなく、僕に深々とお辞儀をするとそのまま自宅へと帰っていった。これからは彼にとって辛い日々が続くのだろう。僕に出来ることはもう何もない。
これからの人生を絶望せずに、生きていってほしいと願うだけである。
コイントスは何度だって繰り返していい。裏が出つづけても、諦めなければいつか表はでる。
その五十%の可能性を繰り返しながら、僕たちは今日も歩いているのだから。
諦めないことそれ自体が、別れていく人達に対する、意味のある人生のむきあい方だと、僕は信じている。
帰宅して、右手に缶チューハイのウメッシュをぶらさげ、居間にはいる。
何となくテレビを点けそのバラエティ番組をなにも考えずに見る。
チューハイのプルタブを開け、しばし缶を見つめたあと一気に流しこむ。
喉がなって胃に炭酸とアルコールが入っていく。
ぶはあーッと口をはなし、息を吐きだす。
すぐにごくごくと再び口をつけて飲む。ごくごく、ごくごく。ごくご……
「ただいまー」
ごくーッッッ!!!
しまったー、帰ってきちゃった、一番僕の飲酒に五月蠅いおかあちゃんが、帰ってきちゃった! 急いで、急いで片づけないと片づけ「にいさーん、今かえ」「あ」
ぐーで殴られた! のうてん、ちょくげき!
「いあがががががあああああが、あががががが、ががが……!」
「酒飲むなって何回いわせんだこのスカタンが」
「ごめ、んな、さ、いィ……」
がさごそと、缶を大人しくタンポポさまの前まで滑らせる。腰に手をあて見下ろす姿は正に夜叉。恐怖で身体がうごきません。
「兄さん、何度もいってるようにな、兄さんは近年まれに見る下戸なんだから、口をつけるすら許さんって言ってるだろうが。薪姉さんはああ見えて滅茶苦茶酒豪だったからいいけど、兄さんは舐めただけでも駄目なんだから――……って一缶ほとんど飲んでるじゃねえか大丈夫なのかよ!!」
なに、僕? 全然大丈夫だよ。まったく人聞きの悪いことを言わないでほしゅいね、ほくなんかがほんひらしたらすこいんだかはね、ちょっろ、きいれるのねえ……
「布団しいてくるわ……」
僕はもうろうとした意識の中、薪のことが頭から離れない。手を伸ばしてみる。もう一度、もう一度だけでいいから、手を繋ぎたかった。それが例えもう叶わない夢だとわかっていても。
「ごめん、な……ま、き……」
僕は、自分がなにを言っているのかもわからぬまま、しずかに夢の世界に落ちていった。
頬が温かいなにかで濡れていたけど、それすらもうわからずに。
そっと、それが何か柔らかいもので拭かれた。
「……やっぱり私なんかじゃ代わりにはなれないのかな……ずるいよ薪さん……勝てっこないよ、こんなんじゃ…………」
いつもと違う、タンポポの柔らかい声が降ってくる。
その響きになぜか急に安堵し、僕はさらに眠りに誘われる。
「自分じゃ気づいてないんだろうけどさ……」
タンポポの顔が一瞬、見える。
「お兄ちゃんがお酒飲むときってたいてい、薪さんを思い出してるんだよね。……そうでしょお兄ちゃん…………」
それは僕が今までみた中で、一番切なそうで、そして優しかった。
夢の中で誰かの腕をつかむ。それだけは確かだった。
幸せで、すぐに消えてしまうだろうその幻の腕を、いつまでも、力強く握りしめる。
どんな夢だったのか。
おきた僕は、なにも覚えていなかった。