第二歩 代行者の憂鬱
自分に立ちふさがる壁を超える時、人に必要なのはその現実を直視することだ。
敵は一体どんなもので、どんな大きさでどんな種類のものなのか、それを正しく認識していないとその超え方すらわからない。
だから、その壁のことを知る勇気が必要なのだ。
何事においても、自分にとっての障害をつねに測っていき、梯子を作る、穴を開ける、トランポリンを用意するなどの方法をあみ出すためにも調べておく。無駄かもしれないのだが。
そしてそれが出来たら、壁を超えるための方法を実践しなければならない。
時には苦痛であったり、不快を伴うことだってあるだろう。
しかしその立ちむかった事実に意味があるのだ。
敵は自分の中にある、とはよく聞く言いまわしである。あながち間違ってもいない。
ようは、その問題との関係で、その人はすでに一歩前進し壁へのとっかかりを作っているということだ。
僕は思う。そんな壁に恐れずに立ちむかう人は美しいと。
人と散歩しているとよく思う。
そんなひとはやはり美しい、と。
2
僕はそのまち合わせの場所に少し早く着いていた。自宅から電車で二駅ほど離れた住宅街。
人通りは土曜のせいもあって一様に多い。入学式も終わり、周りにはおそらく最近まで幼稚園にかよっていたと思われる子どもたちが、仲良く遊具で遊んでいる。
童心に帰った気持ちでその場所にたたずんでいたのだが、一人でこんな所にじっとしてると、何だか不審者みたいに間違えられそうでこわい。現にいっしょに遊んでいるお母様軍団からは、あまり好意的な視線をかんじない。
約束の時間は、午前十一時で間違いないはずだ。僕の時計は仕事の関係上、これでもか、というくらいに正確に時を刻ませているから、確かだとおもう。偉くともなんともない。ただ単に、僕が時間には正確でないと、色々不都合が生じるからだ。
主に、待ち合わせのときとかに。
多少まだ肌寒いので、白のタートルネックに茶色のパーカー、いつもと同じで歩きやすいようゆるめのジーパンにウォーキングシューズ(履き心地が最優先)といった少し重装備でベンチに座る。目の前の自販機に「こんなところに置いておくとは意外とこの公園の管理者は勇者だなあ、夜とか壊して持ちさられそうなのに」、とどうでもいい心配をしてしまう。
目線を上げると、カップルがこの前の仕事のとき以上に沢山おり、僕はうんざりした。
この世には男と女しかいないと誰かがいった。違う。
付きあってる人間とフリーの人間しかいないだけなのだ。
しかも大抵それには格差がある。富めるものはさらに富み、貧しいものはさらに貧しくなる。それはこの分類でも変わらない。ああ無情かな我が人生。
ふと気付くことがある。
それは、大体の女の人はデートの時に、露出度の高い服をきてくるということだ。
寒い時でも足の見えるスカートを履いたり、腕が多少露出する七分袖をきたり、首元がちらりと見える色気のある服を選んでいたり。
男は視覚から興奮するから、女性もそういったことを無意識に判断するのだろうか。
まあ、僕には関係ない話だが。
もう一度腕時計をみて確認した。十一時十分。おかしい、たいてい散歩屋に依頼してくる人は時間に正確なものなんだけど……。
こんな時は、やたらと周りが幸せそうに見える。嫉妬だろうか。
カップルが、やたらはしゃぎ腕をふかく組みあい笑いあう。付きあい始めかな。その横を通り過ぎる、あさく腕を組んで、囁くように話し合う二人は恐らく結婚がひかえているのだろうか、薬指にリングが光る。一人身がやけに強く感じられた。ああ、無情かな我がじんせ……。
そんな妄想を広げていた時、「ごめーん、待ったー?」と声をかけられる。
僕が、左手側の公園の入り口に目をむけたら、ショートボブの可愛らしい女子高生っぽい女の子が、全身防寒、でもお洒落には気を配ってます、といった格好で僕に手をてってくる。思わず辺りを見まわした。そしてお母様方の不審者をみる目から微笑ましいものをみる顔にチェンジしている事で確信する。ああ、僕で間違いないな。
近づいてくる少女に僕は声をかけようとして、立ち上がりかけた中腰のままぐいっと腕をふかく組まれる。
「――じゃ、行こうか」
彼女はそのまま歩き出す。引きずられるように僕も歩きだす。
どうでもいいけど、腕に胸、当たってるんですけど。
伝える度胸もないまま、ドギマギ顔を赤くしつつ、僕達は無言で公園を後にする。
何が起こっているのか、誰か説明してほしい。
タンポポに見つかったら、即座に殺される予感をざしびし感じながら。
3
「いやー、ごめんごめん! 状況をまだ全然説明してなかったよねーははは」
左腕を組まれながら、僕はその突然の事態に、ただ目を白黒していた。
一応右側が車道なので、そのこと自体には僕的にあまり問題は無いが。(散歩屋として、女性を車側に歩かせるのは流儀に反するのだ)
指がすらりとしていて、綺麗だな、と思ったのが最初。次に思ったのは薬指にはふかめの溝があり、その上から少し高めに見えるリングがあった。青くなった僕は、気になったことを尋ねる。
「あの、申し訳ないんですが、……こんな所恋人さんに見られたら、不味いんじゃないでしょうか、その、状況的に」主に、僕が。
「あー、だいじょぶだいじょぶ。無問題」
僕にとっては有問題だよ。
ぶおおおん、と車が横から通り過ぎた。無意識に組まれた腕を強く引き寄せ車道から離れる。
一瞬、ぽけんとそれを見ていた彼女は、僕の視線に気づき、「あ、ああ! そうだね、説明ね説明!!」と慌てたように笑う。
歩きながら話をすることはあっても、突然可愛い女の子に腕をくまれるというラッキーな、いや、ハプニングが起きたことはこの仕事をしていても始めてである。ラッキー…、じゃない、一体なんなんだ、この依頼主。
「えーっとねえ、一言でいうとさぁ」
笑って、僕の方を見た。僕もじっと彼女を見た。
「男との付き合い方の練習、したいんさ」
石となり固まるまでに、時間は、そうかからなかった。「あの…」声が上《うわ》ずるのがわかる。
「僕、――彼氏役なんて出来そうにないんですが」
「いいよいいよ。そのくらいぎこちない方が〝りありてぃ〟があっていいさ」
『リアリティ』の所だけ、やけに滑らかな発音なのが気になったが、まあ、散歩をすることには変わりない。
「はあ、くわしくお聞かせ願いますか、状況を確認するためにも、今回の仕事のためにも」
自転車が前からきた。瞬間的に僕は再び彼女をつよく引き寄せ、ぶつからないように気をつける。
自転車に乗ったオジサンからは、「昼間っから何いちゃいちゃしてやがんだ馬鹿野郎」的視線をかんじとても居心地がわるい。
僕を見つめふたたび固まっている彼女に話をもどす。
「彼氏役って、結局なにすればいいんですか?」
彼女の固まりは、なかなか溶けてくれないようだった。
4
「今度、告白された人と初めてのデートなんだー」
「猫又鈴音っていいまーす」と、自分の名前を元気よくかるい感じで言う。
いや、それは依頼のメールで知ってるんですが、とはいえない。
何故なら、メールの依頼人と違う人と散歩にいくこともよくあるからだ。だからとりあえず、本人かどうかを一番さきに僕は確認する。プロとしてというより人として、一緒に歩く相手として、そして、相手への礼儀として。
「初めてのデート、ですか……?」
僕は少し首をかしげた。言いたいことは色々あるが、とりあえず黙っていよう。そう思った。
「そうデート、デート」
少し困ったように、髪をぽりぽりかき、僕をみる猫又さん。
「それで、どうしてまたそんな練習をしようと思ったんです? 僕は仕事上、そういう事があっても一緒に歩きますが、猫又さんは――」
「あ、名前でよんで。私自分の名字すきじゃなくてさ」
「じゃあ鈴音、……さんは困るんじゃないですか?その相手にもし会ってしまったら―」
「ああ、今日は彼氏になる相手県外にいってるから、大丈夫大丈夫。友達にもまだいってないから、勘付かれることもないし」
「はぁそうですか。でも、デートなんて練習する必要あるんですか? ただその場の流れで楽しめばいいだけなんじゃ――」言っていて思った。僕がいうセリフじゃねぇなと。
「そうなんだけどね、私も初めて男と付き合うわけだし。あんまり情けない姿を見せたくないんだよ。ほら、私結構学校ではチャラい感じでとおってるからさ。イメージ的には遊びなれてる風にしときたいんだ」
慣れてない方が男は好感度高いでしょうけど。もちろんいいません。ええ。
僕はデフォルトになっているいつもの笑みで、「まあそれなら仕方ありませんねぇ」といった。鈴音さんもなにやら事情があるようだし、それなら僕は僕で、自分の仕事をするだけである。
服装もデートっぽい感じは出しているし、まあ女子高生の恋愛事情は僕みたいなオジサンにはわからない領域だから、気にしてもしょうがない。とりあえず、話を進めることにした。
「それで、僕は一体何をすればいいんですか?」
ここらへんで回れるところは一応ピックアップしておいたけど、メールには『ルートは自分で決めたい』と要望があったので、それに従おうとはおもう。
たずねると、「デートだからね、デートっぽいことをしつつ歩くのはどうかな?ルートはメールで書いたとおり、私に任せてもらえばいいから」
そういって顔を見てくる鈴音さん。そこまで決まっているなら、僕としても特に言うことはない。
「じゃあ、よろしくお願いします、鈴音さん」
「ここからは『鈴音』でたのむね遠回理さん」
呼び捨てとは、いきなりハードルが高い。
内心ため息をつき、うちの従妹は本当に〝サンプル〟にならんなと。
茶髪なびかせ肩で颯爽と風きる同居人をおもいだしていた。
5
「まずはデートの基本、食べ歩きからはいろう!」
「基本があるとは知らなかったので、いうとおりにしたいと思います」
僕と鈴音さんは歩きながらのんびりと、しかし所々早足で町をあるいていった。
そんなに歩幅を変則的に動かす人はひさしぶりに会ったので、少し驚いた。
僕は歩きながら、「ええと、僕の仕事は一緒に散歩することなので、あまり多くは期待しないで下さいね。上手なエスコートとか、ジェントルな対応とかってことなんですけど」
「そういうことが出来て初めて、『散歩屋』っていわれる仕事な気がするけどな~?」
鈴音さんは僕と腕を組みつつ笑う。どうでもいいけど近いなぁ、距離。
「彼氏代行は中々ハードルが高いです、僕には」
ふうと、ため息をつく。「あったあれあれ、あれだよ、遠回理さん!美味しいって評判のお店!」と僕を引っ張る。…話、聞かれて、ねぇし!
僕が精一杯の営業スマイルをうかべ「どれですか?」と向いた視線の先には、『焼き鳥屋焼きベえ』と書かれた屋台があった。
「へぇ、焼き鳥ですか」
僕がその美味しそうな匂いに思わず顔を綻ばせていると、「嫌いだった?」と少し不安げに鈴音さんが訊いてくる。
「いいえ?」と僕は笑って首をふり、「久しぶりなので、美味しそうだなって思っただけです」と本音で言った。最高だよね。特に塩が。
「そ?」とほっとしたように息を吐き、「行こう!」腕をひき歩き出す。屋台なのでわかりにくかったが、じゅうじゅうと煙が出ているわりにそんなに漂ってこない。焼いている人の手元を見ると、不釣り合いな高そうな空気清浄器が置かれており、煙を常時吸っていた。涙ぐましい営業努力だ。このくらいの気配りが出来ないと客商売はやっていけないのだなあと身が引きしまる思いだった。「あれ遠回理さん、トイレ?」勘違いはなはだしい。
視線をあげ、不精髭が良く似合う黒ロンTシャツのオジサンはニッと笑うと、
「おッ、いいねえ、デートかい!? 熱くてウチの焼き鳥がかすんで見えるぜ!」
確かにかすんで見えます。煙で。
その言葉を聞いた鈴音さんは一瞬陰のある表情を見せたが、すぐに明るい顔に戻り、
「おじちゃん、私に塩と軟骨のタレ、一本づつ!えっと、遠回理さんは――」
「――軟骨の塩、タレ、ゆず胡椒二本ずつ、普通のやつ同じく二本づつ、後はそこのメンチカツを三つ下さい」
僕が財布から金を取りだすと、「き、きっぷがいいなぁ兄ちゃん!!」と少し引きつりながら紙に包んでくれた。あれ、そんなに変?
鈴音さんの分もまとめて払っていると、はっとして彼女が「あ、あの、会計は…」と慌てて言ってきたので、「いいですよ」と言ってまとめて済ませる。もごもごと何か言おうとしていた鈴音さんに、「今日は奢ります」と言って笑う。
――なけなしのバイト代で、依頼してくれたんだろうし。
理由があるのはわかったけど、それなら尚更サービスしないと。
まあ、それが普通とは言いがたい理由でも、だ。
鈴音さんは顔を赤くし、「あ、ありがとう」と小さな声でお礼をいう。包みを手渡し、屋台からはなれる。
「仲良くやんなよ―、お似合いカップルぅ!!」
よく通る声で、オジサンが言ってきた。
僕は振り返り「ありがとうございました!」と笑った。
鈴音さんの顔は嬉しそうで、そしてどこか寂しそうだった。
6
僕達は少し黙りながら、ゆっくりと歩く。さっきから時間ばかりを気にしている鈴音さんは、ちらちらとくんでいる腕からのぞき込むように時計を見ている。
僕はその理由にたどりつきつつあったが、確信は持てていない。そもそも僕が持つべきではない事かもしれないし、余計なお世話という気もする。時間を見ると、午後三時二十分。
そんな事を思いながら、僕は組んでいる腕越しに、だんだんと彼女の身体が強張っていくのがわかった。さて、――どうしたものか。
中心街に着いた。僕達が歩いている所は、学生が基本的に利用する場所なので、ファーストフード店やアクセサリ―ショップ、駅前予備校やゲームセンターなどが並んでいる。僕たちはその自分達から車道を挟んだ左手側にあるゲームセンターに入ることになった。
もちろん既に焼き鳥は僕達の胃袋と感動のご対面中だ。
鈴音さんに「その小さい身体のどこにそんなに入るの」と本気で不思議がられたが、大した量は取っていないと思う。
いつもタンポポに「ウチのエンゲル係数をそれ以上あげるな!」と怒られるが、僕は小食だ。なぜならそれならもっと身長が伸びていたはずだから。プリーズミー十センチ。むう。
ガーッと自動ドアが開き、少し暖かい風が僕達をなでる。じゃらじゃらういーん、じゃんじゃんがー、ががーと騒がしい音が鼓膜に入ってきた。久しぶりにはいったゲーセンは若い人達で埋め尽くされている。格ゲーとか『ストリートファイターⅡ』の世代の僕から見れば、今のゲームは未来の産物以外の何物でもない。
ダルシムとかってまだいるのかな。手足が伸びるのはちょこっと羨ましかった。
僕の腕を取り、鈴音さんは時計をチラリとみると、「行こ!」と早足でぎこちない笑顔で僕をひっぱる。僕も時刻を見ると三時四十分。そこは入り口に近い所のクレーンゲームで、ガラスの向こうに車道を挟んだ向こう側の大きくプレートが掲げられた駅前の『清新予備校』があった。
『休日集中デー』とのノボリがみえ、開始が午前九時、終了が午後四時。
人がどっとあふれて向こうから出てくるだろうから、ここももっと混みそうだなあとため息をつく。
そんなことお構いなしに鈴音さんはクレーンゲームの反対側、つまり店に背を向けて、自動ドアと向き合う格好でコインを入れる。
ちゃらりらりら~と安っぽい電子音が響き、クレーンゲーム機が光り輝く。おお、何だか心おどる物があるな。
じっとクレーンを睨みつけ、彼女はクレーンの透明なガラスケースに集中していた。
「何か欲しいものとかってある? 遠回理さん」
突然たずねられたので、僕は驚いて「え」といった。マヌケな声だな、と頭の中の僕が笑い声を上げた。五月蠅い、慣れてないだけだ。経験値を積めばな僕だって――「じゃ、あたしが欲しいのを上げるよ」といってボタンを押してしまう。――で、経験値が何だって? やかましい!
そうこうしている内に、鈴音さんは慣れた手つきで唇をなめながら、すっと手を伸ばす。ウイイイイイイン、と音を上げてクレーンがスライドしていく。その時、ちらりと顔を上げ、寂しげな眼になって真正面を見た。慌てて彼女はクレーンを見直す。ライオンのディフォルメされたぬいぐるみの頭のひもに、クレーンの先端が引っかかる。おお、慣れてる。凄い。そうおもった瞬間、バランスをとりつつクレーンは景品口に宙づりに持っていき――すとん。GETだ。
「すっごい! 大分慣れてるみたいだね、上手いもんだ!」
本気で感心して、僕はぬいぐるみを受け取る。彼女はなぜか瞳に涙をため、「でしょ?」と笑った。僕は時計を見る。午後四時六分。――頃合いか。
「僕、ちょっと風に当たりたいんだけど。外出ない? 近くにベンチあるし」
「え、あの、ちょっと待っ――」
「あー、お腹痛いトイレってどこだろ」
そう言って、今度は今までと逆に、僕が鈴音さんの腕を取って、自動ドアにむかう。
僕達ががーっとドアから外に出る――その瞬間。
向かいの予備校ビルの中から、学生があふれ出るようにして出て来る。
僕はちらりと横目で鈴音さんを見たら、怯えたように一点を凝視していた。
そのことで確信した。
僕は大き目の声で言う。
「いやー、それにしても鈴音、お前ってそんな才能あったんだなー、付き合ってみて初めて知ったし。スゲエなー、ホント!!」
僕はなるべく軽いかんじで隣の鈴音さんを見ながら喋りかけた。
びくっとした表情で、くんだ腕を自分の身体に引きつけようとするのを、僕が強引にとめる。
無言で僕が笑って頷くと、次第に彼女も理解してきたのか、
「……で、でっしょー、私の腕にかかればぬいぐるみの一個や二個や十個、軽いもんよあはははは!!」と無理やりテンションをあげて返してくる。
むこうの人だかりの中に、誰かの視線を感じる。――よし。
「ってそんなに自慢するほどのことでもねえけどな、よく考えたら。はは」
彼女も合わせる。
「じゃあ何よー、クレーンゲームでちゃんと道草は取れんの~、ぬ・い・ぐ・る・み!」
「取らなくても生きるうえで支障ないしな」
「ムカつくー!!」
一緒に笑う。
鈴音さんは次第に楽しくなってきたのか、「ねえ、あそこ行こ! ボーリング場!! 私の腕前をみせてあげよう!!」と言い、さっきのように僕の腕を引っ張っていく。
「じゃあやろうガーター無しで」
と僕がいう。
「うわッ、ヘタれだ、ヘタれ過ぎる!!」
と言って、おそらく今は素でわらった。
横目で、強い視線の主を予備校の前でみる。
いかにも遊んでそうな金髪のワイルドヘアの青年が、凄まじい目付きで僕達を睨んでいた。
その事に気付いた僕は、「よし、行くか!|ガーター『|なし』|で!」と歩き出す。
「ヘタれ!!」と腕をくみつつ鈴音さんも笑って一緒に歩いていく。
彼が次第に遠ざかる。
鈴音さんの口が一瞬動いた。
音にならず、それはすぐに喧騒にかき消える。
だが僕には、それがこう言ったように聞こえていた。
――「ばいばい」、と。
7
ぽつりと呟かれた。
「いつから……?」
僕は隣で歩く鈴音さんに気がつかない振りをして、自然に見えるよう腕をといた。今は待ち合わせ場所だった公園にむかっている。
「いつから気付いてたの……」
その声がすこし震えている。
何かをこらえるように下を向いていた彼女は、自分の身体から僕の腕が触れなくなったことに、何か感じていたようだった。
「どうして……」彼女が顔を上げる。僕と目が合った。立ち止まる。僕も立ち止まる。彼女の、口が動く。
「どうして私が復讐しようとしてるって、解ったの?」
笑って彼女に返す。
「復讐にも入らないですよ、あんなの」頬をかく。そうだ。
「前の彼氏に振られたから見返してやろうなんて、健全な方だと思いますしね」
そう言うと、彼女は黙りこみ、うつむいてしまった。
彼女にとって精一杯の、仕返し。
新しい彼氏と幸せそうな日々を送っているという、見せつけ。
僕にとって出来るかどうか解らなかった、本当の彼氏役。
自信が無かったが、どうやら当たっていてくれたようだ。
「……わかってて、わざわざ付き合ってくれたの?」
「その指輪、前につけてたやの上からはめてますよね?」
そういうと、ぎゅっと鈴音さんは手元に自分の指を抱え込むようにつつむ。
そんな仕草をされれば、誰だって力になりたいと思うだろう。
今は憎くて仕方がない人への、正しく無いけど必要だった、『決別の儀式』くらいには。
「前につけてたやつは、つい最近までしてたってことですよね。だったら、初めてデートするっていうこと自体おかしいじゃないですか。つけかえる理由もわかります。振られたってことでしょ。だったらどうして嘘ついてまで僕と『デートの練習したい』から、なんていったのか。まぁ確かに僕なら、まったくの他人ですから「アイツは誰々だ」、って気づかれることもないし、かつ、歳が上だからちょっと自分がオトナだって思わせることも出来る、違いますか?」
「最後はちょっと、はずれだったけどね……」
どういう意味だよそれ。
ま、それはともかく。
「鈴音さんが歩幅を変えてるのと、強引に僕の腕をひっぱっていくのに、差があったのが答えだと思いました」
鈴音さんから目線を外す。そんなにじっと見られていたら、辛くなってしまうだろうから。
間を置き、再び話しだす。
「自分でルートを決めたのも、最初から僕と一緒にいるところを誰かに見て欲しかったんじゃないかなって思ったんです、想像でしたけどね」
立ち止まっていた鈴音さんに「行きましょう」といって歩きだす。距離は少し離れているけど、足音に注意し、おなじくらいのペースになるように歩く。声は少し小さめに。誰かに聞かれたらそれこそこの子の計画は水の泡だ。聞き取れる、でも小さめに、そんな声量に気をつけて話し続ける。
「多分、ゲーセンも思い出の場所だったんでしょう?クレーンゲームは特に。何より一番辛そうでしたから。それに向かいの予備校が見えるよう、終了時間に自分から見える位置に移動してたのも、|ここに通っている中に、元恋人さんがいるのかなって思ったんです。時間的にもそれしか考えられなかったし」
後ろから、鼻をすする音が聴こえる。
立ち止まりかけるが、なんとか意志の力で踏みとどまった。ここで振り向いたら、きっとなにを言えばいいかわからなくなってしまう。
「……ま、後は出来ていたかはわからないけど、『幸せな彼氏さん』を演じられるよう、頑張ってみたワケです」
演技経験はありませんから、と言い訳し、振り返る。
「後悔してたと思いますよ? 彼。あれは間違いなく、嫉妬の表情でしたからね」
ホントそうだ。僕って楽しかったんだから。だから。
「彼氏役が言うんだから、間違いありませんよ」
振り返ると、涙をぐしぐし袖でぬぐっている鈴音さんがいた。僕は近寄って、肩に手を置いた。
「頑張りましたね」
ぽろぽろ涙をこぼし、鈴音さんはうう~っと唸り僕のパーカーに顔を擦りつけた。困った。
「あの、人が見てるんですけど……」
周りの人々の目線が、完璧に女泣かせの最低プレイボーイ野郎を見る目をしている。
鈴音さんはまだ泣いている。引きはがす訳にもいかず、僕は途方に暮れた。周りの温度が急激に下がっている。鈴音さんは僕の胸で泣いている。
僕は視線で泣いている。
8
「ちょっと前だったの」
鈴音さんと、待ち合わせた公園のベンチでならんで座っている。息はもう白くなることはないが、冷たさはまだ残っていた。僕達の手のホットコーヒーが掌に温かさを運ぶ。ちびりと鈴音さんは口をつけた後、憑きものが落ちたような顔をして前をみている。
僕も横目で彼女をみて、軽く飲む。ホットコーヒーは僕の舌にはちょうどいいが、彼女には熱すぎるらしい。隣のコーヒーはなめるように飲まれるので一向に減っていない。
僕はもう残りわずかなコーヒーを、惜しむように飲んでいる。この差が男と女の違いか、などという意味のわからない納得をしていた。
苦笑いに近い笑みを浮かべ鈴音さんは続ける。
「なんだか知らないけど、突然「別れよう」っていわれて。どうしてって言ったら、勉強に打ち込みたいっていわれてさ。ばっかみたい。今まで勉強のべの字もいってこなかった馬鹿が、なに言い始めてんだろうって思ったわ。で、案の定調べてみると、……新しい女が出来てそいつに乗りかえてたって、わかった」
ぎゅッ、と、缶コーヒーを鈴音さんは強く握る。
「『好きな女が出来た』の方がまだ許せたのにさ」
そう言って、ぐいっとコーヒーをあおる。しかし舌を火傷したらしく、あちっとべろを出して「痛い~」と半泣きになる。どうでもいいけど可愛いな、今の仕草。
そんな事にもちろん気付くこともなく、真面目な顔にもどり言う。
「だからそのポーズで勉強してる所に、他の男と一番幸せそうにしてる所を見せつけてやろう、って思ったの」
僕の方をちらりと見、ため息をつく。頭を下げ、
「騙してごめんね」と言った。
僕は苦笑いを返すしか出来ない。「いいえ」と首を振り、
「計画は、成功しました?」と訊いた。
彼女は困ったように笑って、
「大成功」、と言う。
でも。と続けて、
「途中で、勇気が無くなりかけたから失点一、かな。あの時は、本当にどうもありがとう」
と微笑む。
僕はいえいえと言って、首をふる。
「初めてでしたけど、楽しかったですよ」
僕は手に持った缶コーヒーを、ぐいっとあおって飲みほした。
立ち上がって、自販機横のゴミ箱に缶を入れる。そこでうーんとうなり、伸びる。さて。
「じゃあ、僕はこれで。またのご依頼おまちしていまーす」
僕は出口に向かって歩きだす。
その時、「待って!」といわれ、立ち止まった。何だ?
顔を赤くして、鈴音さんが歩いてくる。え?
「こーかん、して」すっと、彼女が今噂の(僕の時代感覚がいかに古いかこれでわかる)スマートフォンを出して、「番号」と短くつけたした。
僕は少し悩んだ後、「いいですけど?」といって、自分の古い型のケータイを出して、赤外線で番号を交換した。
しかしそこで、ふと気づいたことを言ってみる。
「でも、何でですか?」
すると呆れたような、それでいておかしいような、不思議な感情をこめた顔をして鈴音さんはいう。
「男女の友情は、成立しない?」ときいた。
僕は少し悩んだが、
「すると思います」、と言った。
鈴音さんは今までで一番いい笑顔でわらい、
「でしょ!」と言った。
その日、僕のケータイに同居人以外の女子高生の番号がはいるという、奇跡がおきた。
9
「それで? 何で兄さんのケータイに私の友達の番号が入ってんだ?」
なんでお前は、僕のケータイを勝手にみているんだ。
「んな馬鹿な」
僕は頭を抱える。
そんな偶然、あんのかよ、と。