小さな哲学者
五作目に書いた長編小説です。
散歩の途中に思いついたのですが、やっぱりミステリーを書いている作家さんはすごいと思うばかりでした。
書いていてすごく楽しかったです。彼のキャラクターに、どこか救われているところもありました。
その第一回目です。
よろしければ読んでみてください。
よろしくお願いします。
第一歩 小さな哲学者
1
健康ブームに上手く乗れたかどうかはわからない。
ただ、昔から散歩は好きだった。
あの周りの風景を見ながらしゃべったり音楽を聞いたり。そんな風にのんびりと生きていけたら最高だろうな、と、おもっていた。
でもさまざまな事情があって、僕ははんば諦めながらバイトに精を出す日々をすごしていた。
ある時に気付いた。僕のしたい事はなんなんだろう、と。
こんな風に道路交通の棒をふったり、レジにバーコードを読みこみ作り笑いをすることだっただろうか、と。そう思ったら、僕にはなんにも無いということに気付いてしまっていた。
人と一緒に何かを分かち合いたい、そう、思ったのである。
始めたのが、この『散歩屋』だった。
人と一緒に歩いていろんな話を聴き、かたってもらう。すこし肩の荷をおろしてもらう。歩いている時だけは父でも母でも、祖父でも祖母でも娘でも息子でも孫でも職業人でもなんでもなく、一人の人間として振るまってもらえるようにする。
そんな人たちの様々な過去や想い出、なやみや葛藤にふれ、なにが出来るかは関係なく、人生を悩み苦しみながらも懸命に生きている人たちによりそいながら生きていきたい、そう、思ってはじめた仕事なのである。
誰でも秘密を抱え、痛みを抱きながらいきている。
僕はそんな彼らと、あるきながら前に進んでみたくなったのだ。
『散歩屋』は今日も誰かと、そんな風に道を歩いている。
2
「そんな仕事があるなんて、この歳になるまで私知りませんでした」
笑うと、軽く目じりにしわが出来る。第一印象がこの仕事の全てとも言っていいので、僕はなるべく穏やかに、かつ従順そうな態度を示し、彼女と玄関前で向き合った。
「僕も多分、聞いたことありませんね」
そう言って軽く笑った。本心をいえば当たり前だろうと思う所なのだが、依頼されるたびにこの言葉を言われる者としてはやはり珍しい職業であることを再認識させられる。
まあ、僕自身そんなに優秀な人間では無いがこういう会話も苦にならないから続けてこられたのだと思う。
「依頼主は西田幾子さま、とありましたが……」
僕はメールで送られてきた依頼主の名前を思い浮かべながら、目の前の人物なのだろうかと首を傾げる。
その女性は年齢は三十代中盤から後半。栗色に染めた髪が日に照ってまぶしく反射している。両手にはアクセサリーや指輪はなく、化粧も中々気合が入った感じで誰かと会う約束でもしているようだった。少なくとも僕を迎えるためにした訳ではないことは確実だ。体からは力みを感じ、可愛らしいレースの付いた薄いオレンジ色の服は大分肌寒さも無くなり温かな日が差している今日に、不自然に映えていた。
僕は玄関から室内をちらりと見たが、ランドセルが奥の部屋のガラス扉から透けていたり、壁には学校で書いたと思われる絵が掛けられていたり、玄関の靴箱の上には目の前の彼女と笑い方がぎこちない、だが利発そうな少女がどこかの遊園地で二人で映っている。その他も何枚かツーショットが飾られていた。
遊園地がお気に入りの様である。
ちらりと右手側、上の表札に目をやると、家主は『西田正樹』、とある。
駐車場には二台停められるスペースがあり、軽が一台置かれていた。
隣の少し大きなスペースは空いており、砂が溜まっている。
僕はもう一度目の前の女性に目を戻す。彼女は少し困ったようにパーマのかかった髪を指で引っ張り視線を外し気味にして言った。
「ええと、それなんですけど……」
僕に送られてきたメールにはただ今日自宅に迎えにきて仕事をしてほしい事と、少し割高な値段でも構わないという事しか書かれてはいなかったので『訳あり』と判断していたのだが、どうやら当たったらしい。
話しづらそうにしている彼女の事をしばらくじっと見ていたら、ふう、とため息をついて、そのまま玄関の真っ直ぐ先にある階段の下から「幾子ー、降りて来なさい、『散歩屋』さんが来たわよー」と二階にいる誰かを呼びかけた。
予想はしていたのだが依頼対象はこの人の娘の幾子さんらしい。
もう一度、先程の写真に目をやる。少女が笑っているのは恐らく数年前までのもの。
それから後は、どこかぎこちなさが先に立つ。しばらくその写真に目を留めていると、とんとんとん、とゆっくりとだがしっかりとした意志を感じさせる足取りでその子、幾子ちゃんは降りてきた。
おかっぱで大人しそうな印象のある、どことなく陰のある顔。整っているものの表情は硬く、僕の方を見ようともしない。黒い生地に明るいロゴとラメが散りばめられた服を着ているのは無理に明るさやイマドキさを表しているようで、ちぐはぐな感じを受けた。
僕は階段下まで降りて来た彼女に癖になりつつある柔い笑みを浮かべ、挨拶する。
「はじめましてこんにちは。『Promenade』の遠回理道草です。どうぞよろしくね」
「偽名を使う時点で怪しいのだが。すまないがお引き取り願いたい。私は少し忙しい。母が勝手に依頼したこととはいえ私は承諾していないのだ。あと人に名乗る時には本名を言ってくれ。センスが感じられないので変えた方がいい」
「あのこれ本名です。すいません……」
その子の言動があまりにも冷たく、低く、そっけないものだった事に、正直僕は驚いた。
まばたきも多く無く、顔立ちがいい分少し恐怖すら覚える。おそらく小学校の高学年だと思うが喋り方もまるでどこかの学者かのように堅苦しいものだったし、頭がいいのであろう事は言わなくても回りに伝えるタイプのように思えた。
あと、これ本当に僕の本名です。偽名ってよく言われるけど。
「コラ幾子! 失礼でしょせっかく来て下さったのに! すいません、ちょっとこの娘変わっている所があって…気を悪くしないで下さい」
「いえいえ。いわれ慣れてますので。はい。あはは。覚えてもらいやすいので本当は重宝しているんですよ」
僕は嘘でも何でもなくそう言った。この名前のおかげで意外と仕事が来たりするからだ。まあそのほとんんどが偽名と思っての面白半分の依頼なのだが。
幾子ちゃんはどことなくお母さんの方をにらみつけているようだった。僕はその少しわかりにくい視線の意味を察し、お母さんの方へと顔を向ける。
「では、ご依頼はそちらの律子さんと三時間コースでよろしかったでしょうか?」
そう尋ねるとお母さんは笑顔で、
「ええお願いします。私もそろそろ出ないといけないので……」
と笑い、そのまま後ろを振り返ると、
「じゃあ幾子、お母さん、行ってくるから。遠回理さんと仲良くね?」
「……仕方ないな……」
幾子ちゃんはその人形のような顔を少し歪め、コクリとうなづく。僕はその仕草に確信を深めたが、何もいわずに立っていた。
「じゃあ遠回理さん、よろしくお願いしますね」
その瞳には、何か大きな決意を秘めた光が宿っていた。僕をじっと見る。
「ええ、解りました」
僕はデフォルトの笑顔を幾子ちゃんに向け、心でため息をつく。
散歩屋はもちろん散歩をするのが仕事だが、自分から頼んだのならともかく好きこのんで見もしらぬ人間と歩きたいと思う人間はいない。
いるとすれば、何か人にいえない相談や悩みを誰でもいいからこぼしたい、恨みつらみを吐き出したい、誰か無関係の人間に、解決できない悩みの糸口を見つけてもらいたい。
そんな様々な付加価値を求め、人は僕のような人間と歩こうとする。
「よろしくね、幾子ちゃん」
僕は笑って彼女を見た。
今回は難しそうだ。
「…………」
複雑な境遇の、女の子の話し相手になるのは。
3
「あなたは恋愛についてどう思う? 遠回理さん」
「んー、そうだな一ついえることは、『それ以上難しい問題を人間は扱ってこなかった』、って事じゃないの?」
「……ふむ、面白い。そうかもしれん」
「それくらい業が深いって事なのかな? 僕にもよく解らないけど」
僕と幾子ちゃんは公園の並木道を並んで歩いていた。
春の芽吹きには少しはやいようで葉を落とした木々は急かされることも無く、ごつごつとしたその指先を僕達に向けている。一応散歩を仕事にしている以上、その依頼された家の周辺の道は徹底的に調べ頭に叩き込んであるしどういうルートをどういう順序でたどれば指定された時間に帰ってこれるかも計算してある。地図などに強いのも散歩屋に必要な能力かもしれない。
僕は散歩中の限られた時間の中で、なるべく相手に話させるように努力する。
嫌々一緒にあるく相手の時は、適度な質問を多数用意してかつそれを不快に思わない程度に投げかけていくようにする。
外れる事も多いけどそれより手数を多く出すことが大事だ。
どんなに冷たい返答でも笑ってかえせること、そしてどの質問が相手の琴線に触れたのかを冷静に観察することがコミュニケーションの鍵である。
そして僕は当初の狙いの通り、幾子ちゃんに自分がいかにモテないかを滔々と語ることから始めた。
最初は「ほう」とか「そうか」と返していただけだった彼女も、僕がさりげなく「この前僕の母さんが年がいもなく若いアイドルにハマッちゃってさー、いやー、あれって息子からしてみると意外とくるものがあるんだよねー、悲しいというか虚しいというか……韓流にハマるおばさまの身内の気持ちが、少しわかって来た」と『本命』を投げてみると、彼女のその瞳に力がこもったのを、僕は見逃さなかった。
「恋愛に、年齢は関係ないのだろうか……」と呟いて、僕の方を見る。そして冒頭の質問にいたったという訳だ。|狙い通り。
「私の母が、いま何をしに行ったかしっているか」
僕は首を軽く振り、それを否定する。その事で彼女の何かが切れたのだろう。少しずつだが、話し始める。
「恋人に会いにいったんだ。自分より若い恋人にな」
苦いものでもなめたかのように口が歪み、そういう事自体が苦痛だというかのように自嘲した。「父さんがまだいるのにな」、と。
僕がなにも言わずに目だけで続きを促すと、ふっと笑って話を続ける。
「昔から、まあ私が幼いころといっても数年ほど前なのだが、私の両親はいわゆる〝仮面夫婦〟とよばれる関係になっていてな。写真をとる時も、父は一緒に映ろうとすることがなくなった。何があったかは知らないが、二人の間で笑顔がかわされる事はなくなった。しかも最近、母さんは頻繁に外に出かけるようになってからは更にだ。私は気にしていなかったが…、ある時気付いた、母さんから母さん以外の匂いがすることに。若い男も使う、シトラス系の香水だった」
君の歳で『シトラス系の香水は男もつかう』事を知ってるのは凄いな、と素直に感心する。
「そういう時、外から帰った母さんは一日中上機嫌だった。行くときとは違う色の口紅をしてな。微妙な違いだったが私には解った。アレが朝と違う色だということを」
僕はそれで、|大体の事が予想できてしまった。が、それは中々重たい話になりそうだ。
「そんな母さんが、私はあまり好きではない」
彼女は唇をなめ、ふたたび開く。
「恋愛とは、家族のことを無視しても、いいものなのだろうか」
僕は空を見上げ、曇り始めた空にどうしたもんですかねと尋ねてみた。
「ソクラテスは『いい妻を持てば幸せに。悪妻を持てば哲学者になれる』、という。本当かもしれない、私の場合はだが」
家庭にどこまで踏み込んでいいものか、僕は迷っていた。
歩き始めてもうすぐ一時間半。今日の散歩ももう半分が過ぎた。
「ニューヨークなら、良かったのになあ」
その僕の呟きは、幾子ちゃんの顔に大きな疑問符をつけただけだった。
4
「恋愛はどういうモノを指すんだと思う?」
僕は特に期待せずに幾子ちゃんに尋ねる。
幾子ちゃんはあごに手をやって、少し考えた後、「男と女が愛し合うということだろう」と結論づけた。どうでもいいけど小学校の子と話す内容じゃないよ。
苦笑いしつつ、僕は肌寒いなか街を歩きながら答えを探した。周りを見るともう春間近ということもあるのか、入学式のセールの看板がそこかしこにあり、心なしか家族連れも多い。
僕は予算の中に含まれている飲食代から千円使い、公園にあった屋台のクレープ屋で幾子ちゃんにバナナチョコレート、僕は一番安いプレーンを買い、ベンチに座る。
「さっきの続きだけどさ、僕もそう思うよ。けど、友情とか愛情って、どこから線引きするんだろうね?」
僕はゆっくりと話を頭で作りながら考える。間違っていたらとんでもない事になるからだ。
「まぁ僕の場合、付き合うって事がほとんど無かったからあれだけど、僕の預かってる女子高生は、――僕の母さんの姉の子だから、従妹なんだけど――恋愛と友情について悩んでた時もあったみたいだね。友達だと思ってた子に、真剣に告白されちゃった、みたいなさ」
少しクレープをかじる。うん、甘みも程々で美味しい。隣にすわる幾子ちゃんもお気に召したようで、一生懸命にチョコとバナナを頬張る。
そんな所はまだ小学生なんだなと、大人びている彼女に子どもらしい一面を見て少し安堵する。僕はクレープをかじりながら前を向く。目の前の通りでは、公園の柵ごしに手を繋ぎ合っているカップルが通り過ぎていく。幾子ちゃんも彼らを見ていて、ぽつりと言った。
「友情が愛情に変わることは、珍しくないのではないか?」
「愛情が果たして、『友達』のままでいさせてくれるかどうかは、難しいけどね」
しばらく無言でクレープを食べ合う。かさりと持ち手の紙が鳴る音だけが響いた。ほとんど無くなったクレープを口の中に押しこむと、僕はふうと息を吐き、決意を固める。
おそらく、あのお母さんも|これを望んでいるのだろうし、と値段の割り増しから想像する。事前に何も知らせてくれないのは、僕の職業を信頼してくれているからだと思いたい。
散歩屋は、そうやって生計を立てているのだから。
「――幾子ちゃん」
僕は幾分態度が柔らかくなった彼女に、訊く事にした。
「お父さんとお母さんが話さなくなったのは、きっかけとかあった?」
僕がそんな事を訊いていいかどうかは解らないが、ちらりと時計を見ればあと四十分ほどしか無い。
ここらが勝負のかけ時だろう。
若干驚いた顔をした彼女だったが、僕との会話のなかで少し心を開いてくれたのか、無表情のまま、クレープを僕と同じように口に放りこみ咀嚼し、飲み込んだ。
「最初は……そうだね、家族で買い物をしにいった時だったと思う。店でやたらと母さんが若い店員に、お勧めのバッグを訊いていた時だった」
少し考え込むようにうつむいた幾子ちゃんは、首を傾げ、その時の事を思いだそうとしていたが、首を傾げる。
「いつまでたっても親しげに話しているから、その内父さんが爆発するように怒ったのをよく覚えているんだ。……私もその時小さかったから解らなかったけど、何故あんなにまで父さん怒ったのかな……。確かにその女の店員と仲良く話して私たちのことを無視していたのは悪かったと思うけど、父さんのあの怒り方は少し異常だったよ」
「普段そんなに怒らなかった?」
「うん……父さんは私から見ても大人しく優しい人でさ。繊細といってもいいくらいなの。女性的な感じも持っていて、それまでは母さんともすごく仲が良かったんだ……」
――なるほど、と僕は心の中で一人合点がいったと頷く。
僕は気になっていることを更に訊いてみることにする。
「その他には、何か二人の事で気づくことはあった?」
柔らかい口調をなるべく心がける。こういう時、大事なのは発声と目線、タイミングだ。
触れられたくない話題であればあるほど、その時は気をつけなければならない。
同じ質問でも穏やかに尋ねるのと詰問口調で問いただすのでは、百八十度意味が変わってしまうのだから。
言葉は情報だ。
気持ちは身体である。
身体に伝えるには響かせ方もいる。
幾子ちゃんは僕がかける質問に、いちいち真面目に取り組んでくれた。会ったことは無いが、哲学を学ぶ人は、もしかしたらこんな姿勢で物事の真理を探しているのかもなあと思った。
細い指であごをつまみ(癖らしい)、彼女は「長電話、かな」と言う。
「長電話?」僕がそれは女の人の必要悪ではないかと思ったのだが、どうやらそれ以外にもあるらしい。不思議に思って続きを聞く。
「それからすぐだったんだけど」
さあああと、風が僕達の周りに抜けていく。少し冷たいが、二人とも一時間以上ゆっくりとだが歩いていたので、多少あたたまった身体には心地よく沁みていった。
彼女は口を開く。唇が乾燥し、少し痛そうだった。僕はいつもこういう時のために、サービスで徳用の安いリップクリームを買ってポケットに常備しているので、後であげようと触って確認した。
「女友達だと思うんだけど、母さんは随分と長話をすることが多くてね。聞いていると大した事は喋っていないと思ったんだけど、随分と親密というか秘密めいた話を嬉々としてしているなって思った。そしたら、仕事から帰宅した父さんがちょうど帰ってきて、母さんは悪いことでもしたかのように、携帯を後ろに隠したんだ。その時の父さんはまるで仇でも見るような形相で怖くなっちゃって。その後、父さんはかんで含めるような言い方で「そうなんだな」と恐ろしく低い声でいってさ。いまだに意味わかんないだけど、そのときこの二人の間に決定的な何かが生まれたように思ったよ」
僕はふうむ、と幾子ちゃんの真似をしあごを手でつまみ考えた。やっぱりそうか、と。随分と信頼されたものだ、と苦笑いがこみ上げた。はぁ。
幾子ちゃんはそれがおかしかったのかクスリと笑い、「変な人」と微笑んだ。
始めてみたその笑顔は、人形のようだったその表情に柔らかな色をくわえ、見る者を優しい気持ちにさせた。
場違いにも、意外とクラスの男子人気は高いタイプだろうな、と思った。
5
歩いている時に気をつけなければいけないこと、それは「歩幅」だ。
幾子ちゃんの歩幅はもちろん僕の歩幅よりずっと短い。
仕事柄けっこう気になるので、カップルとか男が大股で先にいってしまうのを見るとつい近づいていって説教したくなる。せっかくのデートを歩幅でダメにするとは何事かと。
その後「ちょっとぉ~、歩くのはや~い」と彼女が甘い声を出し、男が「ごめんごめん」と照れながら腕を組むのみ見ると、つい人生不公平である、となげきたくなるが。
ちなみに僕と同居している女子高生は、「兄さんが俺の歩幅にあわせればいいだろう?」と断言しているので、そんな光景はハンマーで叩き壊されていく気分にならなくもない。いや、なる。凄く。
歩幅は一緒に誰かと歩く時には、その中で一番短い人にあわせるのがルールだ。
僕は少なくともそうして誰かに文句を言われたことがない。女性に褒められたことも同じくない。
幾子ちゃんのペースに合わせつつ、それでいてちょうど家に間に合うように僕達は歩いていく。
「遠回理さんは、誰かと『好きあった』こととかあるの?」
その『好きあう』という古めかしい言葉に、思わず吹き出した。この子のあだ名は〝哲学者〟で決定だ、僕の中で。
ぷくっと頬を膨らませ、「そうやって馬鹿にするのは、自分が大人だと勘違いしている証拠だよ」と言われた。それはそうかもしれない。
深い言葉に思わず「そうだね」と真剣に返したら、先程のようにおかしそうに笑われた。何だか悔しい。
僕はこほんと空咳し、きりりと真剣な瞳をつくると、「ま、それなりにね」と歯を光らせる。「嘘でしょ?」と真っ直ぐに瞳をみつめ言われたので、素直に「嘘です」と返す。凹む。
「じゃあ本当は?」
真面目な顔できかれたので、僕も真面目に返すことにした。どうにも真面目に訊かれたことには真面目に返す、という癖が僕にあるらしく、それで失敗することも多い。性分ということで諦めてはいるが。
「僕も好きあった人がいたけど、中々上手くいかないもんでね。結局手もつなげずじまいだよ」
たはは、と僕が笑うと、幾子ちゃんは神妙な顔で、
「モテないのは、辛いね」と切なそうに言われた。
直球すぎて返す言葉がみつからない。とりあえず事実であっても突きつけられると心が潰されることもあるんだな、という素敵な教訓をえた。えたくもないのに。
「辛いかどうかは人によるんじゃないかな。……やっぱ最近の雑誌とか見てると、どれも異性からどうやったら魅力的に映るか、モテるかって事を最優先にしてるけど、僕はありのままでいれる相手であればその人にふさわしくあろうとするだろうし、数では無い価値が恋愛にはあると思うけどね。プレイボーイが芯まで惚れられて付き合う、って事がない時もあるだろうし」
僕は恋愛経験値の無さを棚に上げて、偉そうに講釈をたれた。
「なるほど……確かにそうかもしれない。私も同級生の男子に「一緒に遊ばないか」ときかれたり、私の前だと「饒舌だった男子が急に無口になった」り、「靴入れにラブレターが入っていた」りしても、私自身に実は魅力はない、ということもあるだろうし」
自慢してない所が更に胸をえぐる。完敗です人生的に。
「ま、まあそうだね。魅力は上っ面じゃないよ。中身が問題だよ、中身が! は、ははは、あはは……」
「遠回理さんは大人だね」
そう言って幾子ちゃんは笑う。むしろ子供です、あなたなんかよりずっと。
「それからだよ、よく遊園地に三人で行くようになったのは」
幾子ちゃんは住宅街の中をぬけながら、僕の方を向かず、前をにらみつけている。僕はポケットのリップクリームを差し出した。彼女は驚いた顔をしたが受けとり、僕を見上げる。……僕の身長も低いので、あまり見上げた感じにはならなかったが。
彼女は少し顔を赤くして、背をむけた。
「塗るからあっちむいてて」と言って、僕も生返事で「ああうん」といって後ろを向く。いくつでも女の子は女の子だなあ。
僕は少し待つとき、幾子ちゃんのお母さんの口紅のことを考えていた。
無意識に唇を指でなぞる。
難しい解答を、少女は受け入れてくれるだろうか。
せめてもの繋がりを求めた、遊園地でぎこちなく笑うちいさな哲学者は。
シャーロック・ホームズには出来ない相談だった。あの人女嫌いだったらしいし。
6
気づけば残り二十分である。この通りを抜け右にまがれば幾子ちゃんの家になる。
僕はどうしたものかと、少しゆっくり目に歩いた。
昔の哲学者たちは道を散歩しながら講義をした、という話を誰かからきいた。僕も彼らのように何かしらの結論に持っていくことは出来るだろうか。
歩きながら考えるのは有効だと科学的にも証明されているらしい。アインシュタインも、帰る時にはわざわざ徒歩でいき自分の考えに耽ったと聞く。
偉人たちの行為に後押しされ、僕は考えを練った。
幾子ちゃんはどことなく寂しそうな顔を僕にむけている。少しは情でも感じてくれたのだろうか。僕は目を細めにし、ゆっくりと話した。
「例えばの話なんだけどさ」
うん? と幾子ちゃんは可愛く首を傾げる。どうでもいいが、仕草が小学生じゃない。
苦笑いすると、幾子ちゃんはまた頬を膨らませ、「感じ悪い」と一蹴した。すいませんでした。
気を取り直して続けた。
「哲学とかでは、男性と女性の愛のほかには認めていられないのかな?」
「私もななめ読みだから何とも言えないけど、読んだ本には男性と男性、女性と女性が愛しあっても、普通のことだと書いてあったよ。私にはよく理解できなかったけど」
「ふうんそっか」哲学者で決定だ、君のあだ名。
「僕もさ、よくはわからないけど、そういう恋愛関係もありだと思うね」
一端区切り、中空に視線をやると、曇っていた空から次第に青空が見えて来ていた。青色の空は吸い込まれそうなほど透きとおり、あの天空に神々の物語を作った人の気持ちも解らないでもなかった。夜は綺麗に星が輝くことだろう。
「人と人が好き合うのに理由はいらないしさ。それが多分男同士でも女同士でも変わらない。友情が愛情に変わってしまう時だってあるだろうし、そうなってしまっても全くおかしい事じゃない」僕は真剣みを混ぜ、幾子ちゃんを見た。
「だから、そういう愛情もあるって事を、幾子ちゃん。わかってあげてもいいかもしれないね?」
ぴたりと。幾子ちゃんの足が止まった。さあここからが|本番――
「――どういう意味?」
割りまし料金分の仕事の開始だ――
「人の愛情っていっても、色々あるからさ。それが娘に向けられるものだったり、夫にむけられるものだったり、でも、それ以外にもあるんだろうね。少なくとも、僕はそう思うし」
「遠回理さんが何をいいたいのか、私には全然理解できないよ」
嘘だ。君は賢い。わかっているんだ。わかりたくないだけだよ。
「お母さんの気持ちはお母さんのものだ。例え許されないモノだったとしてもね」
うつむきながら、幾子ちゃんは言った。
「私の母さんはそんなんじゃ無い……ッ!!」
「よくわかってるよ。でも、僕に伝えてほしいと思ったことは本当だ。自分の口からいえないことも時にはあるから」
「じゃあ、そのために、母さんは遠回理さんを……」
「散歩屋にはそういうサービスもあるからね」
ぐっと、幾子ちゃんはその小さな拳を握りしめる。
「母さんと好き合っているのは、女の人ってことッ…………!?」
僕は自分に出来うる一番穏やかな表情を作る。
「悪いことじゃない、逆に大変なことなんだ。凄く」
「――私が言いたいのは、そういうことじゃ無いよッ!!」
「――うん、わかってる」
「どうして、もっと早く言ってくれなかったの? ……母さん……」
「言いたかったんだと思う。でも、君はまだ小さいし、そのことを受け止めるには早すぎると思ったんだろうね」
「それでも本人の口から言うべきでしょッ!! あなたなんか使わず!! しかもあなたに、何の説明もしていなかったじゃない!? 上で話は聞いてた。おかしいと思ったんだ、急にそんな人間雇うから!!」
僕はゆっくりと歩きながら、肩を怒らせながらついてくる哲学者に、最後の言葉を投げる。
「君が大事じゃなかったら、僕になんて頼まないよ」
その言葉に、幾子ちゃんは顔を上げ、振り返る僕の顔をじっと見た。
「君にも去られることがお母さんの一番怖いことだったんだから」
衝撃を受けたように幾子ちゃんは立ちつくす。僕も立ち止まった。
「今日は、もしかしたら別れを言いに行ったのかもしれないね。その相手に」
あの顔は、何かを決意した人の顔だったから。
僕の考えすぎでなければあんな恰好で出ては行かないだろう。そう思う。
「母、さんが?」
「お父さんはもうずっと帰って来てないんでしょ。そして君との関係だってよくはない。でも自分の気持ちはごまかせない。そんな板挟みにずっとあっていたんだ」
シトラス系の香水は相手の女性のもの。
口紅は、自分の物と相手の物が触れあって、色合いを変えた。
店員さんと話していたのも、好みの女性だったから。
電話相手は友達であった恋人の女性。
違和感をずっともっていた夫は、細かい事実がつみ重なり確信につく。
自分はそういう対象では無かったのだと。
「許してあげてなんて偉そうなことは口が裂けてもいえないよ。でも考えてみてほしいんだ。お母さんの辛さを。痛みを。だって君ならきっとわかってあげられる時が来るだろうから」
「…………私、は……」
「時間がかかってもいい。気持ち悪いとか、おかしいことだとか、変なことだとか、思わないだけでいいんだ。人を愛するってことは誰にもとけない、永遠の難問なんだからさ」
「遠回理、さん……」
「もうすぐ着くね、お母さん、帰って来てるかもよ」
再び僕は歩き出す。
幾子ちゃんも小走りで僕の横に着いた。
「一つ、言い忘れてた」
彼女は、晴れきってはいないものの、吹っ切れたような顔をして、言った。
「――歩いている女の人にあわせないと、男の子は嫌われるよ?」
そう言ってふわりと笑ったその顔には、本来の彼女がいた気がして――。
「以後、気をつけます」
そう言って、一緒に笑ったのだった。
7
仕事が終わると、僕は必ず自宅のコタツに入りこむ。
冷えた身体がぬくぬくと暖まると、この仕事をしてよかったと思える。
居間のコタツ部屋にはテレビがあり、何とはなしに画面が光っている。そのまぶしさに目を細めていると、玄関から「ただいま」という元気というより荒っぽい感じの声が聴こえた。僕はあごをコタツの板に乗っけながら「おかえりー」と言う。がらりと襖が開いて、同居人である従妹が入ってくる。
「まーたコタツムリ化してんのか、兄さん」
「これ気持ちよすぎて出られないんだ」
「ニートすれすれだなぁ、相変わらず」
「失敬な。ちゃんと労働してきたよ、ちゃんとね」
「誰かと歩くだけで金もらえんだから、いいご身分だよな全く」
そう言って、僕の前に、コンビニの袋をどさりと置いた。
僕はにゅうと顔を上げ、中をのぞき込む。
「何買ってきたんだ?」
エプロンをつける同居人は後ろのボタンに四苦八苦しながら、
「アイスだよ。兄さん好きだろ」
「コタツでアイスってなんか人間って感じがしない? 無理を押し通して快感をえようとするところが特に」
「意味わかんねえ」
笑われてしまった。悔しいので中の『爽』のクリームソーダ味を取りだし、付いてきたプラスチックのスプーンで食べる。冷てー。これぞ寒い時の最高の贅沢だよな。
「兄さんの贅沢は安上がりだな」
また笑われる。無言ですくって食べる。悪かったな平凡な庶民で。
そういえば、と思い同居人――山野辺タンポポに昔聞いた話を、もう一度尋ねた。
「そういえばお前、昔、友達だった人に告白されて一時期悩んでたけど、結局どうなった?」
「どうしたんだよ、突然?」
不審そうな顔を台所から向けてくるタンポポに、「ちょっとな」とにごす。守秘義務命の商売はこういう時辛い。まあ、どこでもそうなんだろうけど。
「あれなー……」
いやはや、と首を振りながら、タンポポは人参の皮をしゅるしゅる剥いていく。
「中々大変だったなー、はは……」
「まあそうだろなあ、色恋はなんでも難しいもんだ」
「兄さんいっても説得力ねえ」
ははは、と笑われた。本日三度目の悔しさを覚えつつ、ザクリとプラスチックのスプーンを突きさす。お前だってそんなに言うほどないくせにさ。という言葉を、勝ち目の無い喧嘩をしないためアイスと一緒に飲みこむ。
「で、どうなったんだよ? 最終的には」
しばらく無言で大根の皮を剥いていたタンポポは、ぴたりと手を止めると、こう言った。
「そいつさ」
僕はアイスを齧りながら、タンポポを見る。
「男友達の彼女だったんだ」
僕は少しの間アイスを食べる手をとめて、中空を見る。壁かけの時計が午後の八時をさしていた。
「そりゃ難しいな」
アイスをふたたび食べ始める。
恋愛とは、人類最大の難問なのだろうか。
アイスが身体を冷やし、コタツが温めていく。
タンポポは背中越しにため息をつく。
今度こいつと遊園地にでも行くか。そんな考えが何故か浮かんでいた。