第四回
◇
「上松さーん? いないの?」
ジョニーの拠点の部屋の前で、村越がドアを叩いていた。
時刻は午前七時。いつもならこの時間の三十分前には起き、アパートの廊下などを掃除している村越だが、今日はなぜかここの住人に用があるようだった。
「聞いてよ上松さん、この前来た娘がね、少しは運動しなさいなんて言うのよ。私をぐうたら婆さんか何かかと思ってるのかしら? 私だって動いてるわよねぇ、毎日階段上って箒掛けしてるし、二つ先のバス停のスーパーまで歩いて買い物にも行ってるしねぇ。でもまたグチグチ言われるのも嫌だし、アピールのためにまた乗ろうと思ったのよ、自転車に。そしたらね! 無いのよぉ、自転車が! 結構前から駐輪場に置きっぱだったけどいつの間にか盗まれたみたいで……上松さん何か知らない? 遠野さんにも聞きたいんだけどあの人最近ボケてきたから…………」
誰がいるかも分からない扉の先に向かって村越は話し続けた。
◇
「あ、やべ」
ジョニーが自転車を礼拝堂に置き忘れたことを思い出したとき、彼は自動車の後部座席で腕を組んでいた。
ボディカラーが水色のワゴン車で、側面には【世界退魔協会・東洋支部】と字が打たれている。
現在車は、ジョニーの住む町より二つ離れた市の山道にいて、なだらかな坂道を上に上にと進んでいる。
「ジョニーさん、話の続きをしてもよろしいですか?」
ジョニーの隣に座る、車と同じ水色の制服を着た男性が言った。白髪の多い頭だが、表情は若々しく、三十台後半くらいにも見える。男性は名を山代と言った。
「……ああ、頼む」ジョニーはぶっきらぼうに言う。
「ははは、長いこと座り続けでお疲れですかな。まあ貴方にとっては、我々の組織の変遷についての話など退屈かもしれませんが、後で手続きをする上で色々と必要でして」
言われなくても、ジョニーは欠伸をしつつ山代の言っていたことは全て記憶していた。
【世界退魔協会】、俗称【教会】。この組織が作られたのは、「魔物」が世界に現れたのとほぼ同時期だという。今から約百年前のことだ。
土屋も言っていたが、この何故か人間だけを襲う、刃物で切っても、銃で撃っても死なない生物に、当時の人々はかなり苦しめられていた。
そんなとき、ある国の製鋼会社が魔物にダメージを与える合金を発見した。それが偶然の産物だったか意図的な発明だったかは分からないが、その効果はあっという間に全世界に広まり、人々は魔物に対抗する力を手に入れた。
さらにその後、製薬会社が薬品、繊維業者が合成繊維といった具合に、「魔物を退治する物質」が連鎖的に発見され、それらの企業は最初の製鋼会社を中心に「魔物を倒す」という目的の下集まり始めた。
しばらくその「複合企業」は魔物退治用の物質を協同開発するだけの存在だったが、やがて魔物退治そのものまで請け負うようになり、法や政治に囚われない自警団なども吸収。「魔物退治専門の組織」として完全に一つにまとまることになった。
組織は【世界退魔協会】と名乗り、【退魔物質】を操る退魔師を全世界に派遣して人々を魔物から守る唯一の存在となったのだった。
「今から向かう場所は【世界退魔協会】の我が国の支部でございます。山奥にある施設のため、あまり一般の方の目には止まりませんが」
「で、あんたがそこのボスというわけだ」
「はは、ボスなんて大層なものではございません。我々はただの害獣駆除業者であり、私はさしずめ地方の営業所長といったところですよ」
また随分ご謙遜なさるとジョニーは心の中で苦笑した。山代の話が本当だとすれば、【世界退魔協会】とは個人の軍隊を抱える一大企業ということになる。その組織の支部長である山代が大層なものでなければ、殺し屋として日々慎ましく暮している自分など瓶の底にわずかに沈殿する腐ったミルクか何かだろうか。
「そういえば一つ気になるんだが」
「何でしょう」
「さっきの話だとあんたらの組織は企業と民兵のブレンドらしいが、何だってそんな牧師みたいな格好してんだ?」
土屋の奴も宗教団体じゃないと言ってが、という台詞を、ジョニーは寸前で噤んだ。
「ああこれはですね……確かに我々は教会の方々と関わりはありませんが、組織の最高幹部の一人が信心深い方でして」
「最高幹部?」
「組織を構成する各分野の代表者です。製鋼、繊維、製薬、軍事と四人いますが、件の方は繊維の代表者で、デザイナーの資格もあり制服の意匠もその方が考えました」
「アグレッシヴな人だな」
「ええ、そして信仰心の強い人です。何でも我々は天に代わり魔物を裁く使者と銘打って服をデザインされたそうですが……この国に住む一般市民としては中々その気持ちに追いつけません」
そんな台詞を言いながら山代は爽やかに微笑むが、その表情が本物の牧師を彷彿とさせるものだから、ジョニーは何か高度なジョークでも聞かされてるような気分になった。
「……ところでジョニーさん、私の方からも一つお聞かせ願えますか?」
少し間を置いて山代が言った。
「何なりと」
「貴方は、もしかして外国の方でございますか?」
ほう、とジョニーは思った。
「それは何でまた? 俺がジョニーと名乗ってるからか?」
「いえ、何となく。気分を害されたのなら謝ります」
何となく、か。ジョニーは可笑しそうに鼻を鳴らした。
この山代という人物は会ったときから妙に迫力のある人物だとは感じていたが、このときジョニーは初めてこの男を感心した。「カタギ」にしては中々の勘の鋭い奴だと。
もっとも、【教会】がカタギならの話だが。
「純度百パーセントこの国の人間だよ。少なくとも血はな」
ジョニーはそれだけ言い、シートにもたれかかった。山代もそれ以上その質問について言及はしてこなかった。そんなところも、ジョニーは好感を覚えた。
「ふう、さすがに何時間も座りっぱなしで疲れちまったよ」
「もうすぐですよ。そろそろ正午も回りそうですし、着いたらまず食堂に向かいましょうか」
「ああ、早くスシとテンプラが食べたいぜ」
ジョニー達を乗せた車は山道をさらに奥に進んで行く。その先にある木々の隙間からは、壁が水色の、倉庫のような建造物がわずかに窺えた。
◇
「あ!! 遅ぇぞおやっさん!」
廊下を山代と共に歩いていたジョニーは、野太い声に呼び止められた。呼び止められたのはジョニーではなくおやっさんとやらの方だったが。
つい三分ほど前にこの【世界退魔協会】東洋支部の施設に着き、約束通りまず食堂に参りましょうと山代がジョニーを案内している最中だった。
振り向くと、そこには珍妙な男が立っていた。
身長二メートルもありそうな大男で、プロレスラーのような筋肉が全身に付き、顔には真っ黒な髭が力強く生えている。そんな男が【教会】の件の制服を着ているものだから、ジョニーは一瞬、施設に入った泥棒が変装でもしているのかと思った。こんな貴族が着ているようなものより、甲冑でも纏っている方がしっくりくるのではないか。
「すまない吉田くん。土屋くんのことで色々とやることがあってね」
「……確かにあいつは惜しい奴だったが、今が大事な時期だってこと分かってるか? 支部長が一々出張る暇なんか無ぇってのに」
大男は吉田というらしかった。また山代との会話から、この支部の中でもそれなりの地位にあるようだ。
吉田はふと、上司の隣に立つ男の存在に気付いた。
「何だそいつは?」
「ああ、彼はこの度【退魔協会】への入会を希望してきた人だ。名前はジョニーさん」
「ジョニーです、よろしく」
ジョニーは甲斐甲斐しく頭を下げる。
「……入会希望者だぁ? そりゃまた随分タイミングが良いのか悪いのか……まあ良いとするか。おれは東洋支部所属、一等退魔師の…………っ」
話している途中で吉田が突然黙った。
大きな目が、ジョニーを観察するように上下する。
「……おやっさん。こいつは入会希望者で、正式にはまだここに入ってないんだな?」
「そうだが」
「ならやめとけ。こいつは、駄目だ」
吉田は吐き捨てるように言うとジョニーに背を向けた。
「こいつは『人殺し』の目をしてる。下衆野郎だ。こんな奴に宿舎の便所掃除だって任せられるか」
そのまま歩いて行こうとする吉田を「待て、吉田くん」と山代が呼び止める。
「その態度はないだろう。彼はこの支部に来たお客人だぞ」
「なら茶でも出してとっとと帰すこった」
言い合う山代と吉田の様子をジョニーは黙って見ていたが、心中ではある種の動揺が湧いていた。
土屋に、山代、さらにあの吉田。
何だ?【教会】の奴らってのは、みんな「こう」なのか?
ならば、ここで学ぶのというのは、かなり危険な行為かもしれない。
いや、そう仮定してしまうとここでゾンビ退治について学ぶ意義より、殺し屋としての身の安全を優先してしまう。ここは自分の気配の隠し方が下手クソだったとして納得しよう、とジョニーは手を叩き、二人を振り向かせた。
「まあまあ、俺のことでそう争わないでくれ」
「自覚してるなら早く消えやがれ」
破けたゴミ袋でも見るような吉田の目とは視線を合わせないように、ジョニーは話を続ける。
「確かに俺は臭い仕事をしてる臭い人間だが、臭い奴なりにも色々と事情があってな。このまま帰るわけにゃ行かないんだ。ゾンビの髪の剃り方でも覚えてないとな」
「…………」
「……吉田くん。彼は元々土屋くんに仕事を依頼した方で、土屋くんが失敗してしまった故にゾンビの脅威に晒され続けている。このまま我々が何もしないで、恥の上塗りをするわけにはいかないだろう?」
「…………分かったよ」
はぁ~と吉田が厚い息を吐くと、ジョニーの方に近づいて行った。
「おやっさんに免じて、てめぇの入会を許してやる。だが」
「ぼえっ」
吉田の大きな手がジョニーの襟元を掴んだ。
「許すのはてめぇの『希望』だけだ。正式に退魔師として認めるのは『隊長』のおれが判断する。異存はねぇな? おやっさん」
「構わない。いつもそうやっているからね」
「よし、じゃあさっそく『試験』をやってもらう。行くぞ」
ジョニーの襟を掴んだまま吉田が歩き出す。
「え、待って。先に飯食いたいんだが」
「正式に入会が決まれば食堂は全品タダになる。それまで我慢しろ」
そりゃ親切にどうも、と吉田の手に吊り上げられながらジョニーが言った。
遠ざかっていく廊下の端で山代が笑っていた。
◇
ジョニーを掴んだ吉田は【教会】施設の裏側にある崖までやって来た。
乱暴に地面に下ろされ、ジョニーは腰を摩りながら立ち上がる。
「痛ぇなぁ。そのまま崖下に放られるかと思ったぞ」
「放ってやってもいいが、まずその崖下を見ろ」
吉田が指さし、ジョニーもその方向に目をやる。
崖下には、鬱蒼と深緑色の葉の森が続いていた。緑と言うよりは黒に近いかもしれない。ジョニー達が今いる崖は、その森を一望できる場所のようだ。
「ここは『常闇の森』と言って、その名の通り森の中は陽が入り込まず、常に夜のような闇が全体を包んでいる」
「そりゃまたベタな場所だが、現実にもあるんだなこんなの」
「真面目に聞け、蹴落とすぞ」
この男なら本当に蹴落としかねないなと思い、ジョニーは形だけ真面目に聞くことにする。
「普段ここは退魔師の修行場として使っているが、個人の能力を試す場でもある。てめぇにはこれから、この森で『火の試験』を行ってもらう」
火の試験? とジョニーが振り返ると、吉田は懐から太めの蝋燭を取り出し、おもむろに火を点けた。
「この蝋燭を、森の最深部にある祠に供えてこい。そしたらてめぇが【退魔協会】に入ることを認めてやる」
吉田は蝋燭を燭台に載せるとそれを放った。ジョニーがキャッチする。
「火は点いてても消えててもいいが、森の中は明かり一つない闇の世界だ。死にたくけりゃ火を守ることだな」
「またまたベターなこと。まあそれで【教会】に入れるならいいや。行ってきます」
「待て」
崖下に降りる道を探そうと歩き出したジョニーを吉田が制止する。
「何だ? 買い物メモでも渡すのか?」
「うるせぇ。……お前が首に掛けてる『それ』、土屋のだな」
吉田はジョニーの胸元を指さした。
そこには、糸の長い十字架のペンダントがぶら下がっている。
元の持ち主がゾンビに殺された際、身を守るためにジョニーが拝借したもの。
「……そうだが」
「【退魔協会】の規定で殉職した退魔師の道具は各支部で預かることになっている。その十字架もそうだ。返してもらうぞ」
吉田が大きな掌を前に出した。その上に十字架を載せろということだろう。
ジョニーはしばらくその手を眺めていたが、やがて諦めたように首からペンダントを外した。
吉田の言った通り、森の中は昼間とは思えないほど太陽光が希薄だった。街灯や家屋から漏れる照明などがない分、夜の町中よりも余程暗い。
ジョニーはそんな森の中を、蝋燭に点るわずかな火を頼りに前進する。
「熊でも出てきそうな感じだな」
ジョニーは呑気にそんなことを口にするが、それはいつ危険が飛び出してきても対処できるよう、自分に意識させるためである。
もっとも、今ジョニーの衣服の中には、ナイフなどの刃物各種、薬品の入った小瓶などが仕込まれている。野生動物程度なら、ジョニーには撃退することは容易だろう。
それは本来、今朝方のビリー討伐用に揃えた武器達だったが、結果的にほとんど使うことなくこの場まで持ち込むことになった。
こういうのも不幸中の幸いというのだろうか、とジョニーは苦笑した。
「ま、持ち込み可の試験で大分楽はできるだろうが……やっぱり蝋燭程度じゃ自分の手元くらいしか照らせねぇな。不意打ちは避けれないか……ん」
ジョニーは前方に気配を感じ、燭台をかざす。そこには太めの幹の木があった。
その木の茂みから、ジョニーを見ているモノがいるようだ。
「山の動物についちゃ詳しくないが、頭上から襲ってくるのは鳥か、蛇ってとこかな? 前者であることを願いたいが……」
事前に気配を察したことを幸運に思いつつ、ジョニーは燭台を持たない方の手を服の中に入れた。
「あれえ、吉田の旦那何してんスか?」
先ほどジョニーのいた崖の上、そこで胡座をかく吉田の元へある人物がやって来た。
「大島か。戻ってたのか」
吉田は振り返りもせずに言った。大島と呼ばれた若い男がヘラヘラ笑いながら吉田に近づく。
吉田と同じ【教会】の水色の制服を着ているが、筋肉質な吉田とは違って彼の身体は細く、表情も厳つい吉田とは正反対で、柔和な印象を与える。
長い筒状の鞄のようなものを背負っていて、それをどっこいしょと重そうに地面に降ろした。
「ついさっきっス。最近はしょーもないことで呼び出しされる件が多いけど、今日なんかひどかったスよ? ネズミくらい自力で罠張って捕まえてくんないかな~」
「お前にはそれくらいの仕事が分相応ってもんだ」
「言いやがりますね旦那……で、旦那はここで歳相応にひなたぼっこでも?」
吉田は、相変わらず大島には顔を向けずに答える。
「試験だ」
「しけん? ……森のっスか? 何でまたこんな時期に」
吉田は黙って何も言わない。大島が考え込むように親指を口に当てる。
「あっ、あいつのですか? 何か最近上げ調子って評判だったあの工作師の……そーだ土屋だ! あいつ昇格するんスかぁ。へ~確かにいい腕してたけど、まさかこんなに早くねぇ~」
「土屋は今朝方死んだ」
「えっ…………そ、それは……お気の毒に……」
ジェシュチャーを混じえながら一人盛り上がっていた大島はバツが悪そうにお辞儀した。
「……じゃあ、一体誰を?」
「新入りだ。数分前に入会を希望してきた奴」
「新入り?」大島が眉をひそめる。「そいつ、腕は確かなんスか?」
「知らん」
「……【退魔物質】は当然、いくつか持ち込んでるんですよね?」
「持っていない。唯一のそれらしきものはさっき没収した」
チャリ、と吉田が胸ポケットから十字架のペンダントを取り出す。
大島が目を丸くした。
「【退魔物質】も持たない素人があの森に……って、旦那それ……」
吉田は相変わらず大島の方を向かなかった。
「死ぬでしょう、それ……」
ナイフの刀身はなくなっていた。
それは一瞬のことで、ジョニーが頭で理解するのに数秒の時間を要した。
木陰から飛び出してきた、黒い塊。それがナイフに触れたと思うと激しい金属音がし、気が付いたときには右手はナイフの柄しか掴んでいなかった。
風で揺らいだ蝋燭の火が目に映り、ジョニーは正気に戻る。急ぎ、黒い塊の飛んでいった方向に視線をやった。
蝋燭は変わらず手元しか照らしてくれなかったが、「そいつ」がどこにいるかはすぐに分かった。
暗闇の中で「そいつ」の眼球が赤く発光していた。
「…………!」
ジョニーは蝋燭を地面に投げ捨て、両手を服の中に突っ込んだ。
刹那、赤い二つの発光体はジョニーの眼前まで迫ってきていた。
懐から二振りの圧刃のナイフを出した瞬間、両手に重い衝撃が走る。
一本はもう使い物にならない程に湾曲し、二本目の折れた刃が足下にトスッと落ちた。
『ゾンビみたいな奴が何種類もいるということですか?』
『ええ、色々と。でっかいコウモリだとか、首が二つある蛇だとか。まあこれらはゾンビと比べるとあまり数が多くないので、一般の人の目にはほとんど触れませんが――』
でっかいコウモリ。
目の前に現れた発光体は、ちょうどそのような姿に見えた。
それは、ジョニーが今まで戦ってきたゾンビとはまるで違う生物だった。殴れば怯み、切れば戦闘不能にできる、不完全な生き物とは。
初めて遭遇した、完全な「魔物」という生物。
【退魔物質】を用いらなければ殺せない、強靱な生物。
「……なるほど。だからあの髭ダルマは十字架を……」
つう、と額から何かが流れた。ジョニーはそれを冷や汗だと思ったが、実際はコウモリの爪が掠った傷から流れた血だった。
「【世界退魔協会】。中々、敷居が高いじゃないか……!」
ジョニーが振り向くと、闇の中で無数の赤い光が瞬いた。
「死なすつもりはねぇよ。やばくなった頃に『迎えに』行く」
煙草に火を咥えながら吉田が言った。
「分かりませんや……何でこんな危険なことさせるんスか」
大島が吉田の前に立ち、さっきまでのヘラヘラとした表情ではなく、真剣な面持ちで質問する。
「あの野郎に入会を諦めさせるためだ」
吉田は煙草に火を点ける。
「お前はあいつに会ってないだろうが……あいつは、駄目だ。あいつは金さえ積まれれば、友人だろうと肉親だろうと殺す野郎だ。目だけじゃなく、言動の一つひとつでそれが分かる」
吉田が吐いた紫煙を大島が身体を反らして避ける。
「お前もここに入って長いから分かるだろうが、ここは『軍隊』だ。本部、あるいは支部の統率の下、おれ達は魔物共と戦争をしている。そんなところに、誰彼構わず殺すかもしれない、得体の知れない男が入ったらどうなる? 集団で疑心暗鬼が広まり、統率なんてあっという間に崩れる」
吉田はまだ長い煙草を地面に放った。
「おやっさんが奴の入会を認めちまっている以上、奴自身に諦めさせるしか手は無ぇ。あの森で魔物共に歓迎されりゃ、二度とここに入ろうなんて考えんだろうよ」
「しかし旦那……限度があるでしょうよ。おやっさんにバレたらどう説明するんです?」
「はなから隠すつもりはねぇ。あの下衆を懐に入れるくらいなら、減俸だろうが降格だろうが喜んで受ける」
吉田はスッと立ち上がった。
「おらどけ大島。死なれたらさすがにおやっさんの経歴に傷が付くからな。面倒だが」
吉田は大島を押しのけ、懐から双眼鏡を取り出して両目をあてがった。
大島が眉間に指を当て、大げさに息を吐く。
「はぁ~あ。旦那はあれですよ、何でも直感で判断しすぎなんスよ。この前来た車の整備師にも『態度が気に食わねぇ』なんて言って門前払いしやがるから、自分らしばらく徒歩で現場向かってたんスよ? 気に食わないならあんただけ食べ残しゃいい話でしょまったく……」
吉田の近くをうろうろ歩きながら大島が愚痴る。吉田の目の前にでも立ってやろうかと大島が考えた、そのとき。
「は……」
「? 旦那? どしたの?」
吉田が双眼鏡から目を離した。
「…………何だ、あいつは……」
「奴は、何だ?」
「今朝準備した武器が服に残ったままだったのは不幸中の幸いだと思ったが、どうやら不幸中の不幸だったみたいだな」
そう口走るジョニーは、魔物の襲撃を受けた場所より数十メートル離れたところにいた。
その距離を進むまで、攻撃を防いだり、薬品が効くか試したりなど色々あったが、その過程は今のジョニーにとってはどうでもいいことだった。
背後より、巨大コウモリが三体ほど迫り来る。
ジョニーが素早く振り向いて、右腕を横一線に振るった。
コウモリ達は、ジョニーにぶつかる手前で軌道を変え地面に落下する。
そして――激しく炎上した。
ジョニーは火器の類は持ち合わせていない。その火はコウモリの身体から自然に起こったもので、その効果を促したのが、今ジョニーが手に持つものだった。
「ポケットの奥に突っ込んだままだった、『こいつ』を引っ張り出すのに骨が折れたからな!」
ジョニーが手にしている、いや、人差し指と中指で軽く挟み持っている「それ」を顔の前に構える。「それ」には、ある文字が表記されていた。
【世界退魔協会東洋支部 一等工作師 土屋】。
「自警団が何で『名刺』なんて持ち歩いてんのか疑問だったが、考えてみれば単純……あいつらは十字架のペンダントから制服の靴下まで、何でも【退魔物質】で武装してやがるんだ」
土屋からは上着でも剥ぎ取ってればビリーを殺せたかもな、とジョニーが腕を振って、新たに襲い来たコウモリが二体ほど燃え上がった。
「改めて声高らかに言うが……【退魔物質】は最高だ!」
「マジか……本当に名刺で戦ってるよあの兄さん」
吉田から双眼鏡を強奪するのに成功した大島が言った。
「……」
「……なるほどぉ、確かにあの名刺は退魔物質を塗布した紙を使ってる」
「…………」
「そいつを爪でひっかくような要領で振れば、確かにそれは【退魔武器】と言えなくもないですわ」
「…………っ」
「それに紙ってのは、油断したら指を切ったりする。名刺といえども使い方さえ気をつけりゃあのくらいの魔物くらい……」
「バカかっ! 何が『いえども』だ! 名刺はただの名刺に過ぎんだろうがっ!!」
吉田が急に激昂したので、大島は「ヒョっ」と奇声を発し双眼鏡を落としそうになった。
「あんなもん……人と魔物とを判別するための小道具で、いざというときは隙を作るくらいの効果しかねぇ……それを」
肉眼では見えないはずのジョニーを吉田は睨み付ける。
「あんな、指に挟んで……魔物を撃退してるだと……攻撃に使ってるだと? バカな……」
今、森の中で名刺を振り回しているジョニーという男は、これまでの経験や自分の直感からどんな人間かはある程度理解したつもりでいた。理解した上で、【教会】に入れるべきではないと判断してこの森の中に突っ込んだのだ。しかし、自分の認識が遙かに甘かったことを吉田は悟った。
あの男は人殺し。その考えは間違っていない。
違うのは、その殺してきた人数が予想よりも遙かに多いであろうということだ。
奴は、生物を殺すということにあまりにも長けている。
もし手元にあるものがコンニャクやマシュマロだったとしても、【退魔物質】さえ付いていればきっと奴は魔物を殺傷せしめたことだろう。
「何よりも寒気がするのは……あれが『才能』なんてチンケなものじゃあなく、奴に確実に備わっている『技術』だということだ……」
吉田は忌々しく歯軋りした。
魔物への反撃に転じてから約一分。【退魔物質】を讃えたジョニーはそれほど余裕というわけでもなかった。
撃退できているとはいえ、コウモリ達の数は減るどころか増える一方であり、自分が持ち運ばなければならない蝋燭は数十メートル先の地べたに放置したままだ。
「火も消えちまったからどこにあるか分からねぇし、俺が屈んで落とし物を拾う暇なんてこいつらが与えるとも思えん。どうするかな……」
とりあえず、やるべき行動は二つ。ジョニーは頭の中を整理した。
一。できるだけてばやく蝋燭の場所を特定し、それを回収する。
二。コウモリ共の隙をついて森を突っ切る。
「一の方法はあるが、問題は二だ。突っ切るにしても件の祠がどこにあるか分からんし、仮に辿り着いてもコウモリに襲われる場所が変わるだけだ」
試験は落ちませんでしたが代わりに命を落としましたなんて、洒落にならん。ジョニーが弧を書くように名刺を振ると、コウモリが四体ほど炎上し墜落した。
「……ええい、とりあえず一だ。もしかしたらあの燭台も【退魔物質】かもしれないしな」
ジョニーは決意すると、先ほど自分が進んだ道を逆走し始めた。それをコウモリの群れが追う。
それによりコウモリの赤く光る眼が幾十にも重なって、薄ぼんやりと地面を照らした。
「よし、これでさっきよりはモノが見やすくなった…………ん!」
地面が赤く照らされてすぐに、ジョニーは目的のものを見つけた。
さっきは気付かなかったが、暗がりの中に見える燭台には何やら荘厳な模様が描かれていて、如何にも【退魔】の効果が期待できそうな感じだ。ジョニーの心は弾んだ。
ウキウキなジョニーの背後へ一匹のコウモリが突っ込んでいく。
「チィ、邪魔するな!」
ジョニーは振り向き【退魔物質】が塗布された名刺を振った。
くしゃ。
「え…………?」
コウモリは燃え上がってジョニーの足下に落ちた。
ジョニーは立ち止まる。そして、ゆっくりと手に持ったものを顔に近づけていった。
【世界退魔協会東洋支部 一等工作師 土屋】の字が掠れ、紙はクシャクシャに折れ曲がっていた。
「………………そりゃ、名刺はただの名刺にすぎんわな」
他のコウモリ達が、ジョニーの背に一斉に迫った。
空気の切る音がした。
次の瞬間、ジョニーに襲いかかったコウモリの集団は、燃え上がることもなく溶け始めた。
何が起きたか分からないジョニーの顔に強い光が当てられ、ジョニーは思わず顔を覆う。
「やるねぇ兄さん。まるで一流の手品師が狩猟をしてるみてぇだったぜ」
「…………誰だ」
ジョニーは薄らと眼を開け、声がした方を見た。【教会】の制服を着た細身の男で、右手に懐中電灯を、そして左手には、動物の骨を組み合わせて作ったような悪趣味なデザイン『弓』を持っている。
「おっと失敬。自分は東洋支部所属、二等退魔師兼『罰点部隊』副隊長、大島でさぁ」
大島はヘラヘラ笑いながらジョニーにお辞儀した。
ジョニーはポカンと大島を眺めていたが、ふと我に返って先ほど見つけた蝋燭を拾う。
「えーと、大島サン? 助けてくれてありがたいが、まだ試験の途中なんでな。礼は後に……」
「ああ、試験はもういいっスよ。あんだけ実力見せられりゃあ、誰もあんたを【退魔協会】に入れることを拒まないさぁ」
「は?」ジョニーがまたポカンと口を開ける。
「しっかし、あんた何者だぁ? 吉田の旦那があんな顔するなんて、知らなかったぜ」
そう言って笑う大島に対し、ジョニーはそれ以上何も尋ねられなかった。
分かったのは、何やらよく分からない内に自分が【教会】に内定したということだけだった。
「……大島め。余計なことを」
崖の上には吉田と、空になった筒状の鞄のみがあった。
吉田はもう双眼鏡を覗こうとはせず、ただ森の方を見つめている。
「あいつは危険すぎる。もう勘なんかじゃねぇ」
吉田は誰かに語りかけるように独り言を呟く。その声が風にもっていかれない内に、吉田は次の言葉を吐いていた。
「……しかしこれは…………契機、なのか?」
◆
ビリーの心は復活して以来最も荒廃していた。
発展した駅前の背の高い建物群――その裏側、影に隠れて人の目には止まらないところを、ビリーは壁にもたれかかりながら歩いていた。
「……くそっ、ジョニーの野郎……」
もう何百回目かも分からない悪態を吐きながら、忌々しく右肩を左手で抑える。
正確にはそれは右「肩」ではなかった。かつて腕があった場所、皮膚も肉も焼けるように焦げた傷跡を、抑えていた。
ビリーはつい数時間前にジョニーに敗北したばかりだった。
いや、数時間前なんかに限らず、ゾンビとして蘇ってからビリーはジョニーに負けてばかりだったのだが、その度すぐに身体が回復したので、さて次のチャレンジだと即座に気持ちを切り替えることができた。
今回は違った。焼け焦げた右腕は、治る兆しも見せなかった。
完全に失ったのだ。自分の身体の一部を。
ビリーが気落ちしている理由は腕を無くしたことだけではなかった。その無くし方も問題だった。むしろそれが主題だった。
「……間違いねぇ。あの野郎は、【教会】と接触した」
【教会】。【世界退魔協会】。
その名前をビリーは生前いくらか耳にしていたが、実際に出会ったのは、まして戦ったのは今日の早朝が初めてだった。
自分が寝床にしていた教会で何やらセッティングを始めていたので、暗がりから攻撃してすぐに始末した。
そんなこともあり、ビリーは【教会】を何の脅威とも思っていなかった。もちろん、ゾンビとして新たに生を受けた故に警戒すべき対象にしていたのだが、正直拍子抜けだと思った。要らぬ心配だったと。
その時点での話では。
ビリーが【教会】を初めて恐ろしく感じたのは、その後すぐにやって来たジョニーによって攻撃を受けたときだ。
ジョニーが始末した【教会】の「遺品」を使ったときだ。
それがどんな物質かは見当も付かないが、自分の身体をどうしようもなく損傷させる危険なものだということは分かった。そして、そのことにジョニーも気付いた。
気付いたからには、ジョニーは【教会】でゾンビと戦う手段を学ぶだろう。
そして、次にビリーに会ったとき――その道具を用いて完全に息の音を止めにかかるだろう。
「……チクショウが」
ビリーの脳は腐っていて、生前よりも正確な判断ができなくなっている。
しかし、もし次にあの宿敵と出会ってしまったら、自分は今度こそ死ぬだろう。それだけはよく理解できた。
ドンッ、と前から歩いてきた「何か」とぶつかり、ビリーは尻餅をついた。
「……ってぇな! なんだ!」
怒鳴りながら顔を上げる。そこにいたのは、妙な奴だった。
全身をケープのような布で覆い顔も肌も見えないが、とんでもない巨体だということは布越しでも分かった。
そいつは何も言わずに、ただただ立ち尽くしている。
「……へぇーん、何か変な奴だが、苛ついてるときに来てくれて良かった」
ビリーはニチャアと微笑むと、右肩を押さえていた左手を構えた。
「パンチングマシンと化してくれよな人間んっ!?」
左手を奴の脳天にかます前に、巨大な拳がビリーの顔面に叩き込まれていた。
かなりの力だった。喰らった瞬間耳が聞こえなくなったが、きっと首の骨が折れただろうとビリーは思った。
そして次に背中に衝撃が走った。殴り飛ばされ、そのままビルの壁面に叩き付けられたことを、ビリーは時間差で理解する。
「ん?」
殴った男はさも意外そうに首を傾げた。
「変だな。人間ならバラバラになるくらいの力だったんだが……」
男が近づいてくる。ビリーは命の危険を感じ逃げようとするが、身体が動かない。
何だ、あいつは。なぜ俺を素手でぶっ飛ばせられる。まさか、もう【教会】の奴が俺を殺しに来たというのか。
しかし、男の言ったことが気になる。『人間なら』?
「お前、もしやゾンビか。ペラペラと言葉を話してたが」
男はビリーの前に立ち、追い打ちもせずにそう言った。
「……それがっ……何だってんだ。バケモノめ」
ビリーは喉から絞り出すように声を出した。それを受けて、男がククッと笑う。
「バケモノか。だが、お前の考えるただのバケモノじゃないぞ。儂はバケモノの親玉だ」
「なに……」
男がケープを脱いで顔を晒した。
人間ではなかった。狼と熊と、猿を足し合わせたような、野生の獣に凶暴な理性が備わったような、そんな顔をしていた。
「お前、ゾンビにしては見所があるな。儂のところに来ないか?」
「……何なんだ、てめぇは」
「儂は魔人ドーヴェル。魔物全てを統括する闇の王よ」